文化的特異点【概説】 

農業革命【18世紀】イギリス

産業革命【前半】 

世界史の窓Ⅰ第一次産(工)業革命

界史の窓Ⅱ産業革命の影響・植民地・論争・環境問題 

世界史の窓Ⅲイギリスの産業革命

世界史の窓Ⅳイギリス産業革命の再評価

 

産業革命の波及

1830年代以降、産業革命はイギリス以外にも波及していった。それぞれの地域による質の違いはあるが、工業化を達成した諸国と非工業化地域の格差が広がった。

イギリス以外の産業革命

 18世紀後半、一般的に60年代から進展したとされるイギリスの産業革命は、さまざまな条件の下でいち早く技術革新を成し遂げ、工業社会への転換を際最初に図った。当初イギリス政府はその技術が他国に流出することを喜ばず、1774年には機械輸出禁止令を出し、他国や植民地への機械輸出と技術者の渡航を禁止した。翌年アメリカ独立戦争が勃発、続いてフランス革命ナポレオン戦争という激動の時代を経て、1825年にその一部を解除し、43年には全面廃止した。
 これによってほぼ1830年代からヨーロッパの他の国での産業革命が開始され、まず1830年に独立を達成したベルギーの産業革命が産業革命の段階に入った。さらに七月王政時代のフランスの産業革命が続き、ついで40年代にドイツの産業革命が、60年代にアメリカの産業革命が産業革命期を迎えた。ドイツとアメリカの産業革命は、当初から重工業部門を中心としており、はじめから第2次産業革命としての性格を有していた。
 ロシアの産業革命はようやく1960年代に農奴解放によって社会の近代化をはかり、先進国の技術を採り入れて上からの産業革命を進め、1890年代に工業化が進んだ。日本の産業革命は1868年の明治維新で近代化の歩みを始め、西洋諸国に学びながら工業化を進めたが、一挙に産業革命段階にはいるのは、やはり90年代以降の日清戦争・日露戦争の時期であった。このように、イギリス以外の国では、内在的に行われたのではなく、イギリスの技術を学びながら国家的な事業として展開されたということができる。

 

ベルギーの産業革命

イギリスに次いで早く、独立とともに1830年代に始まった。

 ベルギーはかつてのネーデルラントの南部諸州のこと。北部ネーデルラントがスペインから独立した後もスペイン領としてとどまった。1815年、ウィーン会議の結果、オランダに併合され、ウィーン体制下で独立運動が始まり、フランスの七月革命の影響のもと、1830年にベルギーの独立を達成し、翌年国際的に承認され、立憲君主国となった。
 独立を達成したベルギーはフランドル地方の北部を含んでおり、その地は中世以来の毛織物産業の中心地であり、アントワープ(現在のアントウェルペン)やガン(現在のヘント)、ブリュージュ(現ブルッヘ)などの商業都市が発達し、資本の蓄積が進んでいた。また南部のリエージュ付近は石炭などの資源も豊富であったので、独立と同時にイギリスに次いで産業革命を達成することができた。これらはベルギーがイギリスに最も近く、経済的関係が密接であったこととともに、ヨーロッパの大陸諸国に先駆けて産業革命を達成した理由であった。1840年代には鉄道が普及し、これもヨーロッパ大陸国家で最も早い普及を達成した。
 現在もベルギーは小国ながらヨーロッパ有数の工業国となっている。また、19世紀には、レオポルド2世によるアフリカのコンゴに対する植民地支配(ベルギー領コンゴ)が行われ、帝国主義政策を推進する。 → ベルギー(3)

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フランスの産業革命

1830年代の七月王政の時期に進行し、60年代に完成した。

 フランスの産業革命は、1830年代の七月王政の時期に始まり、60年代のナポレオン3世の第二帝政の時期に完成した。イギリスで産業革命が展開された18世紀末から19世紀初頭、フランスはフランス革命からナポレオン時代という革命の時期であったが、この間フランスはイギリスの工業製品に関税をかけて流入を防ぎ、自国の産業の発展を図ったが、フランス革命で自立した小農民はイギリスのように賃金労働者化することが無く、また商業資本の蓄積も進んでいなかったので、産業革命は遅れることとなったと、考えられている。フランスで産業革命が始まるのは、1830年に復古王政が倒され、ルイ=フィリップ(株屋の王と言われた)のもとで七月王政が成立して商業資本の育成がはかられた時期からである。

