2人の子どもの死にどう向き合うか「さらば愛する大地」根津甚八 秋吉久美子 山口美也子 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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 「すべての男は息子ですね」   秋吉久美子












 



 最近は小津安二郎と、70年代の見忘れた作品中心に見ては、驚いたり、がっかりしたり、
 また刺激されたりの日々。



 いちいち、ブログに記録するのは、面倒だけども、あとでプリントして、字の間違いやら、文章のおかしなところをなおしたり、いずれは、英訳して、自分だけで楽しむとか、要は絵と、漫画と、小説と映画と音楽とを極めたい。


 この映画のなかに、山口美也子という個性的な女優がでてきて、おっと思う。

 しらべると、石井隆原作ものに出ているので、ここに、少し、アップしておこうと思う。
 知る人ぞ知る。
 今では当たり前くらいの描写だけれども、当時は、圧倒されるくらいの、過激な漫画だったのだった。


 名美。この名前がよく出てくる。こだわりがあるのだろう。
 戸峰の作品に聖子がよく出て来て、小津の作品には、紀子が何回もでてくるというのも、おもしろい。
 こだわり。




 石井隆の名美。




 サラリーマン時代。10回以上も引っ越しをしたのに、どうしても、棄てることが出来なかった。良かった棄てないで。この線は貴重な線だ・・・・・・・・・・・
















さらば愛する大地




最近、またDVD化されたらしいが、個人的に、良好な感覚を保てない。・・・・・・・・
考えてみた。


秋吉久美子は好きだし、根津甚八も好きな俳優だというのに。
なにか、救われなさに、胸がつまる。

もちろんこの70年代80年代は、問題作が多かったので、悲劇で終わる映画はたくさんあって、
それはそれで、感動として残るのだが、・・・・・・・・


考えてみた。




不思議なことに、この映画で、たくさんの賞を獲得しているわりには、秋吉久美子はもらっていない。山口美也子が豚をおいかけ、豚のいる小屋で男と性交するシーンがかなり強烈ではあるけれども、秋吉久美子は、まるで、空気のように、良くも悪くも、自我がなく、ないならない良さが出そうなものだけど、悲しいくらい、昔の悪い意味での愛人なのだった。




昔。

近くの風呂屋に行くと、たくさんの裸の男達が牛乳を飲みながら、プロレス中継に夢中で応援していた時代だ。
背中や腕や足に、入れ墨をしている男性はさほどめずらしくなかった。
それに特に、怖くもない。

・・・・・・・・・


時代は変わる。

もうヤクザが近くにいて喜ぶ人もいないと思うし、任侠なんていう言葉は若者は知らないだろう。


でも。


映画の世界は、非日常を描くのである。普段ありえない非日常を描くことで、わたしたちが、無意識におくっている日常生活の幸福や不幸、ちょっとした友情や裏切りや、恋や、愛の終わりや、別れなどを、はっきりと、目の前に、具現化してくれる。それが映画の素晴しいところ。


いつも書いているが、作品そのものは作品そのもので、評価すべきであり、現実にある、ちまちました、小さなくだらないこととむすびつけて、あーでもないこーでもないと、いちゃもんをつける、アホな人間とは酒を飲みたいと葉思わない。



ちょっと考えても。


◎ゴッドファーザー
◎仁義なき戦い
◎パルプフィクション
◎極道の妻達
◎激動の1750日
◎グッドフェロー


ちょっと思い出しただけでも、世界のヤクザ映画はかぎりなくある。



私の好きな、宮尾登美子の作品群には、高知のヤクザの連中がどっさりでてくる。

ヤクザが道徳的にいいかどうか。そんなことよりも、この映画群、作品群には、必須の脇役。そして、そういう時代があったことを日本人としてはわすれてはならないだろう。



ところで。


この「さらば愛しき大地」、茨城の大地を書いた作品には、特にヤクザがでてくるわけでもない。


70年代特有の、独特の、コンプレックス。淀んだ空気感。男同士の獣のようなぶつかり。
女ははっきりと女であり、男ははっきりと男だったな。


蓮の花が季節の変わり目にしずかに枯れて行くように、自然のままに沼のなかに溺れたふたりの少年の死。


その死を忘れないために、根津が扮する幸雄が、入れ墨を背中にいれるのだ。




白川和子が扮するイタコもでてくるので、たしかに、この時代はまだまだ、かつての風習の名残りがたくさん残っていて、その空気感は息苦しくもあり、日本人としては忘れてはならないものだろう。


