水戸 敏(1987)研究生活を振り返って | ウッカリカサゴのブログ

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日本産魚類の仔稚魚のスケッチや標本写真、分類・同定等に関する文献情報、
趣味の沖釣り・油画などについての雑録です。

 

昭和63年(1988年)11月下旬、第10回稚魚研究会(海生研の中央研究所:千葉県御宿町)開催時の水戸先生(上)深滝所長(下)

 

“西海区水産研究所ニュース (57): 18-20. 1987年12月”より

まだまだと思っているうちに,昭和63年3月末に定年退職をすることになった。大学を出てからいろんな職場で研究を続けてきたが,その間の印象深いできごとを思いつくままに書き記してみたい。筆者の終生の研究テーマは,浮性魚卵の分類であるが,それは魚類生活史研究の一部である。したがって,研究を進めるに当たっては,魚全般について卵や仔稚の形態並びに生態について知識を広めるように心がけた。

この研究テーマを決めるきっかけはまことに他愛のないのもであった。昭和25年の九大天草臨海実験所における学生実習で相川廣秋教授が「諸君も一生に一度はプランクトンの研究をやり給え。そうすれば私のように緻密で几帳面な人間になれる」と云われ,学生一同大爆笑したことに端を発する。プランクトン実習では,混じってとれた魚卵を査定するのには水産講習所の神谷 (1916~1925) の研究以外に有力な文献はなく,多くの卵の帰属が未知のままであることを知り,これは魅力的な研究になりそうだと考えたのが始まりであった。

卒論のテーマもこれと決め,大学院,研究生それに続く助手時代は九州近海を舞台に研究を進め,多くの方々の世話になった。最初の2年間は天草の臨海実験所をほぼ獨占的に使わせてもらい,自分で転馬船を操っての採集と磯歩きに明け暮れた。昭和27年4月にヒゲミミズハゼの孵化仔稚を32日間飼育し,稚魚にまで育てたのは,ワムシもブラインシュリンプもなかった当時としては画期的なことであった。餌の採集や換水と水温の調節に苦労したことを覚えている。当時教室では対馬暖流開発調査 (昭和28~32年) が進行中で各地から送られてきた卵,稚仔の査定が急ピッチで行われており,たまに教室に帰るとその仕事にかり出された。また,卵,稚仔査定の研究のため関係機関からの滞在研究者も多く,水研関係では東北から小達,日水研から深滝〔上記写真:私の就職時の直属の上司〕,南海から上柳の諸氏が参加され,教室は活気に溢れていた。

昭和28年から1年間ほど南海区水研延岡支所 (土々呂) にお世話になった。ここでは浅見さんを筆頭に水研の若者数名による楽しい共同生活を送った。水研が行う毎週1回半日の定線調査と月末3日をかけての日向灘調査に便乗させてもらい材料の収集を行った。大学では考えられない機動力と人員のおかげで豊富な材料が集まり,研究が飛躍的に進展した。課外活動と称して教室の道津さん (現長崎大) の仕事を手伝い,日本で初めてマハゼの産卵場をつきとめたり,これまでの常識では考えられないほど特異な卵を産むボウズハゼの産卵を確かめたのもこの頃である。厳冬期に悪名高い八幡浜の底曳船に乗り漁獲物調査を行った。人工受精させた卵を入れたガラス瓶を現場水温近くに保つために機関室の片隅に置かせてもらい,1時間ごとに標本作りのため出入して嫌がれたこともあった。
 

  上:故 沖山先生を通じてお預かりしているフサカサゴ類に関する資料から


延岡の次は五島玉之浦に1年ほど滞在した。組合長の好意で漁協の2階に実験室を設営することになったが,いろんな会合の度に店仕舞いをした。時化の時には多くの漁業者が訪れ面白い話を聞かせてくれたり,酒の入った連中にからまれたりもした。冬から春にかけてのブリ大敷網とそれに続く夏定置の漁獲物調査が仕事で,ブリ漁期は早朝に1回,夏網漁期は午前と午後に行われる網揚げに同行した。ここでの滞在中に教室から来た道津,中原両氏と共に女島に渡り,そこでのブリ定置網調査を1か月余り行い,ブリの卵発生を明らかにした。五島での1年は漁業者と共に生活し, 定置網の仕立てから張り込み,操業,修理,撤収にいたる一連の作業を体験するなど得難い経験をした。

