会津戦争8 『白虎隊の悲劇』 | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 母成峠が突破されたことで、会津盆地に新政府軍が雪崩れ込みました。1868年8月22日、会津藩の前哨基地猪苗代城が落城します。同じころ北越戦争でも長岡藩敗北、援軍の会津軍と共に会津領に退くも、敵弾を受け負傷していた長岡藩執政河井継之助は会津領塩沢村(福島県只見町)で8月16日亡くなりました。

 

 実は北越戦線には松平容保の実弟松平定敬の桑名藩兵も一部参加していました。というのも越後柏崎に桑名藩の飛び地があったからです。ただ柏崎領は2万石しかなく、桑名藩兵全員を賄うことはできませんでした。新政府軍が東海道に来るという報告を受けた桑名藩では、主戦派と恭順派で分裂します。将軍慶喜と共に藩主定敬は江戸に逃げていたので、重臣会議の結果藩主定敬を廃嫡、前藩主定猷(さだみち)の子定教(さだのり)を新藩主として届け出、新政府と交渉して降伏無血開城しました。

 

 定教は父定猷が亡くなった時わずか3歳だったため、定猷長女初姫の婿養子として高須藩松平家から来たのが定敬でした。新藩主となった時も定教はまだ11歳、筆頭家老酒井孫八郎の奔走でお取り潰しや家老の切腹という最悪の結果は避けられます。なんといっても酒井が東海道軍参謀海江田信義と旧知の仲だったことが幸いしました。

 

 藩に見捨てられることになった前藩主定敬でしたが、江戸にいた藩士たちや、大坂城から逃げかえっていた桑名藩兵たちは依然として定敬を支持します。そして新政府に降伏するのを潔しとしない桑名藩士30名ほどは脱走して定敬のもとに至りました。定敬支持の藩士の中には後に日清・日露戦争で名将と称えられる立見鑑三郎(尚文)もいます。

 

 北越戦争で新政府軍が苦戦したのは近代装備の長岡藩と執政河井継之助の存在と共に立見鑑三郎がいたからでした。立見は桑名藩雷神隊隊長としてゲリラ戦で新政府軍を苦しめます。朝日山の戦いで長州奇兵隊参謀時山直八を討ち取ったのも立見でした。桑名軍は北越戦争で敗れると定敬と共に兄容保の鶴ヶ城に入り戦います。会津での戦いも敗れた桑名軍は庄内藩に逃亡し庄内藩と共に降伏しました。ただ定敬自身は蝦夷にまで逃げ延び最後まで新政府軍に抵抗します。

 

 会津藩は日光口、白河口に主力部隊を置いて新政府軍の侵攻に備えていました。しかし越後口からも新政府軍が来襲してくるとなると、全く無意味になります。各地に散らばった会津藩兵は一刻も早く鶴ヶ城に戻る必要がありました。この時、各方面から来襲する新政府軍は、薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩を中心として30藩以上、総兵力も3万を超えます。その中には紀州藩、尾張藩、彦根藩など本来なら徳川将軍家に殉じなければならない立場の藩もありました。

 

 8月23日、新政府軍は早くも鶴ヶ城郊外に達します。若松城下甲賀町口を守っていた家老神保内蔵助(修理の父)、田中土佐は敗北の責任を取り刺し違えて自刃しました。兵力が足りない会津藩は16歳と17歳で編成された白虎隊300名も戦いに投入します。その中で、白虎隊士中二番隊20名ほどは戸ノ口原の戦いで新政府軍に敗れ飯盛山中を彷徨っていました。

 

 二番隊の生き残りは山中で今後の行動を話し合います。傷を負ってない者は一人もいません。決死の覚悟で新政府軍に斬り込み玉砕すべきか、武士らしく潔く自刃すべきか話し合った結果自刃を選びました。その中で死にきれなかった飯沼貞吉だけが会津藩士の妻女に救われ一命をとりとめます。このような少年兵まで戦争に駆り出され死んでいくのですからまさに悲劇でした。

 

 今となっては結果論にすぎませんが、容保が西郷頼母ら家臣の諫言を受け入れ京都守護職就任を断っていたら結果は違ったものになっていたでしょう。数多くの藩士や家族の犠牲は避けられたかもしれないのです。会津藩にとって最期の時は迫りつつありました。次回凄惨とも言うべき鶴ヶ城攻防戦を描きます。