三島由紀夫が作家の人生なんてまったくつまらないものだ、と書いているし、ワイルドも社交界での生き様を芸術以上に大切にしたふしもある。
一生の間にあまたの女性を口説きその体験を50才以上になってから書き上げたカサノバも、その創作がぎりぎり、間に合った好例である。石川淳や岡本かの子も晩成の作家である。
20代に作家になった人のエッセイなどを読むとまことにつまらないものが多いし、こんなことを書いていてこの年でこの程度の把握力なのかな、と驚く作家もいる。
つまり人から使われたり、人に裏切られたり、いろいろな人生の苦難をなめてから作家に鳴った人との違いである。水上勉なんかはその点で非常に書くものに奥がある。
もちろんワイルドが言っているように、芸術とは人生そのものではなくて人生を見る人を書くものであるし、吉行淳之介が書いているように「いろいろな体験を積むことと作品を書くことはまったく違う」ということも間違いないことだ。
しかしながら。
最近、いわゆる、ブログの皆様のところにおじゃまをし、あるいは、さまざまな書き込みを読みながら、これはこれはすごいことが進行しつつあるぞ、と胸をおどらしている今日このごろなのである。
つまり、昔は他人の生活の一部や、恋のなげき、店員としての悩みやら、夫婦の楽しい生活、料理の独特のその家庭だけのレシピ、それらの情報をいわゆる作家という人から得ていたのだ。村上春樹のある小説もそのあたりをヒントにして書いていた。つまり想像力があれば、どんなかたすみの平凡な人生にも花はある、ということが書くことでひっぱりだせるということだろう。
一般の人の人生はいわゆる書くこともしゃべることもあまり上手ではないので、これまでの歴史のなかでは、発酵することもなく、影の倉庫に埋もれていた味噌みたいなものだ。
しかしながら、その味噌は、体験をたいしてつまないのに、原稿用紙を描き上げている想像力と書く才能だけはある(もちろんこれが作家の資質なのだが)人から見ると、宝の味噌である。
実に各種多様な、見事なまでにユニークな、とんでもない、ろくでもないまでに楽しい、不思議な発想とおたんこなすの言葉がある。
時代はとうとう21世紀にここまできた。
源氏物語の歴史つまり自分のことをつらつら書くのが大好きな日本人の資質、竹取物語世界で最も古い小説つまり物語をつくりあげるのが大好きな日本人の資質、さらに最近私がはまっているまんがでいうと、鳥獣戯画の歴史つまり絵コンテをつくる才能これらが総合して、今の日本のブログの渦巻きと漫画の世界的な広がりを作っていると思われる。
昨日、本屋で390円で発売された週刊「まんがの描き方」は完売だった。
石森章太郎の「漫画家入門」から、はや、40年、すでに石森も亡くなり手塚も亡くなり、赤塚も死の淵をただよい(死んじゃったかもしれない)、時代はかわる。
知らない人の話を聞くことが大好きだ。
そこにどんな世界が広がっているか、ヒントは限りなく詰まっている。
だから、ブログ探検は限りなく楽しいのだ。
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