わたしはただもう一度彼女に再会したかっただけだ。

もう一度、彼女との会話を再開したかっただけだ。

でも、わたしはもうだれにも出会えない。もうわたしはだれとも再会できない。



もうわたしはどこにもいない、もうわたしは、誰にも見えない、誰にも名前を呼ばれない

どこにも存在しない「彼女」だから。



彼女になったわたしが、正反対の性格に豹変したのは傍目にも明らかだったと思う。

誰も、チェンジリングしたように彼女になることでわたしが失踪したこと、

私が失踪したことで「彼女」が誕生したことに気がつかなかった。



誰もわたしがいなくなったことに気がつかなかった。誰も、わたしがいたことを知らなかったのだ。

最初からわたしなど生まれていなかったように、訪れる人の無い墓のように、忘れられた死者のように、

だれも、わたしがいなくなったこと、わたしがいつかそこにいたことを、誰も知らなかった。




わたしがここにいたことを知っているのは、わたしと引き換えにこの世に生まれた「彼女」だけ、

わたしがここにいたことを忘れないでのは、この世に唯一ただ一人

かつてそこにいたわたしと引き換えに、今ここにいる、彼女だけ。



わたしがわたし自身であり続けるためには、彼女のようであることを、永劫、続けなければならない。

かつてはわたしだった彼女だけが、わたしがかつてそこにいたことを知っている、

覚えていてくれる、彼女だけが私が失われたことを悼んでくれる。




かつてのわたしの存在証明、今のわたしの不在証明をしてくれる存在は、

わたしが身代わりのように、子供のように産み落とした、彼女だけなのだ。

彼女こそが、失われたわたしのアイデンティティの身代わりだ。



かつては彼女のために欲していた「彼女であること」は、今度は、

失われたわたしを補完する存在として、必要とされた。



大人数の家族で、常に人肌と触れ合って人間のリアリティを感じながら生きている彼女は、

ものおじしない社交的で、明るく、明朗で、大人も子供も分け隔てなく、対等な態度で、

大人とも対等でいられるほど肝っ玉があって、情があり、

男の子とも対等に付き合えるほどマセていて男勝りで、

常に面白く、興味深いフレーズや冗談をぽんぽん思いついてみんなを笑わせ、

誰もに好かれ、みんなの人気者で、みんなと遊んだり騒いだり体を動かすのが好きで

要するに、わたしの正反対だった。




わたしは、その、彼女にならなければならなかった。

そのふりをしなければならなかった。それは多大なストレスだった。



彼女とはどういう人物か、彼女という正確な人物像に基づいて彼女と再会するために、

正確な演技をしなければならない、

というわたしの最初のころの注意深い観察眼は時間を追うごとに、狂っていった。





機械的で硬直した思考で、わたしは、めまぐるしく未知の世界の疑問に

事実と真実としての答えを出していった。

「わからない」「答えが無い」という許されない曖昧さや感情、事実、結論がない状態をつぶしていった。

時間を追うごとに、気が狂うような自己嫌悪は激しくなり、他者へのやましさは増し、

社会的な罪悪感は激しくなる。




わたしの存在の全部が嘘だ。

わたしは嘘の存在なのだ、わたしは虚構でできている、わたしは嘘でできている。

わたしのすべてがフィクションだ。

わたしの声、言葉、態度、性格、髪型、ぜんぶうそ、それはわたしではない、ここにいるのは、彼女だ。




誰と声を交わそうと、誰に言葉をかけようと誰と接触しようと、誰と関わろうと、

そこにいるのは、わたしではない、彼女なのだ。



わたしが彼女になった5歳のときから、わたしは行方不明だ。

誰もわたしには触れられない、関われない、見ることも聞くこともできない。

わたしはここにはいないから。わたしの存在を全部嘘にしたことで、

わたしをとりまく世界も全部嘘になってしまうことに気がついた。




わたしを取り巻く空気さえも、わたしに触れることはできない、うそのわたしに触れている、うそになる。

だから、今までわたしが声をかけた人、言葉をかけた人、

話した人、笑った人、触れた人、関わった人、目を合わせた人、

うそをついて、わたしがうその存在で、みんなをうそにしてしまって、

みんなをうその存在にして、ごめんなさい。





この手は彼女の手、この声は彼女の声、この言葉は彼女の言葉、彼女の耳、彼女の足、

