12歳の頃、嫌なことがあって、マンションの屋上に昇った。
といっても、4階しかないボロアパートだから、高さもないし、
屋上なんてしゃれたものもない。
エレベーターもないから階段で登るしかない。
最上階まで上ると、寒々しい灰色のコンクリートの天井に、丸い穴が開いている。
蓋も何もない、雨が降ればそこから水が落ちてくるだけの、ただの丸い穴。
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闇の篭ったこの場所から、向こう側に、
丸く切り取られた、光射す青空が見える。
そこに向かって、コンクリートの壁に、
打ちっぱなしの鉄梯子がついている。
それは、ただ、私の頭よりも、高いところから続いている。
私は、精一杯手を伸ばして、思い切り飛び跳ねて、やっと手が届いた梯子に掴まって、
壁を足で蹴って、体を持ち上げ、最初は腕の力だけで、一段一段登っていった。
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穴から体を出すと、音が消えた。
風の音。
私は息をついた。
鳩尾に凝っていた、音にならない叫び声のようなものが、
やっと、空に溶けて消えていく。
屋上の端までいく。
誰も登らないようにしてあるのだから、柵も何もない。
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端に腰を下ろして、そこからの風景を眺めた。
10数メートルほど足下の地面に、重力で下半身が引っ張られるのを感じる。
死まで十数メートル。
飛び降りる気などはない。
私は生きるために、気分を良くするために、
気持ちを慰めるために空を見るのだから。
ただ、少しでも地上から逃れ、空に近い所にいたかった。
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・
黄昏が始まった。
世界が紅と黄金色に染まってゆく。
同じ高さに他の家の窓もあったから、
そこに私がいるのを誰かに見られてたかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
・
何の音もしない、誰の手も届かないここで、世界が私に触れられないここで、
私は何も考える必要はなく、何も感じなくて良い。
ただ、この美しい景色に身を委ねていればいいだけ。
醜いコトも美しいコトも、
私の哀しみも寂しさも内包した世界は、
今、同じ焔色に包まれて燃えている。
ここから見える家々の、窓も、壁も、人も、風も、空も。
・
私は、世界が燃えて灰になり冷たく死んでゆくのを、
世界が終わって行くのを、見つめた。
私は肌寒さに震えた。
そこから離れて、給水塔に昇った。
まるで、いよいよ世界から遠ざかろうとするように。
・
給水塔に身をもたせかけた。
これからどうしよう ?
もうあそこには、還りたくない。
今は濃い青い群青の空の中には、私を煩わせるものは何もない。
ただ、私がここにいることを受け入れているだけ。
・
いつも、切なくて、哀しいほど、そこに行きたいと、望んでいた。
いつもただ受け入れてくれるだけで、私には、何も望まない空。
私が何を持っているとか、いないとか、私が誰であるかなどと気にしない空。
誰もいない空。
静かの海。
いつもものほしげに見つめることしかできない、決して手の届かない空。
・
・
大きな羽音がして、振り返ると、一羽のカラスが、この給水塔にとまろうとしていた。
でも、私を見つけてぎょっとして、
どうしてここに人間がいる ?
