私が私でなくなったのは、5歳のとき。それ以前にわたしがわたしだったかわからない。

意識的にわたしでなくなったのは5才のとき。

5歳のとき、夜、布団の中でだらだら泣きながら神様仏様に手を合わせてお願いしていた。

神様仏様に願ったのは初めてだった。人生で最初で最後の、神様への唯一のお願い。

親を殺して。親を殺して下さい。親を殺して、兄を姉を殺して。そして私を助けて。

私を助けて。助けて、助けて、助けて、助けて。

家族を殺して、殺して、殺して、殺して。殺して、私をここから出して。

私をここから出して、出して、出して、出して。お願い。神様、お願いします。

それから別の理由で泣き始めた。

子供に死を願われるなんて親はなんて不幸なんだろう。わたしはなんてひどい子供なんだろう。

こんなわたしがどんなめにあってもそれは自業自得だ。

私みたいな子供を持って、親はなんてかわいそうなんだろう。

神様お願いです、わたしのせいで親が不幸になるくらいなら私を不幸にしてください。

親が可哀想で泣いた。自分が可哀想で泣いた。親と兄姉に死んでほしくてたまらなくてないた。

その願いはかなわないだろうから泣いた。それがかなったら哀しいから泣いた。

親を喪失することが哀しくて、親を喪失する以前に、親の喪失を願うことで、

すでに親を喪失していた自分を発見するだろうから泣いた。

わたしがたすかることとは、親が死ぬことなのだ。わたしがたすけを求めることとは、親の死を望むことなのだ。

わたしがわたしの幸せを望むこととは、親を殺すことなのだ。わたしはたすけを求めることをやめた。

たすけをもとめることをやめ、たすけられたい現実にいること忘れるために

感情、思考、感覚、記憶、意識、想念の活動を止めた。

世界で唯一こころをゆるせる叔母を思い浮かべてないた。

世界で唯一私の存在を許してくれている人、いいひと、やさしい人。叔母を求めて泣いた。

わたしがここにいるのは何かの罰で、わたしが悪いことをしたからで、

母がそのうち私のせいで間違いなく早死にするように、

わたしなんかに求められたら叔母もわたしのせいで早死にさせてしまうのだと思って泣いた。

わたしが求めるものは、全部、今、現実のここにはないものばかりだ、

だから私が求めれば求めるほどそれは壊れ、喪われ、

現実から欠けていくものばかりなのだ、叔母も、そう思って泣いた。実の母親と別離したように泣いた。

5歳ころから叔母の家にはよく実家から避難するようにお泊りに行った。

実の親に車で迎えにこられ、おばの家から別離するときは身が引き裂かれるようだった。

泣きながら闇に眼を浸して、神様に家族の死滅を願っていた

私の眼の裏に叔母の家から遠ざかる場面が離れなかった。

さみしい、ここは私の家じゃない、これは私の家族じゃない、

たすけて、本当のお母さん迎えに来てと泣いた。

保育園に行くのが嫌で泣いた。

わたしはこの家の法で生きている、外を壁で隔絶したうちの法で生きている、

外の法は通用しない、外の法では、もう、生きていけない。

もう外で生きられない。外のやりかたでは。神様、わたしをここからだしてください。いつも泣き疲れて眠った。

わたしは保育園に行くのが怖いと感じる。

人間は機械で、動かされ、命令されるとおりに動いていればいいだけなのに、

だから私はそういう風に存在しているのに、

周りの子供たちは、誰一人、誰にも動かされないのに、誰にも何もいわれないのに、

めいめい、好き勝手に、動きたいように、思い切り動き回っていた。

それは禁じられたことへの反逆であるはずだ。

人間は、命令されたこと以外のことはしてはいけない機械であるはずだ。

ここはそういう世界のはずだ。わたしはその世界の法を守っている。

なのにこの子供たちは、その世界の命令に逆らってだれもが最大の罪を犯している。

わたしは、何も感じない、何も考えない、何も感じてはいけない、何も考えてはいけない機械なのだ。

そう親に価値観をはっきり言葉で言われたのはもっと何年か先だけど、

わたしは「人間は機械だ」という親の思想を理解して体現している。

