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田口裕史のブログ

戦争責任や戦後補償の情報を提供します

 永井愛さん作・演出の芝居「歌わせたい男たち」(二兎社 公演、新宿・紀伊国屋ホール)を観た。

 都立高校卒業式での君が代斉唱を題材にしたコメディだ。深刻なテーマを、軽妙に、しかし真摯に描いており、好感を持った。戸田恵子さん、大谷亮介さん、近藤芳正さんら、役者たちの演技も素晴らしい。この作品は、2005年の初演時には、第五回朝日舞台芸術賞グランプリ読売演劇大賞最優秀作品賞 などを受賞している。私が観劇した3月3日も、ホールは満席だった。


 当日購入したパンフレットには、作者・永井愛さんの以下のような言葉がある。


 「最初は、音楽の先生が(君が代の伴奏を)拒否して、保健室にたてこもっちゃう話にしようと思っていたんです。でもそうすると、物語がふくらまないんですね。伴奏したくない人とさせたい人の、二項対立になってしまって。それでしばらく悩んでいたんですけれど、ある時ふと『この音楽教師を、傍観者にしたらどうだろう?』と。お客さまの多くは、この問題とは直接関係のない立場にいる。だったらそういう立場にいた人を主人公にすれば、お客さまも自分自身の問題として共感してくださるんじゃないかしら、と思って」。


 作者のこの判断は、まったく正しかったと思う。

 権力と闘う勇ましい人間ではなく、事態が飲み込めないままに振り回され、戸惑う主人公は、まさに「私たち」自身の姿なのだろう。この人物を物語の核にすえたことで、国旗・国歌をめぐって苦しめられる人々の姿が、よりじゅうぶんに表現された。

 アーチストとしての夢にやぶれた主人公には、音楽教師の職が必要なのだ。だとすれば、国歌を伴奏するしかない。そして、国歌を歌わせようとする教師たちもここでは、「悪人」として描かれているわけではない。彼らも、問題が生じることを避け、安楽に生きたいと願う「私たち」である。

 「職務命令」なるものが、国歌を歌わせようとする側、拒む側、双方の人々を傷つけ苦しめている。問題の根源は、物語の「外」にある(いる)。「外」の意向に従えば、自由がどんどん切り崩されていくのだ。不起立を貫く社会科教師拝島の、「僕だって軟弱でいたかったですよ」「猫の話がしたかったんですよ」という台詞が胸に響く。


 この作品の印象深さのもう一点は、これがコメディだということにある。

 国歌斉唱をおしすすめる登場人物たちの台詞は、これまでさまざまな場で政治家や教育委員会、管理職の教師らが語ってきた言葉そのものである。しかし、それがそのままコメディになる。そう、「国旗・国歌を強いる」という問題は、それ自体がコメディに他ならないのだ。なんと奇妙な論理立てであろうか。なんと奇妙な仕組みであろうか。本作をみると、そのことがよくわかる。

 「歌わせたい男たち」は当初、ロンドンの劇場との提携公演になるはずだったという。しかし、作品のあらすじを読んだロンドンの担当者は「これはいったい、何十年前の話ですか」「この芝居をロンドン市民に理解させることは不可能です。彼らはきっとこう言うでしょう。この芝居は変だ。もし学校でこんなことがあったなら、全国の先生たちがストライキをして、国中が大騒ぎになるはずだ。なのに、この芝居じゃ全然そうなっていない」と言い、この作品での提携を断ったらしい(2005年初演時のチラシの文章。単行本『歌わせたい男たち』所収)。このエピソードも、私たちがいかに奇妙な世界を生きてしまっているのかを示している。


 とてもよく出来たコメディなので、観るだけでも楽しい。ぜひ、観ていただきたい。そして、笑ったあとには、私たちが生きる場へのいくつかの疑問と勇気が、心に残るはずだ。

 今後のスケジュールについては、二兎社のウェブサイト を。


 シナリオを収めた単行本も発売されている。

 永井愛『歌わせたい男たち 』(而立書房1575円)



 昨年12月16日、ドイツ文化社会史研究者で京都大学名誉教授の林功三さんが亡くなった。林さんは、ナチズムの歴史と向き合う戦後ドイツの「過去の克服」に強い関心を抱き、多くの貴重な論文や翻訳を発表している。2002年からは、「『心の教育』はいらない!市民会議 」代表としても活躍してきた方である。
 
 林さんにお会いしたのは、じつは、一度だけだ。1995年8月、私が「心に刻む会(アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会) 」の発言者の一人として大阪を訪問した際、会終了後の懇親会でお会いした。林さんの娘さんと私は以前からの知り合いであり、また88年に「日独平和フォーラム」でドイツの市民運動家たちとの交流を経験し「過去の克服」に関心をもっていた私は、お会いする以前から林さんの論文や翻訳書に多くを学んできた。会場で、「林功三です」と自己紹介され、すぐに、どなたであるかが理解出来た。

