イチローのニュースを見る。
最近はテレビにも、ツィッターで、個人の視聴者の意見が見れるのでおもしろい。
といっても、ほとんどが、ただの感想。
イチローのニュースを見ているとほんとうに日本は平和だというのもあって、あほらしくて、笑える。
彼は、日本人。
だから、日本人らしく、野球を追及する。まさに、祈るようにして。
そんなことがどうしてわからないのだろうか。
以前、ガウディの教会を作るプロジェクトのリーダーが日本人で、彼のテレビ番組を見ていて一番感動した言葉は、まさに、「祈るようにして」日々、つくっていることだった。
アメリカ人にとって、ふつうの感覚から言って、野球は人生のエンターテインメント。
もちろん、たかが野球だが、されど野球というわけだ。
ところが、イチローの野球に対する姿勢は、だれもが感じるように、ほとんど、宗教に近い。
それも、西洋宗教ではなく、日本人ならだれもが持っている、感覚。
宗教にさほどこだわらない私たち祖先は、モノづくりに、必死にこだわってきたんだと思う。
モノが心になり、心がモノになるくらいまで、うちこんできた。
だから、野球も、茶道も、お華も、書道も、みんな、「道」なんだと思う。
聞いた話では、もう中国でも、老子や孔子のことを知っている人はかなり少ないそうだ。
日本人が、世界から入ってくる、やってくる、乗り込んでくる、モノやコトをかたっぱしから、わが物とし、換骨奪胎して、日本流にできるというのは、そのモノ作りのなかに、魂を入れる、いわば、宗教としてのものつくりに徹底したからこそ、だと思うのは私だけだろうか。
ヨガや、仏教にある瞑想よろしく、脳と体と心とバットを一体化し、その瞬間瞬間の、出来不出来を日々、直観で、感じる訓練をしてきたイチロー。
もう、老獪な禅寺の師匠くらいの心構えや、気配をからだから発散させるのを見ていると同じ日本人として誇りに感じる。
何かに打ち込むということはそういうことだろう。
日本人は遊牧民族がそうであるように新しいコンセプトを次から次へと考え出すことは苦手だが、ひとつの場の中で、修練と訓練の中、自分のモノ作りの完成度を高めていくことは、非常に得意なんだと思う。
その意味で、その「場」を新しく変えて、自分を見つめなおすことをしているイチローの、精神的な進化をこれからも見守りたい。
まったく野球をやらず、まったく野球のことを知らない、私の心をどっぷりと、支配するだけの雰囲気と言葉とココロを彼は持っている。