わたしは子供たちにおびえた。

この罪が許されるはずが無い、彼らの罪は世界に爆撃されるだろう、

わたしが巻き込まれる前に、いっそわたしがこの罪の子供たちを皆殺しにしたかった。

毎朝、母と保育園に行く。

このころなりだした便秘のせいで時には猛烈な腹痛に襲われ、

下痢をしたり、母親に毎朝飲ませられる牛乳を飲んで、吐いたりする。

母に、早くしなさい、保育園に遅れる、自分の体くらい自分でちゃんとしなさいだらしないと

トイレの外で怒鳴られる。

機械的に着替え、機械的に食事し機械的に移動する。

思考能力も記憶能力も何の精神活動も行っていない機械として自動的に扱われるだけなので、

機械として扱われているときのわたしは親に「余計なこと(親によく言われた言葉)」をしない、

機械化しているので、そういうときの記憶はまったく無い。

親と対峙しているときの記憶はほとんど無い。わたしは機械になっている。

母と手をつないで保育園に行く。犯罪人を連行するように母は険しい顔でわたしを連れて行く。

母の歩幅についていこうと足をもつれさせながら必死に歩く。早く、

しっかり歩きなさい、ちゃんとしなさい、だらしない、と怒られる。

だらしがなくて、ちゃんとしないから、母と同じ速度で歩けない自分の足を、わたしは呪う。

母の手に捕まえられたわたしは逃げられないと思う。

何でわざわざ母がわたしを連れて行くのかわからない。

母もわたしも、相手とは一緒にいたくないという点では同じはずだ。

「こっち、白い線の内側の方を歩きなさい」といわれて、よろけそうなほど体を押される。

「なんでお母さんが白い線の外なの?」と聞くと、

「車がぶつかってきたとき、アスカにぶつからないようにするためよ」という答えだった。

車がぶつかってきたとき、母がわたしの身代わりになるためだという。

わたしはその言葉に愛情を感じようと努力して感じたのは罪悪感だけ。

車がぶつかってきて母が死ぬんだらそれはわたしのせいで死ぬんだ。

私が親を殺すんだ。

保育園につくと先生が中腰になって「おはよう~」と陽気な声を出してくるのに、

今まで母の不快を受け取ってきてやり場のない不快をぶつける、

無言の上目遣いでねめつけて答える。

先生の愛想笑いがすこし引きつる。腰が少し引ける。

わたしはそれに少し溜飲をさげる。愛想笑いはいらない、偽りの愛情の言葉も。

わたしの顔を覗き込むために腰を折らなければならない先生も、

親も、大人には、わたしの本当の顔を見ることは出来ない。

私の目線で見えるものを視ることはできない。

いつも子供の頭の上からものを見ることに慣れていて、

子供の目線になるために苦労しなければならない大人は、

自分の苦労を惜しむ大人はわたしの目が視ている世界を見ることは出来ない。

わたしの見ている世界を見ることが出来ないのにしいて努力して、

いかにも私の目線と同じものを見ているようなことをしないでよ。

いかにも私と同じ世界を共有しているように見せて勝手に私を自分の仲間にしないでよ。

あなたが私の世界の仲間になることが出来ないのに、わたしをあなたの世界の仲間に勝手にしないでよ。

笑って挨拶すれば済むだけの平和な世界の仲間になんかしないでよ。

わたしは教師に感じた不意の激しい憎悪にたじろいで立ち尽くした。

これはなんだろう。感じてはいけないものを感じている、考えてはいけないことを考えている。

自分と他者のあいだの亀裂を初めて感覚的に捕らえ思考的に捕らえた経験かもしれない。

わたしは首を回して母を探した。向こうで教師と立ち話をしている。

わたしが感じてはいけないことを感じ、考えてはいけないことを考え、

いけないことをしたことには気がついていないようだ。

わたしに笑いかけることに失敗した教師と、機械的に「社交」という儀式をこなして、

不自然にぎこちなく笑いながら「世間話」をしている。

母は演じなければならないから、私がした、いけないことに気がつかないのだ。

機械の母は、「社交的世間話」が出来る「人間」であることを演じなければならないから。

