産業革命の影響
18世紀中ごろのイギリスでは、すでに資本主義社会は一定の成長を遂げており、世界市場も成立していたが、産業革命はそれらを確立させ、時代を近代へと推し進めた。産業革命は資本主義生産様式を確立させ、基本的な生産基盤を農業社会から工業社会へと転換させた。それに伴って人口の都市集中が起こり、イギリスではマンチェスター、バーミンガム、リヴァプールなどの新興都市を誕生させた。同時に労働者は無権利であったため、工場や鉱山でさまざまな労働問題が生起し、都市では貧困と不健康な状態が深刻な社会問題を発生させるようになった。そのような社会矛盾の進行に対して労働者自らが団結して権利を守ろうとして労働組合が結成され、労働者の地位の向上、あるいは解放を目ざす社会主義運動も起こってくる。
産業革命と植民地
産業革命はイギリスをはじめとして西欧諸国から始まったが、そこで成立した企業は次第に資本の淘汰が進んで巨大化し、さらに大規模な原料供給地と市場を求めて、植民地獲得に向かうこととなった。これらの諸国の植民地獲得はすでに17世紀から進んでいたが、重商主義段階の特権会社による金銀や貴重な奢侈品、嗜好品の獲得と言った活動から、企業の自由競争のもとで、自国工業の原料を安価に獲得し、さらに自国工業製品を独占的に売りつける市場としての植民地の獲得をめざし、各国が競争する時代となっていく。南北アメリカ大陸、アフリカ、日本を含むアジアがその標的となったため、これらの地域にとっても大きな変動をもたらすこととなった。特に当初はインド産綿布がイギリスにもたらされていたが、イギリス産業革命によってその関係は逆転し、19世紀にはイギリスの工場制綿織物がインドに輸入されるようにインド農村の家内産業は破壊され、農村は綿花の生産に特化したモノカルチャーとなって貧困化が進むという大きな影響を受けた。 → イギリスの産業革命とインド
産業革命論争
「産業革命」という用語は、1880年代にイギリスのアーノルド=トインビー(20世紀の有名な歴史家トインビー-『歴史の研究』で知られる-ではなく、同名のその叔父さん)が用いたのが最初とされている。それ以来、歴史概念として定着してきたが、近年はその変化を「革命」と捉えるほど急激で断絶的なものではなく、それ以前の遺産を受け継いだ「加速的な変化」という程度のものであったとか、18世紀末のイギリスの経済成長率はそれほど高くなかったとか、イギリス以外の上からの保護によるものまでも産業革命に含めるべきではない、などの「産業革命」否定論が出ている。しかし、同時に展開されたフランス革命とともに、近代市民社会を生み出した両輪として革命的な役割を果たしたことは否定できないと思われる。 → 参照 イギリス産業革命の再評価
産業革命と環境問題
産業革命からほぼ200年近くが経過する過程で、化石燃料が新たなエネルギーとされたことによって、二酸化炭素の排出が増加し、地球的な規模での環境の悪化が明白になってきた。1970年代には環境問題が人類共通の課題として意識されるようになり、国連人間環境会議が開催された。その歩みは石油ショック後の低成長期に停滞したが、1992年に国連環境開発会議が開催され、地球温暖化や砂漠化に対する国際的な取り組みが始まった。しかし、工業化を推進してきた先進工業国と、これから工業化を遂げていこうという開発途上国の間には、南北問題という、認識のずれと対立があり、まだ有効な共通する対策を講じるところまでは至っていない。