たしかに。


私の父親の父が亡くなった岩手でも、その当時、40年代。
土葬だったことを思い出す。


幾重にも人が丸くなって、踊るようにして魂を癒すのだ。
はっきり覚えていないが、一週間くらいは、死の弔いはしたはずだ。


少年の死。
立派?な兄との葛藤。金をいつも彼から借りている。
建設現場で働く彼の、夢と希望と挫折。


気がつくと、駄目な男だとばかり、清原のように麻薬を腕にうっていく。

秋吉久美子扮する順子に叱られて、泣かれて、ここまで愛されていいのかというくらいに惚れられているのに、その小さな幸福感が、実感できないのは、麻薬常習者の常。


麻薬による強迫観念がいつも彼を襲う。

ちょっとしたことで、怒り、くだらないことで、どなり、大声でさけび、わめき、また、麻薬をうつ。




最後には、順子の背中にまで包丁を向ける男になってしまう幸雄。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


要は、駄目な男の駄目な日常を、その愛人とともに、くずれおちていく、最悪の時間を柳町監督が、泥臭く描いて行く。


・・・・・・・・・・・











◎資料
『さらば愛しき大地』(さらばいとしきだいち)は、柳町光男監督・脚本による1982年の日本の映画。


キャスト

山沢幸雄:根津甚八
順子:秋吉久美子
山沢文江:山口美也子
順子の母:佐々木すみ江
山沢明彦:矢吹二朗
大尽:蟹江敬三
フミ子:中島葵
山沢イネ:日高澄子
山沢幸一郎:奥村公廷
山沢竹二郎:草薙幸二郎
文江の実兄:松山政路
文江の兄嫁:猪俣光世
霊媒師:白川和子
台湾人の女:岡本麗
女子事務員:志方亜紀子
生コン会社部長:石山雄大
老事務員:港雄一
運転手:粟津號
銀座の雀の客:三重街恒二

評価

『The New York Times』のJanet Maslinは「平穏さと獰猛さが静かに衝突している」と指摘した上で、本作に好意的な評価を与えた[1]。
受賞

キネマ旬報ベスト・テン - 第2位[2]
第6回日本アカデミー賞 - 優秀監督賞(柳町光男)[3]
第6回日本アカデミー賞 - 優秀主演男優賞(根津甚八)[3]
第6回日本アカデミー賞 - 優秀助演女優賞(山口美也子)[3]
第25回ブルーリボン賞 - 助演女優賞(山口美也子)[4]
第37回毎日映画コンクール - 撮影賞(田村正毅)[5]






◎資料















秋吉 久美子(あきよし くみこ、1954年7月29日[1] - )は、日本の女優。静岡県富士宮市生まれ、徳島県日和佐町(現・美波町)、福島県いわき市育ち。本名は小野寺 久美子(おのでら くみこ)。身長162cm。最終学歴は早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻修了。学位は公共経営修士(専門職)。レジェンド・タレント・エージェンシー所属。
アジア映画祭主演女優賞、日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞などを受賞している。2013年「「わたし」の人生(みち)~我が命のタンゴ」でモナコ国際映画祭主演女優賞を受賞。そのほかは#受賞歴を参照。

