わたしはただもう一度彼女に再会したかっただけだ。

もう一度、彼女との会話を再開したかっただけだ。

でも、わたしはもうだれにも出会えない。もうわたしはだれとも再会できない。



もうわたしはどこにもいない、もうわたしは、誰にも見えない、誰にも名前を呼ばれない

どこにも存在しない「彼女」だから。



彼女になったわたしが、正反対の性格に豹変したのは傍目にも明らかだったと思う。

誰も、チェンジリングしたように彼女になることでわたしが失踪したこと、

私が失踪したことで「彼女」が誕生したことに気がつかなかった。



誰もわたしがいなくなったことに気がつかなかった。誰も、わたしがいたことを知らなかったのだ。

最初からわたしなど生まれていなかったように、訪れる人の無い墓のように、忘れられた死者のように、

だれも、わたしがいなくなったこと、わたしがいつかそこにいたことを、誰も知らなかった。




わたしがここにいたことを知っているのは、わたしと引き換えにこの世に生まれた「彼女」だけ、

わたしがここにいたことを忘れないでのは、この世に唯一ただ一人

かつてそこにいたわたしと引き換えに、今ここにいる、彼女だけ。



わたしがわたし自身であり続けるためには、彼女のようであることを、永劫、続けなければならない。

かつてはわたしだった彼女だけが、わたしがかつてそこにいたことを知っている、

覚えていてくれる、彼女だけが私が失われたことを悼んでくれる。




かつてのわたしの存在証明、今のわたしの不在証明をしてくれる存在は、

わたしが身代わりのように、子供のように産み落とした、彼女だけなのだ。

彼女こそが、失われたわたしのアイデンティティの身代わりだ。



かつては彼女のために欲していた「彼女であること」は、今度は、

失われたわたしを補完する存在として、必要とされた。



大人数の家族で、常に人肌と触れ合って人間のリアリティを感じながら生きている彼女は、

ものおじしない社交的で、明るく、明朗で、大人も子供も分け隔てなく、対等な態度で、

大人とも対等でいられるほど肝っ玉があって、情があり、

男の子とも対等に付き合えるほどマセていて男勝りで、

常に面白く、興味深いフレーズや冗談をぽんぽん思いついてみんなを笑わせ、

誰もに好かれ、みんなの人気者で、みんなと遊んだり騒いだり体を動かすのが好きで

要するに、わたしの正反対だった。




わたしは、その、彼女にならなければならなかった。

そのふりをしなければならなかった。それは多大なストレスだった。



彼女とはどういう人物か、彼女という正確な人物像に基づいて彼女と再会するために、

正確な演技をしなければならない、

というわたしの最初のころの注意深い観察眼は時間を追うごとに、狂っていった。





機械的で硬直した思考で、わたしは、めまぐるしく未知の世界の疑問に

事実と真実としての答えを出していった。

「わからない」「答えが無い」という許されない曖昧さや感情、事実、結論がない状態をつぶしていった。

時間を追うごとに、気が狂うような自己嫌悪は激しくなり、他者へのやましさは増し、

社会的な罪悪感は激しくなる。




わたしの存在の全部が嘘だ。

わたしは嘘の存在なのだ、わたしは虚構でできている、わたしは嘘でできている。

わたしのすべてがフィクションだ。

わたしの声、言葉、態度、性格、髪型、ぜんぶうそ、それはわたしではない、ここにいるのは、彼女だ。




誰と声を交わそうと、誰に言葉をかけようと誰と接触しようと、誰と関わろうと、

そこにいるのは、わたしではない、彼女なのだ。



わたしが彼女になった5歳のときから、わたしは行方不明だ。

誰もわたしには触れられない、関われない、見ることも聞くこともできない。

わたしはここにはいないから。わたしの存在を全部嘘にしたことで、

わたしをとりまく世界も全部嘘になってしまうことに気がついた。




わたしを取り巻く空気さえも、わたしに触れることはできない、うそのわたしに触れている、うそになる。

だから、今までわたしが声をかけた人、言葉をかけた人、

話した人、笑った人、触れた人、関わった人、目を合わせた人、

うそをついて、わたしがうその存在で、みんなをうそにしてしまって、

みんなをうその存在にして、ごめんなさい。





この手は彼女の手、この声は彼女の声、この言葉は彼女の言葉、彼女の耳、彼女の足、

彼女の思考、彼女の心理。

ここにいるのは彼女であって、わたしではない。

ここにいるのは、わたしであることをやめた、誰でも無い人間。




まるで、手で触れるもの全てを黄金に変える物語の中の存在のように、

わたしが触れるものはすべて、うそになる。

うそのわたしが触れるから、全てはうそになる。



わたしがここにいることをやめたから、わたしにとっては、誰もいない、

どれだけ声をかけても、言葉を交わしても、触れても、

ここにいないわたしの前には、誰もいることができない。




世界、他者、わたしを取り巻く空気さえもが、全部うそだ。

わたしがなにをいっても、それはうそになる。なにを感じても、それはうそになる。

何を決断しても、うそになる。わたしが何をしても、それは、うそだ。




わたしは最初は、自己と他者のリアリティを持つことができない家族の中で、

フィクションの存在として、イメージだけの存在として、リアルから隔絶された鳥かごの中に閉じ込められていた。

それから後に5歳になって、わたしは自ら自分を、リアルを抹殺し

リアルを隔絶したフィクションの中、終わらない舞台の中に自分を追放した。




つねに自分を全否定して始めてなることができる、「自分以外の誰か」になることが

わたしのアイデンティティになった。

自分の想像から生まれた、「自分の延長」でさえない、自分の想像も感情も情緒も思考も全否定し

正反対でさえあるもの、本来のわたしが望むあり方とは似ても似つかない既存の誰かを演出すること。




親、兄姉、友人、教師、クラスメイト、隣人、テレビの中のありとあらゆる人びと、

わたしいがいの誰か、わたしの価値観以外の価値観、わたしと異なり、

わたしを否定する全ての他者に、わたしがなること。

もう誰の対象にもならないこと。もう誰とも向き合わないこと。




全てを虚構化した欺瞞の檻の中で、リアルから隔絶されたガラス張りの中、

夢の中にいるように、ひとりでいること。

だれの対象にならない、ひとりでいること。

うそをつくこと、これ以上、リアルと他者の関係を空白化した否定と拒絶の牢獄はない。




真実が人を解放するのなら、嘘は、人を閉じ込める。

うそのわたしの存在そのものが世界の、人間の、他者のリアリティを破壊する。

それで、一番わたしの近くにいた彼女がわたしのうその破壊的影響を一番受けた。




わたしはまず、「こういうとき、彼女なら、どういう声で話し、どういう言葉を発し、

どういう行動をし、どういう態度でいて、どういう仕草をしてどういう接し方をするか」と考えてから、

考えながら、動く。

彼女であることがわたし自身なのだから、これは今でも続いている。




彼女としてなら、「わたし」のときにはできなかったこと、

人と話し、人と接し、人と遊ぶ、ことができることに気がついた。

自分が自分で無くなれば、自分は自分ではない、という欺瞞さえ受け入れられれば、

後は、誰にでもなれる、誰の振りでもできる、どうにでもなれる。




わたしは、仮面の自由を手に入れたことを知った。

仮面をつけるからこそ、仮面の裏に傷つかない、触れられない素顔をかくまい、

素顔ではできないこともできて、いえないこともいえる。



うその中では、できないことができて、誰にでもなれた。

男にも女にも、0歳にも一万歳にも、動物にも怪物にも赤い髪にも青い髪にもなれた、自由な解放感さえ感じた。

ただ、自分になることだけはできなかった。




このとき、始めて、この仮面の機能の有用性を見出した。

わたしは、世界で一番恐れている、親になれる、兄姉になることができる。

世界で一番怖いものに、わたしがなることができる。




ならもう、恐怖の対象になるのではなくわたしが、恐怖そのものになるのだから、

もうなにも、恐れるものは無い、ということに気がついた。




もともといなかったかもじれないが、自分であることをやめ清水の舞台から飛び降りて、

彼女というフェイクを被ることをしたとき、初めて自分が存在しない関係の空白に虚構の仮面で作られた

空白の関係を、結ぶことができた。




彼女が存在する前、わたしは、どこにもいなかった。

誰にとっても意味の無い存在、誰もが意味の無い存在だった。

わたしがいなくなって、彼女がいるようになったとき、

最初から、誰にとっても存在していなかったわたしは最後まで、

誰にとっても存在しないまま彼女として応対された。




「彼女」としてなら、わたしは、不在と空白の中から、かろうじて、フェイクとして、存在し実在することができた。

わたしがわたしのままだったらわたしの声も言葉もアクションも、

死者のように空白だったけど「彼女」として存在するなら、

フェイクとしての、虚構としての、声も、言葉も、アクションも存在することができた。




わたしがわたしのままだったら、わたしは、そこにはいなかった。

幽霊のように透明なわたしが、彼女に成ったことで初めて彼女の台詞をしゃべり

彼女の演出で脚色され、彼女の役名で、彼女の衣装をまとったことで、

初めてわたしは、生者のように、名前も姿も可視可能な誰かになれたのだ、何者かになれたのだ。




生来の目的をなくした彼女という仮面はわたしにとって、わたしのアイデンティティになり、

作ったものの使いどころのない兵器のように仮面というものの

本来の役割を果たすものに堕すだけのものになった。

素顔を隠して、素顔以上に、素顔の裏の本性を剥き出させるという仮面本来の役割に。



・・



自閉症者が自らの内面世界を自ら書き綴った初めての本、

ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」を読んだとき、

彼女がわたしと全く同じ経験をしてて驚いた。

わたしは自閉症などと診断されたことはない。




こういう経験をしたからこういう情緒、性格、体験、人生になったのではないのだと思った。

もともとそういう情緒だったから、誰になろうとも、誰のふりをしようとも、仮面という抽象性に迷いこんでも、

恐ろしいほど真実に、わたしはわたしでしかいられない経験、人生、性格、情緒でいたのだと思う。




わたしがわたしのままでいられず、わたしは喪失し、誰にも見えないどこかに、

誰にも意味を持たない地平に、失踪してしまうという。

彼女と再会する、という目的を喪失して、あとに形骸だけ残された彼女の仮面は、

ただ、仮面としての機能だけを果たした。




わたしと彼女は、一緒に遊ぶようになった。最初は遠慮がちに、人形遊びや、鬼ごっこや。

でもそのうち、彼女であることが、仮面であることに役割が変わっていったとき、

彼女は明朗活発で、もおおじせず積極的で、

元気でみんなの人気者だという彼女というものの情報は歪んでいき、

「元気で活発」なのは、単に「攻撃的」「暴力的」「人をたたくこと」と短絡し、

「みんなの人気者」であることとは、単に「誰もにいい顔をして、誰もに媚を売って取り入る」

という適応術に、「明朗快活」は単に、何がおきていても、笑い続けるというゲームに摩り替わった。





「彼女であること」の特徴は、元気で、活発で、男勝りで、物怖じせず、

面白くて、みんなの人気者で、おしゃべりで、生き生きしていて。

わたしは、そのまねをすることはできた、振りをすることはできた、

でも、彼女が彼女である、情緒は、理解できなかった。




理解できないまま、彼女のようであるために、ただ、笑った。

楽しく、みんなの人気者のように、元気に、男勝りに、物怖じせず、ただ、笑った。

わたしには、わたしをわたしたらしめる情緒は無い。




ただ、借り物の、彼女のようであることによってようやく

人間らしい反応をするための人間らしい情緒があるように見せかけることができた。

彼女になるまえのわたしは、存在していないように無反応だった。

誰にとっても、わたしなりの反応など期待されていなかった。




叩かれても、嘲笑されても、罵倒されても、放棄されていても何も考えなかったし、

何も感じなかったし、何もしなかったし、

何かするべき理由も思いつかなかったし存在していなかった。




また、わたしが存在していないことによって困る人、不満足を覚える人も、誰もいなかった。

ただ、無反応な無機質さに、無反応な敬遠によって遇されていただけだ。

むしろ、わたしが、現実に現実的な反応を返し、存在することで迷惑を覚える人

不満な人なら、存在したけれど。



それが、彼女のようになることで初めて、彼女の情緒を模倣し、

彼女のような情緒がある演技をすることによって初めて

現実に、現実的らしき反応を返すパフォーマンスを覚え、

現実に、人間性らしき態度をとる行動を覚え、他者に対峙する個人らしきパフォーマンスをすることを覚えた。




だけどそれは、わたし自身の内実、動機から生じたパフォーマンスではなかった。

人間ならこうするだろう、存在する生き物ならこう行動するだろう、

現実的な反応というのは、こういうものだろう、

他者にこう見られている「わたし」なら、こうするだろう、彼女なら、こうするだろう、という、

全て憶測と推測の、演技と模倣でしかなかった。




だから、往々にしてわたしができることは、笑うことしかなかった。

わたしは、実際には、そこにいなかったし、人間から人間であることを否定された、人間ではなかったし、

存在の意味を特に求められていない、存在していなかったし、現実の中になんか存在していない、

現実的な反応など求められない想像の中にしかいない、非現実的な存在でしかなかった。

わたしは現実的な存在などではなかった。現実的な存在としてそこにいることなど

今までに求められたことなど一度も無い。




わたしが存在したことなど一度もない。

現実に要求される、人間らしい反応、存在している生き物らしい反応、

誰かに反応を期待されている、誰かにとっての個人としての反応、

存在しているふり、人間のふり、「わたし」のふり、現実的な存在の振り、

今、ここにいいるふり、をしている、幽霊でしかなかった。




だから、わたしの今までの全ての行動と言葉と人生は、全て、何かのまね、誰かの模倣、だ。

テレビ、映画、隣人、家族、友人、知人、通りすがり、ここにいない、

存在しない、存在するふりをすることで、

始めてようやく存在できるわたしにとっては全ての他者が、わたしにとっては、

いわば憑依することで初めて声を発することのできる、憑依することで初めて誰かになり、

何かになり存在するふりをすることができる媒体だった。




そして、ただ媒体というだけではすまなかったのが、まるで、誰かに常に憑依していないと消滅してしまう、

実際の幽霊のような強迫観念に取り付かれていたことだ。

常に、誰かの声、誰かの言葉、誰かの顔、誰かの行動に憑依して

誰かに、何かに、なりすましていないと、本当は誰でもない、何でも無い、存在しない、

どこにもいない幽霊の「わたし」に戻ってしまう、という強迫観念。




そして、誰かであり、何かであり、存在するということが誰かのようであり、

何かのまねであり、振りである、ということは、

常に、台本が存在する役者のようでなければ存在しない、ということを意味した。



常に、誰かのようであり、何かの真似であり、存在する振りをする何かを媒体として初めて存在できるわたしは、

常に、見えない台本と、キューと、カメラと、観客がいて初めて存在する、

役者が舞台上でだけ存在させる、架空上のキャラクターだった。




わたしにとって、全ての他者は、わたしの自己不在を埋め立てる媒体であり、

架空上のキャラクターを、視線によってリアルの存在にしてくれる、わたしに実在性を与えてくれる観客であり、

誰でも無いわたしが、誰かになるために役を舞台上で演じる舞台のエキストラであり、

演出家であり、視聴者であり、脚本家であり、観客だった。




キャラクターに「ありのままで自然な素のらしさ」などというものは存在しない。

キャラクターに「自分に戻る」などという場面など存在しない。

キャラクターにとって世界の全ては、台本道り、脚本どおり、演出どおりに、ことはすすむ。



「彼女」になってから、わたしはひたすら笑った。それこそ「彼女」の特徴そのものだったから。

演出上笑ってさえいれば、情緒に関係なくそれは楽しくて面白くて、

人気者で何も問題は無いというフィクションは観客視点のリアルとして保たれる。




ただこの演出と脚本は時間がたつにつれ「わたし」という演出上の自己を「成長させる」につれ、

「社会」というさまざまなリアリティと無数にこまごまとした演出と脚色を要求される

非常に消耗される局面に直面した。



「彼女のように」楽しく元気に笑うことはできた。

でもただ毎日笑ってだけいる人間は存在しない。

そんな人間は脚本・演出上の失敗作であり、「リアリティ」がない。

わたしは「わたし」という一個のアイデンティティのリアリティを一から、

演出し脚色し創造しなければならなかった。




そのためのキャラクターの素材は、全てありあわせの他者のアイデンティティから借りる。

わたしには、存在すること人間であること、わたしであること、現実ということ、

現実的な反応をすることが、わからない。

かつ特に誰にも求められていない。

なのに、それをわかっているように見せかけねばならない「彼女」であるために。




だから、人間で、存在していて、「わたし」であり、現実とは何かをわかっている全ての他者の言動が、

わたしが、それらしく見せかけるための媒体になり、仮面のキャラクターを演出するための、素材になる。

そこで厄介になったこと、また病的でもあったのは、全ての他者の言動が、

わたしにとっては「現実的な人間がどうであるか」というお手本と見習いになったのだが、

それが、何の批判も疑問も呈されないうちに自動的に

「わたしとは違う現実的な人間はそういう風に反応するもの」、

として、即座に吸収、言動に、反映されてしまうことだった。




他者を映して初めて誰かとして存在し始める鏡のように。

わたしは鏡のように、万華鏡のようにくるくると出会う人の言動を

自然に無意識に模倣、吸収して、無数の名前と顔を持ち、

誰にでもなり、何にでもなることができた。




誰かになることで、初めて誰かとして存在することができる、鏡としてのわたしにとっては、

出会う人の他者の全てが、鏡が存在するために、幽霊が存在するために言動に反映させるための

媒体だった。

何を見ていても、「実在する人間のリアルの言動はどういうものか」

全ての他者の言動は、わたしの観察対象になった。




それは一種、仮面の解放感を味わわせた。

わたしは、誰にでもなれ、何にでもなれ、誰でもなく、何でもない。

現実のすべてから、フィクションと架空の舞台の中に解放されたのか、

現実から追放され、虚構と仮構の中に追放され、囚われたのか。




わたしの存在は、全部嘘。そうなると、どんなことでもできた。

わたしは、全ての現実的であることから解放され、許され、見放され、放棄され、

現実をすべてフィクション化した虚構の世界に生きることを許され、追放された存在、なにをしても許される、

わたしが何をしても、それは現実にはならない、現実の意味を持たない。




人を傷つけることも、人を殺すことも。

わたしは嘘のわたしになることで、親や兄みたいに強くなれた。

親や兄みたいに、わたしに痛みと恐怖を与え、この世が弱肉強食だと教えた彼らみたいに、今度は、

わたしが誰かに痛みと恐怖を与える強者であり勝者になることができた。



それは、わたしが、この仮面と虚構の裏でわたしを追放した現実にできる、唯一の復讐になる。

解放された獰猛な感情がわきあがった。わたしは彼女になるための笑いではない

もっと狂気的なひきつるように笑うようになった。




キャラクターにとって全ての他者、事象は道化だ。

だからわたしは彼女になって以来、一人でいることができなくなった、眠ることを恐怖するようになった。

自分のプライベートと向き合うことを恐怖するようになった。



最初からそもそもそこには、誰もいなかった、何も無かった、

不在と空白の自己でしかないものと向き合わなければならないことを恐怖した。

ひとりになって、自分と向き合うこと、夢を見て自己の深層心理を知ることを恐怖した。



常に誰かのようであること、いつかどこかでみたパフォーマンスにまみれ、

そのパフォーマンスの存在として観客に認知される存在としてそこにいなければ

「彼女」としてのわたしは消えてしまう、

わたし(彼女)は、どこにもいなくなってしまう。




初めて「誰かのようになること」で存在することができた仮面を壊されることを恐れた。

わたしはもうもともと、どこにもいなかったし、ここにはもういない。

わたしは、彼女でなくなること、誰でもない、何でも無い、自分自身に戻ることを恐れた。




笑ってさえいれば彼女でいることができた。

親にはわたしの変化は不評で「何馬鹿笑いしてるの、みっともない、ばっかみたい」と吐き捨てられた。

「いつも同じ、あのバカセガワとだけつきあってないで、もっといろんな子と遊びなさい」と言われる。

抑圧的な親は解放的で社交的なセガワを徹底的に嫌って、

セガワが家にわたしを訪ねてくると露骨に顔をしかめぶっきらぼうに応対した。

ウチのアスカにあまりかまわないでくれる、と。



  


