一人称代名詞について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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 一人称代名詞の問題には(少なくとも)ジェンダーと、自己言及

の問題がかぶさってるみたい…。意外と根が深い。

 ぼくが「ひょろ」という一人称代名詞を使うときと「ぼく」を使うとき

では違いがあると思う。「ひょろ」はひょろしか使わないけど、「ぼく」

はいろんな人が「ぼく」を使う。だから、「ぼく」を使うたくさんの人が、

「ぼくはね…、」と語ったあらゆることが「ぼく」という言葉の上に降り

積もっていて、「ぼく」という言葉の意味を規定していく。


だから、ぼくが「ぼくは、」と発すると、同時に「ぼく」の上にかぶさって

いる様々な人の様々な体験が呼び起こされるんじゃないかな、と思う。


そして、「ぼくは、」と語りだしたとき、ぼくの話を聞いてくれる受け手の

人には、いや、ぼくにとっても、それはもうぼくだけの話ではなくなって

感じられる。ぼくにはもう、ぼくの語ったものについて、全体を

コントロールしきるなんてことはできないし、責任も完全にはとることが

できなくなってしまっているのだろうと思う。

(一方でそこには、無責任さも宿ってしまうと思う。その問題については、

手前味噌になっちゃうけど、「あなたは誰か。」という記事で少し取り組み

始めたところです。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10429462323.html


 言葉というのは、そもそもそれそのものだけで意味が完結するものでは

なくて、ぼくの「「僕」から「ぼく」へ」という問題と、れいさんの「「僕」「俺」から

「れい」へ」という変遷に表れている問題とは、なにかが少し違うような気が

するけれど、でも、もしかするとどちらも何か本質的なものに接しているかも

しれない。

…あるいはむしろぼくのケースの方がいくらか「悪意的なネタ=なんちゃっ

て」かもしれない。今回は、僕をぼくにする必要はほんとうはなくて、

それほど切実でもないから。

だけど、何となく感じるのは、ぼくが「僕」を採用していたのは、それこそ村上

春樹の影響だったから、今ムラカミから少し距離をとろうとしているのかも

しれないな、と少し思った。


 「本質」というのは「それを欠いてはもうそれではなくなってしまうもの」

のことで、ここではニンゲンの本質のことをぼくは言っている。

そしてぼくが「わらわ」とか、「アチシ」とか、いかにもネタのような一人称

代名詞を使っていたとしても、見た目がくだらないということが、その問題が

本質的でないということは意味しない。

それがニンゲンの本質に一歩でも近づく道を提供しうるならば、どんなに

見た目がくだらないようなものであったとしても、それはぼくらにとって本質

的な問題であるはずだ。


そして、ぼくは、一人称代名詞の問題は、それを通ってニンゲンの本質に

いくらかは迫れるような気がしている。具体的には、まずは、たとえば

「ぼく」を採用することで、ひょろの固有性を「切開」し、ある種の普遍性に

アクセスすることができるんじゃないかな、とぼんやりと思う。


だから、もしかすると、れいさんが自分のことを「れい」と呼ぶのは、私だ

とかいったような一人称代名詞のクライアントを通して自分のことを語る

ことよりも、むしろラディカルな試みであるのかもしれない。

それは今のぼくにはよくわからない。



 ジェンダーについては、女の子が「僕」や「俺」を選択することに精神的

負荷を感じてしまうというのは、それ自体が社会の性差別の現れである

と思う。歴史的には、それはあるいは今のところは仕方のないことなのかも

しれないけれど、やがては、女の子が「趣味で自分を俺と呼ぶ」というのと、

「趣味で自分をわたしと呼ぶ」というのが等価であるようになったら、

いいのかもしれない。


 一人称代名詞なんて好きなものを使えばいいと思うけれど、あるいは

そのまま自分の名前を使えばいいけど、その意味するところについて

(なぜ自分は「僕」、「俺」、「アチシ」「わらわ」「小生」「おいら」「我輩」ではなく

「ぼく」を採用するのか)考えをめぐらせることは、十分に有意義であると、

ぼくはおもう。