会津戦争余話 山本帯刀(たてわき) | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 いつものごとく、歴史記事で長編を書き終わるとなかなかその余韻が覚めません。今回の会津戦争も書きたいことが多すぎて本編に入りきれないものが多数ありました。なるだけ簡潔に分かりやすくがモットーの弊ブログですので、泣く泣くカットした次第です。

 

 その中の一つ、山本帯刀について今回は語ります。山本帯刀、諱は義路。山本家は代々長岡藩牧野家の次席家老を務める家柄で1300石を拝領していました。北越戦争が始まった1868年当時まだ23歳の若さでした。ちなみに帯刀というのは朝廷の官で帯刀先生(たちわきのせんじょう)のことです。東宮の護衛をする帯刀舎人の長の別名が先生(せんじょう)でした。

 

 帯刀先生で一番有名なのは源平合戦の始まる前、悪源太義平に殺された叔父源義賢でしょう。義賢の子が木曽義仲です。幕末なら薩摩藩家老小松帯刀も有名ですね。帯刀というのは武官なので武士が好んだ官職なのでしょう。とはいえ幕末の帯刀はあくまで自称です。

 

 話を本題に戻すと、幕末の長岡藩は薩長の新政府に付くか、それとも奥羽列藩同盟に付くか藩論が分かれていました。そんな中、執政に抜擢された河井継之助はどちらにもつかず中立を貫くという武備中立という方針を打ち出します。帯刀は年長の河井に従いこれを補佐しました。

 

 しかし、そんな甘い考えが通用するはずもなく1868年5月2日の小千谷会談で決裂、新政府軍を完全に敵に回しました。河井の意思には反しましたがこうなると奥羽列藩同盟に加わるしかなくなります。長岡藩始め北越の六藩が加わり奥羽越列藩同盟が成立しました。

 

 山本帯刀は、長岡藩の大隊長となり北越戦争で新政府軍と戦います。河井はこの日に備えてガトリング砲やスナイドル銃をそろえ洋式軍隊を作り上げていました。このため新政府軍は攻めあぐみ苦戦します。しかし最終的に3万人近くの兵力を集結した新政府軍に敗北し、長岡城も陥落しました。

 

 河井はじめ長岡軍は、なおも諦めず会津藩領に撤退します。この時足に銃撃を受け重体となっていた河井継之助は奥会津只見村で死去しました。享年41歳。8月16日のことです。山本は撤退戦で長岡藩本軍とはぐれ、別動隊として会津鶴ヶ城攻防戦に参加しました。

 

 山本隊は阿賀野川の戦いで友軍と離れ孤立します。濃霧が発生し進退窮まった所を包囲され宇都宮藩兵に捕縛されました。新政府軍の越後口軍監は山本の毅然とした態度に感銘を受け、詫びて恭順すれば命だけは助けると申し出ますが、山本は「主君から戦えと命じられたが、降伏は命じられていない」とこれを拒否、9月9日阿賀野川の河原で斬首されました。享年23歳。山本と最後までともに戦って散っていった長岡藩兵は44名だったと伝えられます。

 

 最後まで忠義を貫き通した山本帯刀は人々の賞賛を受けます。ところが新政府軍に降伏した長岡藩はすべての戦争責任を河井と山本に押し付けました。山本家は断絶、残された遺族は潜伏し非常に苦労したそうです。山本家が河井家と共に家名再興を許されたのは明治16年(1883年)の事でした。帯刀の長女たまぢが戸主となりますが、夫が早世し後継ぎがいなかったため名門山本家が絶えるのを惜しんだ渡辺廉吉らの計らいで、同じ長岡藩士だった高野家から養子を迎えます。これが後の連合艦隊司令長官山本五十六大将でした。