わたしは、彼女を遊び半分に叩くようになった。

「彼女のように元気で活発になる」が、「わたしは攻撃的になる」と読み違えているわたしによって。

「元気で活発」であることとはどういうことかわからなかったけれど、

「攻撃的」であることなら、嫌というほど知っていた。




わたしにも、彼女と同じ共通点があって、わたしは狂喜した。

「元気で活発」とは、「攻撃的」であること、それは、わたしがいつも毎日親にされていることだから、

よく知っていた。

彼女であることは手探りだったけど、その情報だけは、わかることができた。




それは、親や兄姉に叩かれ、絶叫調で何時間も罵倒され裸で家を追い出されたり

嘲笑されたり兄姉からいじめられても無視されるということだった。

わたしは楽しそうに「活発に」笑いながら彼女のような男言葉を「元気に」吐きながら、彼女を叩いた。

わたしが彼女のようであるために。

ね、これで、あなたと同じでしょ、と。



機械的に手を動かしながら、胡乱に、義務感さえ感じながら、彼女を叩いた。

彼女は泣かなかった。

こわばった顔をして、薄く笑ったような顔をして困惑げに見返してくるだけだった。

今までは、わたしが人に犬猫のように叩かれるだけだったのが初めて、人を叩く側になった。




どれだけ叩いても、叩かれていたときのような痛みは、叩く側は、感じなくていいのだということに気がついた。

だから、みんな、叩かれる側ではなく、叩く側になろうとするのだろうか。

だからみんな、歯止めが利かなくなったように、壊れた歯車のように、人を叩くのだろうか。

自分は何も感じなくていいから。




実際、彼女をいくら叩いても、叩かれているときにわたしが感じた「痛み」、

叩く側と叩かれる側の間、そこに発生するはずである「痛み」のリアリティ、痛みの存在、痛みの現実を、

叩く側の新しい立場になったわたし自身は全く感じず、かつてのわたしがそこにいた

叩かれる側の彼女と共有できなかった。




まるでわたしと彼女のお互いの痛みの所在を探す実験のように、

取り憑かれた熱心さのようなものを持って、わたしは彼女を叩いた。

わたしと彼女の不思議な別離、隔絶感の正体が知りたくて、わたしは熱心に彼女を叩いた。




わたしは初めて、自分が人から「される」側ではなく、「する」側になった。

「する」立場の力と、「する」ことを肥大させる仮面の下で、彼女を機械的に叩くわたしの中で、

一瞬、たがの外れた欲望が燃焼し、彼女に無視されつづける苦痛、

今までわたしが「される」側だったことの苦痛、

それが許される復讐の環境の中で憎悪に変わって、一瞬、憎悪で彼女を殴りつけるように叩いていた。



「される」側ではなく、「する」立場になった側は、誰にでもいつでも、

個人的な憎悪の復讐を行えるのだということに気がついた。





彼女はわたしと遊ぶときに、年上の女、男きょうだいを連れてくるようになった。

彼らはわたしをいじめ、攻撃した。わたしは、彼女の神経を疑った。

どうしてこんなことをするの、わたしが何をしたというの。



わたしたちの遊びも変化した。

わたしたちは、お互いを殺しあうごっこ遊びをした。

同じ保育園に通っていて、近所に住んでいる、知的障害の少女を標的にして、ふたりでいじめた。




わたしは今度は、健常者で、親の期待を一心にあび、親の関心をすべて

姉から奪い独り占めしたと思う知的障害の姉に、

無条件に嫌われ憎まれいじめられ、「される」側ではなく、わたしをいじめる知的障害者をいじめる

「する」側だったから、わたしは彼女を、わたしの中でタガの外れた憎悪と復讐心のままに

容赦なく残酷にいじめた。




殺してもいいんだ、今まで「される」側だったわたしが「する」側に、いつ殺されてもおかしくないように、

いつも殺す、死ね、と願われて、実際そう言われているように、今度はわたしが、「する」側なんだから。

わたしはその子供をいつでも殺すこころの備えはできていた。わたしが「された」ように

「すれ」ばいいだけなのだから。




殺人事件のニュースを見るたびに、殺「される」ほうが悪いのに、

外の人たちは、何を騒いでいるのだろう、と思った。

わたしは、世界には、ふた通りの人間しかいないことを知っていた。




「好きなように人からされる」ものと「人を好きなようにする」もの、「弱い」ものと「強い」もの、「敗者」と「勝者」。

世界にはふたつの関係しかないことを知っていた。当然わたしは前者、「されるもの」。

だから何をされても死を願われても、そういわれても殺されても当然だ。

だから今度はわたしが強者であり勝者である「する」側になったら

弱者である「される」側には何をしても殺しても当然いいのだ。




そして彼女であることが、明朗(攻撃的)で元気(暴力的)で積極的(される側に対してする側)で、

誰にも好かれる(誰にも自分を批判させない)ならばそうした彼女は、絶対の勝者であり、強者であるはずだ、

彼女は、「わたし」のように弱者で敗者で、永遠に「される側」の人間になんかならないはずだ。




わたしが本当に、本当の彼女のように誰にも負けないほど強く誰をも「される側」にする、

誰もに「する」側になったらそのとき初めて、わたしは彼女の仲間になれるのだろうか。




歪んだ情緒が生む歪んだ思考、曖昧さや情緒、感情を許されず機械的で硬直した結論を急がされる子供は、

スイッチの入った動き出したシステムのようにこの思考回路で活動する「彼女」としての人生を生き始める。




自分の存在が許されるのは、誰かを貶め、傷つけ

敗者にするときだけという強迫観念と恐怖と憎悪が原動力の破壊機械になる。



もう「こういう時彼女ならどうするか」と考えない、反射の速度で「彼女であること」ができるようになっている、

彼女であることはわたしであることだから。

「彼女」であることはすべて技巧的にすること、演技と自己演出というコントロール下、意識の支配下にするもの。



・・



彼女の真実の痛みと、わたしのうその痛みとの、決して一つになれない、半身ずつの物語。

その中でわたしが見つけた最も痛みに満ちたことは、うその中では

どんな言葉も存在できないということだったかもしれない。



どれだけ言葉を費やしても、うそのなかでは言葉は実在権を自動的に喪失する。

うそのなかではどんな言葉もうそになる。



そもそも嘘の中には誰も生きて存在しない。

嘘は触れる全ての人間から実在を奪い殺す。嘘は嘘に触れる全ての生命を枯らす。



自分で自分の生についた拒絶と嘘は、反物質のように触れる存在すべてを対消滅させる。

嘘以上の大量殺戮者はこの世に存在しない。



ほんとうのわたしを護ってくれる盾、

そこで生きることができないほんとうのわたしに代わって現実世界を生きて、

現実世界の痛みも傷も一身に引き受けてくれるあなた、そこにいるのは私ではなく、彼女。




わたしがわたしでなくなれば、うそのわたしになれば、もう絶対に現実は私に手が届かない。

現実は私に触れられない。もう現実に傷つけられることはない、痛まない。

もうわたしは誰にも見つからない。もう誰もわたしに触れられない。もう誰もわたしを傷つけられない。




現実の手も声も、傷も痛みも、もうわたしに届かない。

もう誰もわたしの名前に触れられない。

わたしはもう現実にいることをやめたから。わたしはもううその中にいるから。

わたしの代わりに現実に傷ついてくれるのは、彼女。




すると、コントロールを離れ、得体の知れない無でしかなかった「わたし」に墜落する眠りが怖い。

思考が止まることが怖い。無と空白と不在の深淵が開く眠りが怖い。

それは彼女の仮面の盾の背後にいる「わたし」だから。



永遠の死の空白、その無、その不在は、名前が無いまま死んだ死者、名前を忘れられたまま死んでいる死者、

誰にもわたしにも、名を呼び、名に触れることのできない、名前のないまま死んでいる彼女は、わたしだから。



わたしが初めて保育園に行った時わたしを連れて行った父によれば

わたしは「周りで遊んでいる子供には脇目もふらず部屋を斜めに横切って、

まっすぐ部屋の隅に行くとそこで壁を背にして座り込んでじっとした」のだという。

壁を背中にして、周りの状況が全て見える位置にいることが安心だったのだろう。

周りにいた人間のことは、少し覚えているかもしれない。

走り回り、笑いあい、大声を出し合っている子供や大人たち。

わたしは誰とも接触せず部屋の隅っこに掃き溜められている綿ほこりのようにそこでいつもじっとしていた。

目も上げず、誰のことも水、一日中、誰とも話さず全てを否定しきり、憎みきり、

わたしにとって、世界は死んでいるに等しかった、わたしにとって、世界はもう、生きていないに等しかった、

だって、誰の存在も、わたしには意味を持っていなかったから、

わたしの存在は、誰にとっても意味を持っていなかったから。

そういうふうに時間が過ぎていくものなのだと思っていた。

だから、彼女と意思的に会話するにはどうしたらいいのか、

それも、他人から自分を守る演技で精一杯の彼女に、

どう自分を彼女の仲間だと気づかせられるか、その日の夜、布団の中で、

寝静まった家の中でわたしは考え続けていた。

次の日、保育園で、いつものように大勢の友だちや教師の中で大騒ぎして

笑うみんなの中にいる彼女に近づいたと思う。

なにかつまらない話題を出して、質問の形をした話題だったか、

二言三言、彼女に話しかけたかもしれない。彼女にはまったく相手にされなかった。

その日の夜、もう一度考えた。明日は思い切って、「友だちになって」、といってみよう。

演技的だけれど、どうせ演技している彼女に接触するのだ。

その日、友人たちと話している彼女のそばに近づいていって、ねえ、あの、と細い声を上げていて、

彼女に気づかれなかった、

ようやく彼女の注意をこちらに向けて、清水の舞台から飛び降りるように、わたしは彼女なのだ、

といいきかせながら、思いきり息を吸い、

「ねえ、友だちになってくれない?」 単刀直入に、棒読みで可能な限り精一杯の大きな声で、いい放った。

実際には蚊の鳴くような声しか出ていなかった。

彼女は一瞬、胡乱な目つきでわたしを見た。わたしはそれを無視した。

「え・・いいけど・・」 言質をとったわたしは狂喜した。

これでこの世界に、彼女という、わたしと同じ運命の唯一の仲間を持つことが出来る。

清水の舞台から飛び降りて、わたしが初めて他者として認識した存在へ声を発し、

言葉を上げたその瞬間、初めて、これがわたしだという自我、

わたしはこのわたしでなくなろう、という故意の虚構自我をつくって

自己不在と他者不在の中での空白の関係から、

欺瞞の声と言葉で他者との空白の関係を始めたその瞬間から、

わたしは、今でも、そのとき飛び降りた清水の舞台から自由落下し続けている。

全てが機械的、事務処理的、自動的に処理される世界にいるわたしにとって、

曖昧さや、「表情から受ける印象」などといった漠然としたもの、

イントネーションの微妙さ、などという信号は存在しない。

すべては、白か、黒か、いったか、いわないか、事実か、事実で無いか、でしかない。

いったならそれは真実であり、事実で無ければならない。

彼女がわたしと友だちになることを了承したのならそれで自動的に、機械的に、

事務処理的に、友だち関係は成立したのだ。わたしの望む友だち関係が。

友だち関係が、口約束ではなく、相互の影響や努力によって「生成」されていくなどという発想は

わたしにはなかった。

人間であり、生命であることを否定され、すべて命令系統で、機械的に処理されているわたしは、

他者の感情も、自分の感情も、そんなものは存在しない、頭オカシイのかといわれるから

ただ、否定しなければならないものでしかなかった。

彼女が取り巻きの友人たちに説明している声が聞こえた。

「この子、新しい友だちになったから」

彼女らのいぶかしげで疑わしげな表情など目に入らなかった

彼女とあんな話もしよう、こんなことも話し合おう、

わたしたちは理解しあった会話をしよう、そんな夢物語しか見えていなかった。

彼女の「新しい友達」になったわたしは彼女にくっついてまわり

端から見れば初めて保育園で友達が出来たといったところだった。

だけどわたしは、時間が立つにつれて苛立ちを増してきた。

彼女は、彼女の「友人」という子供たちとまるで中身のない

他愛の無い遊びや会話で盛り上がっているだけで、

あのときわたしにかけてくれたような言葉も、しぐさも、台詞ももう何も言ってくれなかった。

まるでもうわたしがいなくなってしまったように。わたしは、あのときの会話の続きがしたくてたまらなかった。

あの時彼女がかけてくれた言葉はこの世界でひとりぼっちのわたしを照らし出してくれた

初めての唯一の言葉だった。

なのに彼女は、ありふれた、ありきたりな、そこらへんにどこにでもいる子供と何も変わらないように

ふるまいわたしをそのように扱った。

どうして ? わたしは考えた。

あんなに勇気のあった彼女が、あんなに勇気の在る言葉を放った彼女がこんな姿をしているなんて。

そこで思い当たった。

ああ、そうか、こんなにも不自然なまでにありふれた姿をしているのはそれが良く作られた演技だからだ。

彼女はまだ演技をしているのだ。

わたしが彼女の味方になるためにここにいることに気がつかないまま、

そのためにわたしがここにきたことに気がつかないまま、

わたしが彼女の味方だと気がつかないまま、

わたしがありふれた子供の姿を要求する世界に迎合しているその辺の子供と同じものだと適当にあしらって

演技しているから、演技の中にいる彼女には、わたしが見えないのだ。

私は新たな難題に頭を抱えた。

彼女は、きっと、すごく勇気があるからこそ周りにいるのが誰なのか、誰が味方なのかもわからないほど、

本当の自分を他人から隠し守るために演技している、

そんなにまで必死の彼女にどうやってわたしのことを知らせようか ?


わたしがここにいると、わたしが彼女の味方だと、

わたしがこの世界で唯一彼女と理解し会える仲間同士なのだと。

同じ涙を流し、同じ涙の後をつけ、同じ夜をすごし、同じ世界の闇を味わっているもの同士なのだと

どうやってわからせよう ?

