前夜は、塩尻市にある道の駅「小坂田公園」で車中泊。いつもは国道19号線を南下し、帰るのですが、この時は、塩尻から南下し、飯田を経て三河吉田を結ぶ「三州街道(黄線)」を南下し、伊那谷の名所旧跡を訪ねながら帰宅の途につきます。三河と信州を結ぶ道ですから「三州街道」と呼ばれたようです。
善知鳥(うとう)峠・中央分水嶺を訪ねます。この善知鳥峠は、塩尻と伊那谷を分ける峠で、地名の由来は、善知鳥という鳥にまつわる民話によるそうです。このあたりに降った雨は左右に分かれ、北側に流れでた雨水は、犀川となり千曲川~信濃川に合流し日本海にそそぎます。一方南側に流れ出た雨水は、天竜川に合流し太平洋にそそぎます。
善知鳥峠を南下すると、昔の面影を色濃く残す「小野宿」です。その小野宿をめぐります。小雨が降っています。
造り酒屋・小野酒造店です。「夜明け前・頼母鶴」などの銘酒あり。
小野宿は、旧中山道塩尻宿から飯田方面に通じる三州街道(伊那街道)の初めての宿場でした。ここは、下諏訪から木曾桜沢へと結ぶ初期中山道(↑図赤線)で、米・木材・などの輸送で一時期大いに栄えました。中山道はその後塩尻峠を越え、塩尻~洗馬~本山の三宿を通る道(↑青線)に付け替えられます。
小野の地は、諏訪と筑摩と伊那の接点で、中世末よりその帰属について常に紛争が絶えませんでした。秀吉の時代になっても紛争が絶えず、そこで秀吉は、天正19年(1591)小野盆地の中央部での分割を裁定し、北側(北小野)を松本城主の所領に、南側(南小野)を飯田城主の所領としたのです。それ以降現在に至るまでこの状況が続いているのです。北は塩尻市北小野、南は伊那郡辰野町小野という行政区画となっているのです。地図をよく見てみてください、両小野地区は、行政区画は異なっていても、同じ小野ですので、両小野と呼ばれています。
さらに不思議なのは、小中学校も市立でも町立でもなく、塩尻市と辰野町が合同出資した組合立で、「両小野小学校」が辰野側に、「両小野中学校」が塩尻市側にあります。なんかややこしいですね。先生や職員の立場は、どうなっているのでしょうかね。
神社も同じような問題を抱えています。これは明日記事にします。
小野光賢・光景記念館です。小野光賢はここで生まれ、安政6年に横浜に出て貿易を営み、勝海舟や山岡鉄舟らと親交を重ねます。横浜の町造りに尽力し、副市長を務めたりしますが帰郷。故郷で隠遁生活を送り、明治33年に逝去します。その子光景は、父の仕事を手伝い諸々の公務を務め、横浜商業高校を創立します。横浜商法会議所会頭を務めるなど、横浜の近代都市経営に大きな足跡を残します。大正8年逝去。
「本棟造り」の民家です。
旧小野家住宅(小野宿問屋)です。小野家は問屋・名主を務めました。安政6年(1859)の大火後に再建されたものです。大規模な本棟造りの建物です。医薬門形式の表門を構えています。
木製の「忍び返し」が、ものものしいですね。
本棟造りの屋根に載る「鳥脅し」と「懸魚」です。
レトロっぽい洋風建築です。
高札場があります。
初期中仙道小野宿問屋址です。
初期中山道分岐点です。ここから牛首峠をへて、木曾桜沢に至ります。中山道開設13年後に塩尻峠の道が開かれ、初期中山道は廃止されます。
2011.春