フランス産業近代の遅れ

 フランスの産業革命は1830年代から始まり、40~50年代に一定の進行をみたが、イギリスと比較すれば、技術的にも大きく遅れており、大部分は手工業的小企業にとどまっていた。蒸気機関を備えた工場も少なく、依然として木材燃料が主力だった。このようなフランス工業化の停滞の原因は、国内産業が政府の保護貿易政策に守られ、輸入品との技術か閣僚面での競争がなかったこと、フランスに固有な小土地所有農民を主体とする農村の未分化と保守的体質にあったと考えられている。

ナポレオン3世による自由貿易への転換

 このような遅れの解消の必要は早くから指摘されていたがナポレオン3世だった。第二帝政の前半の50年代にクリミア戦争の勝利などで国民的な人気を博したナポレオン3世は、彼自身が古典派経済学やサン=シモン主義の影響を受け、フランス産業の発展には保護貿易から自由貿易主義への転換が必要と考えていたようで、腹心のサン=シモン主義者シュヴァリエをイギリスの自由貿易主義者コブデン(下院議員)と交渉させ、1860年に議会に反対されることを見越して、皇帝大権で英仏通商条約を締結した。これによって、フランス産業はイギリス工業と競争を余儀なくされ、技術革新とエネルギーの転換、賃金労働の創出、銀行の整備(フランス銀行の統制のもとでクレディ=リヨネなどの預金銀行が成長した)、フランスの鉄道・通信網の整備などが進み、60年代はフランス産業革命の完成期となった。一方、一部の伝統産業を除き、特に綿工業などでの手工業的小企業は淘汰され、姿を消した。

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ドイツの産業革命

1840年代にラインラント地方を中心に、重工業部門から産業革命を進行させた。

 19世紀前半のドイツ連邦は各邦国が主権国家として独自の政治と経済政策を持ち、相互に関税を掛け合うなど、統一的な経済圏として発展する基盤に掛けていた。そのため、産業の発達、工業化も遅れ、イギリス工業製品を一方的に輸入し、輸出は依然として小麦などの農作物であるという状態が続いていた。連邦の中でオーストリアと主導権を争っていたプロイセン王国は、1834年にドイツ関税同盟を結成して、同盟国間の関税の廃止、自由通商に踏み切り、ようやく工業化の端緒をつかんだ。それによって、1840年代にラインラントを中心に工業化が進み、産業革命の段階となった。ドイツの鉄道も1835年に始まり、40年代に急速に普及した。その結果、鉄鋼・石炭の需要が急増し、同時に工業の中心地が東部のシュレジェンから西部のラインラント、ルールやザールに移った。
ドイツの産業革命の特色 綿織物などの軽工業はすでに高度な工業化を遂げていたイギリス製品に太刀打ちできなかったので、最初から製鉄、機械などの重工業に力を入れ、また鉄道や道路建設を私企業ではなく国家的事業として推進したことであった。つまり、ドイツは第1次産業革命を経ることなく、重工業部門を中心とした第2次産業革命から始まったと言える。このような国家的な工業化路線は、ドイツ連邦の分裂した政治体制のもとでは困難であったので、プロイセンを中心としたドイツ国家の形成と並行して進められた。プロイセンの優位が確立したのは1866年の普墺戦争であり、さらにビスマルクのもとで軍国主義路線を明確になった。ビスマルクはフランスを普仏戦争に巻き込んで、アルザス・ロレーヌの工業地帯・資源を獲得し、ドイツ重工業の基盤を拡充した。

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アメリカの産業革命

米西戦争(1812年戦争)で工業化の端緒をつかみ、南北戦争後の1860年代に工業化を急速に進行させた。

 アメリカ合衆国は、独立後もイギリス経済依存体質が続いており、工業製品は意義椅子から輸入し、綿花などの商品作物をイギリスに輸出することで経済を成り立たせていた。南部の綿花生産地帯では、1793年のホイットニーが考案した綿繰り機が使用され、大農園(綿花プランテーション)で黒人奴隷労働による綿花栽培が発達していた。また、アメリカ政府は保護貿易政策で自国の産業の育成をはかり、イギリスからの移民が新たな工業機械をもたらしたことによってボストンなどのニューイングランド地方で工業化の端緒がみられた。1807年にはイギリスから帰国した発明家フルトンがハドソン川で蒸気船を運行させることに成功し、ヨーロッパからの移民も急増し、ボストンやニューヨークは商工業都市として発展していった。