わたしは考え、一つの結論に達した。

彼女が、誰にも見えなかった、わたしの涙の後を見つけられたのは、彼女がわたしと同じだったから。

わたしと同じ目線で、同じ経験をし、同じ立場にいたから。

大人のように腰をかがめなければ子供の視線が見えないのではない、

彼女の目線がわたしの目線と同じだったから、彼女の言葉はわたしに届いたのだ。

だから、わたしも、彼女と「同じ」になろう。

彼女と同じ経験をして、彼女と同じ立場に立ち彼女と同じ目線を持たなければきっと、

わたしの言葉は、彼女には届かないのだ。

わたしも、彼女と同じ演技をしよう。 わたしは、彼女になろう。

それはきっと、今は届かない彼女に届くサインになる。

彼女は演技をしていて、演技は、自分の要求で生きるのではない、

他者の要求に従わなければならないものだから不自然で、苦しいもののはずだ。

彼女と同じふるまいをする子供が彼女の前に現れたらきっと彼女は

それが彼女自身の表現と同じ彼女と同じ演技であり、

彼女と同じ「苦しみ」だとわかるだろう。

わたしが、彼女と同じ仲間だとわかるだろう。そうすれば、

彼女は初めて彼女と同じ苦しみを表現する仲間に出会うだろう。

そうすれば彼女は初めてそこにいるのがあのときのわたしだと気がつくだろう。

わたしは、論理的で実用的な結論を出せたことがうれしくて、闇の中でにまにま笑った。

これでまた彼女と再会して分断されてしまった話の続きを再開出来る。

ひとつ課題があった。

彼女と同じ演技をするということは彼女と同じように、笑い、叫び、話し、走り、遊び、

子供にも大人にも誰にもおくさずに話しかけ、つまりは、今までわたしがとってきた行動の全否定、

真逆の行為をしなければならないのだ、わたし自身を、わたしが自分で

否定するようなことをしなければならないのだ。

ということに思い当たって、わたしの内臓は縮み上がった。

想像するだけで、自分が自分で無くなり、自分のカンバスの上から

べったりと違う色を塗られ、自分が消えてしまう恐怖に囚われた。

彼女を諦めようか、という気弱な思考が頭を掠めた。そんな気弱な考えを振り払った。

だって、この世界に、たったふたりきりの仲間なんだから、この世界にたったふたりきりの味方なのだから

たったふたりの、生き残りなのだから。

彼女を失ったら、わたしも失ってしまう、わたしにとって、全てが意味の無い世界、

世界にとって、全ての意味が無いわたし、それしかもう、わたしには残らなくなる。

それだけはできない、彼女だけは喪えない。 わたしにはもう、彼女しかいないのだ。

それに、これほど嫌なことを、彼女もしているのだ。

一瞬だけ。

彼女と同じわたしが彼女の仲間なのだという合図を伝えることができるまでの一瞬だけ、

自分が自分でなくなる我慢をすればいいだけのことだ。

それに、自分でなくなることをしても、そこには、彼女がいる。

わたしと同じ、私以上の苦しみの中にいる彼女と、そこで出会える。

彼女は、自分を自分でなくすほどの道を通って、自分に会いに来てくれたわたしを

歓迎を持って出迎えてくれるだろう。

そうすれば、わたしは安堵を持って、演技をやめればいい。それを思うと

自分が自分で無くなる苦痛さえ喜びに変わる気がした。

その日からわたしは180度キャラが変わった。

彼女が笑えばわたしもまったく同じ声量おなじイントネーションで笑った、

彼女が笑いやめばわたしも笑いやめた。

彼女が誰かに話しかければ、わたしは嫌悪感と否定感情をこらえて楽しそうに同じ人に同じ話題で話しかけた。

彼女が騒げばわたしも騒いだ。わたしに気がついて、気がついて、と祈りながら。

でも彼女はわたしをうっとうしそうに、不快そうに見るだけだった。

わたしも、自分が望まない演技を他者のためにする、という「彼女が立っている地平」にいることの

ストレスが重積していった。

自分が上げる笑い声、はしゃぎ声、ばたばたと走り回る手足や身体、人と突合せる顔、向き合う目、

自分のその全てが激しい嫌悪をもたらした。

その全てが、他者につく嘘であり、自分につく嘘であり、

そのわたしでない顔の全てを裏で演出しているわたしの打算に満ちた視線を常に感じていた。

彼女が一向にわたしの存在に気がついてくれないこと、わたしの合図に気がついて、

あのときの会話の続きをしてくれないことに苛立ち、焦った。

彼女が気がついてくれない限り、わたしの演技はいつまでも終われない。

なぜ彼女は気がついてくれないのか。

それほどまでに彼女の演技はもう周りが見え無いほど、わたしがここにいることがわからないほど

自分自身を失くすほど、強固なものなのか。

焦れば焦るほど、ストレスが高じるほど、何とか彼女にわたしのしていることの真意に気づかせたい、

彼女に、わたしがしていることのメッセージを読んでほしい、彼女に、もういいのだ、わかった

と抱きとめてほしい、もうわたしがこんなことをしなくていいように、彼女に許してもらいたい。

わたしの思考はまた、出口をなくした迷路をパニックになったネズミのように目まぐるしくぐるぐる回り続けた。

彼女にわたしがしていることを気がついてもらうにはどうしたらいいのか。

強固な彼女の演技の虚構を打ち破るほどわたしの演技も強力化するしかないのかもしれない。

もっと彼女の演技に近づくこと。

演技している自分を意識して自己嫌悪するなどという中途半端だからこそ彼女に伝わらないに違いない。

自意識などなくなるほど、彼女になりきること、彼女に近づくこと。

うわべのコピーではない、彼女の思考形態、感じ方、感覚、感度、動機、

彼女の精神性まで自分のもののようにすること。

わたしは、闇の中で目を閉じて、全てを闇に溶かした。

自分の思考、感覚、感情、記憶、自分の声、記憶、全部闇に溶かして消した。

彼女を思い浮かべ、彼女から受けるフィーリングをベールのように被り、

わたしというキャンバスの上から、「彼女」の色、形、におい、手触り、

わたしが彼女から得た情報の全てを上塗りしていった。

わたしが闇の中に消えていった。わたしはわたしだ、という蜘蛛の糸のような自意識も振り切って

わたしは彼女自身になることができた。

それからいっそう彼女の周りにまつわりついたわたしは、彼女のような声でしゃべり、

笑い、彼女のように行動し、話し、

同じ思考回路で行動し、話した。彼女と同じ声、同じイントネーション、

同じ台詞、同じしぐさ、同じ行動、同じ人間関係、彼女の全てをコピーした。

コピーしているという意識も無くなるほど、彼女自身になった。

我を忘れるほど彼女になりきった。

わたしのキャラクターが、ある時期を境にがらりと変わったことは傍目にも明らかなことだっただろう。

家でも保育園でも、わたしは「彼女として」ふるまっていた。

もう「どうすれば彼女らしいか」といちいち考えなくても、

「彼女ならこういうときこう考えこう感じ、こう反応しこういいこう行動する」

反射的に、自動的に「彼女でいること」ができるようになった。

彼女と同じ声、笑い方、くせ、髪型、服装、持ち物、思考、感情、心理、嗜好、

想念、イメージ、フィーリング、感覚、態度、言葉遣い、人との接し方、仕草。

彼女であることがわたし自身になった今、自分を全否定して、新生児のようなアイデンティティの更地から、

一から彼女であることを作ることでわたしは、再びの誕生のように、彼女というアイデンティティを得た。

彼女の名前はセガワといった。彼女の家は、わたしが一階に住んでいる4階建ての

マンションの4階に住んでいる、6人だか7人家族の次女だった。

こういう形で彼女のことを知るまで、わたしは同じマンションに

同じ保育園に通う子供がいることさえ知らなかった。

わたしと彼女は一緒に帰るようになり一緒に遊ぶようになった。

やっぱり彼女とわたしは運命の仲間なのだし、彼女の一番近くにいられるわたしは彼女の

演技の演技をしやすくなると思った。

そのうちわたしは気がついた。

わたしであることを否定して、わたしであることをやめて気がついた。

自分であることをやめれば、人は、自分以外の誰にでもなれる。

自分にはもう二度となれないが、自分でいること以外の、誰のふりをすることも可能になる。

自己完全否定という、この大いなる欺瞞・嘘を受け入れ、その一線さえ越えられれば、

「自分以外の誰の振りでもできる、果ての無い欺瞞性、演戯性」を手に入れることができる。

わたしはわたしを白紙にした。

誰にとっても意味が存在していなかったわたしをその白紙そのものの存在に還元した。

そのかわりに白紙の上に黒く描かれたのは、彼女の線描。

わたしはわたしの名前を呼ばれるたびに内心眉をひそめた。

その名前にはもう、違和感と、不快と、困惑と、遠さしか感じなかった。

といっても、わたしはあまり親に名前を呼ばれることはなく、

この子、あの子、その子、あれ、これ、それ、と呼ばれていたから、

あまり自分に名前があることの自覚は無かった。

わたしは、もともと無名の存在だったようだ。

いまだ生まれぬ生者のように、かつて死んだ死者のように。

わたしはもともと、誰にとっても可視可能なものとしては、存在していなかったのだ。

彼女の名前になることで、彼女になることで、彼女の声、彼女の言葉、彼女の顔になることで初めて

わたしは彼女の名前を得、「彼女として存在すること」ができたのだ。

わたしは、アスカではない。わたしは最初からアスカではなかったのだ。

きっと最初からわたしに名前などなかったのだ。

誰かがわたしを呼び求めて呼ぶための名前など、わたしには最初からなかったのだ。

わたしは今、初めて、セガワという名前を得、セガワの家族がいてセガワの人生を生きている、

わたしは、セガワなのだ。わたしは、「彼女」なのだ。

ただ困ったのは、わたしのアイデンティティはもう彼女であることなのに

だれもわたしを彼女の名前で呼んでくれないこと、

すでに死者となったものの名前で呼ぶこと、社会的にはわたしの「彼女というアイデンティティ」は

誰にも見えない幽霊のように誰にとっても見えず、名前の無い存在だったことだ。

保育園でわたしは、今まで軽蔑していた大人たち、教師にも

意志の疎通が可能な同じ世界にいない、透明人間だった子供たちにも、

彼女のように積極的に、彼女と同じ話題で、話しかけた。

彼女のようでいる、という意識を消すことを第一にして彼女のような思考回路

感情の持ち方、感覚、感性、彼女を真似するのではなく彼女に「なりきること」を心がけた。

彼女につきまとって、いちいち彼女をコピーする労力や周りの人から変な目で見られることを避けたかった。

「彼女は」みんなの人気者で誰かから変な目で見られたりする存在ではないのだから。

いつも彼女の周りに付きまとって彼女のような声で話し、彼女と同じしぐさをし

彼女のような動きで走り回り、彼女と同じ話題で近づき、

でもその全ての行動に、一種「無目的な空白」を漂わせているわたしを教師は

笑顔を引きつらせながら見てみぬ不利をしてあしらい、

子供たちはもっと露骨にわたしを気味悪がり、嫌い、拒否し始めた。

彼女自身は、あの胡乱な表情でますますわたしを見ることが多くなった。

大人たちは、子供の目線を振り切って、別の地平に目をそむけることができるが、

子供たちは、わたしと同じ目線でいたためにわたしの不自然さと真っ向から目を合わせなければならなかった。

いくらわたしが騒いでも、話しかけても、走り回っても、目を覗き込んでそこにいるのは、わたしではない、

そこにいるのはわたしではなく、そこにいる相手を認めて写している瞳も存在しない。

そこでは、相手と関係しているわたしもいなかったし、わたしと関係している相手もいなかった。

そこにあるのは関係の空白だった。

・・

ある日、7人ばかりが集まって子供らしいごっこ遊びで、

「ドーナツが好きな人、嫌いな人」「パパよりお母さんが好きな人」

はあい、と子供たちが手を上げたり、あげなかったりする。

え、何で嫌いなの? やっぱりあれ好きだよね~ とお互いの嗜好や価値観を探り合う。

わたしはこういう連帯感を持たせる遊びや連帯した空気が嫌いで

でもわたしは彼女なのだから、こういう空気が好きでなければならないのだから、

皮膚がぴりぴりするような嫌悪感を抑えて楽しそうに、うれしそうに、喜んでいるように、笑っていた。

ある子がいった。「セガワさんが嫌いな人ぉ~」。誰も手を上げなかった。

