12年前のブログ記事を見ては考える。
自分はどう変化してきたか、進化しているのか。
下の記事を読んで思うのは、やはり読んできた本が今の自分を作っていると思う。
極端に言えば、もう若き頃の精読は無理だが。
年齢を経れば、本を手に取れば、ある程度の見当はつく。それが大切。
目次を読んでじっと考えれば、あれ、これはなんだ、という疑問点がわく。そこを集中して読み込む。
それの繰り返し。
あとは、妻母から学んだ、掃除とはものの位置を確認して、新鮮に見えるように、カビが生えないようにすることだなと、思った。
その掃除と本の整理と読書は繋がっている。全く別のものではない。
例えれば。今朝読んだ本。整理した本は。
松本零士のジークフリート。
バタイユの聖なる神。マダムエドワルダ。
荒木さんの変人偏屈列伝。
小島の片目柳生、←意外に笑えるコミックだなと思った。
リュウのモンストレス、これはやはりアメリカンコミックスだな。ついていけないけど、絵は上手い。
兎丸は好きだ。少女椿が映画になっていた、びっくり。
これらの本の本質のイマジネーションを書くと。
たまたま、今日の散歩中、空に、美しい月が半透明に出ていた。
それは、ある意味、私にとっての2001年のモノリスと、原始人との遭遇を連想させる。
もしも、その時の原始人が見たのがスマホであれ、モノリスであれ、同じことだろう。
その反応を考えることが大事だ。
きっと、今の現代物理学で徐々に暴かれている宇宙の神秘もまた、モノリスのようなものだな。
私たちが原始人というわけ。
マルチバースや、パラレルワールドや、10次元までの考え方が現実となっていて、映画にもなった、クリストファーノーランのインターステラの五次元の考え方、あるいは、人も素粒子でできていて、炭素が必須なのに、それが生まれのは星が何回も爆発してやっとこできるのだとか、つまり真の意味での、星から生まれた私たちの命というテーマ、
あるいは、現代物理学ではもう「時間」という概念はないんだということね。
昔。大昔。
地球の周りを太陽が回ると信じられていたでしょう。
次に、地動説。
今でも、ラップを踊りつつ、そんなことを信じていない人たちがたくさんいると聞きました。
でも、少しでも学びのある人は、イメージとしても、今の自分が立っている地球のちょうど真後ろの正反対の場所に生きている人たちは、逆に、土の上に立って生活しているということも理解できるでしょう。
昔は、天の川があり、銀河があり、148億年でしたか、ハップル望遠鏡のおかけで、ビックバン以後の宇宙は膨張しているのだと私も教わりました。
しかし。
その宇宙もその果ては見えない。無限という定義もできない。無限がまずわからない。少なくとも脳裏で想像する宇宙は有限。
そのお釈迦様も考えたように、その宇宙は三千世界という途方もない10の何十乗というデカさ。
しかも、今の現代物理学では、その我々の宇宙は親宇宙、子供宇宙、孫宇宙とリンクしていて、そのあたりは私もよくはわからないけれども、ビッグバンとブラックホールと、極小の球が一気に今の宇宙くらいにハレーションを起こして今の宇宙があるんだという。
しかも、なぜ、反物質がなくなって、今の世界が出現したのかと、現代物理学者たちは研究を重ねている。
身近な例で言っても、その現代物理学者たちが、基礎研究を愛する人もいれば、スマホや、半導体や、量子コンピューターを作ることに参加する人たちも増えているとのことだ。
おそらく、これからの未知の途方もない、大統一理論という今やブーツストラップ理論というか、弦張理論というか、それらはの前では、私なぞは、一人の原始人みたいなモンだろうな。
12年前の記事。↓。
今同時並行して読んでいるのは、ブログ記事にもしている「アイルランド紀行」、
「脳と日本人」、「現地物語」古典、漫画、円地訳三冊。「ダブリナーズ」、「night in rodente」、「ねじまき鳥」、「ケルト妖精物語」、「宴のあと」、「近代絵画論」、「ガラス玉」などなど。
バラバラの選択のようでもあるのですが、要は、今一番興味があるのは、キリスト教や日本神道のルーツと、現代文明との関係。
小林秀雄や、本居宣長や、柳田國男という皆が使用するテキストを読みながら、今ここにある日本を違う視点から見る事ができたらなぁといつも思うんです。 ←小林秀雄のエントロピーの考え方はすごい。やはり、湯川秀樹とか、岡潔とも対談をしているからですね。
私はどうも言葉が好きなわりには、言葉を脳のなかに積み上げて、論理を構築するというタイプではないのですね。
どちらかというと、完全にイマジネーションや松岡サンの言う「おもかげ」プロフィールを脳裏に、映写機で、つぎつぎに写して行くというタイプです。
まあ、感性人間です。
だから、北欧の国々はどこか気になります。妖精の暮らす国。あの司馬サンが妖精についてここまでしっかり描くというのもおもしろいです。
脳と日本人の中にも、司馬サンが残した「日本とは何か」という遺産について松岡サンが言及しておりました。
主に、伊勢神宮のことなどですが。
八百万神の国。妖精の国。絶対唯一神の国。
森と砂漠の比較。
日本存在存続のためのヒント。
昔は、仏壇で拝み、墓参りに行き、神社で参拝して、おみくじを引き、キリスト教会の日曜日学校に小さな頃に通い、友だちが信者でもないのに教会で結婚式をあげも涙がでてくる「わたし」。
昔は、「なんじゃい、おかしいなぁ? 日本人」
と、思っていたのですが、まさに、その「イイカゲンさ」の凄さというか、「イイカゲン」ではなくて、「いい加減」、八百万神の懐の大きさというか、暖かさ、寛容性に、気がついている「わたし」が今ここにおります。
三島由紀夫氏は、「絶対」を最後の最後に求めてしまいましたが、わたしのような凡人は、最後の最後まで、悩み抜いて、「絶対」と「相対」の相克に、ふらふら、しながら歩いていくしかありません。
先人の残してくれた知恵や、勇気ある行動、言葉などに感謝しつつ、生存していきたいなと思います。