知識は輪の半分でしかない 2009年07月10日(金) テーマ:自然から学ぶ インディアンの |   心のサプリ (絵のある生活) 

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インディアンの言葉 (コレクション「知慧の手帖」)/エドワード・S. カーティス

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  「インディアンの言葉」

 立川にいた時に、20歳のC嬢、カナダ生まれのアーチストの卵がよく私のお店に遊びにきた。
 身長が180センチほどあって、ほんとうに見た感じも優しいインディアンという雰囲気でしたね。

 彼女は自分がつくったいろいろなアートのオブジェを私に見せながら、ネイティブのインディアンの哲学を語る。
 私もかたことの英語で、聞いたりしゃべったり、でも、なんとか気持ちが通じれば伝わるもんだ。
 彼女がノバの先生だったこともあり、彼女は私にゆっくりと丁寧に一言ずつ喋ってくれたので、何か、それが呪文のようにも聞こえたものでした。

 「完全な円として結ばれるためには、知識の輪の他にもう半分の部分がいる。ふたつの円があわさって、はじめて本当の円になる。」と彼女はそんなようなことを言っていたと思う。

 あとで、ムック版の「インディアンの言葉」という雑誌やら、C・バラードの「アメリカインディアン神話」やら、中沢新一が訳している「インディアンの言葉」紀伊国屋書店やらを、本棚からとりだして、ぱらぱらと見ていた自分がいた。

 C嬢は、日本にとても興味があり、私たちと仲良くなれて嬉しかったらしく、いろいろなところにつれていけと言う。居酒屋も行ったし、カラオケも連れて行った。<しかも、振り袖を着せてあげて・・・>

 彼女は確か、カーペンターズを歌っていたが上手くはなかった。かえって私たちよりも、日本人ではないかと思われるほどシャイな女の子だったですね。

 彼女についてはまた書きますが、彼女がどうしてインディアンの研究をしていたかを今から考えるとよく理解できますね。
 やっぱりカソリックやプロテスタントの教義では、彼女の好奇心やアートの創作意欲を満たすことができなかったんだろうと思います。


 植村直己さんが「極北にかける」に書いていたが、エスキモー達もまた「こころをとけあわせる」までには時間がかかると。

 インディアンは、「我々の儀式を見ようと、うろうろと部族の村に白人がやってくるが、われわれの生き方を部族の外のものに話すことはしない。なにかを探ろうと写真を撮っても、彼らには我々が守ってきた智慧は映らない、無駄なことだ。だからわれわれは彼らに立ち去ってくれと頼む」と言う。


 「部族の村にいろいろな人が来るが、かれらは、どんなものであれ、かたちのあるものをわたすと、喜んで帰って行く。彼らはほんとうは物がほしかったのだ。しかもその物の由来を聞くことすらしない。彼らは生きるための智慧を探していると言いながら、ネイティブアメリカンの村に行ってきたと、人に言える物があるだけで満足するのだ。」


 最後に彼らはこう言う。

 「彼らはこころがからっぽのままでも、少しも気にならない。こころの壷に水をくんでやることを知らないからだ。ひからびた壷は、自分も人も潤すことはない。ネイティブ・アメリカンの村では、水を汲みにいくのは子供たちの仕事である。幼いころから水の大切さを知り、水が与えてくれる潤いの貴さを身体のなかにいれておけるように。大切なことは、毎日の暮らしのささいなことのなかにある。それは深淵でもなければ、華々しくもない。



 ふと、思いましたが、「禅」ですね。これは、日本のこころではありませんか・・・

 インディアンは一説では日本人とDNAがつながっているという。