会津戦争9 『鶴ヶ城落城』(終章) | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 1868年8月23日から始まった会津鶴ヶ城攻防戦。日光口、白河口など各地に散っていた会津藩兵で間に合って入城できたものは千数百人にすぎませんでした。藩士の正規兵で3500人、庶民の強制動員も含めて9400人いたとされる会津軍ですが、ほとんどの兵力は軍事用語でいうところの遊兵と化しました。

 

 新政府軍の包囲が狭まる中、家老佐川官兵衛率いる決死隊1000人が沓掛峠で抵抗しますが、新政府軍の勢いを止めることはできませんでした。会津藩では、藩士とその家族全員が籠城すれば兵糧が足らなくなるからとあえて城下に残ったものも多かったと言われます。

 

 藩士中野平内の長女中野竹子(21歳)に率いられた娘子軍(じょうしぐん)もその一つで、薙刀を持って戦います。最初舐めていた新政府軍は慰み者にすべく生け捕ろうとしますが、抵抗が激しく銃で殺さざるを得なくなります。公式な記録は分かりませんが、各地で戦場特有の強姦暴行殺人が数多く起こったと思います。

 

 これを書くと会津贔屓の方から猛非難を受けそうですが、真剣に戦っていたのは会津藩士だけで、領民は冷めていたと言われます。鶴ヶ城攻略に不可欠な砲兵陣地の適地、小田山の存在を新政府軍に教えたのは一向宗極楽寺の和尚でした。おそらくですが、蝦夷地警備、三浦半島警備、京都警備で会津藩の台所は火の車、領民は重税にあえいでいたと想像します。藩に対する恨みが相当あったのかもしれません。

 

 会津の領主と領民の心が離れていたのは伝統らしく、戦国時代伊達政宗と蘆名義広の最終決戦、摺上原の合戦では、会津の農民は磐梯山麓から弁当持参で合戦の様子を眺めていました。自分たちが命のやり取りをしているのに農民たちがそれを娯楽として楽しむとは何事だと激高した伊達軍の武将伊達成実(しげざね)は、農民たちに鉄砲を撃ち込んだそうです。びっくりした農民たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。大河ドラマ独眼竜政宗で成実を演じた三浦友和の印象が強いので、彼ならやりかねないなと妙に納得したものです。

 

 ここに一つのエピソードがあります。攻城軍に加わっていた大垣藩の陣営を訪ねた土佐藩士吉松速之介は庭先の木に括り付けられていた一人の美しい女性を見ました。大垣藩士に尋ねると娘子軍の一人で抵抗したため明日処刑する予定だと。吉松は可哀想だから逃がしてやれと談判しますが、大垣藩兵は聞き入れませんでした。吉松が女性に近づくと彼女は神保雪子と名乗りました。そう、藩主容保の罪を一身に背負い自刃した神保修理の妻です。この時まだ23歳の若さでした。

 

 雪子は吉松に自害するので短刀を貸してほしいと願います。哀れに思った吉松は短刀を差し出し自害を見届けたといいます。また別の証言もあり娘子軍の多くが戦死した涙橋で亡くなったとも言われます。会津藩士の家族の悲劇はこれに留まりません。国家老西郷頼母の家族もそうでした。家老だった頼母は鶴ヶ城に入りますが、迷惑をかけてはいけないと家族はそのまま城下の屋敷に残ったのです。

 

 新政府軍が迫る中、頼母の妻千重子を筆頭に家族21人が戦いの足手まといにならないようにと自刃して果てました。中には9歳、4歳、2歳の幼女もいて、これは母親に刺されて殺されます。薩摩藩士川島信行が西郷邸に入ると車座になって自害している西郷一族を見て絶句しました。その中で長女の細布子(たえこ、16歳)だけは死にきれずまだ息がありました。

 

 彼女は息も絶え絶えで川島に「敵か味方か?」と尋ねます。思わず川島は「味方だ」と答えました。すると細布子は川島に介錯を頼みます。哀れに思った川島は細布子を介錯し去っていきました。

 

 このように城に入らず城下の屋敷で自害した藩士の家族は多かったそうです。絶望的な籠城戦を戦う城内では内紛が起こりつつありました。家老西郷頼母が会津藩士を救うためすべての責任を被って容保に自害を勧めたのが原因でした。これに容保以下会津藩士全員が激高、頼母を暗殺しようとする藩士も出てきました。一説では暗殺を命じたのは容保本人だったとも言われます。

 

 身の危険を感じた頼母は、同じく城に入っていた長男吉十郎と共に城を脱出。その後蝦夷地に渡り榎本武揚の蝦夷共和国に参加、新政府軍と戦うも箱館で捕らえられました。籠城一か月、刀折れ矢尽きた会津藩はついに降伏します。9月22日、城下甲賀町で降伏の儀式が執り行われました。

 

 この間、列藩同盟の盟主の一つ出羽米沢藩上杉家9月4日降伏、今回の戦争の元凶というべき仙台藩伊達家も14日に降ります。降伏の際、新政府軍の軍監薩摩藩の中村半次郎らは会津藩の体面を傷つけないよう丁重に扱ったそうですが、戦後処理は苛烈を極めました。

 

 藩主容保は命は助けられたものの江戸に護送され謹慎。藩の家老で生き残った最上位の萱野権兵衛が処刑されます。会津藩は23万石を召し上げられ最北の地下北半島の斗南(となみ)藩3万石に減封されました。3万石とはいえ下北半島は荒涼不毛の地でこの地に移り住んだ会津藩士の中には餓死する者も出たそうです。

 

 同じく新政府から朝敵とされ死に物狂いで戦った出羽庄内藩は、遅れて9月26日降伏、17万石から5万石減らされただけの寛大な処置で済みました。これは会津藩が京都で勤皇の志士を多数殺したのと比べ、江戸の治安を担当していた庄内藩には薩長の恨みが少なかったからだと言われます。

 

 薩摩藩は敵には容赦しませんが一度降った者には寛容だといわれ、庄内藩の処分は西郷吉之助(隆盛)の意向があったとも伝えられます。庄内藩はこのことを感謝し西郷が征韓論で敗れ帰郷して私学校を創設すると庄内藩は多数の留学生を送りました。そのまま西南戦争に参加し命を落とした旧庄内藩士の若者が何人も出ます。

 

 一方、過酷な生活を強いられた会津藩ですが、明治10年の西南戦争では旧会津藩家老佐川官兵衛が新政府警視隊一番小隊長として参加、薩摩軍と戦い肥後国阿蘇郡二重峠の戦いで戦死しました。享年47歳。佐川は会津戦争で死んでいった仲間たちの名前が書かれた肌着を着込んでいたと言われます。

 

 会津戦争は本来将軍慶喜が戦わなければならなかった戦争でした。慶喜本人はさっさと逃げ出し朝廷に恭順、命を長らえますが、その結果会津藩が犠牲になったのです。特に藩士の家族で死んでいった者たちや白虎隊の少年たちを思うと無念でなりません。

 

 戊辰戦争は日本が近代国家へ生まれ分かるための生みの苦しみでした。勤皇派、佐幕派、立場の違いはあれそれぞれが己の意思に従い戦って散っていったのです。戊辰戦争で犠牲になったあらゆる人の冥福を祈りつつ本章を締めくくりたいと思います。

 

 

                          (完)