彼女の思考、彼女の心理。

ここにいるのは彼女であって、わたしではない。

ここにいるのは、わたしであることをやめた、誰でも無い人間。




まるで、手で触れるもの全てを黄金に変える物語の中の存在のように、

わたしが触れるものはすべて、うそになる。

うそのわたしが触れるから、全てはうそになる。



わたしがここにいることをやめたから、わたしにとっては、誰もいない、

どれだけ声をかけても、言葉を交わしても、触れても、

ここにいないわたしの前には、誰もいることができない。




世界、他者、わたしを取り巻く空気さえもが、全部うそだ。

わたしがなにをいっても、それはうそになる。なにを感じても、それはうそになる。

何を決断しても、うそになる。わたしが何をしても、それは、うそだ。




わたしは最初は、自己と他者のリアリティを持つことができない家族の中で、

フィクションの存在として、イメージだけの存在として、リアルから隔絶された鳥かごの中に閉じ込められていた。

それから後に5歳になって、わたしは自ら自分を、リアルを抹殺し

リアルを隔絶したフィクションの中、終わらない舞台の中に自分を追放した。




つねに自分を全否定して始めてなることができる、「自分以外の誰か」になることが

わたしのアイデンティティになった。

自分の想像から生まれた、「自分の延長」でさえない、自分の想像も感情も情緒も思考も全否定し

正反対でさえあるもの、本来のわたしが望むあり方とは似ても似つかない既存の誰かを演出すること。




親、兄姉、友人、教師、クラスメイト、隣人、テレビの中のありとあらゆる人びと、

わたしいがいの誰か、わたしの価値観以外の価値観、わたしと異なり、

わたしを否定する全ての他者に、わたしがなること。

もう誰の対象にもならないこと。もう誰とも向き合わないこと。




全てを虚構化した欺瞞の檻の中で、リアルから隔絶されたガラス張りの中、

夢の中にいるように、ひとりでいること。

だれの対象にならない、ひとりでいること。

うそをつくこと、これ以上、リアルと他者の関係を空白化した否定と拒絶の牢獄はない。




真実が人を解放するのなら、嘘は、人を閉じ込める。

うそのわたしの存在そのものが世界の、人間の、他者のリアリティを破壊する。

それで、一番わたしの近くにいた彼女がわたしのうその破壊的影響を一番受けた。




わたしはまず、「こういうとき、彼女なら、どういう声で話し、どういう言葉を発し、

どういう行動をし、どういう態度でいて、どういう仕草をしてどういう接し方をするか」と考えてから、

考えながら、動く。

彼女であることがわたし自身なのだから、これは今でも続いている。




彼女としてなら、「わたし」のときにはできなかったこと、

人と話し、人と接し、人と遊ぶ、ことができることに気がついた。

自分が自分で無くなれば、自分は自分ではない、という欺瞞さえ受け入れられれば、

後は、誰にでもなれる、誰の振りでもできる、どうにでもなれる。




わたしは、仮面の自由を手に入れたことを知った。

仮面をつけるからこそ、仮面の裏に傷つかない、触れられない素顔をかくまい、

素顔ではできないこともできて、いえないこともいえる。



うその中では、できないことができて、誰にでもなれた。

男にも女にも、0歳にも一万歳にも、動物にも怪物にも赤い髪にも青い髪にもなれた、自由な解放感さえ感じた。

ただ、自分になることだけはできなかった。




このとき、始めて、この仮面の機能の有用性を見出した。

わたしは、世界で一番恐れている、親になれる、兄姉になることができる。

世界で一番怖いものに、わたしがなることができる。




ならもう、恐怖の対象になるのではなくわたしが、恐怖そのものになるのだから、

もうなにも、恐れるものは無い、ということに気がついた。




もともといなかったかもじれないが、自分であることをやめ清水の舞台から飛び降りて、

彼女というフェイクを被ることをしたとき、初めて自分が存在しない関係の空白に虚構の仮面で作られた

空白の関係を、結ぶことができた。




彼女が存在する前、わたしは、どこにもいなかった。

誰にとっても意味の無い存在、誰もが意味の無い存在だった。

わたしがいなくなって、彼女がいるようになったとき、

