最近、色々あって、色々と考えることがある。

そんななか、何となく思いついたので「言葉」に絞って思考を暴走させてみることにする。
(すでに回転数が高いのは、きっと、あの不愉快なダイトーリョー候補のヂベートでも見たからだろう)


言葉とは何か。
伝達、記録、思考の道具。

現在の人間の社会システムは言葉を基礎に構築されている。

その一方で、言葉の窮屈さや、不便さ、未熟さとでも言いたくなるような不器用さは未だに払拭されることなく、その根底に絶えず蠢いている。
(それは、決して僕のスキルだけの問題ではないだろう、きっと)


その窮屈さをあえて利用したりするのが「言葉」を生業にした人たちであったりする。
たとえば、詩人は皆、神に憧れ、神をねたみ、神を恨んでいる。らしい。
なにしろ、「光あれ」と、言葉で無から有を生み出したぐらいなのだからな。


思考の道具としての言葉。

言葉なしで思考。
とてもじゃないですが、僕にはうまくできません。

言葉は、記号である。
記号でありながら、その記号が思考を生んだりする。
人間の思考とは実に面白い。

人間は、たった数万年の間で「言葉」に最適化された脳を構築し、
その脳を使って、さらに新たな言葉を生み出し、さらに思考してきた。

言葉が思考を生み、思考が言葉を生んで来た。

一方で、言葉が道具として機能するためには、
言葉は万人が解することが要求される記号でもなくてはならず、
その言葉の持つジメージは、最大公約数的な制限を受けざるを得ない。

つまり、「言葉」での思考は、その誕生と同時に手枷足枷がつけられたもとなっている。
(だから、メールの返信や報告書を書くのが遅くても僕の責任ではないのである)


言葉を用いない思考。
瞑想というのはそれに属するもの(だと勝手に思っている)。
つまり、最大公約数の薄い丈夫な膜の外側に行くための技術である。




あまりにどうでもよい思考だな...。

しかし、すでに大分回転数が高い。回し過ぎといっても過言ではない。
なにしろ大分飲んでいる。
さっきのんだ変なハーブの入った酒がやばかったか。
いっしょにショットを空けていた顔ぶれがカウチでトドのひなたぼっこのようになっている。
(なんで、わざわざ俺んちに来んだよ)
(どうでも良いけど、今日はなんのパーテーだったんだけか?)

冷蔵庫には例のように大量レフトオーバー・ビールが収納されている。
(ここはビール・ダンプじゃないんだぞ、って言いながら飲んじゃうんですけど)


腹がへったな... ここでチップスとか食うのは負けだな、確実に。
明日が月曜日にもかかわらず、この泥酔具合。
このトドの群れで、明日ちゃんと仕事に行くのは俺の他には1~2人というところだろうな。




このでかい土地を持て余した国で生活するためには、車が必要である。

もちろん、ヌーヨークのような場所ならば別であるが。


日本に居た時は基本的に二輪(チャリも含む)を使っていた。
真夏だろうが、雪が積もっていようが。

四輪の免許も一応持っている。殆ど運転したことないけど。
この地に来るまで完全なペーパードライバーでした。(えへ。)

左ハンドルの車で、ウインカーを出そうとしてワイパーを動かすようなことは、僕はしない。
なぜなら右ハンドルで運転したことないから。
(教習所での運転経験はあるけどね。さすがに)


そんな僕でもアメリカでなら運転出来る。
それもマニュアルで。

道広いし、パーキングロット広いし。
(こっちで縦列駐車なんかしたことないし)


こっちの免許のテストだって、大したテストじゃない。
うっすら実技のテストもあるが、誰でも取得可能である。

ところで、こっちに来たばかりの頃、「国際免許証」という(アメリカでの認知度が非常に低い)
日本の免許のトランスレーションをつかっていたが.... あれはどこへ行ったんだろう?
(たしか、どこだかに返却しなくちゃな物だった気がするが...)