わたしは自分の中に初めて、自分の激しい声をきいた。

自分の中に、親にばれずに、ささやかに感じ、考えるスペースとしての自由の余地を得た。

親の言葉や行動に時間差の無い条件反射的な感情、思考、というより、

無感情、無思考という反応を返すのではなしに。

今までは親の言葉とそこにふくまれる、思考や感情や

ものの見方を自動的にうのみにし嚥下してきたものを、一度自分の目を通してみるフィルターができたような。

今までは、私の眼の中にいた親の目を通してみていたのを

自分の眼の中心に自分を置いて見えるようになったというような。

わたしは自分の中に自分の声を聞くささやかな自由なスペースを得たことを発見して、

でもそんな自由を得たからって、どこにいけるわけでもなし、それよりも、今まで身を縮め、

仮死のように硬直していることでなんとかしのいでいた世界に

やっかいな変化を起こしただけかもしれない。わたしは考えていた。

自分の中で誰にも強制されない自分の声を出せる活動を実験していた。

端から視ると、保育園の喧騒の真ん中でぼんやりと突っ立っているように見えただろう。

この声を以前も聞いたことがあったのに気がついた。夜の中で。

寝静まった闇の中、一人でようやく自分を取り戻して、自分の中で自分の声を聞くことができる時間。

感情も思考もなく、感情も思考も必要とされず声もなく、声も必要とされず他者の声で動かされるだけの

自動人形のような昼間のわたしが終わって、

誰の声にも動かされない、夜のわたしが目覚める時間。

わたしがわたしをどう思い、どう感じ、どう動かすかは必要なく、

わたしがわたしの身体感覚の所有権を主張する権限はなく他者の声がわたしの手足を動かし、

他者の声がわたしの存在がどうであるかを決める他者の必要がわたしの必然を生む、

昼間の舞台時間が終わって、他者の声の操り糸が途切れた暗幕の中でわたしは初めて、

他者に奪われていた自分の身体感触を取り戻した。

誰の声も無い闇の中で、初めて自分の声を聞いた。

だからわたしは、誰もいない闇の中で泣き、憎み、絶望し、諦め、祈り、助けを求め、思い出した。

夜の中でしか聞こえなかったはずの自分の声が教師へたたきつけた否定感情と憎しみによって

初めて昼の光の中、大勢の他者の中にいながらわたしの中で響き渡った。

夜にしか目覚めないはずのわたしがわたしの中の夜の闇の中にうずくまっていたところから、

他人の声だけを聞いて動く、昼のわたしの眼を通して見える光の中に闇の中から不意に声を上げた。

わたしは驚き身をこわばらせた。

だれかにこの声が聞こえ、わたしが闇の中でどんなことを考えているか、ばれやしまいか。

辺りをうかがうと、わたしにしか聞こえない声は、誰にも聞こえているふしは無い。

それもそうで、この声は、誰にも声が届かなかった闇の中からこそ生まれ、

誰にも聞かれないために、闇の中だけでささやかれてきたのだ。

わたしは、誰にも聞かれないわたしだけの声をわたしの中だけで出せることに背徳的な興味を抱き、

他者の喧騒の中で、自分の中の闇の声だけに意識を凝らす実験をし、自分の声を強化し、

没頭し、他者の視線と声という昼舞台の光の中、

自分だけの声があげる、めまぐるしい思考の回転を可能にしたことを発見した。

わたしは誰にも気づかれないうちに他者がわたしにつないでいる操り糸をほぐし、

誰にも気づかれないうちに自分で自分を自由に動かせる領域を奪還し、まんまとだしぬいた愉悦に微笑った。

わたしは不意に、保育園に来て初めて、誰かと話がしてみたくなった。

初めて私がわたしの中で聞いた自分の声が誰かに響くのを自分で聞いてみたくなった。

わたしの中にずっと閉じ込められていた闇の声がわたしの声を閉じ込めてきた昼の光を侵すのを

聞いてみたくなった。

わたしはそのへんを色の洪水のようにして走り回っている子供たちのうちの一人に

ものほしそうな、声をかけてもらいたそうな目を向けてみた。

そのうちのひとりが私に近づいてきた。大勢の子供たちと、教師とすら混じって対等に話していた子だ。