最初から、誰にとっても存在していなかったわたしは最後まで、

誰にとっても存在しないまま彼女として応対された。




「彼女」としてなら、わたしは、不在と空白の中から、かろうじて、フェイクとして、存在し実在することができた。

わたしがわたしのままだったらわたしの声も言葉もアクションも、

死者のように空白だったけど「彼女」として存在するなら、

フェイクとしての、虚構としての、声も、言葉も、アクションも存在することができた。




わたしがわたしのままだったら、わたしは、そこにはいなかった。

幽霊のように透明なわたしが、彼女に成ったことで初めて彼女の台詞をしゃべり

彼女の演出で脚色され、彼女の役名で、彼女の衣装をまとったことで、

初めてわたしは、生者のように、名前も姿も可視可能な誰かになれたのだ、何者かになれたのだ。




生来の目的をなくした彼女という仮面はわたしにとって、わたしのアイデンティティになり、

作ったものの使いどころのない兵器のように仮面というものの

本来の役割を果たすものに堕すだけのものになった。

素顔を隠して、素顔以上に、素顔の裏の本性を剥き出させるという仮面本来の役割に。



・・



自閉症者が自らの内面世界を自ら書き綴った初めての本、

ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」を読んだとき、

彼女がわたしと全く同じ経験をしてて驚いた。

わたしは自閉症などと診断されたことはない。




こういう経験をしたからこういう情緒、性格、体験、人生になったのではないのだと思った。

もともとそういう情緒だったから、誰になろうとも、誰のふりをしようとも、仮面という抽象性に迷いこんでも、

恐ろしいほど真実に、わたしはわたしでしかいられない経験、人生、性格、情緒でいたのだと思う。




わたしがわたしのままでいられず、わたしは喪失し、誰にも見えないどこかに、

誰にも意味を持たない地平に、失踪してしまうという。

彼女と再会する、という目的を喪失して、あとに形骸だけ残された彼女の仮面は、

ただ、仮面としての機能だけを果たした。




わたしと彼女は、一緒に遊ぶようになった。最初は遠慮がちに、人形遊びや、鬼ごっこや。

でもそのうち、彼女であることが、仮面であることに役割が変わっていったとき、

彼女は明朗活発で、もおおじせず積極的で、

元気でみんなの人気者だという彼女というものの情報は歪んでいき、

「元気で活発」なのは、単に「攻撃的」「暴力的」「人をたたくこと」と短絡し、

「みんなの人気者」であることとは、単に「誰もにいい顔をして、誰もに媚を売って取り入る」

という適応術に、「明朗快活」は単に、何がおきていても、笑い続けるというゲームに摩り替わった。





「彼女であること」の特徴は、元気で、活発で、男勝りで、物怖じせず、

面白くて、みんなの人気者で、おしゃべりで、生き生きしていて。

わたしは、そのまねをすることはできた、振りをすることはできた、

でも、彼女が彼女である、情緒は、理解できなかった。




理解できないまま、彼女のようであるために、ただ、笑った。

楽しく、みんなの人気者のように、元気に、男勝りに、物怖じせず、ただ、笑った。

わたしには、わたしをわたしたらしめる情緒は無い。




ただ、借り物の、彼女のようであることによってようやく

人間らしい反応をするための人間らしい情緒があるように見せかけることができた。

彼女になるまえのわたしは、存在していないように無反応だった。

誰にとっても、わたしなりの反応など期待されていなかった。




叩かれても、嘲笑されても、罵倒されても、放棄されていても何も考えなかったし、

何も感じなかったし、何もしなかったし、

何かするべき理由も思いつかなかったし存在していなかった。




また、わたしが存在していないことによって困る人、不満足を覚える人も、誰もいなかった。

ただ、無反応な無機質さに、無反応な敬遠によって遇されていただけだ。

むしろ、わたしが、現実に現実的な反応を返し、存在することで迷惑を覚える人

不満な人なら、存在したけれど。



それが、彼女のようになることで初めて、彼女の情緒を模倣し、

彼女のような情緒がある演技をすることによって初めて

現実に、現実的らしき反応を返すパフォーマンスを覚え、

