イギリス産業革命の再評価

 

 山川出版の詳説世界史(2013版)は、産業革命について、欄外の注で
「ただし、1780~1801年になっても、イギリスの国民生産の年成長率は1.3%程度しかなかったとされている。」
としている。これは1980年代に学会で盛んになった「産業革命神話の否定」という論調を受けている。その論調が高校教科書に影響を及ぼしている(他社の教科書ではあまり見かけないが)ということであるので、知り得た限りで紹介しておこう。手頃な解説が近藤和彦氏が同じ山川出版社から出している『文明の表徴 英国』(1998)にある。以下、その抜粋。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.152-160>

(引用)古い教科書は、1760年代に内部発生的に、かつダイナミックに「産業革命」なるものがはじまり、ただちにイギリス全国を「悪魔のごとき工場」と煤煙と産業資本主義がおおったかのように描いていた。こうした産業革命の古典的神話のイメージ形成に寄与したK.マルクスもA.トインビもP.マントゥーも、じつは革命的な変貌ばかりをとなえたのではなく、その「前史」「原始的蓄積」を重視していた。だが、その前史は国内要因の発達だけで説明されることがあまりに多く、また近代史の画期という点が、イギリスの景観と社会構造の一変と結びつけて強調されていた。<近藤『文明の表象 英国』p.156>

産業革命否定説 古典的神話に対する実証的な批判は、戦後の計量史学における二波にわたる修正によってすすんだ。第一波の1962年のP.ディーンとW.コール共著の『イギリスの経済成長』では、国民経済の成長率は1770年代にいたるまで年0.65%前後を低迷し、80年代にようやく2%をこえ、19世紀に3%に達したとした。それによれば成長の画期は60年代ではなく80年代とみなさざるをえなかった。さらに第二波にあたる1983年のN.クラーフツは、論文で1780年から世紀の終わりまでについても成長率は年1.3%を越える程度であり、一人あたりなら0.35%で、19世紀の最初の30年間にようやくそれぞれ1.97%、0.52%という実に低い数字をあげた。この数字を根拠としてイギリスにおける産業革命という概念じたいを否定する説が一定の説得力を持つようになった。
産業革命論の再構築 近藤氏は産業革命神話を克服するには、第一に自生的な生産力(技術革新による供給増)が歴史を変えたという生産力史観から自由になることを提唱する。教科書にはよく「技術革新の一覧表」が載っているが、需要がなければ発明も技術の普及もない。第二には、産業革命はイギリス一国のなかで発生したのではなく、世界のしくみの画期とみるべきであるという。そしてイギリス産業革命の前提としてその国の市民革命を想定する「講座派・一国段階論」は避けたい(講座派・一国段階論とは大塚久雄氏に代表される見解)としたうえで次のように提唱する。

(引用)産業革命とよばれてきた現象は、一国民経済の出来事と言うよりも、ヨーロッパや東アジアといった一定の広域で、諸国家が競合しつつ産み出されたものである。あらためて言うまでもなく、前提にあった18世紀世界も、結果として生まれた19世紀世界も、けっして単層的な世界ではない。世界資本主義は重層的に出来上がった。<近藤『文明の表象 英国』p.158>

19世紀世界の三層構造 重層的な19世紀世界とは次のようにまとめることができる。
(1)イギリスと西欧の都市部 世界経済の中心としてイギリスが「世界の工場」を形成する。都市は大変貌を遂げたが田園の景観は維持された。産業と金融、地主階級の結合が経済の動因であり、19世紀半ばにパクスブリタニカが現象し、中核に自由主義が根付いた。
(2)フランス・ドイツ・アメリカ合衆国はイギリス工業製品の洪水と自由主義の威力を感じながらそれに対抗し、関税その他によって国民経済の保護育成に努めた。これら「対抗群」資本主義国ではイギリスあるいは「啓蒙」をモデルにした近代派と、文明の普遍性と進歩への疑念から国民文化の保守をうたう浪漫派が力を持つようになった。
(3)周辺の諸地域はイギリスやこれと競合する資本主義の需要に左右され、モノカルチャないし従属経済を強いられた。二重革命の時代に国家主権を確立できなかった地域は植民地として従属し、イギリス工業と競合した部門は解体された。クレオール革命によって独立したラテンアメリカ諸国は国家主権を維持したが経済的には原料供給地、製品市場と化した。

(引用)かくしてイギリスを中心として、18世紀よりもさらに広大にして緊密な世界の三層構造ができた。19世紀の近代世界とは、そうしたイギリスの資本主義を頂点とするグローバルな支配・従属の構造化である。二酸化炭素の大気への排出も増えてしまった。このような世界史の画期となった産業革命には、たとえ国内生産の成長率が年に1%であろうと、「革命」という名がふさわしい。ゆっくりと大きく、かつ不可逆的に人類史が転換したのである。<近藤『文明の表象 英国』p.160>

エネルギー革命としての再評価

 

 近年、産業革命の中心にエネルギー革命を位置づける説が急速に支持を集めている。それによれば、産業革命以前にあっては、人口と産業の成長は天然資源と土地によって制限され、衣食住・燃料・動力という経済活動の基本的要素が主として植物や動物に依存し、土地の生産性に製薬されていた時代であり、「有機物依存経済」であった。それに対して産業革命は、薪炭にかわって石炭コークス、人力や畜力、水力、風力にかわって蒸気力という「鉱物依存経済」への移行の画期となった。その結果、人口と産業の成長の足かせとなっていた要因(いわゆる「マルサスの罠」)が除去され、「人口の増大と経済成長を調和的なかたちで進行させることが可能になった」エネルギー革命こそが産業革命のもたらした最大の変化であったととらえる。ポメランツは産業革命とは「協業化以前の停滞した定常状態を、予期しないかたちで突然に脱したできごと」と主張し、人類史の大きな分水嶺ととらている。
有機物依存経済から鉱物依存経済へ 16世紀のロンドンでは家庭内暖房のため利用されていた木材価格が上昇し、代替エネルギーとして石炭が注目されるようになった。イギリスでは豊富な石炭資源があったため、1700年から1870年まで急速に増加したエネルギー消費量はほとんど石炭によって供給された。しかし、18世紀段階のイギリスの工業化は繊維産業における水力紡績機にみられるように、まだ「有機物依存経済」の枠組みにとどまっていた。また交通でも運河は開削されたが、船を引くのは馬力が利用されていた。それに対して、蒸気機関を中心とする一連の技術革新が進んだ結果として起こった19世紀初頭の工業化の急速な進展は、鉄道と蒸気船の登場(交通革命)とともに、「鉱物依存経済」への転換を告げるものであった。<長谷川貴彦『産業革命』2012 世界史リブレット 山川出版社 p.3-4、p.55~62>


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