その子が群れの中心から離れて私のほうに来た。

わたしはその子を見ていた。その子は私を見た。

いまなら、わたしも他の子と同じようにできるかもしれない。みんなと遊んだりみんなと話したり。

その子は、私の前に来ると立ち止まり、私をまっすぐ見つめ、開口一番「あれ、泣いたの?」と訊いた。

その言葉のあまりの衝撃にわたしは思考停止になって言葉につまり、

沈黙の中に引き下がりたい欲望をかろうじて抑えて

(ここで引き下がってはやっと得た「言葉」を再び喪失してしまう)、

やっとのことで、言葉が詰まった喉から一つだけの言葉を押し出した。

「どうして?」それだけいうのがやっとだった。

「だって、ここに、涙の後がついてるよ」 

彼女は人差し指で自分の頬をなぞってから、わたしの頬を同じ仕草でなぞった。

私の中で千もの思い、百もの言葉が音を立てて沸騰し、のどもとでせめぎあい、

私の口からは何一つ出てこなかった。

私の中で言葉がぎゅうぎゅうづめになったように棒立ちになっていた。

私の中からはもうそれ以上の言葉は出てきそうになかった。

わたしは、どれだけ母にぶたれても罵られても感じたことのなかったこと、

初めて言葉によって人に近寄られ触れられたことに、

思い出したように急に怖気ずいて、体が強張った。

それを察したのか、彼女はわたしから身を引いた。

わたしがそれ以上何もいえないでいるうちに、なにかいわなくては、これ以上、もっと、

と思っているうちに、彼女は教師に呼ばれて行ってしまった。

わたしはただ彼女を見送ることしかできなかった。

衝撃が去って始めてわたしは再び思考し始めた。

母親や父親から、気持ち悪いとしか感じられないスキンシップを受けたり

兄や姉から身体的にいじめられたりしても、

わたしはそこに、わたしと他者が接触していると「感じ」たことは一度もなかった。

彼女に話しかけられてわたしは始めて、人間と言葉を交わした、

彼女に近寄られて、わたしは始めて、人間と近づいた、

彼女に触れられて初めて、わたしは他者と触れ合ったと思った。

わたしたち家族は、今まで、一度も、お互いにとって、存在したことがなく、

生きていたことがなく、触れ合ったことがなく、

一緒にいたことがなく、出会ったことがなく、知り合ったことがなく、

お互いの存在のリアリティを「感じ」ることがなく、

リアリティとして一度も存在したことがなく、わたしたち五人は最初から、永遠にひとりぼっちの家族たちだった。

わたしにとってこの時の彼女が、わたしがこの世で初めて出会って、

最初に言葉を交わした、最初の人間だった。

わたしが生まれて初めて聞いた最初の声、最初の言葉、彼女との最初の触れ合いだった。

わたしは、「泣いた」という言葉、「涙の跡」という言葉に衝撃を受けて立ち尽くしていた。

それは、わたしには、絶対的にタブー視されている感情の領域に属する言葉。

わたしには、おおっぴらにそんなことを口にすることはおろか、そんな言葉を、

プライベートな思考領域でさえ思い浮かべることさえできなかった。

「泣く」「涙」という単語くらいは知っていたけど、

「涙の跡」なんて世界が急に鮮やかに染まるような響きの単語は知らなかった。

泣くということは、親に持つことが許されていない感情に属すこと、

親が言うには、世界の人間が絶対的にタブー視していることなので、

誰もそんなことをしていないので、そんなことをしているのは、世界にわたし一人だけだから、

いくら泣いても、その行為は誰にも言葉をあてはめられず、名づけられず、名を呼ばれない行為なのだ。

でも逆にそう考えて、泣くという禁忌の行為も誰にも見られていない夜中にだけ、おおっぴらにすることができた。

誰にも言語化できない行為、誰にも名を呼ばれない行為なら、

隠れて多少おおっぴらにやってたところで、仮にその悪事がバレても、

誰にもそれが何なのか理解できないだろうから。

ただわたしが知らなかったのは、泣くと涙の跡がつくということだった。

この世に、涙の跡、という名前があることだった。