現実に、人間性らしき態度をとる行動を覚え、他者に対峙する個人らしきパフォーマンスをすることを覚えた。




だけどそれは、わたし自身の内実、動機から生じたパフォーマンスではなかった。

人間ならこうするだろう、存在する生き物ならこう行動するだろう、

現実的な反応というのは、こういうものだろう、

他者にこう見られている「わたし」なら、こうするだろう、彼女なら、こうするだろう、という、

全て憶測と推測の、演技と模倣でしかなかった。




だから、往々にしてわたしができることは、笑うことしかなかった。

わたしは、実際には、そこにいなかったし、人間から人間であることを否定された、人間ではなかったし、

存在の意味を特に求められていない、存在していなかったし、現実の中になんか存在していない、

現実的な反応など求められない想像の中にしかいない、非現実的な存在でしかなかった。

わたしは現実的な存在などではなかった。現実的な存在としてそこにいることなど

今までに求められたことなど一度も無い。




わたしが存在したことなど一度もない。

現実に要求される、人間らしい反応、存在している生き物らしい反応、

誰かに反応を期待されている、誰かにとっての個人としての反応、

存在しているふり、人間のふり、「わたし」のふり、現実的な存在の振り、

今、ここにいいるふり、をしている、幽霊でしかなかった。




だから、わたしの今までの全ての行動と言葉と人生は、全て、何かのまね、誰かの模倣、だ。

テレビ、映画、隣人、家族、友人、知人、通りすがり、ここにいない、

存在しない、存在するふりをすることで、

始めてようやく存在できるわたしにとっては全ての他者が、わたしにとっては、

いわば憑依することで初めて声を発することのできる、憑依することで初めて誰かになり、

何かになり存在するふりをすることができる媒体だった。




そして、ただ媒体というだけではすまなかったのが、まるで、誰かに常に憑依していないと消滅してしまう、

実際の幽霊のような強迫観念に取り付かれていたことだ。

常に、誰かの声、誰かの言葉、誰かの顔、誰かの行動に憑依して

誰かに、何かに、なりすましていないと、本当は誰でもない、何でも無い、存在しない、

どこにもいない幽霊の「わたし」に戻ってしまう、という強迫観念。




そして、誰かであり、何かであり、存在するということが誰かのようであり、

何かのまねであり、振りである、ということは、

常に、台本が存在する役者のようでなければ存在しない、ということを意味した。



常に、誰かのようであり、何かの真似であり、存在する振りをする何かを媒体として初めて存在できるわたしは、

常に、見えない台本と、キューと、カメラと、観客がいて初めて存在する、

役者が舞台上でだけ存在させる、架空上のキャラクターだった。




わたしにとって、全ての他者は、わたしの自己不在を埋め立てる媒体であり、

架空上のキャラクターを、視線によってリアルの存在にしてくれる、わたしに実在性を与えてくれる観客であり、

誰でも無いわたしが、誰かになるために役を舞台上で演じる舞台のエキストラであり、

演出家であり、視聴者であり、脚本家であり、観客だった。




キャラクターに「ありのままで自然な素のらしさ」などというものは存在しない。

キャラクターに「自分に戻る」などという場面など存在しない。

キャラクターにとって世界の全ては、台本道り、脚本どおり、演出どおりに、ことはすすむ。



「彼女」になってから、わたしはひたすら笑った。それこそ「彼女」の特徴そのものだったから。

演出上笑ってさえいれば、情緒に関係なくそれは楽しくて面白くて、

人気者で何も問題は無いというフィクションは観客視点のリアルとして保たれる。




ただこの演出と脚本は時間がたつにつれ「わたし」という演出上の自己を「成長させる」につれ、

「社会」というさまざまなリアリティと無数にこまごまとした演出と脚色を要求される

非常に消耗される局面に直面した。



「彼女のように」楽しく元気に笑うことはできた。

でもただ毎日笑ってだけいる人間は存在しない。

そんな人間は脚本・演出上の失敗作であり、「リアリティ」がない。

わたしは「わたし」という一個のアイデンティティのリアリティを一から、

演出し脚色し創造しなければならなかった。




