イギリスの産業革命
1760年代に世界で最初の産業革命がイギリスで展開された理由、背景、およびその影響についての従来の説明はつぎのようなものであった。
イギリスで始まった理由と背景
産業革命がなぜ最初にイギリスで起こったかについては、次のような諸条件が考えられる。
- 海外植民地をすでに広く所有し、工業製品の市場をすでに持っていたこと。
- 農村毛織物工業、三角貿易(その中の黒人奴隷貿易)などによって、すでに資本の蓄積が進んでいたこと。<
- 囲い込み運動と農業革命の進行によって、賃金労働者が生まれる素地が出来ていたこと。
- イギリス革命以来、議会制度が定着し、市民の自由な活動が認められる社会であったこと。
また、イギリス産業革命の背景となったこととして、次の3点が考えられる。
- 石炭と鉄鉱石という資源に恵まれていたこと。(ただしイギリスだけが地下資源に恵まれていたわけではない。)
- イギリス経験論哲学の系譜の中で、科学的知識が普及していたこと。(ただし多くの発明家は学者ではなく、職人から生まれた。)
- 重商主義時代以来のロンドンのシティでイングランド銀行などの金融市場が発達していたこと。
これらの条件と背景のもとでイギリスは18世紀後半から産業革命の段階に入り、19世紀中葉までには、「世界の工場」と言われて、世界の工業生産力の中で大きな地位を占めることとなった。 → イギリス(6)
注目すべき技術革新 高校教科書でイギリス産業革命の技術革新として定番となっている著名な発明以外にも、重要で興味深いものも少なくない。定番以外の技術革新で知っていた方が良いのは次のようなものがある。
・1759年 ウェッジウッド 陶磁器の製造所を開設。
・1761年 ブリンドリー ブリッジウォーター運河を開削。
・1789年 ボールトン、ワットに協力し最初の蒸気力紡績工場を作る。
・1807年 モーズリー 卓上蒸気機関を考案。
・1815年 マクアダム 馬車用の有料高速道路を建設。
・1825年 リチャード=ロバーツ 自動ミュール紡績機を考案。
その他、技術革新には「マクロの発明」だけではなく、「ミクロの発明」とも言うべき多数の無名の職人の関わりがあったことも忘れてはならない。<参考 長谷川貴彦『産業革命』2012 世界史リブレット 山川出版社 p.3 p.44~>
産業革命期のイギリス社会
産業革命についての古典的著作である、T.S.アシュトン『産業革命』では、18世紀後半のイギリス社会の変貌を次のように説明している。
(引用)ジョージ3世の即位(一七六〇年)からその子ウィリアム四世の即位(一八三〇年)に至る短い年月の間に、イングランドの相貌は一変した。幾世紀もの間、開放耕地(open field)として耕され、共同牧地(common pasture)として放置されていた土地は、すっかり囲い込まれてしまった。小さな村々は人口豊かな年に成長し、古い教会の尖塔は、林立する煙突の中で、もはやチッポケな存在でしかなくなった。……(道路は堅固で幅広いものになり、諸河川は運河で結ばれ)……北部では、新しい機関車が走るために最初の鉄製軌道が敷かれ、河口や海峡には定期蒸気船が通い始めた。
それに平行して、社会の構造にも変化が生じた。人口は著しく増大し、児童や青年の占める割合が増加したように思われる。新しい社会の成長は、人口密度の重心を南東部から北部およびミッドランドに移行せしめた。企業心に富んだスコットランド人を先頭に、いまなおつづいているあの移入民の行列がやってきた。工業的熟練には乏しいがしかしたくましいアイルランド人の洪水のような流入は、イギリス人の健康や生活様式に影響を与えずにはおかなかった。農村に生まれ、農村に育った男女が、……工場における労働力の単位として、そのパンを稼ぐようになった。作業は一層特殊化され、新しい型の熟練が陶冶され、若干の旧い型の熟練は失われていった。……
それと同時に、新しい原料源が開発され、新しい市場が開かれ、新しい商業手段が考え出された。資本の量も、その流動性も増大し、通貨は金をその基礎におくようになり、銀行制度が誕生した。多くの旧い特権や独占が一掃され、企業に対する法律上の制約は除去された。国家の果たす役割はますます消極的なものとなり、個人や任意団体がより積極的な役割をつとめるようになった。革新と進歩の思想が、伝統的諸観念を掘り崩した。人々は過去よりもむしろ未来に眼を注ぐようになり、社会生活に関する彼等の考え方はすっかり変わってしまった。……<アシュトン/中川敬一郎訳『産業革命』岩波文庫 p.9>
産業革命観の変化
最近の「産業革命」研究の動向の一つとして近刊の川北稔『イギリス近代史講義』(2010 講談社現代新書)から抄録しておきます。
