必要があって、きょうはナチス時代のドイツの国旗について調べていた。
ドイツでは1935年9月15日の「帝国旗法“Reichsflaggengesetz”
」によって、ハーケンクロイツが国旗と定められている。「帝国旗法」第二条の「国旗はハーケンクロイツ旗である」という規定(“Reichs- undNationalflagge ist die Hakenkreuzflagge.”)がそれだ(上記リンク先は“documentArchiv.de
”)。
上記リンク先ウェブサイトの説明によれば、「帝国旗法」は「ニュルンベルク法」の一つとされている。「ニュルンベルク法」は、ユダヤ人の諸権利を奪い、「ドイツ人」とユダヤ人の婚姻を禁ずるなど、ナチの人種主義思想を示す法律として悪名高い。これは、1935年9月15日に成立した三つの法律の総称であるという。「ニュルンベルク法」を構成するのは、「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律“Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschenEhre”
」と「帝国市民(公民)法“Reichsburgergesetz”
」、そして「帝国旗法」である。
今日気づいたことなのだが、「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」第4条1項は、ユダヤ人が国旗を掲げることや帝国色(黒白赤)を示すのを禁じる内容になっている(“Juden ist das Hissen der Reichs- und Nationalflagge und das Zeigen der Reichsfarben verboten.”)。
「帝国旗法」が、ナチの人種主義を明確化した諸法と同時に成立しているという事実は、「国旗」というものの機能を考える上で無視できない問題を示してくれているような気もする。
もちろん、それぞれの社会の国旗が持つ意味合いは多様であり、その歴史事情を捨象して問題をひとまとめに論じるのは乱暴かもしれない。しかし、ドイツや日本に限らず、国旗は、「自分なりの視点・立場でこの世界に向き合いたい」という自由へのねがいを圧殺して人々の精神をまとめあげ、統合を拒む者を選別排除する役割を果たしてきた。こうした統合と排除の道具としての国旗は、世界中のさまざまな問題の渦中にしばしばあらわれてくる。
「レイバーネットブログ」というサイトに興味深い記事が載っていた(「国旗」
)。韓国の週刊誌「ハンギョレ21」が「国旗に対する誓いをなくそう」という特集を組んだというのだ。朴正煕時代以降、韓国の学校では「国旗に対する誓い」が強要されているという。国旗に敬礼せず除籍された学生が裁判を起こし、敗訴したという話もあるらしい。
そういえば、先日見た映画「ピースピープル
」にも、国旗と国歌が出てきた。この映画の舞台は1980年代の北アイルランド。主人公の男性(カトリック)が、映画館で作品上映後のスクリーンに映し出されるエリザベス女王と国旗・国歌(God save the Queen)を避けて退出しようとすると、男たちに囲まれ、「国歌を聴いていけ」と脅されるのである(ちなみに、英国の国旗・国歌に法的根拠はない=文部科学省「諸外国における国旗、国歌の取扱い
」)。
2001年には、ワールドゲームズ秋田大会の女子綱引きインドア480キロで優勝したスペインチームが、国旗掲揚セレモニーを拒否した。スペインチームの選手たちがバスク出身だったことが理由なのだが、国際綱引連盟は、スペインチームを出場停止処分にしたという(共同通信サイト「第6回ワールドゲームズ」特集ページの記事「綱引のスペイン出場停止
」「処分に心痛むスペイン選手
」)。いったいどんな根拠でこの処分は下されたのか。
日本では1999年8月13日に「国旗及び国歌に関する法律
(=e-Gov
へのリンク)」が施行された。その後の状況の中で何が起こっているかについては、わざわざ書き出すまでもないだろう(たとえば「ブログ版 東京都・国立市の教育
」などに情報が集められている)。
こうした多くの問題の存在を考えるとき私は、国旗そのものが持つ暴力性に注目せずにいられない。国旗(への忠誠)を拒む人々の中には、さまざまな立場があるだろうが、「そもそも国旗などいらない」というのが私の基本的立場だ。 私は、この世界・社会に生き、生かされている者の一人として、“私”自身の場から、私自身とこの世界、この社会のあり方に責任を持ちたい。