『らき☆すた』・ハイデガー・「失恋ゲーム」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

これは結局ね、おもったのは、

「失恋ゲーム」って「こぶとりじいさん」と同じ構造なんじゃ

ないかなってこと。

・じいさん01(こぶをとってもらう幸せな人)

・じいさん02(こぶをおしつけられる不幸な人)

・鬼(何を考えているかわからないが、幸不幸の唯一の源泉、

決定権を持つ権力者。)


人間の想像力は有限(せいぜい20とか)の因子に還元できる。

でも、その組み合わせによって、豊穣な表現が可能なわけだ。

オンかオフか、オンかオフか、オンか…って具合に二進数で

表現できて、それは2の(因子数)乗になるね。


遺伝子もちょっと似てるなー、くらいにぼんやり指摘。

単に経済性の問題のような気もする。


「失恋ゲーム」は実践的には、宮崎駿が言った、

「日本のアニメはどん詰まり」状況、庵野秀明の「コピーの

コピーのコピー」を打破することに使えないかなって考える。


物語イズデッド。ニーチェが向こう二世紀ニヒリズムの時代と

喝破した正にその状況が、『らき☆すた』なんだろうな、と。


で。『東のエデン』も、規範の消滅=労働、政治、あとたぶん恋愛への

不信と向き合う社会派アニメを志して、なんとなくこけてるのを見ると

(おもしろいはおもしろかったけどね)、ハイデガーの沈黙に向うしかない

んじゃないのかしらと思います。


ハイデガーは、「ぜんぶフェイク=幻想です」という「不安な目覚め」

=存在論のあと、それを乗り越える為にナチズムに接近した。

みんなおきろ!ってね。

それが悪い夢だったのは僕らのよく知るとおりだ。

で、じゃあそれがダメならどうすることができるか。

ハイデガーがナチへの協力について言い訳も反省も謝罪も

一切しなかったのは、(僕もべつに擁護しようとは思わないけど)

そうしてしまうと、つまりそれらの話題について語ることが、好むと

好まざるとに関わらずそうした悪夢を延命させてしまうことを理解して

いたからだと、僕は勝手にそう思う。


一切がもうダメなんだったら、そんな配慮ももういらないだろう。

でも、ハイデガーは配慮した、ようにみえる。

つまりブレイクスルーはあるということだ。ではそれはなにか。



フェイクを敢えて、肯定すること。

夢を生きること、しかし目覚めてあること。

だから、劇場の比喩で、かつ、フーコーのように、

しかし「仮面をかぶって進みでる。」


ベタ→メタ→ガチってかんじね。


そこで、失敗や挫折といった、一切の意味づけを拒絶するような

不快の極、しかし既に生きられてしまった事実性を受け入れる「物語」

として、「失恋ゲーム」を提案する。


物語は果てない。

それは、たぶん、ままならないことだと思う。