当然だよねぇ~とみんな口々に言った。

「じゃあ、セガワさんが好きなひとぉ~」はあい!! 全員が手を上げた。

彼女の周りで、暖かな笑顔と、彼女を肯定するため彼女を守るために挙げられた林立する腕の真ん中で

彼女は照れくさそうに笑っていた。

じゃあね、とある子が含みを持って言った。

「アスカさんが好きなひとぉ~」 誰も手を上げなかった。

白々とした空気が流れ、全員がわたしを伺った。彼女もこちらを色のない目で見ていた。

わたしは殺意をこらえた。

わたしに、わたしを突きつけるんじゃない。

わたしは、おまえたちの嗜好なんかとは関係が無いところにいるのだ。

わたしは、彼女のために、彼女になるために、彼女として、ここにいるのだ。

わたしが無表情無反応でいるので、じゃあね、また誰かが言った、

「アスカさんが、嫌いなひとぉ~!」

はあい ! 全員が威勢のいい掛け声とともに元気よく手を上げた。

他の子供も、彼女も。

わたしを否定し排斥するために挙げられた人の林立する腕の中で、

わたしはよく散策するマンションの雑木林の中の、森閑とした空気を思い浮かべた。

あの暗くて冷たい、静かな林の中にいるようだ、と思った。みんなと彼女はげらげら笑い、

それを見て、わたしも手を上げた。

「はあい!」 一瞬、みんな面食らった顔をしてわたしを見た。

「自分のことなのに、何で自分で手を上げるのよ ? 自分のことが嫌いなの ?」

誰かが強張った愛想笑いを顔に張り付かせていった。

この子は本当に異常だ、そんな危機感でも覚え始めたのかもしれない。

「うん、そう。わたしは、わたしが、嫌いなの。」 

わたしは、「彼女のように」、みんなと彼女に笑って答えた。

そしてみんなにそういった瞬間、それが事実だということに気がついた。

「彼女」が手を上げる場面なのなら、「彼女であるわたし」も、ここは手を上げる場面なのだ。

「彼女」が「わたし」を嫌いなのなら「彼女であるわたし」も、「わたし」など嫌いなのだ。

それにそもそも、わたしは彼女になるために、一生懸命わたしであることを殺していたのだから。

それにそもそも、いつまでたっても「みんな」の中にいて

わたしの仲間であるはずの素顔になってくれない彼女が嫌になってきてたし、

それなら、彼女であるわたしもわたし自身を彼女として嫌いなのだし、

そういわれて初めてわたしは、わたしのことが、たまらなく嫌いなのだということに気がついた。

どんなに相手に話しかけても、そこにいるのは彼女であり、どれだけ言葉を費やしても

それは彼女の言葉であり、どんなに叫んでも、その声は彼女の声であり

どれだけ人と目を合わせても、その目は彼女の目であり、

そこに写るのは、彼女の瞳に写る人であり、その人の瞳に写る人は、わたしではなく、彼女なのだ。

そういうことが、つくづく嫌になっていた。だから、そういった。

きっとこれは、彼女にいやがらせにひとしいストレスを与えているわたしへの彼女らなりの

精一杯のみせしめだったのだろう。

わたしもうすうす気がついた。

彼女は、理由はどうあれ、彼女のいる世界からでてきてわたしの仲間にはなってくれないのだ。

彼女は諦めるしかないのかもしれない。同時に気がついた。彼女であることをやめて

わたしに戻ろうにももう、わたしは、どこにもいなかった。

彼女でいるわたししか、そこにはいなかった。もうわたしには戻れなかった。

もう「わたし」は私にとって見知らぬ人だった。

「わたし」はもう、見知らぬ死者であり、未だ見知らぬ、未誕の生者だった。

わたしは誰でもないのだから、だれにも味方になってもらえない

わたしは誰でもないのだから、誰の親の子供でもない、

誰の教師の生徒でもない、誰の友人の友だちでもない、どの家に庇護される子供でも

どの法律に擁護される存在でもない。

誰の敵にもだれの味方でもない。

わたしは誰でもないのだから、わたしは誰でもなくなったのだから、わたしはどこにもいないのだから。

もう彼女でもなく、わたしでもないのだから。自分というバケツの底が抜け、

底の無い永遠の深淵が、ぽっかりと口をあけた。

わたしは足元に穴を開けた深淵に気づいて不意に悟った。

そして自虐的な冗談でその場を取り繕って卑屈的な低姿勢で彼女らにとりいった。

いじめられ役でもいいので、ここにおいてください。

もう、わたしがわからなくなり、彼女のようであることしかわからなくなったわたしは、

今ここにいて、彼女と同じポジションを保っていることが、わたしがわたしであるアイデンティティなのだ。

彼女らに、彼女であることを否定され、彼女の外に、わたし自身であることに追放されたらわたしは

誰にもなれなくなる、誰でもなくなる。

わたしは、必死で、彼女たちの中の居場所を請うた。必死で、彼女のようであることの許しを請うた。

今度は、誰のためでも無い、私自身のために。

みんな、ふっと、気が抜けたように笑った。

自分で自分をいじめることさえ好きな、誰がどれだけいじめても文句を言わない奴

というわたしのポジションが決まったのかもしれない。

というより、わたし自身の中で、自分で自分をそこに位置づけていた。

恐怖がこみ上げてきた。

これから一生、こんなふうに自分が誰だかもわからないまま生きていかなければならないのか、

誰でも無いという存在の空白を自虐と自己卑下のキャラクターで埋め合わせ

このポジションで生きていかなければならないのか。

だれにともない被害感情と、脅迫的な恐怖がこみ上げてきた。

なぜかそのことがとてつもなくやましく、罪深い意識を感じた。

わたしでなくなることで、誰でもなくなり、親にとっての子供、教師にとっての生徒、国にとっての国民、

誰かにとっての誰か、誰かに対峙し相互作用し合いながら

関係する誰かであることから永遠に自由になってしまったこと、

いくらわたしがそこにいても、もうだれも、そこにいるわたしには触れられない、

かかわれない、声の届かない、言葉を交わせない、そういう存在になったことがどうしようもなく

罪深く、許しがたい、迫害されるような、魔女狩りされ迫害されて当然という存在になったような気がして

おびえた。

二度と取り返しのつかない一線を越えて「わたし」が手の届かない向こうにいってしまったことを知った。

私が私でなくなったのは、5歳のとき。それ以前にわたしがわたしだったかわからない。

意識的にわたしでなくなったのは5才のとき。

5歳のとき、夜、布団の中でだらだら泣きながら神様仏様に手を合わせてお願いしていた。

神様仏様に願ったのは初めてだった。人生で最初で最後の、神様への唯一のお願い。

親を殺して。親を殺して下さい。親を殺して、兄を姉を殺して。そして私を助けて。

私を助けて。助けて、助けて、助けて、助けて。

家族を殺して、殺して、殺して、殺して。殺して、私をここから出して。

私をここから出して、出して、出して、出して。お願い。神様、お願いします。

それから別の理由で泣き始めた。

子供に死を願われるなんて親はなんて不幸なんだろう。わたしはなんてひどい子供なんだろう。

こんなわたしがどんなめにあってもそれは自業自得だ。

私みたいな子供を持って、親はなんてかわいそうなんだろう。

神様お願いです、わたしのせいで親が不幸になるくらいなら私を不幸にしてください。

親が可哀想で泣いた。自分が可哀想で泣いた。親と兄姉に死んでほしくてたまらなくてないた。

その願いはかなわないだろうから泣いた。それがかなったら哀しいから泣いた。

親を喪失することが哀しくて、親を喪失する以前に、親の喪失を願うことで、

すでに親を喪失していた自分を発見するだろうから泣いた。

わたしがたすかることとは、親が死ぬことなのだ。わたしがたすけを求めることとは、親の死を望むことなのだ。

わたしがわたしの幸せを望むこととは、親を殺すことなのだ。わたしはたすけを求めることをやめた。

たすけをもとめることをやめ、たすけられたい現実にいること忘れるために

感情、思考、感覚、記憶、意識、想念の活動を止めた。

世界で唯一こころをゆるせる叔母を思い浮かべてないた。

世界で唯一私の存在を許してくれている人、いいひと、やさしい人。叔母を求めて泣いた。

わたしがここにいるのは何かの罰で、わたしが悪いことをしたからで、

母がそのうち私のせいで間違いなく早死にするように、

わたしなんかに求められたら叔母もわたしのせいで早死にさせてしまうのだと思って泣いた。

わたしが求めるものは、全部、今、現実のここにはないものばかりだ、

だから私が求めれば求めるほどそれは壊れ、喪われ、

現実から欠けていくものばかりなのだ、叔母も、そう思って泣いた。実の母親と別離したように泣いた。

5歳ころから叔母の家にはよく実家から避難するようにお泊りに行った。

実の親に車で迎えにこられ、おばの家から別離するときは身が引き裂かれるようだった。

泣きながら闇に眼を浸して、神様に家族の死滅を願っていた

私の眼の裏に叔母の家から遠ざかる場面が離れなかった。

さみしい、ここは私の家じゃない、これは私の家族じゃない、

たすけて、本当のお母さん迎えに来てと泣いた。

保育園に行くのが嫌で泣いた。

わたしはこの家の法で生きている、外を壁で隔絶したうちの法で生きている、

外の法は通用しない、外の法では、もう、生きていけない。

もう外で生きられない。外のやりかたでは。神様、わたしをここからだしてください。いつも泣き疲れて眠った。

わたしは保育園に行くのが怖いと感じる。

人間は機械で、動かされ、命令されるとおりに動いていればいいだけなのに、

だから私はそういう風に存在しているのに、

周りの子供たちは、誰一人、誰にも動かされないのに、誰にも何もいわれないのに、

めいめい、好き勝手に、動きたいように、思い切り動き回っていた。

それは禁じられたことへの反逆であるはずだ。

人間は、命令されたこと以外のことはしてはいけない機械であるはずだ。

ここはそういう世界のはずだ。わたしはその世界の法を守っている。

なのにこの子供たちは、その世界の命令に逆らってだれもが最大の罪を犯している。

わたしは、何も感じない、何も考えない、何も感じてはいけない、何も考えてはいけない機械なのだ。

そう親に価値観をはっきり言葉で言われたのはもっと何年か先だけど、

わたしは「人間は機械だ」という親の思想を理解して体現している。

わたしは子供たちにおびえた。

この罪が許されるはずが無い、彼らの罪は世界に爆撃されるだろう、

わたしが巻き込まれる前に、いっそわたしがこの罪の子供たちを皆殺しにしたかった。

毎朝、母と保育園に行く。

このころなりだした便秘のせいで時には猛烈な腹痛に襲われ、

下痢をしたり、母親に毎朝飲ませられる牛乳を飲んで、吐いたりする。

母に、早くしなさい、保育園に遅れる、自分の体くらい自分でちゃんとしなさいだらしないと

トイレの外で怒鳴られる。

機械的に着替え、機械的に食事し機械的に移動する。

思考能力も記憶能力も何の精神活動も行っていない機械として自動的に扱われるだけなので、

機械として扱われているときのわたしは親に「余計なこと(親によく言われた言葉)」をしない、

機械化しているので、そういうときの記憶はまったく無い。

親と対峙しているときの記憶はほとんど無い。わたしは機械になっている。

母と手をつないで保育園に行く。犯罪人を連行するように母は険しい顔でわたしを連れて行く。

母の歩幅についていこうと足をもつれさせながら必死に歩く。早く、

しっかり歩きなさい、ちゃんとしなさい、だらしない、と怒られる。

だらしがなくて、ちゃんとしないから、母と同じ速度で歩けない自分の足を、わたしは呪う。

母の手に捕まえられたわたしは逃げられないと思う。

何でわざわざ母がわたしを連れて行くのかわからない。

母もわたしも、相手とは一緒にいたくないという点では同じはずだ。

「こっち、白い線の内側の方を歩きなさい」といわれて、よろけそうなほど体を押される。

「なんでお母さんが白い線の外なの?」と聞くと、

「車がぶつかってきたとき、アスカにぶつからないようにするためよ」という答えだった。

車がぶつかってきたとき、母がわたしの身代わりになるためだという。

わたしはその言葉に愛情を感じようと努力して感じたのは罪悪感だけ。

車がぶつかってきて母が死ぬんだらそれはわたしのせいで死ぬんだ。

私が親を殺すんだ。

保育園につくと先生が中腰になって「おはよう~」と陽気な声を出してくるのに、