 当日は、ドイツと日本の「過去の克服」について意見交換したり、当時問題になっていた「女性のためのアジア平和国民基金 」(政府を後ろ盾にした見舞金の支給により「慰安婦」問題に混乱を生んだ)にかかわる意見も求められた。「学者」として象牙の塔に閉じこもるのではなく、現実の問題にきちんと向き合う姿勢をもった方なのだという印象が強く残っている。

 林さんは、かつて、「心のノート 」(全国の小・中学校で配布された道徳教育の副教材)作成者である故河合隼雄氏を痛烈に批判する文章を書いている。河合氏はユング派心理学者として有名だが、林さんはここで、ユングがいかにナチズムと結びつき、戦中・戦後の欧州において強く批判されてきたかを論じている。ぜひお読みいただきたい(「日本ユング派・河合隼雄批判 」)
 その文章の中に、こんな一節がある。

 「わたしは1928年生まれで、敗戦の年16歳だった。戦時中の日本には、少なくともわたしの周りには、不服従という事実がなかった。抵抗という概念さえもなかった。わたしは恥ずかしい少年時代を過ごした。今でもその恥ずかしさ、悔しさをわたしはぬぐえない。その恥ずかしさをバネにしてわたしは今も生きている」(「日本ユング派・河合隼雄批判(1) 」)

 林さんは、自身の病気が悪化したあとも、市民集会に繰り返し参加し続けていたという。その話を伝え聞いたとき、私が思い出したのは上に引用した言葉だ。ドイツの「過去の克服」に強く関心をよせていらした理由も、こうした言葉を読むと深く納得ができる。
 
 昨日(2月16日)は、京都で「林功三さんを語り合う集い」が開催された。その呼びかけ文 からは、周囲の人々の林さんへの愛情が読み取れる。

 「教育基本法改悪後の昨年1月、体調を崩された後、呼吸補助器具を引きながら、5月に京都で開催された「改悪教育基本法の具体化を許さない全国集会」の先頭に立たれました。日々の会議から街頭アピールに至るまで、ほとんど参加されていた林さんの笑顔は、いつも私たちの大きな、かけがいのない支えでした」
 「林さんを「偲ぶ会」を行いたいと言えば、きっと「そんなことより、これからのことを考えよう」とおっしるに違いありません。けれど、たいせつな方がいなくなった悲しみを共にし、これから生きていく私たちの力のために、林さんを思い、語り合う時間がどうしても必要だとお願いすれば、きっと頷いてくださるでしょう」

 ブログを検索したら、こんなエピソード も紹介されていた。筆者の「ようだい」さんは、林さんについてこう語る。

  相手の立ち位置に 自分も立ち

  相手の言葉に じっと耳を傾け

  でも 自分の意見を きちんと説明する。

  まっすぐで 透明な心の方でした
 (「スタバの抹茶クリームフラペチーノ」treziland diary

 こうした、日常的にお付き合いのあった方々と違い、私には、林さんの「人となり」を述べることなどできない。しかし、林さんの仕事から学んだものをいかしつつ、その意思を引き継いでいくことはできるだろう。とりあえず私がいまここでできることとして、林さんが残した貴重な仕事の一部を紹介したい。

【翻訳書】
●ヴァルター・ヤンカ『沈黙は嘘―暴露された東独スターリン主義 』(平凡社1990年)
 東独で出版社を経営していた著者は1956年に国家反逆罪で投獄される。しかし、反ファシズム闘争期からの親しい友人であるはずのアンナ・ゼーガース(東独の高名な作家)らは真相を知りつつ沈黙、彼は無実の罪を負うことになる。本書はその経緯を述べたもの。
 林さんは、本書出版後のドイツの議論の紹介も含め、「アンナ・ゼーガースはなぜ沈黙していたのか―ヴァルター・ヤンカ『沈黙は嘘』をめぐって」(『思想』802号1991年4月)という論文を書いている。あわせてお読みになることをおすすめしたい。

●ニコ・ロスト『ダッハウ収容所のゲーテ 』(未来社1991年)
 著者は、ダッハウ強制収容所におくられた人物。収容所内での自身の体験や文学について綴った記録。アンナ・ゼーガースが序を書いている。

●クリスチアン・プロス、ゲッツ・アリ編『人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学 』(風行社1993年)
 ドイツ医学界のナチス犯罪加担を問う研究書。1989年にベルリンで「人間の価値展」が開催された。ドイツ医師会が、自らの過去を検証しようと企画したものだ。本書はその資料の翻訳。1993年に日本でも同展が開催され、そのときに出版された。なお、日本で同展を開催した神奈川大学発行の『神奈川大学評論叢書 医学と戦争―日本とドイツ 』(御茶ノ水書房1994年)にも、木畑和子氏や吉田隆氏の論文があり参考になる。

