第6章 創作・随筆(第5節…創作「病院(仮題)」連載⑧) | 獏井獏山のブログ

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(五)

 齋藤君が屋上で例のアイマイ宿作りのモデルの1人である美和子嬢とのデートを終えて部屋の戻る時、必ず手を洗うのは故ある事と察しも付くが、彼の本性はそんな生易しいものではない。彼は時をおかず7号室において情事を楽しんでいた。シーツ交換の時、看護婦の1人が7号室の美和子嬢のシーツの汚れに嘆いていたのを見たのは1度や2度ではない。そのモデルに情夫が有るのを知った齋藤君が深い悩みに沈んでしまった。彼は暫く7号室へ行く事を止めてベッドで大人しくしていた。彼は、情夫の出現によって、初めて自分が美和子に惚れていた事に気付いたのだ。しかし、ドライな美和子はそんな彼を理解しなかった。若い2人は座礁した船体を運転するだけの力が無かった。2人は若過ぎたと云えばそれまでだが、彼の悩みは解決されるべきであり、それは最終的に彼自身の力で為されるべきなのだ。彼はその時を境に一歩前進を得るであろう。よしや、それが良き結末であろうと悪い結末であろうと、彼のとっては決してマイナスではないのだ。私は最大限、彼の良い結果が齎されん事を陰から祈るあかりである。

 

 誰であろうと齋藤君を責めるべきではない。若いのは彼や彼の恋人ばかりではない。恋する人間はすべて若いのだ。恋する2人は子供のように他愛無く若々しい。それは人生年齢に関わりの無いものなのだ。天国の幸福を味わっている恋人達にとって他人のそんな目などどうでもよい事だった。それが他人から見て如何に馬鹿々々しい光景であるにせよ恋人達にとっては千金にも替え難い幸福が厳然として存在するのである。故にそれは年令に関係ない訳だ。その証拠に609号を牛耳っている委員長の林田氏を見よ。彼は1ヵ月前までは外泊の常習者であった。それがどうだろう、スベ子さんというものの出現は彼を変えてしまったではないか。彼は外泊をプッツリしなくなった。今では月に2度だ。これは妻子に対するほんの義務を果たすために過ぎない、という。新聞を見せれば政治論や社会論を一人前に聞かせる彼だが、スベ子さんとの情事となるや子供のように燥ぎまわる。あの幸福しきった顔を私はどんな風に説明すべきか、その言葉を知らない。三村さんにしろ、中隈君にしろ、守屋君にしたところが何ら変わる所がないのだ。

 

(六)

毎朝のイイヒのオバサンの来訪は三村さんを陶酔境に至らしめるのだ。  (続く)