こんにちは。不安障害(パニック)5年目で、現在専業主婦のふわふわこころ。です。


まず、私がパニックを発症してからの5年間のお話ですが、

↓発症前の三年間ほどのお話はこちら
発症から2年間在職(その頃のお話が分かる回)
悪化し、休職退職合わせて1年半闘病(その頃何をしていたかなど)
寛解し社会復帰
半年後に再発
(寛解した頃と再発時のお話)
で。現在は、専業主婦になって一年ぐらいです。
不安障害の症状と、パニックがたまに出ます。


お薬は
ランドセン朝夕0.5
頓服時ワイパックス0.5
就寝前ロゼレム8

PMS用(希死念虜が出るくらい不安定)に
カルシウムサプリ朝昼晩
漢方薬(加味逍遥散)朝昼晩

他には腰椎と脛椎椎間板ヘルニアです。


とりあえず、私は現在、不安障害、パニック、ヘルニアをかかえています。

今回のお話を進めていく上で語らなければならないのが、毒母への不信、嫌悪、トラウマなどです。
洗脳されたかのように、いい子ちゃんだった私は、
それが尾を引いて、ストレスを溜めて、30代でパニックを発症したんだと強く感じています。

家庭環境、毒母が原因となり
意見を言えないまま大人になりました。

性格はHSPとか、育ちとかも影響してなのか、
基本的には一見明るく活発なんですが、
嫌なことを言われても我慢する
頼まれ事を嫌でも断れなかったり自分から志願する
色んな事を気にしまくる
ので、
しまいに人間関係にストレスやめんどくささを感じたり、人間不信となりました。

まあ…そんな中で上乗せ上乗せでゴタゴタが続いた挙げ句にパニックを発症したのです。

一度は三年半かけて寛解し、社会復帰したものの、半年後に再発し、その後の就活での経験から、
私のパニックのトリガーを見つけました。
それがなくせないまま今に至るので、下級の専業主婦をしています。

下級と言うのは、ダメダメな家事しか出来ないといういみです。


そんな中元気だった同居の祖父動けなくなりました。

年の割に痴呆もなく何でも自分でこなす祖父でしたが、
腰がいたいと言い出したのは(土)でした。

(土)(日)(月)は旦那が居たので、私と交代でトイレなどは、祖父を支えていました。
(月)に、診察で「絶対安静」と言われました。

私はヘルニアですが、祖父は安静にしてなきゃいけないので、支えて歩かせることをしなくて良くなった私は、今日(火)からは食事や歯磨きや、体をふいたりオムツを変えたりするぐらいです。

結局(土)から三日間ぐらいは祖父を支えてトイレやダイニングまで歩かせていたので、私の腰(ヘルニア)は限界でした。

今日は旦那も仕事で居ないし、私のヘルニアがヤバイのと、やはり絶対安静と言われたのだからと祖父に話し、オムツを使うように頑張って👊😆🎵と励ましました。

それから祖父を支えなくて良くなったので私は楽になりました。

今入院の手続きや、要介護ランクが変わったり、新しいケアマネージャーがついたりで、バタバタしてます。

祖父の面倒を24時間みているのは孫の私達です。
同居し出したのは、私が不安障害になった後、闘病しつつ働いていた一番苦しい時でした。三年前程です。

母は更年期と、未亡人であることや、体調不良があるので私達夫婦が同居をきめたのです。
そのために急遽引っ越しました。

毒母は口ではあれこれうるさく言ったり、何かあったら手伝いにくると言いながらも
あからさまに嫌な顔をしたり、
私や旦那に暴言をはいたり
自分の話ばかりしたりするので、
私はパニックの引き金となる彼女を2年ほど前から避けています。

ですが娘なので、病院、介護の手続き関係は母に任せていますので、たまにうちに来ます。が、私は接触しないようにしていました。

ですが、最近は祖父の体調が悪くなることが多く、
今日、ケアマネージャーさんとも同居人として話さなきゃならなくなりました。

大嫌いな毒母×ちょっと色々あって信用できないケアマネージャー×不安障害の私(人に会いたくない)
の3人で急遽どうしても集まらなくてはならなくなり、
私(母に会うとパニックになる)を心配した旦那が会社から少し抜けてきてくれました。

しかし私は、荒い呼吸の中、ゆっくりと、
書類にサインしながら、
祖父のためになることや、
母の間違った考えについて、
言いたいことを、毒母に言いました。
聞きたいことをケアマネージャーさんに聞きました。
祖父には優しくしてほしいと母に言いました。
100点でした。

頓服のワイパックスはこの数日で増えてたし、
無気力ではあるし、
再発後に一度襲ってきた希死念虜の影が未だ、遠くでゆらゆらしているし、
旦那に申し訳ない気持ちが、
旦那の気持ちが離れていく感覚になって、
その度に希死念虜がゆらっと自己主張する。

だけど、この5年間
悲しみ、苦しみ、怒り、後悔、寂しさ、恨み
など、
どうしても消えない闇について
考えて考えて、悩んで愚痴って、
感情を高ぶらせて、
自分を攻撃しながら薬を飲んだ

そして5年目に
私は考え疲れはじめた。

その、疲労無気力の原因だとしても、

その疲労が余分な思考を止めてくれたのかな?

不安障害の私×毒母×信用できないケアマネージャー
の対談は
後悔無く終わった。

一瞬の疲労はあったがすぐワイパックスをのみ、
すぐに祖父と穏やかに話をし笑えた。

こんな苦手なことに対して立ち直りが早くなったのは
たくさん悩んでたくさん泣いて
何が一番大事で
何を一番守りたいかが解ったからだ。

私が守りたいのは
大事な人と、笑顔のある日常

つまらないことをやる人たちは勝手にやればいい。
だけど
私の大事なものを侮辱する行為は許さない

ただ、
人を恨むより、大事な人に優しさを与える時間の方が多い「これから」にしたいと、おもう。

たくさん苦しんだ分、少しずつ日々が、輝きだしたふわふわこころ。でした。

長い文章読んでくださりありがとうございました。