今まで母の不快を受け取ってきてやり場のない不快をぶつける、

無言の上目遣いでねめつけて答える。

先生の愛想笑いがすこし引きつる。腰が少し引ける。

わたしはそれに少し溜飲をさげる。愛想笑いはいらない、偽りの愛情の言葉も。

わたしの顔を覗き込むために腰を折らなければならない先生も、

親も、大人には、わたしの本当の顔を見ることは出来ない。

私の目線で見えるものを視ることはできない。

いつも子供の頭の上からものを見ることに慣れていて、

子供の目線になるために苦労しなければならない大人は、

自分の苦労を惜しむ大人はわたしの目が視ている世界を見ることは出来ない。

わたしの見ている世界を見ることが出来ないのにしいて努力して、

いかにも私の目線と同じものを見ているようなことをしないでよ。

いかにも私と同じ世界を共有しているように見せて勝手に私を自分の仲間にしないでよ。

あなたが私の世界の仲間になることが出来ないのに、わたしをあなたの世界の仲間に勝手にしないでよ。

笑って挨拶すれば済むだけの平和な世界の仲間になんかしないでよ。

わたしは教師に感じた不意の激しい憎悪にたじろいで立ち尽くした。

これはなんだろう。感じてはいけないものを感じている、考えてはいけないことを考えている。

自分と他者のあいだの亀裂を初めて感覚的に捕らえ思考的に捕らえた経験かもしれない。

わたしは首を回して母を探した。向こうで教師と立ち話をしている。

わたしが感じてはいけないことを感じ、考えてはいけないことを考え、

いけないことをしたことには気がついていないようだ。

わたしに笑いかけることに失敗した教師と、機械的に「社交」という儀式をこなして、

不自然にぎこちなく笑いながら「世間話」をしている。

母は演じなければならないから、私がした、いけないことに気がつかないのだ。

機械の母は、「社交的世間話」が出来る「人間」であることを演じなければならないから。

わたしは自分の中に初めて、自分の激しい声をきいた。

自分の中に、親にばれずに、ささやかに感じ、考えるスペースとしての自由の余地を得た。

親の言葉や行動に時間差の無い条件反射的な感情、思考、というより、

無感情、無思考という反応を返すのではなしに。

今までは親の言葉とそこにふくまれる、思考や感情や

ものの見方を自動的にうのみにし嚥下してきたものを、一度自分の目を通してみるフィルターができたような。

今までは、私の眼の中にいた親の目を通してみていたのを

自分の眼の中心に自分を置いて見えるようになったというような。

わたしは自分の中に自分の声を聞くささやかな自由なスペースを得たことを発見して、

でもそんな自由を得たからって、どこにいけるわけでもなし、それよりも、今まで身を縮め、

仮死のように硬直していることでなんとかしのいでいた世界に

やっかいな変化を起こしただけかもしれない。わたしは考えていた。

自分の中で誰にも強制されない自分の声を出せる活動を実験していた。

端から視ると、保育園の喧騒の真ん中でぼんやりと突っ立っているように見えただろう。

この声を以前も聞いたことがあったのに気がついた。夜の中で。

寝静まった闇の中、一人でようやく自分を取り戻して、自分の中で自分の声を聞くことができる時間。

感情も思考もなく、感情も思考も必要とされず声もなく、声も必要とされず他者の声で動かされるだけの

自動人形のような昼間のわたしが終わって、

誰の声にも動かされない、夜のわたしが目覚める時間。

わたしがわたしをどう思い、どう感じ、どう動かすかは必要なく、

わたしがわたしの身体感覚の所有権を主張する権限はなく他者の声がわたしの手足を動かし、

他者の声がわたしの存在がどうであるかを決める他者の必要がわたしの必然を生む、

昼間の舞台時間が終わって、他者の声の操り糸が途切れた暗幕の中でわたしは初めて、

他者に奪われていた自分の身体感触を取り戻した。

誰の声も無い闇の中で、初めて自分の声を聞いた。

だからわたしは、誰もいない闇の中で泣き、憎み、絶望し、諦め、祈り、助けを求め、思い出した。

夜の中でしか聞こえなかったはずの自分の声が教師へたたきつけた否定感情と憎しみによって

初めて昼の光の中、大勢の他者の中にいながらわたしの中で響き渡った。

夜にしか目覚めないはずのわたしがわたしの中の夜の闇の中にうずくまっていたところから、

他人の声だけを聞いて動く、昼のわたしの眼を通して見える光の中に闇の中から不意に声を上げた。

わたしは驚き身をこわばらせた。

だれかにこの声が聞こえ、わたしが闇の中でどんなことを考えているか、ばれやしまいか。

辺りをうかがうと、わたしにしか聞こえない声は、誰にも聞こえているふしは無い。

それもそうで、この声は、誰にも声が届かなかった闇の中からこそ生まれ、

誰にも聞かれないために、闇の中だけでささやかれてきたのだ。

わたしは、誰にも聞かれないわたしだけの声をわたしの中だけで出せることに背徳的な興味を抱き、

他者の喧騒の中で、自分の中の闇の声だけに意識を凝らす実験をし、自分の声を強化し、

没頭し、他者の視線と声という昼舞台の光の中、

自分だけの声があげる、めまぐるしい思考の回転を可能にしたことを発見した。

わたしは誰にも気づかれないうちに他者がわたしにつないでいる操り糸をほぐし、

誰にも気づかれないうちに自分で自分を自由に動かせる領域を奪還し、まんまとだしぬいた愉悦に微笑った。

わたしは不意に、保育園に来て初めて、誰かと話がしてみたくなった。

初めて私がわたしの中で聞いた自分の声が誰かに響くのを自分で聞いてみたくなった。

わたしの中にずっと閉じ込められていた闇の声がわたしの声を閉じ込めてきた昼の光を侵すのを

聞いてみたくなった。

わたしはそのへんを色の洪水のようにして走り回っている子供たちのうちの一人に

ものほしそうな、声をかけてもらいたそうな目を向けてみた。

そのうちのひとりが私に近づいてきた。大勢の子供たちと、教師とすら混じって対等に話していた子だ。

その子が群れの中心から離れて私のほうに来た。

わたしはその子を見ていた。その子は私を見た。

いまなら、わたしも他の子と同じようにできるかもしれない。みんなと遊んだりみんなと話したり。

その子は、私の前に来ると立ち止まり、私をまっすぐ見つめ、開口一番「あれ、泣いたの?」と訊いた。

その言葉のあまりの衝撃にわたしは思考停止になって言葉につまり、

沈黙の中に引き下がりたい欲望をかろうじて抑えて

(ここで引き下がってはやっと得た「言葉」を再び喪失してしまう)、

やっとのことで、言葉が詰まった喉から一つだけの言葉を押し出した。

「どうして?」それだけいうのがやっとだった。

「だって、ここに、涙の後がついてるよ」 

彼女は人差し指で自分の頬をなぞってから、わたしの頬を同じ仕草でなぞった。

私の中で千もの思い、百もの言葉が音を立てて沸騰し、のどもとでせめぎあい、

私の口からは何一つ出てこなかった。

私の中で言葉がぎゅうぎゅうづめになったように棒立ちになっていた。

私の中からはもうそれ以上の言葉は出てきそうになかった。

わたしは、どれだけ母にぶたれても罵られても感じたことのなかったこと、

初めて言葉によって人に近寄られ触れられたことに、

思い出したように急に怖気ずいて、体が強張った。

それを察したのか、彼女はわたしから身を引いた。

わたしがそれ以上何もいえないでいるうちに、なにかいわなくては、これ以上、もっと、

と思っているうちに、彼女は教師に呼ばれて行ってしまった。

わたしはただ彼女を見送ることしかできなかった。

衝撃が去って始めてわたしは再び思考し始めた。

母親や父親から、気持ち悪いとしか感じられないスキンシップを受けたり

兄や姉から身体的にいじめられたりしても、

わたしはそこに、わたしと他者が接触していると「感じ」たことは一度もなかった。

彼女に話しかけられてわたしは始めて、人間と言葉を交わした、

彼女に近寄られて、わたしは始めて、人間と近づいた、

彼女に触れられて初めて、わたしは他者と触れ合ったと思った。

わたしたち家族は、今まで、一度も、お互いにとって、存在したことがなく、

生きていたことがなく、触れ合ったことがなく、

一緒にいたことがなく、出会ったことがなく、知り合ったことがなく、

お互いの存在のリアリティを「感じ」ることがなく、

リアリティとして一度も存在したことがなく、わたしたち五人は最初から、永遠にひとりぼっちの家族たちだった。

わたしにとってこの時の彼女が、わたしがこの世で初めて出会って、

最初に言葉を交わした、最初の人間だった。

わたしが生まれて初めて聞いた最初の声、最初の言葉、彼女との最初の触れ合いだった。

わたしは、「泣いた」という言葉、「涙の跡」という言葉に衝撃を受けて立ち尽くしていた。

それは、わたしには、絶対的にタブー視されている感情の領域に属する言葉。

わたしには、おおっぴらにそんなことを口にすることはおろか、そんな言葉を、

プライベートな思考領域でさえ思い浮かべることさえできなかった。

「泣く」「涙」という単語くらいは知っていたけど、

「涙の跡」なんて世界が急に鮮やかに染まるような響きの単語は知らなかった。

泣くということは、親に持つことが許されていない感情に属すこと、

親が言うには、世界の人間が絶対的にタブー視していることなので、

誰もそんなことをしていないので、そんなことをしているのは、世界にわたし一人だけだから、

いくら泣いても、その行為は誰にも言葉をあてはめられず、名づけられず、名を呼ばれない行為なのだ。

でも逆にそう考えて、泣くという禁忌の行為も誰にも見られていない夜中にだけ、おおっぴらにすることができた。

誰にも言語化できない行為、誰にも名を呼ばれない行為なら、

隠れて多少おおっぴらにやってたところで、仮にその悪事がバレても、

誰にもそれが何なのか理解できないだろうから。

ただわたしが知らなかったのは、泣くと涙の跡がつくということだった。

この世に、涙の跡、という名前があることだった。

泣くと、その行為は、誰にも見えない夜の中であっても、物理的にも、心理的にも、言語的にも、

誰にも知られまいと思っていた行為でも、「涙の跡」として、

他者的なもの、外部的なものになる、ということだった。

これからは、泣くとき、人知れず罪深い感情を味わうときは、いつどこで、それが外部的なものとして、

露見しているかわからないから気をつけよう、と思った。

涙の跡がついていても、だれもその名称を知らないのだろうと思った。

それが何なのか、だれも意味を知らないのだろうと思った。

だれにもわたしの顔など見えないのだろうと思っていた。

誰にとってもわたしなど存在していないのだろうと思っていた。

わたしは誰にも聞こえない声で、誰にも見えない涙をすすり泣く、幽霊なのだと思っていた。

まだ生まれていない幽霊、あるいは、もうとっくに死んでいて、それに気がつかない幽霊なのだと思っていた。

誰にもわたしが見ているのと同じ世界など視てはいないのだろうと思っていた。

この世界では誰も泣かないのだから、誰にも感情など無いのだから、

誰も考えないのだから、だれも「わたし」をもたない機械なのだから。


彼女とわたしにだけ、その意味を理解できる暗号だったのだ。

この世界で、同じことをしている仲間は、きっと、わたしと彼女だけなのだろう。

だから彼女はわたしの顔を初めて見る人間になった。

彼女とわたしが同じだから、わたしと同じ目線の彼女だから、わたしと同じ世界を見ている彼女だから、

初めてわたしの「涙の跡」を見つけることが出来た。

だから彼女が初めて、涙の跡を顔につけているわたしの向こう、

涙の跡の向こうで、誰もいない夜の中で泣いている、

誰にも見えなかった、誰にも聞こえなかった誰にとっても存在しなかった

もうひとりのわたしを見つけることが出来た。

この世界にたったひとりぼっちの誰にも見えなかったわたしを彼女は初めて見つめた人だった。

わたしは、わたしの闇に葬られていたリアリティを初めて見つめた彼女の眼差しによって、

生まれて初めて、そこに存在した。

まるで、灰色のもやの中に沈んでいた世界の中から生きた人間が姿を現したような。

まるで、全てが実体の無い霞のような偽りと嘘の世界の中から、急に実態を備えた人間が姿を現したような。

「涙の跡」、なんて甘美な言葉なんだろう、と思った。