・何故イギリスが最初だったか 世界で最初の工業化が、なぜイギリスで起こったか。この古典的な問題には、生産活動の観点から、技術革新や資本形成、労働市場の問題などとして論じられてきた。しかし、つくられたものが誰に、なぜ買われたのか、という消費の観点から見る必要があるのではないか。本格的な産業革命のはるか前に、庶民の生活基盤が農村から都市に移っており、生活用品である綿織物や食器(陶磁器)の需要が急増していた。当初はそれらをアジアから輸入していたが、需要が増えたことから国内生産が行われるようになった。つまり輸入代替過程で産業革命がおこったと言える。また鉄は16世紀まで木炭を燃料に盛んに作られていたが、木炭の原料とされた森林が伐採され尽くしてイギリスでは作れなくなり、スェーデンやロシアから輸入した。しかし鉄の需要はさらに増しマーケットが拡大したため国内での生産の必要が高まり、コークス法の出現の背景となった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.158-166>
・イギリス産業革命と奴隷制 イギリス産業革命の背景には西インド諸島・アフリカ西海岸を結ぶ黒人奴隷貿易と密接な関係があった。産業革命の始まりである綿工業の機械化は、綿織物の需要の急増を要因としていた。当初はインド産の綿織物を輸入していたが、需要が増大したため、綿織物の国内生産が始まる。その時、原料の綿花はまず、西インド諸島からもたらされた。その西インド諸島の綿花生産は黒人奴隷労働によるプランテーションで行われたので、黒人奴隷労働力がさらに必要となり、黒人奴隷貿易がさらに盛んになった。このようにイギリス産業革命は黒人奴隷貿易と不可分に結びついていた。イギリス産業革命を単なる技術革新の歴史としてみるのではない、このような視点は、西インド諸島のトリニダード=トバゴ出身の歴史家エリック=ウィリアムズが『資本主義と奴隷制』で示したもので、現在ではウィリアムズ=テーゼとして重視されている。なお、ウィリアムズはトリニダード=トバゴ独立運動の指導者で、独立後も首相を長く務めた人物であった。<同上 p.167-171>
・イギリス産業革命の資金源 イギリス産業革命は黒人奴隷貿易と密接に関係するが、奴隷貿易で蓄積された資本が産業革命の資金になったとはいえない。奴隷貿易業者が綿織物製造業に転身したり、資金を提唱したという実例はない。また従来言われていたような毛織物業者が資本を蓄積し綿織物業者になったと言うことも実証することは困難である。ロンドンのシティのジェントルマンの金融資本が綿織物業に乗り出したとか出資したと言うこともない。ジェントルマンは製造業に直接関わることは原則としてなかった。それでは資金源は何であったか。結論は、産業革命当初は莫大な資本は必要が無く、機械を発明した人がパートナーシップによって集めた自己資金で十分であった、ということである。工場用地はジェントルマン(地主)から安く借りた。なお、当時は株式会社は禁止されていた(1720年の南海泡沫事件でバブルがはじけて以来、一般の株式会社は認められなかった)、そのような資金調達もなかった。<同上 p.171-176>
・産業革命におけるジェントルマンの役割 では、イギリスが他の地域よりも早く産業革命を達成できたのは、資金関係ではどのような条件があったのか。それは他の国に先駆けて一国単位での社会的間接資本が整備されたこと、特に道路、河川、運河が整備されたことである。道路・河川・運河はいずれも通行料を徴収したから収益を産む。そのような道路整備や河川改修、運河開鑿に出資したのは地主ジェントルマンであった。つまり、ジェントルマンの資本は交通事業という公共事業に投資され、それが原料や製品、労働者の移動などを円滑に行えたという側面があった。産業資本家自身は道路や運河には出資しなかった。それは投資した資本の回収に時間がかかり、また公共性があるところから21年たつと無料にしなければならなかったからである。ジェントルマンはステイタスとして道路や運河の建設に積極的だった。<同上 p.177-179>
・悲観説と楽観説 「産業革命」と言う概念を最初に用いたとされるトィンビー(『歴史の研究』で有名な歴史家ではなく、その叔父の方)は、この革命によって農村の家族を書くとしたコミュニティーは崩れ、ドライな人間関係の中で、労働者の貧困は増大していく、という悲観論を転化した。またこのようなイメージは産業革命の影響として労働問題や都市問題の発生を取り上げるように、常識化している。それに対して、産業革命機の賃金や物価の変動を数量的に研究して、生活の困窮やスラム化が実証できるか、という研究が進んだ。それによると賃金はむしろ上昇し、生活状態も一概に悪化したと言えないという、楽観論も出てきた。たしかに産業革命→都市化→スラムの発生という単純な図式は成り立たない。例えば、スラムが発生したのは産業革命の起こったマンチェスターではなく、消費地のロンドンだった。悲観論、楽観論の論争は現在も尾を引いているが、図式的な悲観論、数量依存の楽観論にはいずれも限界があるのではないか。<同上 p.186-188,213>