そのためのキャラクターの素材は、全てありあわせの他者のアイデンティティから借りる。

わたしには、存在すること人間であること、わたしであること、現実ということ、

現実的な反応をすることが、わからない。

かつ特に誰にも求められていない。

なのに、それをわかっているように見せかけねばならない「彼女」であるために。




だから、人間で、存在していて、「わたし」であり、現実とは何かをわかっている全ての他者の言動が、

わたしが、それらしく見せかけるための媒体になり、仮面のキャラクターを演出するための、素材になる。

そこで厄介になったこと、また病的でもあったのは、全ての他者の言動が、

わたしにとっては「現実的な人間がどうであるか」というお手本と見習いになったのだが、

それが、何の批判も疑問も呈されないうちに自動的に

「わたしとは違う現実的な人間はそういう風に反応するもの」、

として、即座に吸収、言動に、反映されてしまうことだった。




他者を映して初めて誰かとして存在し始める鏡のように。

わたしは鏡のように、万華鏡のようにくるくると出会う人の言動を

自然に無意識に模倣、吸収して、無数の名前と顔を持ち、

誰にでもなり、何にでもなることができた。




誰かになることで、初めて誰かとして存在することができる、鏡としてのわたしにとっては、

出会う人の他者の全てが、鏡が存在するために、幽霊が存在するために言動に反映させるための

媒体だった。

何を見ていても、「実在する人間のリアルの言動はどういうものか」

全ての他者の言動は、わたしの観察対象になった。




それは一種、仮面の解放感を味わわせた。

わたしは、誰にでもなれ、何にでもなれ、誰でもなく、何でもない。

現実のすべてから、フィクションと架空の舞台の中に解放されたのか、

現実から追放され、虚構と仮構の中に追放され、囚われたのか。




わたしの存在は、全部嘘。そうなると、どんなことでもできた。

わたしは、全ての現実的であることから解放され、許され、見放され、放棄され、

現実をすべてフィクション化した虚構の世界に生きることを許され、追放された存在、なにをしても許される、

わたしが何をしても、それは現実にはならない、現実の意味を持たない。




人を傷つけることも、人を殺すことも。

わたしは嘘のわたしになることで、親や兄みたいに強くなれた。

親や兄みたいに、わたしに痛みと恐怖を与え、この世が弱肉強食だと教えた彼らみたいに、今度は、

わたしが誰かに痛みと恐怖を与える強者であり勝者になることができた。



それは、わたしが、この仮面と虚構の裏でわたしを追放した現実にできる、唯一の復讐になる。

解放された獰猛な感情がわきあがった。わたしは彼女になるための笑いではない

もっと狂気的なひきつるように笑うようになった。




キャラクターにとって全ての他者、事象は道化だ。

だからわたしは彼女になって以来、一人でいることができなくなった、眠ることを恐怖するようになった。

自分のプライベートと向き合うことを恐怖するようになった。



最初からそもそもそこには、誰もいなかった、何も無かった、

不在と空白の自己でしかないものと向き合わなければならないことを恐怖した。

ひとりになって、自分と向き合うこと、夢を見て自己の深層心理を知ることを恐怖した。



常に誰かのようであること、いつかどこかでみたパフォーマンスにまみれ、

そのパフォーマンスの存在として観客に認知される存在としてそこにいなければ

「彼女」としてのわたしは消えてしまう、

わたし(彼女)は、どこにもいなくなってしまう。




初めて「誰かのようになること」で存在することができた仮面を壊されることを恐れた。

わたしはもうもともと、どこにもいなかったし、ここにはもういない。

わたしは、彼女でなくなること、誰でもない、何でも無い、自分自身に戻ることを恐れた。




笑ってさえいれば彼女でいることができた。

親にはわたしの変化は不評で「何馬鹿笑いしてるの、みっともない、ばっかみたい」と吐き捨てられた。

「いつも同じ、あのバカセガワとだけつきあってないで、もっといろんな子と遊びなさい」と言われる。

抑圧的な親は解放的で社交的なセガワを徹底的に嫌って、

セガワが家にわたしを訪ねてくると露骨に顔をしかめぶっきらぼうに応対した。

ウチのアスカにあまりかまわないでくれる、と。



  


