・太平洋戦争の末期、米軍機による空襲が激しさを増し、上空をB29爆撃機が頻繁に往き来し、大阪南部の田舎でも毎日のように空襲警報が発令された。その頃、我が家では父と兄が2つの防空壕を掘った。
幼かった私は最初に掘られた防空壕の完成までの経緯は知らないが、出来上がった防空壕の事は今でも覚えている。…
・当時100坪近くあった中庭の一部は野菜などが植わっていたが、そこを掘削して作られた最初の防空壕は見事な出来栄えであった。広さ4畳余りの壕内には床が張り詰められ、周囲も隙間なく板が張張り巡らされ、天井も板張りで、中に入るとまるで新築家屋の1室と紛うばかりの出来栄えだった。噂を聞き付けた近所の家々から見物に来た人たちが驚き褒めそやして帰って行ったのを覚えている。
・出来上がった防空壕に布団を運んで、兄と私が寝ることになった。
それまでは全員が母屋を寝床にしていたが、この日以来、兄と私以外の家族も防空壕に近い“離れ座敷”に移された。それには理由があった。兄の一案で、座敷と防空壕の間に両者を繋ぐ約10メートル余りの細いロープが引き張られ、その両端に鈴が付けられた。目的は、空襲警報のサイレンを聴いて先に起きた者、例えば防空壕で寝ている者が目覚めた場合はその者がロープを引っ張って座敷側の鈴を鳴らして急を知らせて、防空壕の入り口の蓋を開ける、という具合である。この様にお互い報せ合って空襲警報が解除されるまで防空壕で過ごすのである。
・ところがこの防空壕には大きな問題があった。元々、畑の土を掘り返したものなので床下には水が溜まる。周りに張った板も時が経つと共に雨が降れば地面に染み込んだ水分に浸食されじっとりと湿り気を帯びるようになっていた。このことは、延いては蚤虱の温床となることを意味する。結果、我が家の住人の衣類は蚤虱の住処となっていた。
しかし、この状態は我が家だけではないことが時を措かずして判明した。
ある日、国民学校3年の姉が真っ白な髪の毛をして帰ってきた。学校の先生が、水鉄砲の筒の部分を広げたような噴射器を使って頭の真上から大雪でも降るような量のDDTを振りかけられたと云うのである。話によると、男女を問わず全校生が例外なく髪の毛に蚕の卵を白くしたような蚤虱の卵を付けており、これを殺すためにDDTを掛けられたのだった。どの家庭でも空襲警報が発令されると防空壕に避難した結果である。
・そんな状況下、我が家では2つ目の防空壕掘りが始められていた。
最初の防空壕の場所を除く中庭の大半は、取り入れた籾や大豆や菜種などを干すためにコンクリートを塗った三和土になっており、その端の場所には5坪ほどのトタン屋根を張った物置き場が作られてあった。そこは離れ座敷に接するほどの場所にあった。ここなら年中を通して雨を防いでいるため地面はカラカラに乾いている。そこに目を付けた父と兄は2つ目の防空壕を掘り始めたのである。父の構想では、ここに防空壕が完成すれば座敷の一部を改造して両者を繋いで、空襲警報が発令されても、屋外に出ずに座敷から直接、防空壕に入れるようにすることだった。…そして…
縦5メートル、横幅2メートル余り、深さ2メートル近い掘削が完了し、いよいよ屋根を作るための角材を3本ほど渡した時だった。家の中から飛び出してきた姉が父に向って、「お父さん、チョット来て。ラジオで何か変な放送してるわ。早う来て。」と叫んだのだ。…それは天皇陛下による玉音放送だった。姉の慌てように驚き半分で家に駆けこんだ父はうな垂れた低い声で「おい、もう防空壕は要らんど。」と兄に伝えた。
★この頃の我が家の状況を大まかにいうと、8人兄弟姉妹(男5人、女3人)のうち、23歳の長兄と20歳の次兄は兵隊として戦地に出ていて、家に居るのは父母と長姉と3男の兄と私と弟の6人で、次姉、3番目の姉は国民学校に通っていた。…長兄、次兄は戦争の犠牲になった。