チームリーダーの苦悩 | ほうしの部屋

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 渋谷の東宝シネマズで上映中の映画『オッペンハイマー』を観てきました。

 アカデミー賞の主要な7部門で受賞しました(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、作曲賞、編集賞)。第二次大戦で、アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」の科学面の責任者として世界の運命を握った理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの栄光と没落、名誉回復を描いた、実話に基づく作品です。実在の人物を描いた伝記映画としては歴代1位の興行収入を得ています。監督は、クリストファー・ノーラン。渋い特殊効果と洗練されたモンタージュ(編集)技術で、時空を自在に行き来する作品を多数作っています。私が好きなのは『メメント』『インセプション』『インターステラー』あたりです。

 本作品では、主人公オッペンハイマー(米国の原爆開発の技術的責任者である理論物理学者)の視点と、その対極となる人物としてストローズ少将(戦後の米国原子力委員会委員及び委員長で水爆開発の推進者)の視点の両面から物語が進行していきます。二人は、些細な対立から、犬猿の仲になります。そして、過去・現在・未来といった時間軸が揺らぎ、様々な時代(時間)を映像が行き来する時制の揺らぎは、クリストファー・ノーラン監督が『メメント』『インセプション』『インターステラー』のあたりから得意にしている手法です。オッペンハイマー視点のカラー映像をFISSION(核分裂つまり原爆を示唆)、ストローズ視点のモノクロ映像をFUSION(核融合つまり水爆を示唆)とタイトルをつけて分けています。

 

 FISSION:1954年に、アメリカで国家反逆の疑いをかけられたオッペンハイマーは聴聞会で、自身の過去の発言や行動を証言していきます。

 FUSION:1959年に、米国商務長官の任命時の公聴会でストローズは当時のAEC(米国原子力委員会)委員長としてオッペンハイマーとどう関わっていたかを聞かれます。オッペンハイマーが公職追放されたのは5年前なのに、いまさら何を聞くのかとストローズは不快感を示します。

(本作品では、時代が行ったり来たりして入り組んでモンタージュされているため、直線的に読み解くのは困難です。そこで、作品における時制の跳躍をそのまま生かして、内容紹介します。1945年までのオッペンハイマーの動向を示す部分を●で、戦後から1954年の聴聞会までの話を▲で、1959年の公聴会での話を◆で表示します)

 

●1920年代。学生時代から理論が得意で実験が苦手だった天才肌のオッペンハイマーは、ヨーロッパの大学を渡り歩きボーアやハイゼンベルクなど当時の最先端の物理学者たちから学び、量子力学研究の第一人者になっていきます。また、同じ米国人物理学者として生涯にわたって支えてくれる友人ラビとも出会います。●

▲1947年。ストローズは原子爆弾の開発に成功して戦争を勝利に導いたオッペンハイマーをAECの顧問に任命します。オッペンハイマーは自身にかけられた共産主義者への秘密漏洩の嫌疑について言及しましたが、ストローズはオッペンハイマーの実力を高く評価して任命しました。ストローズが気にしていたのは、オッペンハイマーと初対面の日に、急にアインシュタインから邪険に扱われたことでした。オッペンハイマーがアインシュタインに何を言ったのかが気がかりでした。▲

●1930年代。アメリカの大学でオッペンハイマーは、当時のアメリカではまだ日陰者だった量子物理学の講義を始めて人気を集めていきます。ドイツの科学者オットー・ハーンがウラニウムの核分裂に成功し、1939年にヒトラーがポーランド侵攻を開始したことで、核爆弾の開発を急ぐ必要があるとユダヤ人のオッペンハイマーは強く感じていました。一方で、弟が共産党員になったことで、オッペンハイマーの交友関係は怪しいものになってきます。作家のシュバリエのような共産党員と関わり、学生時代の恋人の精神科医ジーン、妻で生物学者のキティ(キャサリン)も共産党員だったことで、オッペンハイマーは国から安全保障上の危険分子という嫌疑もかけられました。●