生い立ち[編集]
北海道函館市の出身で研究者だった父親が戦後結核を患い、静岡県富士宮市の療養所に入り、地元出身の看護師だった母親と結婚し当地で生まれた[2][3]。その後、父が徳島県日和佐町(現・美波町)の高等学校に化学教師として赴任したため家族で移り住む[2]。しかし高温多湿の気候が体の弱い父には辛く、本人が小学校入学直前に福島県いわき市に移り、6歳から18歳までいわき市で暮らす[2]。父は小名浜の福島県水産試験場に勤務し、アクアマリンふくしまの立ち上げにも尽力した[2]。福島県いわき市小名浜第一中学校、福島県立磐城女子高等学校(現・福島県立磐城桜が丘高等学校)卒業[2]。高校時代は文芸部の部長をしていた。あちこちの雑誌やテレビなどでもらした言葉を集めた「つかのまの久美子」(1977年、青春出版社)ではユニークで鋭い感性が光っており、五木寛之も「静かな平凡を夢見る卓抜な個性」と帯に感想を書いている。
1972年高校三年生の時、受験勉強中に聞いたラジオの深夜放送、吉田拓郎の『パックインミュージック』で、吉田が音楽を担当した松竹映画『旅の重さ』のヒロイン募集を聞き、親に内緒でオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけ[4][5][6][7]。
女優として[編集]
『旅の重さ』の主役オーディションで、高橋洋子についで次点となり、自殺する文学少女に扮して本名で映画初出演[4]。翌1973年、大学受験に失敗し、いわき市で予備校通いをしていたとき、感銘を受けたアングラ演劇、はみだし劇場の劇作家・内田栄一の夫人・内田ゆきに身柄をあずけ上京[4]。同年、斎藤耕一監督の『花心中』に一シーンだけ顔を出したのち、芸名を「秋吉久美子」として松本俊夫監督の『十六歳の戦争』に主演して本格的に映画デビュー[4]。しかしこの作品は難解だという理由で1976年まで公開されなかった。1974年、藤田敏八監督の青春映画『赤ちょうちん』、『妹』、『バージンブルース』(日活)に立て続けに主演し人気が急上昇した[8]。
1979年、青い三角定規のメンバーで作曲家の岩久茂と結婚。男児を産み、およそ2年ほど芸能活動を休止した[9]。復帰後、ソープ嬢を演じた『の・ようなもの』 (1981年)、冷めているが可愛げのあるヒロインに扮した『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』 (1981年)を始め、『さらば愛しき大地』 (1982年)、『夜汽車』 (1987年)、『異人たちとの夏』 (1988年)、『誘惑者』 (1989年)、『レッスン』 (1994年)、『深い河』 (1995年)などがある。2004年、『透光の樹』では、深遠な性愛シーンを披露した。
近年[編集]
近年はバラエティにもゲスト出演している。TBS系人気番組『クイズダービー』にもゲスト解答者としても数多く出演。しかも1988年10月の特番で、当時産休中だった竹下景子に代わり、4枠に座っていた。ちなみに成績は12勝20敗、3割7分5厘と好成績を修めていた[10]。
作詞家としても活躍しており、DOGGY BAG、松尾光次にも楽曲を提供している。
2004年12月に26歳年下の日系アメリカ人と結婚したが、翌年夏に離婚。しかしその後、同じ男性と2006年2月に再び入籍した。
2006年8月12日、第38回NHK『思い出のメロディー』で司会に初挑戦。会見で「あのころは"痛がる時代"だったと思う」と独自の理論を披露した。
2007年1月からTBSでアナウンサーの中井美穂と共に一視聴者と同じ視点に立った素直な切り口で『世界陸上大阪大会 秋吉&中井 We Love アスリート』の司会を務めた。なお、番組内で出演した各アスリートの写真を秋吉自らカメラマンとなって撮影し、ポスターを制作するコーナーがあった。この時の写真が好評で、世界陸上の会場にポスターの展示場が開設された。
最終学歴は高卒であったが、個別の入学資格審査を経て、2007年9月より早稲田大学大学院公共経営研究科専門職学位課程公共経営学専攻に入学。2009年9月、同研究科を10人中の総代として修了。 2009年公共経営修士取得。世界遺産登録5周年記念事業「熊野古道国際交流シンポジウム尾鷲2009」にパネリストとして参加。 2013年には出身地である福島の風評被害払拭のため消費者庁「東北未来がんばっぺ大使」に就任のほか、「三重県文化審議会委員」も務める。 2013年「わたしの人生~我が命のタンゴ」でモナコ国際映画祭主演女優賞を受賞。
2014年に、映像クリエーターの二人目の夫と離婚[11][12]。
2015年1月、35歳の長男が事故死した[13][14]。
人物[編集]
趣味:旅行、特技:英会話。
シラケが流行した1970年代の時代性を象徴し、そのユニークな言動が話題を呼んだ。当時はカワイコちゃんタレント全盛の時代でもあり、秋吉の言動は余計に目立つこととなる[4]。芸能界にデビューしたての若い少女にありがちな発言を求めた記者に対抗して「面白くもないのにカメラの前で笑ったり、俳優ってバカみたい」などと発言し「シラケ女優」のレッテルを貼られた[4][15]。また『妹』の公開前、宣伝のために出演した番組にて共演者が礼儀正しくインタビューに答えていたのに対して、頬杖をついて別の方向を見ていた。なお、当時の様々なラディカルな言動については後に「不器用だったのかな」と振り返った発言もある。





