三島が世の中で一番きれいなものは人間の女、二番は猫、三番は馬という答えをある雑誌社のインタビューで答えたことを記憶している。
まことに女性は美しい。 と、おとこは思う。
まことに男性は美しい。 と、おんなは最近思うらしい。
人間が美しいのだろう。
というよりも、顔というのは、一番毎日我々が見るところだから、ちょっとした「ふてくされ」、「シャイ」,「高揚」「嫌い」、「苦手」の表情も見逃さないから、
顔はほんとうにおもしろい。
若い頃はしかも皺も少ないし、肌も生命力にあふれている。
だから、子供の顔なんか見ていると、ほんとうに命が皮膚をまとっているような錯覚を覚える。
美人は2000枚だかの、いろいろな顔の平均値だという説もある。
誰からも好かれるということは一番見慣れた顔ということもできる。
ここで私が美というのは、そういう美しさではなくて、作品上の美しさである。
ドリアングレイの肖像という私が18才の時に読んで以来、芸術にちなむアフォリズムとしてはまことに傑作だと思われる言葉の羅列があり、ここに再度、デジタル化してみる。
序文
○芸術家とは、美なるものの創造者である。
○芸術をあらわし、芸術をおおいかくすことが芸術の目標である。
○批評家とは、美なるものから受けた印象を、別個の様式もしくはあらたな素材に移し替えるものを言う。
○批評の最高にして最低の形態は自叙伝形式である。
○美なるものに醜悪な意味を見いだすのはこのましからざる堕落者であり、それはあやまれる行為である。
○美なるものに美しき意味を見いだすものは教養人であり、かかるものこそ有望である。
○美なるものがただ「美」をのみ意味しうる者こそ選民である。
○道徳的な書物とか非道徳的な書物といったものは存在しない。書物は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないか、そのどちらかである。
ただそれだけしかない。
○芸術家たるものは道徳的な共感をしない。芸術家の道徳的な共感はゆるすべからざるスタイル上のマンネリズムである。
○芸術家たるものはけっして病的ではない。芸術家はあらゆることを表現しうるのだ。
○思想も言語も芸術家にとっては芸術の道具にほかならぬ。
○善も悪も芸術家にとっては芸術の道具にほかならぬ。
○芸術と名のつくものはすべて形式の点よりみれば音楽家の芸術を典型とし、感情の点よりすれば俳優の演技をこそその典型とすべきである。
○すべて芸術は表面的でありしかも象徴的である。
○表面より下に至らんとするものは危険を覚悟すべきである。
○象徴を読み取ろうとするものは、危険を覚悟すべきものである。
○芸術が映し出すものは、人生を見る人間であり、人生そのものではない。
○すべて芸術はまったく無用である。
以上抜粋
ところで、最近ワイルドの原書を吉祥寺の古書店で手に入れたのだが、この文章のところを見てみると、上記のように、箇条書きになっていない。
私のデジタル化したものは新潮の福田恆存訳の日本では一番有名なものであるが、福田恒存の方がかっこいいと思うのだが。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/45/73/10046439086_s.jpg?caw=800)
三島がワイルドのドリアングレイについては、こんなことを書いている。
「映画が出来て以来、ワイルドの「虚構の退廃は」おそろしく通俗的な現象になった。中学生は恋愛の仕方を映画から習い、チンピラは接吻のポーズを映画館へいって勉強するのである。」