・第1次産業革命と第2次産業革命 19世紀終わりになると、アメリカとドイツで重化学工業を中心とした第2次産業革命が始まる。第2次産業革命にイギリスが乗り遅れたのは、第1次産業革命があったため、出来上がってしまったシステム、産業構造にしばられたためだ、という議論があるが、それは間違っている。まず産業革命の時期を各国毎に第1次、第2次があったとするのは意味がない。高校世界史で、ドイツやアメリカの第1次産業革命がイギリスに続いて起こったと説明されているが、実はこの両国での第1次産業革命(軽工業の機械工業化)は存在していない。ドイツとアメリカの二国は最初から重化学工業の産業革命から始まった。一国発展史として理解するのではなく、世界システムとして捉え、第1次産業革命はイギリスが中心となって展開され、第2次産業革命はアメリカ・ドイツが主となって起こり、イギリスは目立たなかった、と理解した方がよい。<同上 p.216-218>
・早すぎた産業革命とイギリス衰退論 第二次世界大戦後の1960年代から、ドイツ・日本のめざましい復興や第三世界の台頭に比べてイギリス経済の停滞、国際的プレゼンスの後退が目立ち始め、「イギリス衰退論」(イギリス病)が盛んに論じられるようになった。歴史学の面ではその答えとして、「早すぎたブルジョワ革命」、「早すぎた産業革命」という考え方が出てきた。前者はブルジョワ階級が十分成長していない段階のブルジョワ革命が不徹底に終わったという考えであり、後者は第1次産業革命が早すぎて産業構造も、技術も、教育も、陳腐化した古いシステムに縛られてしまい、その後の制度の改変や技術の開発がなおざりになってしまった、という考えである。固定化したイギリス社会では地主つまりジェントルマンの価値観(労働や生産よりも文化や社会奉仕に価値を見いだす)が色濃く残ってしまっている、という議論であった。<同上 p.186-188>232,235
・ジェントルマン資本主義論 イギリスでは名誉革命を境に、イングランド銀行が創設され、金融市場が成立して、国債の発行が容易となり「財政革命」が達成されると、しだいに国債や抵当証券などの証券投資をする者がふえはじめ、国債で戦争し、国債の償還を重税でまかなうという「財政・軍事国家」となっていった。戦争が勝ち続ければ貿易商、植民地関係者、国債保有者は政府を支持し、重税への不満は抑えられてしまう。こうして証券投資を主な収入源とする富裕層が出現、彼らは「マネド・マン」(金貸し)とよばれて、ほんとうのジェントルマンではなかったものの、産業革命を経た19世紀中ごろからロンドンのシティのマネド・マンたちこそがジェントルマンである、とみなされるようになった。こうしてジェントルマン資本主義がシティの金融界に体現されるようになった。田舎で狩りをしているのがジェントルマンではなく、シティで山高帽と黒い服を着てステッキをもって闊歩するのがジェントルマンである、となったわけである。そしてシティのジェントルマンは圧倒的に強い政治力を持っていた。<同上 p.241>
・ジェントルマン資本主義の功罪 イギリス資本主義を支えたのは産業革命や製造業などの産業資本家ではなく、初めは土地という資産を貸し付けて利益を得、後にはシティで金融業や海運などのサービス業に従事していたジェントルマンであった、というのがジェントルマン資本主義論である。彼らは自由貿易主義を貫き、国内の製造業の保護、育成に熱心でなかった。帝国主義段階になってドイツの工業化が進んだことから、チェンバレンが特恵関税を導入したときもシティは強硬に反対し、実現しなかった。そのことが、後のイギリス産業の停滞、いわゆるイギリス病の一因だと指摘する説もある。ウィーナーというアメリカの学者は、ジェントルマン精神として、製造業の軽視を挙げているが、事実オクスフォードやケンブリッジを卒業した人はメーカーに就職せず、証券会社、保険会社、銀行が就職先では最も良しとされている。ウィーナーはそのようなジェントルマンの価値観がイギリスの衰退の要因であると指摘し、労働組合保護や社会保障に力を入れる戦後のイギリスの基本政策も、チャリティー精神を重視するジェントルマン精神から来ていると論じた。このようなイギリス衰退論は、サッチャー政権に影響を与え、規制緩和や民営化というブルジョワ革命をやり直すのだという新自由主義政策が実行された。そしてサッチャーの登場と、金融ビックバンによってシティのジェントルマン資本主義は終わりを告げ、新自由主義の拠点へと変質した。<同上 p.237-246>
・衰退観・成長パラノイアからの脱却 しかしサッチャーの新自由主義でイギリスの工業は回復することはなかった。サッチャー後の現在の歴史学の見方では、果たしてイギリスは衰退していたのか、という反省がなされているが、そもそも衰退を意識するのは、近代以降の我々が経済成長こそが目的であると信じて疑わない「成長パラノイア」に罹っているためではないか。世界史の実態を学ぶことによって、そのような衰退観や成長パラノイアから脱却することが可能になるのではないだろうか。<同上 p.84,248-250>