個人的には、私は、松田聖子はあまり好きではない。
やはり、中森明菜なのだ。彼女は芸術家だと思う。
その意味で、秋吉久美子はやはりartistだと思う。

五木寛之の言葉は的確だ。

「静かな平凡を夢見る卓抜な個性」か。


この秋吉久美子は、少し男性的なのか、普通の女性のように、どんどん変容していかないところが良いと思う。


・・・・・・・・・・・個人的な好み。


しかしながら。

秋吉も息子を失くしているし、根津も事故で他人を死亡させていること。

・・・・・
芸能人って、なにやら、罪深い人が多い気がする。
気のせいか。
作家も、子どもに、障害を背負った人が多いような気がする。あくまでも直感のみ。
データーなどあるはずもない。気のせいか。



要は、みな人は、だれもかれも、順風万風の人生をゆうゆうとおくっている人などいないということだろう。
皆、笑顔でくらしているのは、ある意味生命力の強さかもしれない。

◎根津甚八も負けないくらいに暗い。









人物[編集]
歯科医師の家の三男として生まれる。日本大学第三高等学校卒業、獨協大学外国語学部フランス語学科中退。1969年、唐十郎が主宰する劇団・状況劇場に入団。状況劇場には1979年まで在籍した[3]。
1978年にはNHK制作の大河ドラマ『黄金の日日』に石川五右衛門役で出演、翌年には同局制作の『失楽園'79』、映画『その後の仁義なき戦い』などで主演した。黒澤明監督の映画にも何度か主要な登場人物役で出演している(1980年の『影武者』、1985年の『乱』)。2007年にユマニテに所属。
2002年頃から右目下直筋肥大という顔面の病気を患い活動を縮小していた。
2004年7月に交通事故を起こし、被害者を死亡させた[4]。警察の調べに対し「安全確認が足りなかった」と供述した。その後しばらくの間活動を停止していたが、2006年5月よりブログを運営している(2008年2月より休止中)。
2009年、雑誌『週刊現代』8月22・29日合併号に掲載された夫人の手記において、うつ病を患っていることが明らかにされた。持病の椎間板ヘルニアも悪化しており、療養生活を送っていた。
2010年9月、俳優業を引退することを公表した。演出家や脚本家としての活動は行うが、テレビ出演など表舞台には立たないとしている[5]。また同時に、夫人の取材と回想によって闘病生活と俳優時代を回顧した『根津甚八』(根津仁香著、講談社)が刊行された。
2015年、石井隆監督の要望に応え、映画『GONIN サーガ』に出演し、一度限りの銀幕復帰を果たした[6]。人物[編集]
歯科医師の家の三男として生まれる。日本大学第三高等学校卒業、獨協大学外国語学部フランス語学科中退。1969年、唐十郎が主宰する劇団・状況劇場に入団。状況劇場には1979年まで在籍した[3]。
1978年にはNHK制作の大河ドラマ『黄金の日日』に石川五右衛門役で出演、翌年には同局制作の『失楽園'79』、映画『その後の仁義なき戦い』などで主演した。黒澤明監督の映画にも何度か主要な登場人物役で出演している(1980年の『影武者』、1985年の『乱』)。2007年にユマニテに所属。
2002年頃から右目下直筋肥大という顔面の病気を患い活動を縮小していた。
2004年7月に交通事故を起こし、被害者を死亡させた[4]。警察の調べに対し「安全確認が足りなかった」と供述した。その後しばらくの間活動を停止していたが、2006年5月よりブログを運営している(2008年2月より休止中)。