天草,延岡および五島で得た資料の整理をするためその後の数年は教室を根拠に研究を続けた。そこでは豊富な体験をもつ先生や先輩諸氏から有益な話を聞かせてもらった。海藻の瀬川教授は,研究材料の多くを浜に打上げられた海藻から得ておられた。それらを探して毎日浜を歩いていると,理由は分らないがこの打上げ藻の中には新しい発見があるという直観が閃くことがあるという。詳しく調べるとその通りであることが多く,長年の観察からそのような勘が生まれてくるのだろうと話された。筆者にも同じような経験があった。磯採集のため干潮時に多くの潮溜りを見て回るが,何となく魚の動きが気になる潮溜りがあり,中の水を汲み出して穴の中や石の下に産みつけられた卵を見つけ,会心の笑みをもらしたことがあった。

研究をまとめるに当たっての補足材料の収集は,主として福岡市近郊の津屋崎水産実験所で行い,たまには門司水族館にいた藤田さん (現東水大) の展示魚採集に同行し便宜を計ってもらった。当時の教室では海藻グループと共同して始めた「流れ藻」の研究が軌道に乗り,沢田さん (奧田,現九大) や吉田さん (現北大) らが壱岐,対馬へ向かう定期客船を利用して藻の分布調査を行い,庄嶋さん (現西水研) が流れ藻に付随する魚の調査に専念していた。一方,前に述べた対馬暖流開発調査などで得られた結果に既往の知見を加えて,それまでの研究成果が内田恵太郎教授ほか教室関係者8名によって「日本産魚類の稚魚期の研究第1集」としてまとめられ,教室の活動に一時期を画した。これを機に教室に屯ろしていた連中が次々に新しい職場へ転出していくことになった。

筆者は昭和37年に内海区水研へ移り,そこで7年を過した。大学の研究はどちらかと云えば個人プレイであるのに比べて,水研では研究が組織的に進められ,関係水試の協力も得て規模の大きな問題に取り組んでいるのが印象的であった。瀬戸内海全域における魚卵稚仔の出現分布をまとめたり,内海全域の藻場の現状調査を行うなど研究の幅が広がった。そろそろ我が国の髙度経済成長が始まり,工場用地造成のための番ノ州 (香川県) 埋め立て影響調査にかり出されたり,所内では長谷川さん (現東水大) を中心に工業化と水産資源問題が論じられるようになった。

内海へ移った翌年に瀬戸内海栽培漁業協会が発足した。毎年夏になると伯方島事業所の施設を利用していろんな魚の孵化仔魚の飼育を行った。別の目的で来ていた山岸さん (現帝京大) と飼育仔魚の成長について議論し,山岸さんが飼育個体の大きさにばらつきが大きい種類は縄張りを作るもの,そうでないものは群れを作る種類という説を打ち出した。ところが翌年の結果から飼育仔魚の成長差の大小は飼育技術の巧拙を反映したものと分り,がっかりするやら大笑いするやらであった。当時は栽培漁業について明確な定義もなかったし,栽培漁業そのものを否定する見方も根強かった。水産庁や協会からお客さんが来ると,その人達を囲んで熱っぽい議論が夜遅くまで続けられた。瀬戸内海での仕事が当初の概観的なものから段々と細かなものへと変っていった。先輩から瀬戸内海が広く感じられるようになったらそろそろ転身を考えた方がよい,と云われていたことが気にかかるようになってきた。そうしている内に一度外国へ出てみないかという話があり,割合気軽にとびついて家族一同をびっくりさせた。