なぜ車のことを書き始めたというとだ、タイアを交換したのである。

ついでに、もろもろ液もの、フィルター類も交換して来たのだが、
何が違うって、新タイア。素晴らしいです。

実は、この車にしてから約2年間、タイアを交換せずに過ごして来た。(男らしく。)
2年で2万マイル近く走っていようとも、である。

思い起こせば、
雨が降ればケツをふって発進し、サンダーストーム程度の雨でも横滑りしながら走行。
冬に雪が降ろうものなら、スリップして道路脇の雪原につっこみ、
何度トートラックを呼んだことか。
(しまいには、トートラック屋のオヤジに顔を覚えられたしな)



いやはや、ハンドルが軽い。
今まで、いかに摩擦熱にガスを消費してきたかを思いしらされる。

とか言いながら、今日タイアかえて、うれしくて無駄にいっぱい走って来てしまった。
二酸化炭素まき散らしまくりである。


ところで、この国には、2年に一度(だったと思う)、エミッション・テストなるものが義務づけられている。
なにやら排ガス規制の一環として機能しているシステムのように聞こえるものである。

が、排ガスを採取して何か測定する訳ではない。
ハンドルの下の方にあるコネクタに、なにやら繋げてテストをするのである。
テストしてくれるオヤジに聞いても、あまり教えてくれないので、
何を測定してるのかは、きっとヒミツなのだろう。

たしか、96年だか97年よりも古い車はそのテストが免除される。
すなわち、燃費?排ガス規制だぁ?だんだそりゃ?の時代(あくまで僕のイメージである)に作られた車は、トーしなのである。


じつに謎めいた国である。


しかし、バイクが恋しい。
でも、すでに大分涼しくなって来てしまったからなぁ...
あとは、マイナス(華氏)までなっしぐらだろう。

来年こそはバイクを...(と毎年言っている)

# あっ、そういえば来年はメリケンじゃないかもしれないんだった...

友人と無駄話をしながら昼飯を食っていたときのこと、
どんな話の経緯かは忘れたが、語源の話になり、crucial の語源が cross にあることを知った。(ラテン語なので綴りは違うだろうが)
金のメロンパン入れに値するヒットである。
(うれしくて他の友人に言いふらしにいったら反応が薄かったのが悲しい)


ヨーロッパ人の中には、小学校から中学ぐらいにかけてラテン語の授業を受けていたりする人がいる。
日本で言えば、古文とかそう言う感じなんだろう。
(大嫌いだったな...)


ところで、ランダムな話。
キリスト教会の建物は好きなのでたまに行くことがある。

かといって、ミサにいったりする訳ではない。
ただ、ひと気のない教会の真ん中でぼーっと座っているだけ。
(教会の人から見れば気味悪いだろうね、きっと)

母は洗礼をうけたクリスチャンだが、(かといって、敬虔なわけではないと言う当たりが我が母)僕自身は洗礼とかを受けている訳ではない。
つまるところ、僕個人としては全く教会とのつながりはない。


初めて「教会」なるところに行ったのは、いつだったか。
日本で行った記憶はないので、きっと学生の時だろう。
(どうでも良いんだけど、「教会」って妙な言葉でない?)


教会というのは、仏教のお寺や神道の神社とは全く違った空気に満たされている(ような気がする)。
あえて言うならば人工的に強制浄化された空気が満ちているというか、「ケガレ」を極限まで排除したとでもいう感じだろうか。
(そういえば、「けがれ」って概念は何由来なんだろう)


アメリカの教会はそれほどでもないが、ドイツに居たときによく行っていたところはまさにそんな感じのところだった。
夏でも堅牢な石に囲まれた空間は、ひんやりと空気が冷たくて気持ちがいい。
(当時クーラーを持ってなかったので、涼みに行っていたという話もある)

そんなわけで、いまでも時おり、出張先ででも教会に行ったりすることがある。

たいがい、どこの国の教会に行っても、教会のまんなかでぼーっとしている僕の横では、おばあさんが真剣な面持ちで祈っていたりする(なぜかおばあさんが多い気がする)。
彼女たちにとって、そこはまさに神の家なのだろう。
日常の一部として祈りを捧げ、神と対話をする。そうするなかで、人間の集まりとしての「国」の基礎が形作られている、そんな印象をいだかせる。

一方、恥ずかしげもなく、神をダシにして愛国心をうたう国があるかと思えば、である。
(裏を返せば、神しか共通項がない国をひとつの国家として運営することは想像を絶する)


どんな形であれ、神が人々の、国の基礎にしみ込んでいるところで育った人に、
年始には神社、夏には寺、冬にはクリスマスを祝い(?)、年末には寺に行くような国について説明するのはむずかしい。
(べつにそういうのが悪い事だとは思わないけどね)

八百万の神。
要は、宗教観がちがうというか、いわゆる「宗教」というものと概念自体が異なるものなのかもしれない。




しかし、かたい。字面が固いなぁ...
でも酔っぱらってこういうの書くと、思考が暴走気味になって、
心地がいい。