2009年、雑誌『週刊現代』8月22・29日合併号に掲載された夫人の手記において、うつ病を患っていることが明らかにされた。持病の椎間板ヘルニアも悪化しており、療養生活を送っていた。
2010年9月、俳優業を引退することを公表した。演出家や脚本家としての活動は行うが、テレビ出演など表舞台には立たないとしている[5]。また同時に、夫人の取材と回想によって闘病生活と俳優時代を回顧した『根津甚八』(根津仁香著、講談社)が刊行された。
2015年、石井隆監督の要望に応え、映画『GONIN サーガ』に出演し、一度限りの銀幕復帰を果たした[6]。








◎資料

◎映画に関係があるかどうかはわからない。・・・・・・・・

さらば愛しき大地  - 横田年昭 with 常味裕司 -




◎山口美也子はたしかに、日活ロマンポルノが多い。石井隆の「天使のはらわた」の名美役というのがおもしろい。探してみよう。






少し、調べてみると。
映画[編集]
「市井」より 本番 (1977年、日活)
肉体の門(1977年) - 小政のせん
新宿乱れ街 いくまで待って (1977年、日活)
昼下りの情事 すすり泣き (1977年、日活)
オリオンの殺意より 情事の方程式 (1978年、監督:根岸吉太郎)
白い肌の狩人 蝶の骨 (1978年)
女教師 秘密 (1978年)
ピンクサロン 好色五人女(1978年)
赫い髪の女(1979年) - 春子
さらば映画の友よ インディアンサマー(1979年) - テンコ
天使のはらわた名美(1979年)
修道女 濡れ縄ざんげ(1979年)
むちむちネオン街 私たべごろ (1979年)
希望ケ丘夫婦戦争(1979年) - 夏海テル
レイプショット 百恵の唇 (1979年)
ホールインラブ 草むらの欲情 (1979年)
おんなの細道 濡れた海峡 (1980年)
女子大生の告白 赤い誘惑者 (1980年)にっかつ
夕暮まで(1980年)
さらば愛しき大地(1982年)
無能の人(1991年) - 石山たつ子
教祖誕生(1993年) - 司馬洋子
人間交差点(1993年) - 加納敏江
のぞき屋(1995年)
渚のシンドバッド(1995年) - 吉田公子
ありがとう(1996年) - 鈴木さくら
東京日和(1997年) - 山田
岸和田少年愚連隊(1997年) - リイチの母
新生 トイレの花子さん(1998年) - 倉橋暎子
ワンダフルライフ(1999年) - 食堂係
クロエ(2001年) - 叔母
白い船(2002年) - 養護教諭
凶気の桜(2002年) - 木村玉緒
温泉タマゴ 湯けむり奇談(2004年) - 旅館の女将
ガッツ伝説 愛しのピット・ブル(2006年1月14日(土)公開、 監督:野伏翔)
全身と小指(2006年7月15日公開、監督:堀江慶)
ミラクルバナナ(2006年9月16日公開 監督:錦織良成) - 外務省面接官
おばちゃんチップス(2007年1月27日公開、 監督:田中誠) - 赤銅麻衣子の母
サッド ヴァケイション(2007年9月8日公開、 監督:青山真治) - 小野
砂の影(2008年2月2日公開、監督:甲斐田祐輔)
笑ひ教(2009年)
トルソ(2010年、監督:山崎裕)
最高でダメな男 築地編(2010年4月3日公開、監督:内田英治)
デンデラ(2011年6月25日公開、監督:天願大介)
朱花の月(2011年)
くらげとあの娘(2014年8月9日公開、監督:宮田宗吉)