●E.コーゴン『SS国家―ドイツ強制収容所のシステム 』(ミネルヴァ書房2001年)
 米軍情報部作成の強制収容所に関する報告書をベースにまとめられた、ナチズム研究の基本的文献。原著は1947年刊。著者のオイゲン・コーゴン自身も強制収容所に入れられた経験をもつ。

●ヴォルフガング・ヴィッパーマン『議論された過去―ナチズムに関する事実と論争 』(未来社2005年)柴田敬二氏との共訳
 タイトルに明快に示されている通り、ナチズムに関するこれまでの論争を総括した書物。「外交政策と戦争遂行」「社会政策と経済政策」「ナチスの対青少年政策」「女性とナチズム」などテーマごとに論じられている。

●ヴォルフガング・ケッペン『ヤーコプ・リットナーの穴蔵の手記 』(近代文芸社2007年)
 林さんの最後の翻訳書である。じつは、申し訳ないことに私はまだこの本を読んでいないのだが、以下の各ウェブページに書評および紹介があるので参照願いたい。
野田正彰氏による書評抜粋(熊本日日新聞07年8月12日付) (近代文芸社のウェブサイト内)
・「ヤーコプ・リットナーの穴倉の手記 」(哲学舎)
・「ドイツにおける’過去の克服’と日本の現状-「ヤーコプ・リットナーの穴蔵の手記」出版に寄せて- 」(京女・九条ブログ)
・「私の中の非人間性を発動させる力に抵抗して生き延びられるか 」(須田実の部屋)



 書かれたものは残る。
 林さんが残した書物や言葉は、これからも、次代の多くの人々の「血」や「肉」となり、この社会を少しでもまっとうなものにするための大きな支えとなるだろう。


【追記】
「ジャーナリスト同盟」通信 に、林さんをしのぶ、長沼節夫さん(ジャーナリスト)の文章が公開されました(2月17日)。




 私が長年お付き合いさせていただいている高橋武智さんが、本を出版しました。
 ベトナム戦争時、日本でも多くの脱走米兵があらわれました。当時、「ベトナムに平和を!市民連合 」のメンバーらが、脱走米兵を国外に逃がすための努力をしています。
 高橋武智さんは、この脱走米兵救援グループ(ジャテック)の中心メンバーのひとりでした。
 今回出版される本は、欧州各地の運動と接触しながら脱走米兵救援を行った高橋武智さんの経験をまとめたものです。

 高橋武智さんの挨拶文と、目次を転載します。
 目次を見るだけでも、これがかなりダイナミックな、そして危険な運動だったことがお分かりかと思います。
 日本のみならず、世界の反戦運動にとっても非常に貴重な記録です。
ぜひお買い求めください。


【10月31日追記】

 私の個人サイト内にも特集ページ をつくりました。関連情報へのリンク等もあります。

【12月28日追記】

福岡県弁護士会サイトの「弁護士会の読書 」のページで本書が紹介されました。

【08年2月28日】

「かぜとともだち」さんのブログ「感動日記 」で本書が紹介されました。


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私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……――ベ平連・ジャテック、最後の密出国作戦の回想


作品社
・46版上製・320ページ
・価格:2520円

 


私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……――ベ平連・ジャテック、最後の密出国作戦の回想

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友人・知人の皆さま、また未知の皆さまへのご挨拶

 小著、『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…―ベ平連/ ジャテック、最後の密出国作戦の回想』が10月末にも作品社から刊行されます。
 鬼面、人を驚かすタイトルですが、最近の読者は内容がストレートに表現されていないと、店頭で本を手にとってくれないそうで、こうなりました。
 今は昔、ベトナム戦争のさなか、戦場を逃れた米軍脱走兵が日本で脱走しました。市民のあいだに、彼らをかくまい、安全な海外へ逃すネットワーク=ジャテックが生まれたことは皆さまもご承知でしょう。
 1967年、そのきっかけとなった米空母「イントレピッド号からの四人」の脱走成功がベ平連の記者会見で公表されてから、この11月でちょうど40周年になります。
 ジャテックによる彼らへの支援活動は、71年夏まで3年半のあいだ、シコシコとつづけられました。
 途中で米情報機関員が脱走兵を装って潜入したため、それまでの「ソ連ルート」は絶たれ、最後の二年半は「鎖国状態」を余儀なくされました。
 運動自体は、米国人活動家の応援を得て、「米軍解体運動」へと重点を移し、ベトナム人民の勝利と解放にいささかなりとも貢献できたと信じております。
 しかし、脱走援助運動に締めくくりをつけなければなりませんでした。小著は、この「ジャテック最終作戦」の準備から実行までを詳細に報告したものです。
 ことがらの性格上、今日まで伏せられてきましたが、いま記録を残しておかなければ、市民の記憶から永遠に消えてしまうという想いから、二年前にあえて執筆に踏み切りました。
 これによって、脱走兵援助運動を初めから結末までトータルに考えていただくことができるようになったわけです。
 お読みいただければお分かりのとおり、この作戦はいかなる国家の力も借りませんでした。パリ「五月革命」に象徴される時代の空気が有利に働きましたが、とりわけ長い抵抗の歴史を継承してきたヨーロッパの市民たちから、無私無償の援助を得ることがなければ、決して実現をみなかったでしょう。
 その具体的な細部こそ本書の主要部分ですが、作戦の時空を超える側面についても考えをめぐらせてみました。
 なお個人的には、本書は私の生きた証となるでしょう。
 何はともあれ、読んでいただければ幸いです。
 もし共感を抱いていただければ、周囲の方々にもお勧めいただきたく、この段特別にお願い申しあげます。
 当時を知らない若い読者にも読んでもらえるよう、時代背景に一章を割いたほか、多数の注記を付しました。
 まずはお手にとっていただきたく、これをもってご挨拶に代えます。

