いろいろ言いたいことがあるんだよね。
まあ僕が書いたんだけどさ、何を言いたいのかなんて
そんなの、よくわかんないよね。
あ、ちょっと待って。どうしようかな。
ご、ごほん。
あの、えっと、ぼ、ぼく…。
ぼく…、ひょろ!
…ぐはっ。
え、何をしてるのかって?
一人称を「僕」から「ぼく」に変えようかな、って思うの。
それが「ボク」だったらネタっぽくて普通にできちゃうんだけど、
それが「ぼく」だと、うまくできないんだ。
僕は「僕」のほうがいいとおもうんだけどさ、
なぜかというと、僕は「ぼく」っていう一人称がすごく嫌いだったから。
「ぼく」という一人称を使っている大人を見ると、いらっとする。
でも、なんとなーく、変えなくちゃいけない気がするんだよね。
椎名誠が『岳物語』に書いていたんだけど、
オトコノコには定期的に「脱皮の季節」が訪れるものなのだ。
そうして、あるときを境にして、その存在自体が変性する。
なぜかはわからないけれども、次の瞬間にはもうまったく別のニンゲンに
変わっちゃうのだ。
そういうのが、必要なんだと思う。
そして、今は、それが一人称を「僕」から「ぼく」に変えることだって
ことだろうと思う。
なんでそんなくだらないことなのかって?
まず、「今回の脱皮で脱ぎ捨てられるべき皮」が、なぜ「僕」だと
わかったのか、つまり「一人称の変更」だとわかったのか。
それはね、勘。そういうのって、たぶん僕の存在そのものに書きつけ
られているんだと思う。もしかすると僕の意識が立ち現れてくるよりも
前に、僕の失われた子供時代において、何かしら外部の力によって
決定されてしまっているのではないだろうか。だから、そのときが
くると、ティン!ときて、ああ、はいはい、そういえばそうね、って
わかっちゃうんだ。主観的には、鼻が利いて、においでわかるんだと
いう説明になる。
客観的には、僕が少ないながらもこれまでに見聞してきたあらゆる
ものに影響されて、それを選ぶことによってより生存確率が上がるような
態度、姿勢に組み替えようとするんだろう。
つぎ、なぜ「一人称の変更」なのか。
これはね、「一人称の変更」というトピックだけでは理解できなくて、
背景の、僕のほかの言葉との兼ね合いの中でその価値がわかる。
「一人称の変更」は、それ自体では意味を持たない。一般に、「一人称
の変更」がなされるとき、変更されるのは「一人称」だけではない。
「一人称の変更」はもっと大きな変化の部分集合にすぎない。
そこで起きているのは、「ディスクールの変更」である。
フーコーによればディスクールとは、「言語表現の総体」のことです。
例えば、
「ボク」、「ママ」、「先生」…というディスクールから、
「オレ」、「お袋」、「先公」…というディスクールとか。
そして、僕の場合、僕の選択しているディスクールにおいては、
恐らく、むしろ「僕」の方が無理なく機能する。
それをあえて「ぼく」に変更することは、一人称を発するたびに、
一々全体の動作に支障を来たし、肉が裂け骨がきしむように、
居心地の悪さを感じるようになることを意味する、ような気がする。
そのような「ねじれ」を主体的に選択しなおすこと、それが
「成熟」ではないか、と僕は考えるわけだ。
だから、今日をもって、僕は、「ぼく」になることにします。
やあ、ぼくはひょろです。