と言う疑問を顔に浮かべて、
それでもここで羽を休めようかどうしようか、
少しの間逡巡しながらホバリングしてたけれど、
向きを変えて行ってしまった。
・
私の手の届かない、あの空の向こうへ、行ってしまった。
その姿を見送りながら、私が届かんと望む場所は、
何と遠いことだろうか、と思った。
・
空を家にしていいのは、翼持つものだけだ。
私は、ようよう身を起こして、また穴に入った。
今度は一段一段降りて、私が住まうべき、
私がそこにいるべき地面へと還っていった。
這い蹲るべき、運命の生き物として。
・
私は生きるために、いつもそこにいた。
夕日が沈む場所。
立ち止まって空を見上げる、ひとりぼっちの場所。
・
・
夕日は好きだ。
私にとって、この世界で唯一、鑑賞するにたえるもの、見る価値のあるもの。
地には、見たくも聞きたくもない騒音に充ちている。
一日で一番豪華な、夕日の時間。
・
・
黄昏を見るとき、いつもそうなるのだけど、なんだか、
忘れたことを忘れてしまった何かを、思い出せそうな気がする。
それを思い出したくて、いつも時間を忘れてじっと見つめてしまう。
あの場所が、私の帰る場所に思えてくる。
・
手の届かない地平線で燃えている、手の届かない太陽。
この地上を後にして飛んで帰りたくて、懐かしくて、切なくて、涙が出てくる。
この時間になると、いつも「夕焼け小焼け」のチャイムが流れて、
家に帰ろうとみんなを促す。
・
でも私には帰る家がない。帰る家族がいない。
夕焼け色の光が、家々の窓に灯っていく。
夕焼け色の温もりが、家々に帰っていく。
私にはないもの。
・
でも、今、この瞬間だけは、私にも同じ光が灯り、同じ温もりが射すことが許される。
だから夕焼けが終わった後が、一番哀しい。
私の心のように、闇に閉ざされた、何も見えない空。
・
・
今日一日の命が燃え尽きる、命の火花が舞い散って、
金貨の花びらのように、惜しげもなく、世界に降り注ぐ、
世界で一番、豪奢な刻。
・
夕日は、帰り道を忘れてしまって、
この地上で迷子になって、
どこにも行けず立ち尽くしている、
私の帰りを、いつも待ってくれている唯一の場所。
・
地球が、よく見知った今日に別れを告げ、
見知らぬ明日に会いに行く刻、
私の居場所は、昨日と今日と明日が出会う刻、
拮抗する刻、進めも戻れもしない、
ただ立ち竦んでいる今、ここ。
そこにしか、なかったんだと思う。
・
・
最も美しいものは、いつもそこにいる。
誰を呼ぶでもなく、誰も呼び止めず、見られることを求めもせず。
誰にも聞こえない楽音を奏で、誰も見ない踊りを踊る。
誰も知らない、世界最高の、
孤独で、自由で、情熱的な舞踏。
・
いつも、人が見ることを許さない厳格な神のように、
無慈悲に地上を見下ろす沈黙の太陽、
青く冷たく下界を見下ろす、
どんなに手を伸ばしても、届かない空。
・
でも一日のこの時間だけ、太陽も、空も、今にも落ちてきそうに、
今にも、手の届きそうに感じられる。
いくら見つめても、もう、太陽は優しく近しくなり、
私の目を傷つけないし、空は歓喜に踊り、詠う。
・
大地と空の和解と、融和。
私は死ぬ瞬間まで、そこにいたい。
沈む夕日と共に命の落日を迎えたいと願う。
http://antwrp.gsfc.nasa.gov/apod/image/1003/equinoxp1_orman_big.jpg
Equinox + 1 Credit & Copyright: Joe Orman
船や飛行機では行けない 遠い場所
月の裏側 雨の向こう はるか虹の向こう側に
子守唄で聞いた場所がある
・
虹の向こうは青い空 そこは夢が叶う場所
星に願い 目覚めると 辺り一面 広がる雲
悩みなんて飴玉のように溶けてしまう
・
煙突より高い場所
そこに私はいる
虹の向こうを青い鳥が飛ぶ
鳥が行ける場所なら 私にも行けるはず
幸せの青い鳥が行ける場所 私にだって行けるはず
「Over The Rainbow」
・
・
・
いつの日のことか、私は、屍色した黄昏の中を、陰気に歩いていた、―――
陰気に、非情に、唇を噛みしめて。
私の足は、上へ、上へと努力して昇って行った。
・
上へ―― 私の足を、下へ、深みへと引き降ろすもの、
私の悪魔であり、宿敵であるあの「重力の魔」に逆らって。
上へ――
この魔物が私の肩に乗っていたにも関らず――。
山頂と、そして深淵、――それが今は一つのものとなった !
・
・
おお、ツァラトゥストラよ。
お前はあらゆる事物の根底を見、その背後に在るものを知りたいと願った。
だから、どうしてもお前はおまえ自身を乗り越えて昇らなければならない。
・
――上へ、上方へ。
お前がお前の星々をも眼下に見下ろすようになるまで !
私は私の最高の山に、また、私の最も長い漂泊の旅に直面しているのだ。
・
そのためにはまず、これまでに降りたことのない程深く、降りて行かねばならない。
ああ、運命と海よ !
お前たちの元に、私は、降りて行かねばならない!
「ツァラトゥストラ」
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「窓のそばに連れて行ってちょうだい。」
とマリアンヌが云った。
「見納めに、日の沈むところが見たいから。」
「太陽が沈んだら、わたしはどこにもいなくなるでしょう。」
「人はすべて死す」シモーヌ・ド・ボーヴォワール