泣くと、その行為は、誰にも見えない夜の中であっても、物理的にも、心理的にも、言語的にも、

誰にも知られまいと思っていた行為でも、「涙の跡」として、

他者的なもの、外部的なものになる、ということだった。

これからは、泣くとき、人知れず罪深い感情を味わうときは、いつどこで、それが外部的なものとして、

露見しているかわからないから気をつけよう、と思った。

涙の跡がついていても、だれもその名称を知らないのだろうと思った。

それが何なのか、だれも意味を知らないのだろうと思った。

だれにもわたしの顔など見えないのだろうと思っていた。

誰にとってもわたしなど存在していないのだろうと思っていた。

わたしは誰にも聞こえない声で、誰にも見えない涙をすすり泣く、幽霊なのだと思っていた。

まだ生まれていない幽霊、あるいは、もうとっくに死んでいて、それに気がつかない幽霊なのだと思っていた。

誰にもわたしが見ているのと同じ世界など視てはいないのだろうと思っていた。

この世界では誰も泣かないのだから、誰にも感情など無いのだから、

誰も考えないのだから、だれも「わたし」をもたない機械なのだから。


彼女とわたしにだけ、その意味を理解できる暗号だったのだ。

この世界で、同じことをしている仲間は、きっと、わたしと彼女だけなのだろう。

だから彼女はわたしの顔を初めて見る人間になった。

彼女とわたしが同じだから、わたしと同じ目線の彼女だから、わたしと同じ世界を見ている彼女だから、

初めてわたしの「涙の跡」を見つけることが出来た。

だから彼女が初めて、涙の跡を顔につけているわたしの向こう、

涙の跡の向こうで、誰もいない夜の中で泣いている、

誰にも見えなかった、誰にも聞こえなかった誰にとっても存在しなかった

もうひとりのわたしを見つけることが出来た。

この世界にたったひとりぼっちの誰にも見えなかったわたしを彼女は初めて見つめた人だった。

わたしは、わたしの闇に葬られていたリアリティを初めて見つめた彼女の眼差しによって、

生まれて初めて、そこに存在した。

まるで、灰色のもやの中に沈んでいた世界の中から生きた人間が姿を現したような。

まるで、全てが実体の無い霞のような偽りと嘘の世界の中から、急に実態を備えた人間が姿を現したような。

「涙の跡」、なんて甘美な言葉なんだろう、と思った。

なんて甘美で勇気のある言葉なのだろう。

初めて手にした、誰にも邪魔されない思考領域でわたしはうっとりと物思いに沈んで言った。

「泣いた」「涙の跡」ということばを知っているからには、

彼女もわたしと同じように禁忌を犯して泣いたことがあり、

わたしと同じように罪深い涙の跡をほほにつけたことがあるのだろう。誰もそんなことしないのに。

誰も感じたり考えたり感じたり考えたりしたことがある、とでもいうようなことをしてはいけないのに。

わたしはこう感じた、と泣いたり、わたしはこう考えた、と考えてものをいったり、

わたしはこう思う、といったりしたら、「わたし」を持ってはいけないのが、機械の人間なのだから、

「わたし」を持たないで、機械として生きている機械たちに、

「わたし」を出したら、「わたし」は、あっというまに、殺されてしまう。

それがこの世界だから。その世界の中で、泣いたり、涙の後をつけたりそんなふうに罪深い人間は、

世界にわたしたち二人だけかもしれない。

でも彼女はもっとすごい、だって、わたしが思うことすら出来なかった言葉をあんなにもどうどうと口にして。

わたしが知りもしなかった「涙の跡」という言葉さえ知っていて。

彼女もわたしと同じように、誰にも気づかれないように、夜、寝静まった家の中で、

布団のなかで、声を漏らすまいとしながら泣いているのだろう。

彼女はきっと、私以上に泣いているに違いない。

わたしが今日初めて知った涙の跡を彼女は今までにいっぱいつけて、

いっぱい涙の跡をつけたから、涙の跡という言葉も知ったのだろう。

今までにいっぱい泣いて、いっぱい涙の後をつけた、この世界の禁忌の中で戦ってきた彼女だから、

あんなにも力強いのだろう。

