中山道美濃路歩きは、「垂井宿」に入ります。垂井宿は、中山道の宿場であると同時に、美濃街道(美濃路)の起点でもあり、交通の要所でした。古代には国府や国分寺・国分尼寺も置かれ、美濃国一ノ宮南宮大社もあって、美濃地方の中心でした。
相川をわたれば「垂井宿」です。相川は古くから暴れ川で、たびたび洪水があり、そのため橋がありませんでした。江戸時代初期は川越人足によって渡っていました。姫宮や朝鮮通信使の時には臨時に木橋が架けられたそうです。
垂井宿は、思ってた以上に往時の面影を色濃く残しています。「旅籠亀丸屋」は、旅籠屋として200年ほど続き、今なお往時の姿を残し営業しています。中山道美濃路で、江戸時代から営業を続けている旅籠は、細久手宿の「大黒屋」とここだけです。
「南宮大社」の「大鳥居」です。ここから先に進んだところに社殿があります。この鳥居は、寛永19年(1642)徳川家光が南宮大社を再建したことに合わせ、石屋権兵衛が約400両で造ったといわれています。
「垂井の泉」です。幹回り8mの大ケヤキの根元から湧き出る清水は、枯れることを知らず「垂井」の地名の起こりとされます。天平12年(740)の聖武天皇美濃行幸のおり立ち寄られた「曳常泉」の場所がここと考えられています。
葱白く洗ひあげたる寒さかな 芭 蕉
「油屋卯吉家跡」です。文化末年(1817)頃建てられたものです。当時は多くの人を雇い、油商を営んでいました。宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物です。
「本龍寺」です。初めは天台宗のお寺でしたが、文明元年(1469)蓮如美濃巡化のとき浄土真宗に改宗しています。このお寺の山門や書院の玄関は、脇本陣のものを移築したものです。太鼓楼も良い形で残っています。
芭蕉は、元禄4年(1691)10月、ここの住職を訪ねしばらく冬籠りをしています。奥の細道紀行の2年後のことです。
垂井宿を過ぎ「垂井一里塚」です。ここの一里塚は南側の一基だけが完全に残っていて、国の史跡に指定されています。
さらに進むと「野上の松並木」です。中山道美濃路では、唯一の松並木です。
中山道から少し外れたところに美濃国二ノ宮とされる「伊富岐神社」がありますので立ち寄ります。古代伊吹山麓に勢力を持っていた伊福氏の祖先多多美彦命(伊吹山の神)を祀っているといいます。社殿は東南東を向いており、伊吹山を背後にした形で造られています。
さらに山裾を這うように進みますと、稀代の軍師「竹中半兵衛」の故郷に至り「陣屋跡」が残ります。戦国時代の知略が飛び交う中で、秀吉の軍師竹中半兵衛重治の活躍は目を見張るものがありました。木下藤吉郎(後の秀吉)は三顧の礼を以て懇願し、軍師となります。そして藤吉郎とともに各地を転戦し、その作戦は常に功を奏し、そのため「その智謀神の如し」とまでも称されました。その名は全国津々浦々に知れ渡り、秀吉の天下統一への歩みを固めました。天正7年(1579)三木城(兵庫県)攻略中病に倒れ、36歳の若さで人生を終えます。
半兵衛の子・重門は、関ヶ原の合戦では東軍に属し、戦功をあげ麓に陣屋を構え6千石の旗本として徳川に仕えました。
「禅幢寺」は、岐阜県垂井町の菩提山の谷あいにひっそりと建っています。明応3年(1494)開創の曹洞宗のお寺です。現在の本堂は、半兵衛の孫重常が寛文3年(1663)に建立したもので、今では竹中家とその家臣の菩提寺となっています。
秀吉の軍師であった竹中半兵衛は、播州三木城を攻略中病に倒れ、36歳の若さで逝去します。秀吉は臨終にのぞみその手を取って「劉禅、孔明を失いしにことならず」と嘆き悲しんだといいます。半兵衛の亡骸は播州三木に葬られましたが、天正15年(1587)長男重門が父の菩提を弔うため、三木からここに移葬したものです。
竹中半兵衛が今もなお人々の心をとらえているのは、卓越した知能と洞察力、戦功あっても欲心なく、高名を望まず、壮途半ばにして空しく倒れ、軍師の美学に生きたからでしょうか。
中山道美濃路に戻り進みますと「関ヶ原宿」です。ここは北国脇往還と伊勢街道の分岐点にあり先に今須峠もひかえていたことから、美濃16宿中最も栄えたところです。しかし相次ぐ大火で焼失したりして宿場の面影を残す物はほとんど残っていません。
「與市屋敷跡」です。平安時代末期、この地の郷士「関ケ原與市(本名藤原基清)」という人物がいました。奈良興福寺から安八郡の代官を託されていたともいわれています。そんなこともあって京・奈良にたびたび上っていたといいます。
承安4年3月のこと、牛若丸と金売り吉次が京都蹴上の道端で休んでいたところ、與市が馬に乗って通りかかり、運悪く雨上がりで泥水が牛若丸の袴の裾にかかり、大喧嘩となり、牛若丸に切り捨てられてしまったという話です。
「脇本陣跡」です。至道無難禅師生誕地です。臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧だそうです。日本橋白木屋元祖木村彦太郎とは従兄弟の間柄だそうです。
関ケ原は天下分け目の戦いの場所であり、それらについては、こののち掲載予定です。天下分け目といえば、関ケ原は「味の分かれ目」でもあります。
古い話で恐縮ですが、2008年5月25日の当地方の朝日新聞に「日曜ナントカ学」という面白い記事が載ってました。
日清食品のカップうどん・そば「どん兵衛」のスープが、東西で味付けを変えているというのです。東はカツオだしを主体に濃い口しょうゆで味付けし、見た目も濃い。西は昆布だしを多めに薄口しょうゆだそうです。開発チームは、JRの一駅ごとに駅構内や駅近くのうどんを食べ歩き、結局天下分け目の関ケ原が味の分かれ目という結論になったのだそうです。
関東の卵焼きは、だしが少なく少し固めで甘いのにたいし、近畿圏の卵焼きは、やわらかく薄い塩味だという。
元旦の雑煮も、角餅・すましの東にたいし、丸餅・味噌の西とほぼこのラインで東西に分かれるのだそうです。
ウナギの背開き・腹開き、そして焼き方もいくつか違いがありますね。食文化も京都の公家文化と江戸の武家文化の違いが、この関ケ原でせめぎ合っているのでしょうかね。