わたしは、彼女を遊び半分に叩くようになった。

「彼女のように元気で活発になる」が、「わたしは攻撃的になる」と読み違えているわたしによって。

「元気で活発」であることとはどういうことかわからなかったけれど、

「攻撃的」であることなら、嫌というほど知っていた。




わたしにも、彼女と同じ共通点があって、わたしは狂喜した。

「元気で活発」とは、「攻撃的」であること、それは、わたしがいつも毎日親にされていることだから、

よく知っていた。

彼女であることは手探りだったけど、その情報だけは、わかることができた。




それは、親や兄姉に叩かれ、絶叫調で何時間も罵倒され裸で家を追い出されたり

嘲笑されたり兄姉からいじめられても無視されるということだった。

わたしは楽しそうに「活発に」笑いながら彼女のような男言葉を「元気に」吐きながら、彼女を叩いた。

わたしが彼女のようであるために。

ね、これで、あなたと同じでしょ、と。



機械的に手を動かしながら、胡乱に、義務感さえ感じながら、彼女を叩いた。

彼女は泣かなかった。

こわばった顔をして、薄く笑ったような顔をして困惑げに見返してくるだけだった。

今までは、わたしが人に犬猫のように叩かれるだけだったのが初めて、人を叩く側になった。




どれだけ叩いても、叩かれていたときのような痛みは、叩く側は、感じなくていいのだということに気がついた。

だから、みんな、叩かれる側ではなく、叩く側になろうとするのだろうか。

だからみんな、歯止めが利かなくなったように、壊れた歯車のように、人を叩くのだろうか。

自分は何も感じなくていいから。




実際、彼女をいくら叩いても、叩かれているときにわたしが感じた「痛み」、

叩く側と叩かれる側の間、そこに発生するはずである「痛み」のリアリティ、痛みの存在、痛みの現実を、

叩く側の新しい立場になったわたし自身は全く感じず、かつてのわたしがそこにいた

叩かれる側の彼女と共有できなかった。




まるでわたしと彼女のお互いの痛みの所在を探す実験のように、

取り憑かれた熱心さのようなものを持って、わたしは彼女を叩いた。

わたしと彼女の不思議な別離、隔絶感の正体が知りたくて、わたしは熱心に彼女を叩いた。




わたしは初めて、自分が人から「される」側ではなく、「する」側になった。

「する」立場の力と、「する」ことを肥大させる仮面の下で、彼女を機械的に叩くわたしの中で、

一瞬、たがの外れた欲望が燃焼し、彼女に無視されつづける苦痛、

今までわたしが「される」側だったことの苦痛、

それが許される復讐の環境の中で憎悪に変わって、一瞬、憎悪で彼女を殴りつけるように叩いていた。



「される」側ではなく、「する」立場になった側は、誰にでもいつでも、

個人的な憎悪の復讐を行えるのだということに気がついた。





彼女はわたしと遊ぶときに、年上の女、男きょうだいを連れてくるようになった。

彼らはわたしをいじめ、攻撃した。わたしは、彼女の神経を疑った。

どうしてこんなことをするの、わたしが何をしたというの。



わたしたちの遊びも変化した。

わたしたちは、お互いを殺しあうごっこ遊びをした。

同じ保育園に通っていて、近所に住んでいる、知的障害の少女を標的にして、ふたりでいじめた。




わたしは今度は、健常者で、親の期待を一心にあび、親の関心をすべて

姉から奪い独り占めしたと思う知的障害の姉に、

無条件に嫌われ憎まれいじめられ、「される」側ではなく、わたしをいじめる知的障害者をいじめる

「する」側だったから、わたしは彼女を、わたしの中でタガの外れた憎悪と復讐心のままに

容赦なく残酷にいじめた。




殺してもいいんだ、今まで「される」側だったわたしが「する」側に、いつ殺されてもおかしくないように、

いつも殺す、死ね、と願われて、実際そう言われているように、今度はわたしが、「する」側なんだから。

わたしはその子供をいつでも殺すこころの備えはできていた。わたしが「された」ように

