友人と無駄話をしながら昼飯を食っていたときのこと、
どんな話の経緯かは忘れたが、語源の話になり、crucial の語源が cross にあることを知った。(ラテン語なので綴りは違うだろうが)
金のメロンパン入れに値するヒットである。
(うれしくて他の友人に言いふらしにいったら反応が薄かったのが悲しい)
ヨーロッパ人の中には、小学校から中学ぐらいにかけてラテン語の授業を受けていたりする人がいる。
日本で言えば、古文とかそう言う感じなんだろう。
(大嫌いだったな...)
ところで、ランダムな話。
キリスト教会の建物は好きなのでたまに行くことがある。
かといって、ミサにいったりする訳ではない。
ただ、ひと気のない教会の真ん中でぼーっと座っているだけ。
(教会の人から見れば気味悪いだろうね、きっと)
母は洗礼をうけたクリスチャンだが、(かといって、敬虔なわけではないと言う当たりが我が母)僕自身は洗礼とかを受けている訳ではない。
つまるところ、僕個人としては全く教会とのつながりはない。
初めて「教会」なるところに行ったのは、いつだったか。
日本で行った記憶はないので、きっと学生の時だろう。
(どうでも良いんだけど、「教会」って妙な言葉でない?)
教会というのは、仏教のお寺や神道の神社とは全く違った空気に満たされている(ような気がする)。
あえて言うならば人工的に強制浄化された空気が満ちているというか、「ケガレ」を極限まで排除したとでもいう感じだろうか。
(そういえば、「けがれ」って概念は何由来なんだろう)
アメリカの教会はそれほどでもないが、ドイツに居たときによく行っていたところはまさにそんな感じのところだった。
夏でも堅牢な石に囲まれた空間は、ひんやりと空気が冷たくて気持ちがいい。
(当時クーラーを持ってなかったので、涼みに行っていたという話もある)
そんなわけで、いまでも時おり、出張先ででも教会に行ったりすることがある。
たいがい、どこの国の教会に行っても、教会のまんなかでぼーっとしている僕の横では、おばあさんが真剣な面持ちで祈っていたりする(なぜかおばあさんが多い気がする)。
彼女たちにとって、そこはまさに神の家なのだろう。
日常の一部として祈りを捧げ、神と対話をする。そうするなかで、人間の集まりとしての「国」の基礎が形作られている、そんな印象をいだかせる。
一方、恥ずかしげもなく、神をダシにして愛国心をうたう国があるかと思えば、である。
(裏を返せば、神しか共通項がない国をひとつの国家として運営することは想像を絶する)
どんな形であれ、神が人々の、国の基礎にしみ込んでいるところで育った人に、
年始には神社、夏には寺、冬にはクリスマスを祝い(?)、年末には寺に行くような国について説明するのはむずかしい。
(べつにそういうのが悪い事だとは思わないけどね)
八百万の神。
要は、宗教観がちがうというか、いわゆる「宗教」というものと概念自体が異なるものなのかもしれない。
しかし、かたい。字面が固いなぁ...
でも酔っぱらってこういうの書くと、思考が暴走気味になって、
心地がいい。