   2007年10月10日            高 橋 武 智


目 次 
  
まえがき――著者・高橋武智の登場まで      鶴見 俊輔

・前説 かつて米軍脱走兵を支援する市民の運動があった

・第一章 五か月間の放浪――解決の模索と、得られた収穫
1.発端――一通の航空便から
2.ストックホルム・フランクフルト・パリ
3.必然的な経由地、ミラノ
4.ローマでの熱烈歓迎
5.イタリア共産党(PCI)のクールな対応
6.軽挙妄動(?)と、ローマでのミッションの失敗
7.一九六五~六七年のパリ留学のとき体験したベトナム反戦運動
8.ゼロからの出直し
9.シュヴァルツ教授の線からイモ版の学習へ
10.拡大するコンタクト
11.アンダーワールドと接触した日
12.「彼らのグループ」
13.パリでの残りの日々
14.脱走兵をまた戦場に?
15.「彼らのグループ」にできること、できないこと
16.旅券を求めて。ブリュッセルへ
17.オランダ
18.「君はカタヤマを知っているか」
19.コペンハーゲン――疲れと焦りのあいだで
20.オスロでの夢想
21.ストックホルム再び
22.再度イタリアへ
23.ロンドンにも
24.誘われてアルジェに寄る
25.バンコクに一泊して帰国
26.旅を振り返って、言い残したこと二つ
  [ ジャテックの落ち穂拾い 「イントレピッド四人」の会、設立のころ ]


・第二章 最終作戦の具体的準備と実行
27.ジャテックの方針転換
28.第二期における海外送り出しの考え方
29.技術移転の夜
30.ヨーロッパからの連絡
31.作戦の構想
32.来栖君の出国へ向けて
33.思いがけない障害
34.出発前後
35.「ささやかな勝利」
36.なぜ大阪・伊丹空港だったのか
37.パリ・オルリー空港での出迎え
38.幻のホリゾンタル・ソサイエティ 
39.脱走兵救出作戦参加の思想的回顧――府川さんの場合
40. 神田君の番
41.オランダへ催促
42.旅券は届いたが……
43. すべて二度目なので
44. 決行の日
45. パリの出迎え役
46. 成功の報告
47.第二章の余白に
  [ ジャテックの落ち穂拾い 永川玲二さん異聞 ]

・第三章 後日談から
48.続く米軍解体運動
49.ヤン・イークスとの別れ
50.一九九五年十一月、京都の会合での報告
51.『となりに脱走兵がいた時代』の出版、運動への評価、その後の二人
52.『お隣りの脱走兵』の上演と、来栖君の再来日
53.アンリ・キュリエルへのオマージュ
  [ ジャテックの落ち穂拾い 小説に描かれたジャテック ]
 
・後説 経験をふりかえって
1.作戦の意味
2.改めて考えるジャテック運動   
3.ジャテックを担った世代
4.脱走礼賛   
追補.大日本帝国下の脱走・良心的兵役拒否・徴兵忌避

・当時を知らない読者へ――どういう時代の、どういう運動だったのか   

・おわりに――献辞と謝辞

・資料篇
1:脱走兵協定(1968)
2:脱走兵援助から米軍解体へ――ヨーロッパにおけるGI運動(1970)
3:“帰ってきた脱走兵”と再会して――ジャテック運動を記録に残す意味(200
1)
3:グエン・コック・フン戦争証跡博物館長とグエン・ティー・ビン副大統領宛の手
紙(2002)

・ジャテック関係文献目録 本書参考書目
・人名索引 事項索引