漫⑦「追憶…引き揚げ部隊のラジオ放送」 | 獏井獏山のブログ

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・昭和208月に太平洋戦争は日本の無条件降伏で終結した。

・その後、南方その他の外地で生き残った兵隊の引き揚げ(日本への帰還)が開始された。それぞれの現地で引き揚げ者を乗せた船が舞鶴港に着く。

その状況は毎日、夕刻のラジオで放送された。放送内容は個人個人の名前ではなく部隊名だった。

・『桜の17,762部隊』…この部隊ナンバーを私は今でも覚えている。

 毎夕、放送が始まるとラジオの前には母が座っていた。勿論その周りには家族全員が座っている。一言一句も聞き逃すまいと身動きもせずに耳を傾けていた。毎日毎日、頭に叩き込んだのと違う部隊名が流れてきては皆うな垂れたのを思い出す。

・そんな状況が何日か続いたが、ある日の放送が家族の背筋に閃光を走らせた。アナウンサーが初めて『桜』という言葉を吐いたからである。家族同士が目と目を合わせたのはホンの一瞬で、緊張と期待を込めた皆の目がラジオに向けられたのだ。そして続いて響いたアナウンサーの声は「桜の17,761部隊」だった。アナウンサーの部隊名の読み上げは数分も前から続いており、この後も続く。家族の期待と緊張は一層昂まった。次は「桜の17,762部隊」と云うに違いない。どうか、そう云って呉れ!…家族は祈る思いでアナウンサーの次の声を待った。そして発せられた声は「桜の17,763部隊」だった。そんな事があろう筈がない。屹度アナウンサーの言い間違いか皆の聞き間違いだろう、と有らぬ期待を抱いたがその後のアナウンサーの声は淡々と次々と関係の無い部隊名を読み上げるばかりだった。

・特に母の落ち込みようは酷く声も掛けられなかった。が、母はまだ諦めてはいなかった。引き揚げ船の舞鶴入港は明日も明後日もその後も続けられる。そのうち「桜の17,762部隊」という声がラジオに流れる可能性はまだある。我が家ではその後も夕刻のラジオ放送の聴取が続けられた。…しかし夢が潰える時が遂に来たのである。

・ラジオの引き上げ放送が始まって約3カ月経った或る日、1人の青年が家を訪れた。青年は訝る母に向って「私は○○君の戦友です。彼と同じ部隊に配属され一緒に戦ってきた戦友です。…誠に残念ですが彼は現地の病院で亡くなりました。」と告げたのである。慄く母に青年は居た堪れない表情を浮かべながら「これは彼が僕に託した遺品です。」と云って、ポケットから取り出した印鑑と小さな布袋を出して母に手渡したのだ。震える手でそれを受け取った母は確認してから青年に頭を下げた。それは正しく次兄の出征時に母が持たせたものであった。物も云えず俯く母に青年は次のように、次兄が死に至った経緯を説明した。

…「今から2月前の事です。私と彼は同じ船で帰国する予定でした。ところが出航間近になって、我が部隊の部隊長が流行り病に罹って病院に収容されていることを知った彼は『俺は世話になった部隊長を置いて帰ることができない。看病をして病気を治して部隊長と一緒に帰国するから君は先に帰ってくれ。』と云って舟に乗らなかったのです。僕は『馬鹿なことを云うな。如何に世話になった部隊長と雖も、兵隊と云う立場での任務上の事だ。それよりも首を長くして待っている母や家族に元気な顔を一時も早く見せてやるのが一番大事なことじゃないか。それに部隊長はデング熱に掛っているのだ。もしも病気がうつればお前もいつ帰れるか分からないいのだぞ。だから部隊長の事は病院の専門家に任せておけばいい。我々に出来ることは何も無いのだ。分かってくれ。俺と一緒に船に乗ろう。』と云ったけど彼は僕の言葉を振り払って残ることに決めたのです。…そして『俺にもしもの事があればこれを母に渡して欲しい。』と云ってその品を僕に託したのです。」と。

・帰国後、青年は部隊長が入院していた病院の筋から、部隊長の死と、看病で病気をうつされた次兄もその病院で死したという話を聞いたようだった。青年は滋賀県の住人だったが次兄の死を知ってから約半月後に遺品を届けて呉れたのだ。

・次兄の死を告げられた母はその後、約1ヵ月の間、泣き通した。近所の人が慰めに来てくれる度に「頼りにしていた長男を亡くして、せめてあの子(次男)だけはと思っていたのに…大事な息子を2人も取られて…残ったのはカスばっかりや…」と悔やんでは泣いた。……

・……長兄も兵隊に召集されてインドか、もっと遠い南方とかに遠征していたと、ずっと後年に父や兄から話を聞いたことはあるが、幼かった私自身の記憶にあるのは、戦地から帰った長兄が白血病で阪大病院に入院した末に病身の儘、家に帰って亡くなった事実である。顔に白布を被せて横たわる兄の布団の上には大小二振りの日本刀が置かれてあった事、私より9歳上の従姉が兄の布団の傍で泣きじゃくっていた事を今でも覚えている。

…確か終戦間近い頃、国が武器の材料にするため各家庭にある鍋釜以外のあらゆる金属を強制的に供出させた筈だったことから推測すると、日本刀を置かれた長兄の死は戦争中であり、次兄が戦地に居る時期だったのだろう。長兄の白血病はインド辺りの戦地で何処かの国の原爆実験か何かに依って被爆したのが原因で、病に犯された兄は戦地から帰されたのだと聞いたことがある。後年、父が次のような事を云っていたのもそれを裏付けているように思う。父の話によると、戦地から戻された長兄は働き者で、戻った翌日から農作業を手伝ったが、夜中になると歯の痛みに耐え兼ねて呻き苦しんだそうで、もう無理して畑仕事はしなくていいから病院で見て貰え、と云ったが倒れるまで聞かなかったという事だった。…が、詳しい話を聞かず仕舞いのまま父も3番目の兄も亡くなった今となっては、真相は不明である。

・父の死後、遺品として貰った、長兄・次兄の金鵄勲章や叙勲の瑞宝章・白色桐葉章が私の手元にあるが、金鵄勲章などから推測すると2人とも戦死扱いにはなったのだろう。