なんて甘美で勇気のある言葉なのだろう。

初めて手にした、誰にも邪魔されない思考領域でわたしはうっとりと物思いに沈んで言った。

「泣いた」「涙の跡」ということばを知っているからには、

彼女もわたしと同じように禁忌を犯して泣いたことがあり、

わたしと同じように罪深い涙の跡をほほにつけたことがあるのだろう。誰もそんなことしないのに。

誰も感じたり考えたり感じたり考えたりしたことがある、とでもいうようなことをしてはいけないのに。

わたしはこう感じた、と泣いたり、わたしはこう考えた、と考えてものをいったり、

わたしはこう思う、といったりしたら、「わたし」を持ってはいけないのが、機械の人間なのだから、

「わたし」を持たないで、機械として生きている機械たちに、

「わたし」を出したら、「わたし」は、あっというまに、殺されてしまう。

それがこの世界だから。その世界の中で、泣いたり、涙の後をつけたりそんなふうに罪深い人間は、

世界にわたしたち二人だけかもしれない。

でも彼女はもっとすごい、だって、わたしが思うことすら出来なかった言葉をあんなにもどうどうと口にして。

わたしが知りもしなかった「涙の跡」という言葉さえ知っていて。

彼女もわたしと同じように、誰にも気づかれないように、夜、寝静まった家の中で、

布団のなかで、声を漏らすまいとしながら泣いているのだろう。

彼女はきっと、私以上に泣いているに違いない。

わたしが今日初めて知った涙の跡を彼女は今までにいっぱいつけて、

いっぱい涙の跡をつけたから、涙の跡という言葉も知ったのだろう。

今までにいっぱい泣いて、いっぱい涙の後をつけた、この世界の禁忌の中で戦ってきた彼女だから、

あんなにも力強いのだろう。

ずっとひとりで戦ってきた彼女だから、わたしの涙の意味が

彼女の涙の意味と同じだということに気がつかなかったのかもしれない。

わたしが何もいえないでいるうちに、彼女はわたしの涙が、彼女と同じ、

大人には見せてはいけない涙だと気がつかなかったのかもしれない。

子供がケガをしたり一人にされて、大人を求めて泣く涙だと思ったのかもしれない。

大人に絶望し、大人の世界を否定し、それでも大人の世界にいる自分に失望して流す、

誰にも見られないように、夜中にこっそり流す、彼女と同じ涙だと気がつかなかったのかもしれない。

私が彼女と同じ、彼女の仲間だと、知らなかったのかもしれない。

大人に受け入れられる子供の誰もが流す、ありふれた涙だと誤解したまま彼女は去ってしまったかもしれない。

私と彼女はこの世界で唯一同じ涙を流す、唯一理解しあえる唯一の仲間なのに、

彼女はわたしを誤解したままこのまま永遠に別れてしまうのかもしれない。

わたしははっとして彼女の姿を探した。

もういちど、彼女と会話の続きをしたい。

わたしが初めて本当に他者にかけられた言葉、

わたしが初めて本当に他者に返した言葉の続きをつむぎたい、激しい欲求が突き上げた。

彼女はまた、友人と教師の輪の中心にいて、わたしなどが近づけないようなエネルギーを放っている。

わたしは不思議になった。

彼女とわたしは同じなのに、どうして彼女はあんなに他人と一緒にいるのだろう。

どうしてわたしみたいに、誰とも理解しあわず、だれにも敵意をいだき、ひとりで、世界を憎んでいないのだろう。

わたしはじっと、みんなの中でわいわい騒ぐ彼女を見ながらしばらく考えてその答えを探った。

そのように騒いでいる彼女を以前も見かけたことがあった。

そのときは、うるさい、わたしの一番嫌いなタイプだ、とうっとうしく思って、そこから離れた。

わたしは光の中に産み落とされたばかりの新生児の思考でめまぐるしく考えた。

思考すること自体がわたしを興奮状態にし、初めて、誰のものでも無い、

わたしのものだけになるおもちゃを与えられたように、

実験的に思考をもてあそび、思考するために思考し、めまぐるしい回転で思考した。

産み落とされたばかりの赤ん坊のふにゃふにゃした筋肉のような思考。

わたしは彼女がわたしと同じでありながらわたしとまったく違う立場にいて、

彼女と同じ涙の後をつけているわたしが、

この世界で唯一の彼女の仲間だということに気がつかなかったのはなぜか、考えていた。

彼女を観察していてわたしは思った。

彼女はわたしと同じで、誰にも聞こえない声がわだかまる闇の中でだれにも聞こえず、

見えない涙を流しているはずなのに、

彼女はああして、あえてはしゃいでいる、彼女のはしゃぎようは、なんだか不自然だ。

不自然ということは、自然な状態にあるはずのものを、隠しているということだ。

彼女は、何かを隠すために、ああしてはしゃいでいるのだ。

彼女の自然なこととは、わたしと同じように、誰にも聞こえない声、誰にも見えない、

だれにも聞こえない涙を自分の中の闇の中だけに滴らせて続けているということ。

その自然な状態を、あえて不自然な状態にしているということは、自然な状態が許されないからだ、

意図的、非意図的な周囲の圧力によって、彼女の自然な状態が

周囲にとっての自然な状態という要請に搾取され、彼女は無理やり不自然にさせられているのだ。

わたしは不快な事実に思考が行き当たって苦い思いをした。

わたしたちが、誰もいない闇の中で泣くのは、それが、周囲の自然にとって不自然だから

逃亡犯のように隠さなくてはならないからだ。

ということは、誰かがいる光の中では、わたしたちの自然な状態は、その他者にとって不自然なことであり、

わたしたちは、他者にとっての自然な状態に、意図的非意図的に、

強制的に、わたしたちにとっての自然な状態を隠し、歪め、不自然に自然な状態を演出しているのだ。

毎日毎日、毎時間毎時間、毎秒毎秒、他者にとっての「こうあるべき自然な状態の世界」に、

わたしたちは、わたしたちの「こうある自然な状態の世界」の声を殺して

自分の声を殺して他者の声を自分の声として、

不自然を自然にしながら、歪み、抑圧し、つぶれているのだ

わたしたちは、毎日毎日、毎時間毎時間、毎秒毎秒。

わたしたちの、泣きたい声、怒りたい声、たすけを求めたい声、祈りたい声

呼びかけたい声は罪深く、自己中心的で、自分勝手で、プライベートで、

個人的なことで、だから、他者とは関わりなどなく、だから他者とは関わってはならず、

それは薄汚れた不可触民のように外に出ることを許されず隔離され、わたしひとりの闇の中だけに隔離され、

わたしが流す薄汚く罪深い涙は、外に、世界の中に、流れ出させず、自分の中の闇の底にだけに落とし、

他者の「一般的なこうあるべき世界」に侵入することを許されず、

でも他者の、「誰にとっても同じこうあるべき世界」は、

遠慮会釈なく、わたしたちの「こうある世界」に侵入してわたしたちの声を奪い、殺し、わたしたちは、毎瞬毎瞬、切り刻まれているのだ

奪われているのだ、喪失しているのだ、裁かれているのだ。

わたし自身であることを許されないのだ。いつも他者と同じ、他者のようでなければならないのだ。

そうすると他者の、「誰にとっても同じ世界」に受け入れられないのだ。

わたしの「こうある世界」に価値はなく、他者の「こうあるべき世界」しか価値は無いのだ。

他者の世界に受け入れられないということは、社会に受け入れられないということだ、

社会とは、人間が人間に人間として認められるところだ。

他者の世界に認められなくなったら、「わたしの世界」なんかにいたら、人間は人間でなくなる。

だからわたしは闇の中で泣くことで精一杯だった。

でも彼女はちがう。彼女はわたしとはちがう。もっとずっと強い。

泣く、涙の跡、という、わたしなどがくちにするのも恐ろしい言葉を知っていて、

しかもこんなに大勢の他者の中で、

見張られ聞きとがめられるかもしれないのに、他者の一般的な「みんなの世界」を否定する、

闇の中でひとりで流す涙、闇の中でひとりで出すべきプライベートな声を

昼の光の中で声にする信じがたい勇気があり、

自分ひとりの涙におぼれず、自分と同じような境遇の人間を見つけることができた。

彼女はなんて強いんだろう。ほれぼれし、感嘆し、はっとした。

だから、彼女は演技しているのかもしれない。きっと用心なんだ。

他者には許されない自分をわたしなんかよりずっと強くはっきりと持っている彼女だから、

他者に自分が狙われ奪われる前に、自分からあえて他者と関わり自分は他者と同じだと

他者に疑念を抱かせないためにしている演技なのかもしれない。

なんて強い子だろう。

「自分」であることを許さない他者の中にあえて飛び込み、なお自分でありながら

他者の目をごまかしくらませているなんて。

わたしは、他者に許されない自分の世界を夜に慰むだけで精一杯だったのに。

それだけでもう、自分が完全には消えないでいるのに精一杯だったのに。

そうか、だから彼女はわたしに気がつかなかったのかもしれない。

他者の世界と戦い、他者の目を意識して他者の目をごまかし、くらますために、精一杯だったから。

他者に自分を奪われないために演技するのに精一杯だったから、

わたしが彼女と同じ彼女の仲間だということに、気がつかなかったのかもしれない。

わたしは、あれほど大勢の敵としての他者の真ん中にいて騒いでいる彼女を見ながら、

なんて勇気のある子だろう、何とかしてもう一度彼女と話したい、

彼女に、わたしが彼女の仲間だということを教えなければならない、

わたしたちはこの世界の唯一の味方同士なのだ、

ということを伝えなければならないと思った。

でも彼女は他者の真ん中にいてわたしには手が出せない。

他者に手を出させないためには、逆に他者の真ん中にいて、要求される前に、

他者が求める人物像をあらかじめ見せてやればいい、

という彼女の戦略は、これほど功を奏しているのだと思った。

わたしはもう一度、わたしの沈黙によって断ち切られてしまった話しの続きを必ず彼女とすることを決めた。

空-10-08-29_008.jpg



12歳の頃、嫌なことがあって、マンションの屋上に昇った。


といっても、4階しかないボロアパートだから、高さもないし、


屋上なんてしゃれたものもない。


エレベーターもないから階段で登るしかない。


最上階まで上ると、寒々しい灰色のコンクリートの天井に、丸い穴が開いている。


蓋も何もない、雨が降ればそこから水が落ちてくるだけの、ただの丸い穴。





闇の篭ったこの場所から、向こう側に、


丸く切り取られた、光射す青空が見える。


そこに向かって、コンクリートの壁に、


打ちっぱなしの鉄梯子がついている。


それは、ただ、私の頭よりも、高いところから続いている。


私は、精一杯手を伸ばして、思い切り飛び跳ねて、やっと手が届いた梯子に掴まって、


壁を足で蹴って、体を持ち上げ、最初は腕の力だけで、一段一段登っていった。



穴から体を出すと、音が消えた。


風の音。


私は息をついた。


鳩尾に凝っていた、音にならない叫び声のようなものが、


やっと、空に溶けて消えていく。


屋上の端までいく。


誰も登らないようにしてあるのだから、柵も何もない。



端に腰を下ろして、そこからの風景を眺めた。


10数メートルほど足下の地面に、重力で下半身が引っ張られるのを感じる。


死まで十数メートル。


飛び降りる気などはない。


私は生きるために、気分を良くするために、


気持ちを慰めるために空を見るのだから。


ただ、少しでも地上から逃れ、空に近い所にいたかった。





黄昏が始まった。


世界が紅と黄金色に染まってゆく。


同じ高さに他の家の窓もあったから、


そこに私がいるのを誰かに見られてたかもしれない。


でも、そんなことはどうでもよかった。



何の音もしない、誰の手も届かないここで、世界が私に触れられないここで、


私は何も考える必要はなく、何も感じなくて良い。


ただ、この美しい景色に身を委ねていればいいだけ。


醜いコトも美しいコトも、


私の哀しみも寂しさも内包した世界は、


今、同じ焔色に包まれて燃えている。


ここから見える家々の、窓も、壁も、人も、風も、空も。



私は、世界が燃えて灰になり冷たく死んでゆくのを、


世界が終わって行くのを、見つめた。


私は肌寒さに震えた。


そこから離れて、給水塔に昇った。


まるで、いよいよ世界から遠ざかろうとするように。



給水塔に身をもたせかけた。


これからどうしよう ?