米英戦争での産業自立

 アメリカ合衆国が経済的に自立する転機となったのが、第2次独立戦争とも言われる1812~14年のアメリカ=イギリス戦争(米英戦争、1812年戦争)であった。この戦争によってイギリスとの貿易が中断し、工業製品の輸入が減少したので、自国の工業生産を増大させることに迫られ、産業の自立の端緒をつかんだ。北部の大西洋岸のニューイングランドでは南部の綿花を原料として、木綿紡績工業が起こり、ボストンはその中心地として栄えるようになった。また、イギリス海運業に対抗するための、造船業・海運業も自前で育成しなければならなくなった。

南北戦争後の工業化

 北東部では綿工業に次いで、1830年代から機械工業もおこってきた。その間、国土を西方に拡大したが工業の発達した北部と奴隷制大農園経営を維持しようとする南部の対立が深刻となり、1860年代に南北戦争という大きな試練を迎えた。南北戦争が北部の勝利で終わったことにより、工業中心の国作りを目ざすこととなり、1860年代に本格的な産業革命を展開した。アメリカ合衆国は広大な国土と資源に恵まれ、特に東海岸や五大湖地方の工業地帯が急速に発展して、鉄道建設は1869年に大陸横断鉄道が完成し、ピークを迎えた。またアメリカ議会は北部の主張であった保護貿易主義をとり、産業界を保護するためくり返し関税率の引き上げを行った。
 このような保護策のもとで、ロックフェラーによる石油産業、カーネギーによる製鉄業など、工業化が急速に進んだ。またその労働力として、はじめヨーロッパから、ついでアジア各地から大量の移民が移住し、多民族国家アメリカ合衆国を形成することとなった。その結果、東部のニューヨークを始め、中西部のシカゴ、西部のサンフランシスコ、ロサンジェルスなどの大都市が出現した。反面、大都会では金銭的利益を追求する風潮が強くなり、金ぴか時代と揶揄される面もあった。
 こうしてアメリカの産業革命はドイツと同じように最初から第2次産業革命(重工業中心)として始まり、19世紀末までにイギリスを追い抜いて世界第1位の工業生産力を持つとともに国内では資本の集中が進行して帝国主義段階を迎え、第一次世界大戦後にはアメリカ資本主義が世界を席巻することとなる。


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ロシアの産業革命

農奴解放令後の近代化政策により準備され、1890年代に進行した。

 ロシアはクリミア戦争の敗北に衝撃を受けたアレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出し、上からの近代化が始まり、産業革命も上からの保護のもとに展開されることとなった。1890年代に産業革命期を迎え、工業化が進展したが、農民の劣悪な状態が続くなどツァーリズムとの矛盾が多く、20世紀にはいると日露戦争の敗北、第1次世界大戦の長期化などの中で革命運動が起こり、資本主義社会の十分な生育を見ないままに、1917年のロシア革命(第2次)で一気に社会主義を実現させようとした。

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日本の産業革命

1890年代~20世紀初頭に日清・日露戦争によって進展した。

 日本は1854年に開国して世界資本主義のなかに放り込まれた。1868年に明治維新を達成、権力をにぎった藩閥政府は、殖産興業政策によって急速な近代化を進めた。その特徴は「富国強兵」路線と結びつき戦争とともに産業発展を実現したことであり、1894年の日清戦争での清からの賠償金などを元手に第1次産業革命(軽工業中心)を展開させ、1904年の日露戦争によって一気に第2次産業革命(重工業中心)に突入していった。しかし、その段階にいたっても農村社会は依然として封建的な地主・小作人制度が残り、国内市場は十分に成長していなかった。そのため、海外に資源と市場を求めるという帝国主義に容易に転じていくこととなってしまった。


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