監督の柳町の記録をコレクションしておこう。

茨城県行方郡牛堀町(現在は潮来市)の出身。茨城県立水戸第一高等学校、早稲田大学法学部卒業。大学在学中から映画作家を志望しシナリオ研究所へ通う。
卒業後に就職するも、1969年からフリーの助監督として映画撮影に携わる。東映教育映画部では大和屋竺に師事。1974年に自らの製作会社「群狼プロダクション」を設立し代表に就任(現在は、株式会社プロダクション群狼)。
その後、当時日本で最大規模の暴走族であったブラックエンペラーを追ったドキュメンタリー映画の製作に着手。2年の製作期間を経て1976年に第1作『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を発表した。安田生命ホール(現・明治安田生命ホール)での小規模公開から始まったが、評判を呼び、東映系で拡大ロードショー公開される。
この第1作を戦後生まれで初の芥川賞作家中上健次が評価したことがきっかけとなり、『十九歳の地図』(中上健次の第69回芥川賞候補作)を映画化し、1979年に劇映画デビューすることになる。
以降、『さらば愛しき大地』(1982年、根津甚八・秋吉久美子主演)、『火まつり』(1985年、脚本 中上健次)、『愛について、東京』(1993年)などで各方面から高い評価を受ける。

1990年には当時の世界的スター、ジョン・ローンを主演に迎え日米香港合作映画『チャイナシャドー』を製作(原作は直木賞作家・西木正明の『蛇頭(スネークヘッド)』)。初となった海外との合作を成功させ中国、台湾、香港などへ積極的な関心を示している。
2001年度~2003年度に、早稲田大学客員教授。このときの経験をもとにした映画が『カミュなんて知らない』である。
2006年に第19回東京国際映画祭の国際審査員を務める。出身地である茨城県の「いばらき大使」、潮来市の「水郷いたこ大使」も務める。
好きな映画監督は、溝口健二、ジャン=リュック・ゴダールなど。
ノンフィクション作家佐野眞一、株式会社ボイジャーの萩野正昭社長は、同窓(早稲田大学)であり友人。
監督・出演作品一覧[編集]
監督作品[編集]
ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR(1976年、ドキュメンタリー)
十九歳の地図(1979年)
さらば愛しき大地(1982年)
火まつり(1985年)
チャイナシャドー(1990年)
愛について、東京(1993年)
旅するパオジャンフー(1995年、ドキュメンタリー)
カミュなんて知らない(2005年)



ここでもわかるように、中上が、第1作『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を評価したことが奇縁で、中上の作品を映画化するようになっている。

個人的には、中上の作品の良き読者ではないけれども、もっと長生きして、作品を描けば、おっと思うような作品が出たかもしれない。

新宿の女達との感染で死んだのも彼らしい。






村上龍は蠅って感じだな。子供だましさ、そういうもんだよ。      中上健次



対談になると、すぐに、人の悪口。笑。
ずばずばとものを言う人が今あまりいないから、ある意味、貴重だったのだが。


・・・・・・・・・・・・・・・



初めての赤ちゃんを授かった秋吉久美子ついてひと言


「卵で産みたいです」 秋吉久美子

             FIN