もうあそこには、還りたくない。


今は濃い青い群青の空の中には、私を煩わせるものは何もない。


ただ、私がここにいることを受け入れているだけ。



いつも、切なくて、哀しいほど、そこに行きたいと、望んでいた。


いつもただ受け入れてくれるだけで、私には、何も望まない空。


私が何を持っているとか、いないとか、私が誰であるかなどと気にしない空。


誰もいない空。


静かの海。


いつもものほしげに見つめることしかできない、決して手の届かない空。





大きな羽音がして、振り返ると、一羽のカラスが、この給水塔にとまろうとしていた。


でも、私を見つけてぎょっとして、


どうしてここに人間がいる ?


と言う疑問を顔に浮かべて、


それでもここで羽を休めようかどうしようか、


少しの間逡巡しながらホバリングしてたけれど、


向きを変えて行ってしまった。



私の手の届かない、あの空の向こうへ、行ってしまった。


その姿を見送りながら、私が届かんと望む場所は、


何と遠いことだろうか、と思った。



空を家にしていいのは、翼持つものだけだ。


私は、ようよう身を起こして、また穴に入った。


今度は一段一段降りて、私が住まうべき、


私がそこにいるべき地面へと還っていった。


這い蹲るべき、運命の生き物として。



私は生きるために、いつもそこにいた。


夕日が沈む場所。


立ち止まって空を見上げる、ひとりぼっちの場所。





夕日は好きだ。


私にとって、この世界で唯一、鑑賞するにたえるもの、見る価値のあるもの。


地には、見たくも聞きたくもない騒音に充ちている。


一日で一番豪華な、夕日の時間。





黄昏を見るとき、いつもそうなるのだけど、なんだか、


忘れたことを忘れてしまった何かを、思い出せそうな気がする。


それを思い出したくて、いつも時間を忘れてじっと見つめてしまう。


あの場所が、私の帰る場所に思えてくる。



手の届かない地平線で燃えている、手の届かない太陽。


この地上を後にして飛んで帰りたくて、懐かしくて、切なくて、涙が出てくる。


この時間になると、いつも「夕焼け小焼け」のチャイムが流れて、


家に帰ろうとみんなを促す。



でも私には帰る家がない。帰る家族がいない。


夕焼け色の光が、家々の窓に灯っていく。


夕焼け色の温もりが、家々に帰っていく。


私にはないもの。



でも、今、この瞬間だけは、私にも同じ光が灯り、同じ温もりが射すことが許される。


だから夕焼けが終わった後が、一番哀しい。


私の心のように、闇に閉ざされた、何も見えない空。





今日一日の命が燃え尽きる、命の火花が舞い散って、


金貨の花びらのように、惜しげもなく、世界に降り注ぐ、


世界で一番、豪奢な刻。



夕日は、帰り道を忘れてしまって、


この地上で迷子になって、


どこにも行けず立ち尽くしている、


私の帰りを、いつも待ってくれている唯一の場所。



地球が、よく見知った今日に別れを告げ、


見知らぬ明日に会いに行く刻、


私の居場所は、昨日と今日と明日が出会う刻、


拮抗する刻、進めも戻れもしない、


ただ立ち竦んでいる今、ここ。


そこにしか、なかったんだと思う。





最も美しいものは、いつもそこにいる。


誰を呼ぶでもなく、誰も呼び止めず、見られることを求めもせず。


誰にも聞こえない楽音を奏で、誰も見ない踊りを踊る。


誰も知らない、世界最高の、


孤独で、自由で、情熱的な舞踏。



いつも、人が見ることを許さない厳格な神のように、


無慈悲に地上を見下ろす沈黙の太陽、


青く冷たく下界を見下ろす、


どんなに手を伸ばしても、届かない空。



でも一日のこの時間だけ、太陽も、空も、今にも落ちてきそうに、


今にも、手の届きそうに感じられる。


いくら見つめても、もう、太陽は優しく近しくなり、


私の目を傷つけないし、空は歓喜に踊り、詠う。



大地と空の和解と、融和。


私は死ぬ瞬間まで、そこにいたい。


沈む夕日と共に命の落日を迎えたいと願う。

http://antwrp.gsfc.nasa.gov/apod/image/1003/equinoxp1_orman_big.jpg


Equinox + 1 Credit & Copyright: Joe Orman


船や飛行機では行けない 遠い場所


月の裏側 雨の向こう はるか虹の向こう側に


子守唄で聞いた場所がある



虹の向こうは青い空 そこは夢が叶う場所


星に願い 目覚めると 辺り一面 広がる雲


悩みなんて飴玉のように溶けてしまう



煙突より高い場所


そこに私はいる


虹の向こうを青い鳥が飛ぶ


鳥が行ける場所なら 私にも行けるはず


幸せの青い鳥が行ける場所 私にだって行けるはず


「Over The Rainbow」







いつの日のことか、私は、屍色した黄昏の中を、陰気に歩いていた、―――


陰気に、非情に、唇を噛みしめて。


私の足は、上へ、上へと努力して昇って行った。



上へ―― 私の足を、下へ、深みへと引き降ろすもの、


私の悪魔であり、宿敵であるあの「重力の魔」に逆らって。


上へ――


この魔物が私の肩に乗っていたにも関らず――。


山頂と、そして深淵、――それが今は一つのものとなった !





おお、ツァラトゥストラよ。


お前はあらゆる事物の根底を見、その背後に在るものを知りたいと願った。


だから、どうしてもお前はおまえ自身を乗り越えて昇らなければならない。



――上へ、上方へ。


お前がお前の星々をも眼下に見下ろすようになるまで !


私は私の最高の山に、また、私の最も長い漂泊の旅に直面しているのだ。



そのためにはまず、これまでに降りたことのない程深く、降りて行かねばならない。


ああ、運命と海よ !


お前たちの元に、私は、降りて行かねばならない!