昭和44年からの5年間を東南アジア漁業開発センターで過した。今まで経験したことのない環境での研究や指導で面喰うことも多かった。専門家や研究者には出勤簿はなく,行き先さえ明らかにしておけばどこで研究をしていてもよく,さすが人格が尊重されていると感心した。ところが,各人については,いつまでにどのような仕事をし,それについての報告はいつまでに行うといったことが文書で部局長とやりとりされていて,それらはきちんとファイルされていた。期日が過ぎても報告が出されないと厳しい催促と遅れた理由が詰問される。下手に反発したりすると,そのようなあいまいな約束をすること自体が見通し能力の欠除,場合によっては専門家としては不適格と判断される。約束の重みとあいまいな態度のもつ危険性が実感された。専門家の任期更新に当たっては,現地政府はずい分思いきったことを日本側に云ったと聞いている。

昭和49年に日本へ帰ってから5年余を遠洋研で過した。ここでは2度にわたる調査航海が印象深い。最初は昭和50年4月25日から7月28日までのベーリング海調査である。これまで温帯か熱帯の海しか知らなかったのですべてが驚きであった。季節の移り変りが最も激しい時期だったので,寄港する度に雪が消え緑が濃くなるのに目を見張った。次は昭和52年11月16日から翌年3月13日までのニュージーランド調査である。丁度200海里が本格化した時期で,科学調査船といえども専管水域内には入れぬと通告され,調査計画の大変更も覚悟したが,先方との共同調査ということで落着いた。ここでの調査の結果を先方の科学者と連名でNZの学会誌に発表した。これを最後に現場を持った研究から去ることになっただけにNZ航海は特に思い出が深い。

その後いろんな研究プロジェクトの世話をしたが,それらに参加する機会は来なかった。昭和58年8月に米国で開かれた「魚類の個体発生と分類」のシンポジウムに招かれ,それまで名前しか知らなかった多くの学者に会え楽しい数日を過すことができた。筆者の研究テーマである浮性魚卵についてはまだ多くの問題が残されている。最近の種苗生産技術の進歩と水族館等で産卵する魚が増え,知識は確実に増加している。しかし,天然の海に出現する未知の魚卵の解明はあまり進んでいない。最近の進んだ飼育技術を使ってそれらを育てて種名を明らかにさせることに取り組んでほしい。十数年来の提言がまだ実現しないのが心残りである。 (所長)

 

●参照

 

稚魚研究会通信 No.14 (2006) から
水戸 敏
『長い間お世話になっていた稚魚研究会ですが、最近の体調から今年限りで退会させていただくことと致します。会員が増え、活動範囲も拡大し会が隆盛になっていることはご同慶のいたりです。今後益々の発展を祈念してお別れとお礼のご挨拶を申し上げます。』

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「卵と仔稚魚その多様性(水戸,1994)」の詳細目次
2017-05-06
https://ameblo.jp/husakasago/entry-12272115954.html
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第10回稚魚研究会《研究会の印象》から
2020-07-12
https://ameblo.jp/husakasago/entry-12610573523.html

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内田恵太郎先生のメバルの発育シリーズ
2020-04-28
https://ameblo.jp/husakasago/entry-12592929911.html

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内田恵太郎・ 道津喜衛. 1958. 対馬暖流水域の表層に現われる魚卵・稚魚概説. 対馬暖流開発調査報告書 第2輯(卵・稚魚・プラントン篇), pp.1~61, figs.1~29.
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Shimomura, T. and H. Fukataki. 1957. On the year round occurrence and ecology of eggs and larvae of the principal fishes in the Japan Sea. I. Bull. Japan Sea Reg. Fish. Res. Lab., (6) :155-290, figs. 1-76.
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深滝 弘. 1959. 日本海産重要魚種卵・稚仔の周年にわたる出現及び生態についてII. 対馬暖流海域におけるサンマ卵・稚仔の出現分布. 日水研報, (7) : 17~42, figs.1~5.
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深滝 弘,1963.太平洋北西部から採集されたキチジの浮性卵囊.日水研報,(11): 91-100. 〔Fukataki, H., 1963. Pelagic egg balloons from the western north Pacific referrable to Sebastolobus macrochir (Gunther). Bull. Jap. Reg. Fish. Res. Lab., (11), 91-100.〕 
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深滝 弘.1965. ベニズワイとズワイガニとの雌の外部形態の比較.日水研報, (15): 1-11.

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