ずっとひとりで戦ってきた彼女だから、わたしの涙の意味が

彼女の涙の意味と同じだということに気がつかなかったのかもしれない。

わたしが何もいえないでいるうちに、彼女はわたしの涙が、彼女と同じ、

大人には見せてはいけない涙だと気がつかなかったのかもしれない。

子供がケガをしたり一人にされて、大人を求めて泣く涙だと思ったのかもしれない。

大人に絶望し、大人の世界を否定し、それでも大人の世界にいる自分に失望して流す、

誰にも見られないように、夜中にこっそり流す、彼女と同じ涙だと気がつかなかったのかもしれない。

私が彼女と同じ、彼女の仲間だと、知らなかったのかもしれない。

大人に受け入れられる子供の誰もが流す、ありふれた涙だと誤解したまま彼女は去ってしまったかもしれない。

私と彼女はこの世界で唯一同じ涙を流す、唯一理解しあえる唯一の仲間なのに、

彼女はわたしを誤解したままこのまま永遠に別れてしまうのかもしれない。

わたしははっとして彼女の姿を探した。

もういちど、彼女と会話の続きをしたい。

わたしが初めて本当に他者にかけられた言葉、

わたしが初めて本当に他者に返した言葉の続きをつむぎたい、激しい欲求が突き上げた。

彼女はまた、友人と教師の輪の中心にいて、わたしなどが近づけないようなエネルギーを放っている。

わたしは不思議になった。

彼女とわたしは同じなのに、どうして彼女はあんなに他人と一緒にいるのだろう。

どうしてわたしみたいに、誰とも理解しあわず、だれにも敵意をいだき、ひとりで、世界を憎んでいないのだろう。

わたしはじっと、みんなの中でわいわい騒ぐ彼女を見ながらしばらく考えてその答えを探った。

そのように騒いでいる彼女を以前も見かけたことがあった。

そのときは、うるさい、わたしの一番嫌いなタイプだ、とうっとうしく思って、そこから離れた。

わたしは光の中に産み落とされたばかりの新生児の思考でめまぐるしく考えた。

思考すること自体がわたしを興奮状態にし、初めて、誰のものでも無い、

わたしのものだけになるおもちゃを与えられたように、

実験的に思考をもてあそび、思考するために思考し、めまぐるしい回転で思考した。

産み落とされたばかりの赤ん坊のふにゃふにゃした筋肉のような思考。

わたしは彼女がわたしと同じでありながらわたしとまったく違う立場にいて、

彼女と同じ涙の後をつけているわたしが、

この世界で唯一の彼女の仲間だということに気がつかなかったのはなぜか、考えていた。

彼女を観察していてわたしは思った。

彼女はわたしと同じで、誰にも聞こえない声がわだかまる闇の中でだれにも聞こえず、

見えない涙を流しているはずなのに、

彼女はああして、あえてはしゃいでいる、彼女のはしゃぎようは、なんだか不自然だ。

不自然ということは、自然な状態にあるはずのものを、隠しているということだ。

彼女は、何かを隠すために、ああしてはしゃいでいるのだ。

彼女の自然なこととは、わたしと同じように、誰にも聞こえない声、誰にも見えない、

だれにも聞こえない涙を自分の中の闇の中だけに滴らせて続けているということ。

その自然な状態を、あえて不自然な状態にしているということは、自然な状態が許されないからだ、

意図的、非意図的な周囲の圧力によって、彼女の自然な状態が

周囲にとっての自然な状態という要請に搾取され、彼女は無理やり不自然にさせられているのだ。

わたしは不快な事実に思考が行き当たって苦い思いをした。

わたしたちが、誰もいない闇の中で泣くのは、それが、周囲の自然にとって不自然だから

逃亡犯のように隠さなくてはならないからだ。

ということは、誰かがいる光の中では、わたしたちの自然な状態は、その他者にとって不自然なことであり、

わたしたちは、他者にとっての自然な状態に、意図的非意図的に、

強制的に、わたしたちにとっての自然な状態を隠し、歪め、不自然に自然な状態を演出しているのだ。

毎日毎日、毎時間毎時間、毎秒毎秒、他者にとっての「こうあるべき自然な状態の世界」に、

わたしたちは、わたしたちの「こうある自然な状態の世界」の声を殺して