◆1959年。公聴会でストローズは、1947年にオッペンハイマーを共産党関与の嫌疑がありながらAEC顧問及びプリンストン研究所所長に任命したのは、当時の世界で最も重要な物理学者だったからだと説明します。休憩中に、ストローズは上院補佐官に、オッペンハイマーの嫌疑が深刻化したのは、マッカーシー上院議員が強行した赤狩りのせいで、1954年にFBIに、連邦議会原子力合同委員会の元事務局長だったボーデンから密告があったからだと話します。誰がボーデンに極秘情報を渡したのでしょうか。ストローズは、オッペンハイマーは人格に問題があったので誰から恨まれてもおかしくないと思います。ストローズは、1948年にアイソトープのノルウェー輸出の是非を巡って公聴会が開かれた時にオッペンハイマーのせいで笑い物にされたことを回想します。オッペンハイマーは妻のキティがいながら、ジーンとの浮気を重ね、キティは育児放棄していました。シュバリエ夫妻に子守を頼むなどオッペンハイマーは周囲の人間に迷惑をかけ続けましたが、才能を存分に発揮して、他人に迷惑をかけてでも使命を果たせと応援されていました。◆

●1942年。オッペンハイマーは、グローヴス大佐に原爆開発をアメリカの総力をかけて行う『マンハッタン計画』のリーダーに任命されました。オッペンハイマーは幼少期から慣れ親しんだ砂漠地帯のロス・アラモスに研究のために街を作り、グローヴスと一緒にアメリカ中から最高の研究者を集めていきます。複数の研究者からは核の軍事利用を懸念する声も上がりましたが、オッペンハイマーたちは、ナチスが先に原爆を開発するよりはマシだと説得しました。1943年、理論物理学者のテラーが核の連鎖反応の理論を発見します。一回の核爆発で大気中の原子に連鎖反応が起きて、世界が文字通り核の炎に包まれるというものです。オッペンハイマーはアインシュタインにも査読を依頼しますが、断られます。しかし、アインシュタインは、もしテラーの連鎖反応理論が正しかったら直ちに研究を中断してナチスにも情報共有することで人類滅亡は防げると、助言しました。ロス・アラモス内の査読と再計算により地球滅亡規模の連鎖反応が起きる確率はゼロに近いと判明し、やや不安が残るものの原爆開発の研究は続けられることになりました。引っ越しの前日に、オッペンハイマーはシュバリエから、アメリカ政府が同盟国であるソ連に十分な情報提供をしないことを共産党員の科学者エルテントンが嘆いていることと、彼を通せばソ連に情報提供できると持ちかけられます。オッペンハイマーはそれは国家反逆罪にあたるとして断りますが、その策略を警察や政府に報告しませんでした。●

◆1959年。公開審問で科学者の意見を聞くという方針にストローズ少将は不満を爆発させます。休憩中に上院補佐官から形式だけだと説得されますが、ストローズの科学者に対する不信感は根強いものがありました。特にロス・アラモスで研究していたオッペンハイマーを擁護する科学者たちから不利な証言をされるのではないかと懸念しました。ストローズはフェルミなどシカゴ派の科学者の証言を希望しました。◆

●オッペンハイマーと家族のロス・アラモスでの生活が始まります。それまでの火薬による化学爆発から核分裂による物理爆発で1,000倍ほど威力が強大になるので、キロトンという単位が考案されました。大きなプルトニウム型原爆と、小さなウラニウム型原爆を作る方針が決まりました。プルトニウム型原爆では、核物質を瞬時に圧縮して臨界に達する爆縮という技術の開発が難関でした。テラーは原爆よりも強力な水爆の開発を提案しますが、オッペンハイマーは核分裂による爆発のエネルギーが水素の核融合に必要であることから、現実的ではないと却下しました。●

▲1949年。ソ連が原爆実験に成功しました。ストローズは大統領への水爆開発の進捗状況の報告が必要だと主張します。またロス・アラモスの内部にソ連のスパイがいて、ソ連に原爆の情報を流していたのではないかと疑います。▲