「すれ」ばいいだけなのだから。




殺人事件のニュースを見るたびに、殺「される」ほうが悪いのに、

外の人たちは、何を騒いでいるのだろう、と思った。

わたしは、世界には、ふた通りの人間しかいないことを知っていた。




「好きなように人からされる」ものと「人を好きなようにする」もの、「弱い」ものと「強い」もの、「敗者」と「勝者」。

世界にはふたつの関係しかないことを知っていた。当然わたしは前者、「されるもの」。

だから何をされても死を願われても、そういわれても殺されても当然だ。

だから今度はわたしが強者であり勝者である「する」側になったら

弱者である「される」側には何をしても殺しても当然いいのだ。




そして彼女であることが、明朗(攻撃的)で元気(暴力的)で積極的(される側に対してする側)で、

誰にも好かれる(誰にも自分を批判させない)ならばそうした彼女は、絶対の勝者であり、強者であるはずだ、

彼女は、「わたし」のように弱者で敗者で、永遠に「される側」の人間になんかならないはずだ。




わたしが本当に、本当の彼女のように誰にも負けないほど強く誰をも「される側」にする、

誰もに「する」側になったらそのとき初めて、わたしは彼女の仲間になれるのだろうか。




歪んだ情緒が生む歪んだ思考、曖昧さや情緒、感情を許されず機械的で硬直した結論を急がされる子供は、

スイッチの入った動き出したシステムのようにこの思考回路で活動する「彼女」としての人生を生き始める。




自分の存在が許されるのは、誰かを貶め、傷つけ

敗者にするときだけという強迫観念と恐怖と憎悪が原動力の破壊機械になる。



もう「こういう時彼女ならどうするか」と考えない、反射の速度で「彼女であること」ができるようになっている、

彼女であることはわたしであることだから。

「彼女」であることはすべて技巧的にすること、演技と自己演出というコントロール下、意識の支配下にするもの。



・・



彼女の真実の痛みと、わたしのうその痛みとの、決して一つになれない、半身ずつの物語。

その中でわたしが見つけた最も痛みに満ちたことは、うその中では

どんな言葉も存在できないということだったかもしれない。



どれだけ言葉を費やしても、うそのなかでは言葉は実在権を自動的に喪失する。

うそのなかではどんな言葉もうそになる。



そもそも嘘の中には誰も生きて存在しない。

嘘は触れる全ての人間から実在を奪い殺す。嘘は嘘に触れる全ての生命を枯らす。



自分で自分の生についた拒絶と嘘は、反物質のように触れる存在すべてを対消滅させる。

嘘以上の大量殺戮者はこの世に存在しない。



ほんとうのわたしを護ってくれる盾、

そこで生きることができないほんとうのわたしに代わって現実世界を生きて、

現実世界の痛みも傷も一身に引き受けてくれるあなた、そこにいるのは私ではなく、彼女。




わたしがわたしでなくなれば、うそのわたしになれば、もう絶対に現実は私に手が届かない。

現実は私に触れられない。もう現実に傷つけられることはない、痛まない。

もうわたしは誰にも見つからない。もう誰もわたしに触れられない。もう誰もわたしを傷つけられない。




現実の手も声も、傷も痛みも、もうわたしに届かない。

もう誰もわたしの名前に触れられない。

わたしはもう現実にいることをやめたから。わたしはもううその中にいるから。

わたしの代わりに現実に傷ついてくれるのは、彼女。




すると、コントロールを離れ、得体の知れない無でしかなかった「わたし」に墜落する眠りが怖い。

思考が止まることが怖い。無と空白と不在の深淵が開く眠りが怖い。

それは彼女の仮面の盾の背後にいる「わたし」だから。



永遠の死の空白、その無、その不在は、名前が無いまま死んだ死者、名前を忘れられたまま死んでいる死者、

誰にもわたしにも、名を呼び、名に触れることのできない、名前のないまま死んでいる彼女は、わたしだから。