自分の声を殺して他者の声を自分の声として、

不自然を自然にしながら、歪み、抑圧し、つぶれているのだ

わたしたちは、毎日毎日、毎時間毎時間、毎秒毎秒。

わたしたちの、泣きたい声、怒りたい声、たすけを求めたい声、祈りたい声

呼びかけたい声は罪深く、自己中心的で、自分勝手で、プライベートで、

個人的なことで、だから、他者とは関わりなどなく、だから他者とは関わってはならず、

それは薄汚れた不可触民のように外に出ることを許されず隔離され、わたしひとりの闇の中だけに隔離され、

わたしが流す薄汚く罪深い涙は、外に、世界の中に、流れ出させず、自分の中の闇の底にだけに落とし、

他者の「一般的なこうあるべき世界」に侵入することを許されず、

でも他者の、「誰にとっても同じこうあるべき世界」は、

遠慮会釈なく、わたしたちの「こうある世界」に侵入してわたしたちの声を奪い、殺し、わたしたちは、毎瞬毎瞬、切り刻まれているのだ

奪われているのだ、喪失しているのだ、裁かれているのだ。

わたし自身であることを許されないのだ。いつも他者と同じ、他者のようでなければならないのだ。

そうすると他者の、「誰にとっても同じ世界」に受け入れられないのだ。

わたしの「こうある世界」に価値はなく、他者の「こうあるべき世界」しか価値は無いのだ。

他者の世界に受け入れられないということは、社会に受け入れられないということだ、

社会とは、人間が人間に人間として認められるところだ。

他者の世界に認められなくなったら、「わたしの世界」なんかにいたら、人間は人間でなくなる。

だからわたしは闇の中で泣くことで精一杯だった。

でも彼女はちがう。彼女はわたしとはちがう。もっとずっと強い。

泣く、涙の跡、という、わたしなどがくちにするのも恐ろしい言葉を知っていて、

しかもこんなに大勢の他者の中で、

見張られ聞きとがめられるかもしれないのに、他者の一般的な「みんなの世界」を否定する、

闇の中でひとりで流す涙、闇の中でひとりで出すべきプライベートな声を

昼の光の中で声にする信じがたい勇気があり、

自分ひとりの涙におぼれず、自分と同じような境遇の人間を見つけることができた。

彼女はなんて強いんだろう。ほれぼれし、感嘆し、はっとした。

だから、彼女は演技しているのかもしれない。きっと用心なんだ。

他者には許されない自分をわたしなんかよりずっと強くはっきりと持っている彼女だから、

他者に自分が狙われ奪われる前に、自分からあえて他者と関わり自分は他者と同じだと

他者に疑念を抱かせないためにしている演技なのかもしれない。

なんて強い子だろう。

「自分」であることを許さない他者の中にあえて飛び込み、なお自分でありながら

他者の目をごまかしくらませているなんて。

わたしは、他者に許されない自分の世界を夜に慰むだけで精一杯だったのに。

それだけでもう、自分が完全には消えないでいるのに精一杯だったのに。

そうか、だから彼女はわたしに気がつかなかったのかもしれない。

他者の世界と戦い、他者の目を意識して他者の目をごまかし、くらますために、精一杯だったから。

他者に自分を奪われないために演技するのに精一杯だったから、

わたしが彼女と同じ彼女の仲間だということに、気がつかなかったのかもしれない。

わたしは、あれほど大勢の敵としての他者の真ん中にいて騒いでいる彼女を見ながら、

なんて勇気のある子だろう、何とかしてもう一度彼女と話したい、

彼女に、わたしが彼女の仲間だということを教えなければならない、

わたしたちはこの世界の唯一の味方同士なのだ、

ということを伝えなければならないと思った。

でも彼女は他者の真ん中にいてわたしには手が出せない。

他者に手を出させないためには、逆に他者の真ん中にいて、要求される前に、

他者が求める人物像をあらかじめ見せてやればいい、

という彼女の戦略は、これほど功を奏しているのだと思った。

わたしはもう一度、わたしの沈黙によって断ち切られてしまった話しの続きを必ず彼女とすることを決めた。