「ツァラトゥストラ」







「窓のそばに連れて行ってちょうだい。」


とマリアンヌが云った。


「見納めに、日の沈むところが見たいから。」


「太陽が沈んだら、わたしはどこにもいなくなるでしょう。」


「人はすべて死す」シモーヌ・ド・ボーヴォワール

7才のとき、完全に風呂に入らなくなった。入浴も歯磨きもしなくなった。14才まで10年近く。

臭いも、汚れも、当然すごいことになった。歯垢が何重にもこびりついた。

でも、誰も何も言わなかった。私はそこにいなかったから。私はそこに存在しなかったから。



5才のころから、母と入浴するとき、熱い湯に決まった時間漬かり、

ナイロンのアカスリで全身力いっぱいごしごし擦られ、

熱湯のようなシャワーを浴びせられ、頭を振り回されるくらい頭を洗われ風呂から上がると、

いつも立ち眩みがして、しばらく気持ち悪くてうずくまり、身動きできないほどのぼせた。

入浴が嫌いな子供、少し乱暴に親に洗われる子供なんてきっと当たり前にいるんだと思う。

ただ私は、過剰反応するんだと思う。

いつも、一日中、狭いアパートの掃除ばかり取りつかれたようにしていた母。

母にしか見えないこびりついた汚物をこそげ落とそうとするように、

汚い、ああ、汚い、なんでこんなブタ小屋に住まなきゃならないんだ、

なんでこんなウサギ小屋に住まなきゃならないんだ、

と頭のてっぺんから突き抜けるようないつものキンキン声でわめきながら、

一日中、雑巾がけ、掃除機がけ、洗濯、家の掃除ばかりしていた。

家が汚物まみれのように掃除ばかりしていた母、まるで私が汚物まみれのように、

家を全力でこすりあげるようにアカスリで力いっぱいこすり、

汚い、汚いんだよ!!ここも!ここも!と金切り声でさも嫌そうに、忌々しげにつぶやきながら私を洗っていた母。

毎日、歯茎から出血するくらい、力いっぱい歯磨きされる。

どうしても清浄化できない、母の人生に忌々しくこびりついた汚物の塊みたいに。

たぶん、私が過剰反応する質なのだろう。

たぶん、私は憎悪しやすい質なのだろう。

母が私を汚ながり、汚い、気持ち悪い、と忌み、呪い、

よく、触らないで、暑苦しい、気持ち悪いといわれたけれど、

母が私に触るのを気持ち悪がった以上に、私は母に触られることに気持ち悪くて耐えられなかった。

母に触られた自らの体を壊すくらいに。

子供を避ける薄情な親、という自覚から目を背けるために、


「この世界中で誰よりも子供を愛する親」のパフォーマンスに励む。

親ほど子供を海よりも深く山よりも高く愛するものはいないとのたまい、


無理無理感が見え見えなスキンシップを積極的にとる。

毎夜の「おやすみのキス」、「お母さんとパパと一緒のお布団で寝る」


彼らと体が密着すると気持ち悪くて仕方なかったけど、

母たちが「子供になんの問題もなく接触している親(だから親には何も問題などなくて


何か問題があるなら、先天的に子供が異常だから)」

というアリバイ作りに協力するために耐えた。

毎夜母に「おやすみのキス」をされ続けた唇を私は自ら出血が止まらなくなるまで噛みきった。

母に汚物の塊のように洗われた体を自ら汚物の塊にした。

母にこじ開けられ手を突っ込まれた口を徹底してつぐんだ。



5歳のとき、唇の皮を剥く要領で、自分の口を自分の歯で噛み切ることを覚えた。

最初は皮を剥く感じだったんだけど、痛みと血の味に没頭状態になって皮を剥き


下の肉を歯で抉り、頬の内側の肉を噛み千切るようになった。

7歳のとき、唇の内側に陥没ができて、出血がとまらなくなった。

唇の皮を剥き始めた5歳のとき親にピアノレッスンと「クラシック音楽趣味」


を押し付けられてた知的障害の姉が、

出血するほど両手の指先の皮をむいていて、それをわたしは参考にした。

親は、私の唇に血が滲んでたり知的障害の姉が没我したように剥いて


両手の指先が血塗れてるのを見て「気持ち悪いことするんじゃないよ」と眉をしかめた。

最初は、唇の皮を歯で噛み千切って剥く要領で次に、皮の下の薄い皮膜をめくり、その下、その下、

一枚、一枚、というように皮を剥く要領で歯で少しずつ唇の肉を食いちぎっていった。

口の中にもなんだか太い血管が通ってるみたいで、ある程度深く食いちぎっていってあるとき、

ぶちっみたいな音がしたと思ったら、口の中で大量出血して焦った。

親に見つかる、罰せられる、やめさせられる、と焦った。

水ですすいでも赤い水は止まらなくて、わたしは喉をすべる血の味を飲んだ。

さすがに吸血鬼みたいに自分の口からぼたぼた血が滴り落ちたときは引いた。

頬や唇の内側に、自分で食いちぎった陥没ができると


そこから止まらない出血があふれ舌で確認すると、その陥没だけ温度がなかった。

中毒のようにやめられなくなった。

起きてる間はずっと、自分で自分に歯をたてていた。

自分で自分を食らおうとするみたいに。

なんだか酔う。

痛みと血の味に。

機械的な金気くささと、生物の生臭さ、機械と生物の融合は私の中で起きていた。血。

一瞬の鋭利な痛みじゃなく鈍く後を引く痺れる痛み。

10歳になるまでに私の口の中は自分で噛み千切った肉がズタズタになって


吸血鬼になっていつの間にか誰かの生き血をお腹いっぱい呑んだみたいに、

口の中と口から鼻に抜ける血の匂いで噎せ返りそうで、血の味でいっぱいだった。

それは手首を切るような明らかな自傷行為じゃないくて、誰にも気づかれないし、

なにより自分で自分に「これはちょっとした癖」と誤魔化して


目を背けられる自傷行為だったことが私にとって嬉しい発見だった。

5歳のとき、この方法を見つけたとき、実際嬉しかった。

生きる実感としての痛みを誰にも気づかれず自分に与えられることが。

やめられたのは、20歳ちかくになってからだった。

私は、憎悪せずにはいられず、何かを壊さずにはいられない質なのだろう。

それで、私は私の人生を壊した。

そしたら私の人生に関わる人もなりゆきで壊した。

14才のとき、私は臭気の塊で、トチ狂ったような振る舞いをしてていじめられさえしなかった。

触らぬ臭気の神に祟りなし、遠巻きにされてただけだった。



5才のとき、保育園で彼女に出会ってから、私は自ら率先して喧騒を作り出し、喧騒のただ中にいた。

人気者の彼女がそうしていたように。

彼女がやってたみたいに、ひとりコントひとり漫才みたいな言葉を繰り出してひたすらげらげら笑ってた。

「感情」を持つことが許されず、けれど、普通の人間のように


「感情」があるかのように「演出」しなければならない状況の中で、

「笑い」だけが、一番わかりやすくて曖昧さのない一面的な「感情表現」だったし、

自己放棄的な他者への、親への許容、認可アピールでもあった。

その理由も文脈も理解できなかったけど、彼女がそうして人と笑ったりしてたみたいに、彼女の物真似をして。

私が彼女になると決めてから。

私が私でなくなれば、何をしても何をいっても平気になった。

私が彼女になれば、なんでもできた。

彼女の顔をつけ、彼女の粉飾をしてもう私がどこにもいなくなれば


そこに彼女しかいなくなれば、自意識と自覚を捨てられた。

そんな有り様だったのにいじめられないことのほうが不思議だった。

たぶん、私が率先して、集団にある空気と流れを作ったからだ。

これでは当然いじめられると察した自己防衛でもあった。

人間なんて愚かなものだ。

空気と流れに従うだけの羊や鰯と同じだ。

空気と流れを率先して作れば、

それが私みたいなこじきであっても(親から浮浪者と呼ばれていた)、人は空気と流れを作るものに従う。

人に石を投げつけてもいい、人を声高に理不尽に糾弾してもいい、まず自分からそれをすればいい、

人はまず、新しい空気と流れを自分で判断することができないから。

だから、自分から判断材料を与えればいい。

さも正当そうな理由、なにより、自分の義憤をアピールすればいい。

まるで悪の枢軸のように相手を非難すればいい、

ことは自分だけの問題ではないと一般化すればいい、相手への非難に


少しことが違えば誰ともすり替え可能な欠点をあげつらい、

周りの人間に、少しずれれば自分が矢面になる、とそうとは気づかないくらい


隠微な恐怖と自己防衛を掻き立て、

この場は非難の矢面に立つ一人に対して周囲と同じ態度を取れば自分に火の粉はかからないんだ


と思わせればいい。

コツは、先制攻撃で人を非難することで周りに判断する猶予を奪い、本能的な恐怖と防衛本能を掻き立て、

判断するスキを与えないうちに自分から判断材料としてさももっともらしい


分析的な非難の理由と、それ以上に感情的な理由を与える。

自分だけではなく、周りの人間を守るためだという名目、正当化、正義の主張が一番手っ取り早くて強力。



傍観者の立場は自分で考えて判断しないし、自分に火の粉がかかる恐怖と防衛しか判断材料として持たない。

またそのように仕向けた場合、非難する本人が、自己本位な、けれどそうは見えない一般化した、

人を弾き攻撃するラインと、自己の共同体として人を守るラインを先導して引けば


羊と鰯的な人間は無思考に引かれたラインに従い、非難者につく。

非難者の攻撃が苛烈であるほど、見せしめとしての効果が高い。

非難の矛先が、人間の弱味的な、誰もが持ちえそうなもので


明確に攻撃を避ける理由がない曖昧な不安感を煽れば尚、

「少し違えば自分もあの立場になりうる」

「でも攻撃を避けるためには明確にどうしたらいいかわからないからとりあえず非難者の言い分の側につく」

という恐怖と防衛本能での行動を煽り易い。

だからいじめは権力的なものには向かわないし、権力的なものがあるどこででも起こる。

弱い者イジメは、「弱い者同士イジメ」なのだ。

弱い者同士で力の引っ手繰り合いをしてる。

まず率先してツバつけた的に自分が正義だと主張し


見せしめに誰かを攻撃し攻撃する者と守る者とのラインとルールを作る主導権を自分が握る。

こういうやりかたでクラスメイト同士を対立させたり反目させたり


ゲームのようにいじめを起こし人間関係を引っ掻き回すことができた。

こうして魔女狩りの下地ができる。

人間は馬鹿だ、と思った。



9才のとき、イジメの主犯格の子を中心にゲームみたいに日替わりでイジメの標的など誰にでも替わり、

私もイジメられたり私をイジメた子を私がイジメたり、茶番みたいなことを繰り返し、

イジメた子もイジメられた子も最終的にはイジメ主犯格の子が一番嫌いという意見で一意してた。

その日私はキレて、キレる理由などこじつけで何でもよく


キレる自分と憎悪に酔えればなんでもよかったのだけど、

イジメの標的にされていた子を口撃し、泣かせて学校から走りださせて一時行方不明にさせた。

イジメ加害の側にいて、憎悪があるラインを超えると自制が飛ぶ。

目の前の相手に、私が生殺与奪権を持っているような錯覚を持ち


煮ても焼いても引き裂いて殺しても何の罪にもならないという感覚に眩暈がした。

私の痛みと憎悪にはそれだけの正当な理由があるのだと、憎悪は私に確信させた。

私は自分も誰も彼も憎み、何物も許さず、全てを壊そうとした。

私の痛みを外に移植したかった。

言葉でどの部分を突けば一番弱い部分を抉るか、一番柔らかい部分を殺せるか、

逃げ場を失くして包囲網を作り、うさぎのように追い詰め


猛禽のようにじわじわと嬲り殺せるか、私は知っていた。

私自身がされていた経験で身を持って知っていた。

その時、私は、彼女を殺すつもりだった。

彼女の命も心も、言葉で殺す気だった。

私が死んだ時のように、私が殺された時のやり方で、やればよかった。

ふと見ると、私がキレて喚いている目の前の子どもは


いつも母に同じことをされているあの時の私の姿と同じだった。

母は何時間も喚くだけじゃなく、雨のように平手打ちを降らせたけど。

それに気づいても私は自分を止めることができず、ますます憎悪を募らせ声を張り罵詈雑言を喚いた。

そのとき、母がずっといつも私に感じていただろう憎悪が私に流れ込み


その子に喚く今の私と、私を打ちながら喚くあの時の母の姿が私の中で重なり、

私と母の憎悪の流れが私の中で合流し一緒になって膨れ上がり


どっちが母でどっちが私なのか、私の中で区別がつかなくなった瞬間、

目が眩むような真っ白な殺意が突き上げ、目の前の子供を殺そう、と思った。

その時、子供は不意に泣き出して、私の目の前から走り去った。


その瞬間、私の頭は冷めた。

こんなの私が母にされたことに比べれば生ぬるい方で


私なら母に同じ事、これ以上のことをされても、泣いたり走って逃げたりしない。

だから私が殺そうと思った子供は、母の前にいた、あの時の私ではなかった。

私だったら、痛みを憎悪に変え、いつでも殺してやる、と覚悟しながら母を睨むだけだ。

児童が時間の途中で学校から逃げ出したことで学校では騒ぎになり、教師と彼女の親に連絡が行った。

みんな彼女を探し回り、彼女へのイジメの所業は暴露された。

イジメの主犯格、学級でも「問題児」として教師に目をつけられていた


私を含めた複数人の子供は、教師に言われて直接彼女の家に行き、

彼女の親は、自分の子供が苛められていると、イジメの当の本人から聞かされた。

私は彼女の親に八つ裂きにされる覚悟をした。

私の母が私にするように。

どんな痛みも、痛みを痛みでなくする機械としての私の肥やしになる。

どんな制裁でも痛みでも受けて立つ、謝罪でも反省でもなんでもしてやる


けれど、絶対、見せない、私は私の痛みを見せない。絶対。

痛みだけの世界の中で、お前たちが私に加える痛みなど私には無効だと、嘲笑うこと。

それが私の復讐。

それが私のすべて。

けれど彼女の母親は、話を聞いて、まるで自分の方が叱られた子供のようにしどろもどろになり、

不明瞭な言葉を残したまま、よくわからないまま私たちは母親と別れた。

私はその様子を不思議に見た。

私の母親が、今のこの親の立場だったら、こんな顔や声をしたりしない。

もう外すことができなくなった世間用の余所行き顔とオクターブ高い声でヘラヘラ笑って、

うちの子が何もかも悪いんですよ、私たちもあの子の被害者なんです


あの子は頭がおかしくて、精神病院に入らなくてはいけないんです、


と、昼下がりのお茶会のように、自分の子をイジメて


制裁を加えてくれたお客様たちにお茶菓子でも出したかもしれない。



このとき私が感じたていたのは、自分でも意外だった、彼女が自殺したらどうしよう、という恐怖だった。

何も感じない、何も考えない、それが「機械」としての人間の正しいありかた。

だから、何をしても、何も感じない、何も考えない訓練をしなければならなかった。

私がどれだけ傷つけられても、私がどれだけ傷つけても、何も感じない。何も考えない。

そんな「機械」にならなければならなかった。

人に傷つけられる痛みと、人を傷つける痛みは、人の究極の痛み。

何も感じない、何も考えない、「機械」になるためには、うってつけの道具だった。

その究極の痛みに慣れさえすれば、その究極の痛みを喪失すれば


私は、これから生きる中で遭遇する、どんな痛みも感じなくなれる。

どんな「感情」も「思考」もなくなる。

何も感じない、何も考えない、とても強い「機械」になれる。

親が言ってた「人間は機械」になれる。

でもどれだけそう思っても、「彼女が自殺するのではないか」という恐怖と痛みは


振り払っても振り払っても、吐き気のように喉元に込み上げてきて、

それを振り払うために私は走って彼女を探した。

彼女を見つけて自殺を止めるためではなく、自分の感情を置き去りにして走り去るための口実に


彼女を探していただけだった。

何がそんなに怖かったのか、わからない。

彼女が死ぬことだろうか。

私が彼女を殺すことだろうか。

彼女を殺して責められることだろうか。

それとも、私の穢れと臭気に、誰も何も言わないし、誰も何もしないように


私が彼女を殺しても、誰も何もせず、誰も何も言わないまま、

人を殺した記憶を、世界の中で私だけ、ひとりぼっちで担わなければならない、

永遠に誰にも拭うことのできない、誰も見ることも触れることもできない痛みを、刻印されること、だろうか。

今でもわからない。

ただ私は、何も感じてはいけないのに、しつこい吐き気のようにつきまとう恐怖と痛みが


疎ましくて仕方なかった。

こんなことではいけないのに。機械にならなければならないのに。

でも、自分が何を感じているかを自覚することは、それを潰すためにも大事だから、


私はむしろ積極的に、自分が何を感じ、何を考えているかを自覚した。

それで、感じたそばから、考えたそばから、その意識を「潰し」


自分の名前も自分の存在も忘れ、一瞬ごとに記憶喪失になることもできた。

彼女は飼育小屋の裏に隠れているところを見つかった。

私はホッとしたというより、一度彼女が死んで、自殺して、私が危惧した恐怖を現実化して、

私が恐怖した可能性が何だったのかを明らかにしてほしかったとも思った。

人を壊す、という「究極の痛み」が、二度と消えない刻印として、私に焼き付けられ、

その痛みによって、私が壊れなければならないのかもしれないと思った。

二度と拭えない、永遠に取り返しのつかない罪が私に確定しなければならないと、いつもどこかで思っていた。

私がそうすれば、私が二度と取り返しのつかない完全な罪悪人になれば、

そんな私に比べれば、親はいくらでも非難の余地のないマシでマトモな善人でいられる。

人を傷つける痛みの究極は、人を壊すこと。

壊したものは、二度と元の形には戻らない。

二度と後戻りのできない、そこがすべての終わりの痛みの中に沈むこと。

その痛みの中で、私の中で何かが完成し、何かが完全に壊れる痛み。

彼女が自殺しなかったことで、彼女の自殺を恐怖したことで、


私は、その究極の痛みを回避してしまった、臆病者なのだと思った。

もしこの時彼女が自殺していたら、私は人殺しになっていた。



14才以降、少しずつ風呂に入り、歯を磨くようになったのは、そのときクラスで話してた子に


とうとう耐えられないというように、

「ねえ、くさいよ」といわれたからだった。

そういわれて、私のことが見えるんだ、私は、人に見えるんだ、と、びっくりした。

私は、誰にも私の姿は見えないと思っていた。

私の臭気も穢れも、言葉も声も、痛みも記憶も、私の存在が、幽霊のように不可視なのだと思っていた。

だから何をしてもいいんだと思っていた。

だから何もいう必要などないのだと思っていた。

少なくとも、親には私の姿は見えていない。

ああ、でも、今思うと、私の臭気に親が気づかないはずがなく、

「親に抵抗した私をあえて止めず汚物と臭気に突き落としたままにして恥をかかせよう」

というこれは親なりの、私と果てしなく続く権力闘争の中での復讐だったのだろう。

そういえば口論か何かの折りに、

「(私がこういうことをして) いつ気づくかなと思ってた。」

という母の言葉を聞いた記憶がある。

あのいつものまばたきをしない爬虫類のような真円の薄茶色の目を微動だにせずひたと私に据えて。

こういうことを思うと、よく私の身に悪いこと、良くないことばかり起きるのは


私が性悪だからしょうがないのだと思う。

・・・・・・・・・・



そういえば、この「終わり」というのも面白い言葉ではないか。

まるで「汚穢」と「気変わり」をいっしょにしたよう。

汚れが目立つようになり、何かが変わったことを告げることになる。

「音楽」 ウラジミール・ナボコフ