このところ、韓国の連続テレビドラマ「第5共和国」(2005年MBC)をDVDで見ている。朴正煕暗殺事件(1979年)後、軍事クーデターを経て政権掌握した全斗煥大統領時代の韓国社会を描いた作品である。中心となるのは全斗煥とその周囲の人間たちの動き。史実に基づいたドラマだ。
この作品の第15話から19話(DVDのvol.8~10)は「光州民主化闘争」にかかわる内容である。1980年5月、光州市民が韓国軍の武力弾圧と闘ったこの歴史を、いくにんかの若者たちの姿を通じて表現している。
作品としての評価はしない。事件をドラマで振り返り、考えるべきだと再確認したことをメモしておく。自分の「宿題」としての覚え書きである。
第一に、民衆が銃を取るということについて。
よく知られているように、韓国軍に抵抗する市民軍指導部内では、武装闘争の継続に関する意見の相違があった。ドラマには、その事実が短く描かれている。「我々は暴徒ではない」として武装解除を主張する者と、徹底して戦い光州を守るべきだと主張する者との対立。「やむにやまれず民衆が銃をとる」ということについて、しっかりと考えを整理しておきたい。
第二に、銃を捨てずに死を選ぶという闘いについて。
闘争最後の日、市民軍指導部の置かれた全羅南道道庁への武力鎮圧が現実化する。そのとき、軍に殺害されることを覚悟し、道庁に立てこもった人々がいる。彼らは、死をもって、軍の暴力への抗議をした。重い事実だ。一方、死を選ばずに道庁から退出したひとびともいる。彼らは、自らの選択をどのように振り返っているのだろう。死者たちに対して、どのような思いをもつのだろう。死んだ者、死を避けた者、どちらもが、重く、深く、痛めつけられたことになる。死をかけた闘いを、ヒロイズムではなく、国家による犯罪への怒りをもってみつめたい。
第三に、市民に銃をむける軍人たちの苦悩について。
このドラマには、市民に銃を向けることに苦悩する若い軍人が登場する。同じく光州事件を描いたドラマ「砂時計」でも、主人公の一人は軍人として光州市民に銃を向け、その罪責感を抱えて後の人生を歩むことになる。以前から気になっていたのだが、おそらくはその多くが存命であろう当時の軍人たちは、いま、この出来事をどのようにとらえているのだろうか。
ドラマ「第五共和国」は、全斗煥大統領とその周囲の者たちを中心にしたドラマである。その結果、ソウルの軍中枢と、光州の現場の苦しみとの対比が明快に描かれた。全斗煥の政権への欲望が、いかに現場の人々(市民たち、軍人たち)を翻弄し、取り返しのつかない絶望を与えたかがよくみえる。
さる5月18日には、「光州民主化運動29周年記念式典」が光州でとりおこなわれた。共同通信の報道によると、市民が立てこもった道庁の取り壊しをめぐり反対運動がおこっているという。