●ロス・アラモスでは研究施設の規模が大きくなり携わる研究者も増えます。研究者の妻も事務員として雇用されたり、部門横断会議が開催されるようになり、情報統制が機能せず個々の信用だけに頼る状態になります。そもそも、共産党との関係を疑われていたオッペンハイマーの身辺調査の結論は出ないままでした。ストローズがロス・アラモスと敵対していると思い込んでいるシカゴ派の物理学者フェルミやシラードとも当時のオッペンハイマーは極秘に研究を共有していました。シカゴの研究施設でオッペンハイマーはフェルミが開発した世界初の原子炉を見学します(ここで製造されたプルトニウムが原爆の材料の一つになりました)。守秘義務に従わない行動をグローヴス大佐から責められることもありました。しかし、オッペンハイマーは自身に共産党員の疑いがあることで、軍部による統制をしやすくする狙いがあるのかと尋ね、グローヴスを黙らせました。ロス・アラモスでの身辺調査は混迷を極め、グローヴスの部下で駐在していたニコルズ中佐はイライラしていました。オッペンハイマーの身元調査はようやく通過しましたが、一方で共産党団体の運動を続けていたロマンティスがロス・アラモスから退去を命じられるといった事例もありました。グローヴスは、表向きには厳しい態度を取り続けましたが、実際には研究者の規則違反を黙認している状態でした。それほど原爆開発は急務だったのです。この時期にオッペンハイマーは元恋人のジーンとも面会していました。のちに聴聞会で理由を聞かれて、彼女がまだ自分のことを愛していたからだと答えます。妻のキティはオッペンハイマーと裸で抱き合うジーンの幻覚を見て、聴聞会で私生活を洗いざらい暴かれるのはもう限界だと感じて、オッペンハイマーに抗議します。オッペンハイマーはニコルズ中佐に解雇されたロマンティスと面会するためにバークレイ大学に来ましたが、待っていたのは陸軍の防諜部将校パッシュ大佐でした。パッシュはFBIに監視されるほど強固な反ソ連派で共産党員を捜査していました。オッペンハイマーはパッシュと会話しながらこれが任意の取調べだと気づきシュバリエの名前を明かさず退席しました。しかし、この出来事をグローヴスに相談しました。グローヴスはオッペンハイマーを守るためと称して、隠している人物の名前を教えろと脅しますが、オッペンハイマーが頑なに拒むので、パッシュ大佐をドイツでの作戦に異動させました。量子力学の第一人者ボーアがロス・アラモスを訪問します。ボーアは核兵器を持つことに人類はまだ準備ができていないと警告します。サンフランシスコではジーンが浴槽で不審死しました。自分が別れを宣言したからなのか、それとも赤狩りの標的とされて他殺されたのかと、ジーンの訃報を受けて取り乱すオッペンハイマーでしたが、妻のキティが支えてくれました。テラーが水爆にこだわるあまりチームと不和になり、オッペンハイマーはテラーを原爆開発チームから外してロス・アラモスで独自路線で自由に研究させることに決めます。●

▲1949年。ソ連の原爆実験を知って水爆開発を進めようとするAECに対して、オッペンハイマーは水爆技術はまだ未熟であることと、これを開発したらソ連との開発競争になるので、今こそルーズベルト前大統領の構想通りに世界で協力して核技術を共有管理するべきだと主張します。しかし現大統領トルーマンの意向とは異なるとストローズ少将に強く反発されます。オッペンハイマーは親友の物理学者ラビからストローズには敵対するなと忠告されます。また、この時にAECに加入したボーデンと初めて対面します。元軍人で戦闘機のコクピットからミサイル(ナチスのV2ロケット)を目撃したことがあるというボーデンの話から、オッペンハイマーはミサイルに核弾頭が搭載される未来を想像します。▲

◆1959年。公聴会で、なぜボーデンがオッペンハイマーの身辺調査に関するFBI資料にアクセスできたのかを聞かれますが、ストローズは知らないと答えます。◆

●1945年。ドイツが降伏したことでロス・アラモスの科学者たちにくすぶっていた原爆開発に対する疑問の声が抑えきれなくなります。開発反対派が勝手に開いた集会に気づいたオッペンハイマーは、まだ戦闘中の敵国として日本が残っていると言い、核兵器の恐ろしさを見せつけることで政府に軍事利用を思いとどまらせて、ルーズベルト前大統領の核技術共有構想の実現につなげることが狙いだと科学者達を説得しました。アラモゴート砂漠でのトリニティ核実験をポツダム宣言の前の7月に設定します。準備を急ぐオッペンハイマーは、土地に詳しい弟のフランク(元共産党員の物理学者)に機器開発などの仕事をさせます。オッペンハイマーは、原爆投下の決定会議で核兵器の恐ろしさを伝えますが、戦争を早く終わらせるという大義名分で原爆投下が決定されました。突貫工事や悪天候で不安はありましたが、大統領への報告期限日の午前5時30分に強行してトリニティ核実験は成功します。チームは全員徹夜続きで疲労困憊しており、テラーの言うように、理論上はゼロに近いのですが連鎖反応による大気炎上が起きる可能性もありました。原子爆弾は米軍に移管され、グローヴス将軍(大佐から昇進)もあっさりロス・アラモスを去りました。戦地に搬送される二つの原子爆弾を見送りながら、核戦争の時代の始まりだと憂うオッペンハイマーでしたが、テラーが「俺が水爆を作るまではな」と冗談交じりに言いました。広島と長崎で原爆が投下されたことをオッペンハイマーはラジオで聴きました。第二次世界大戦は日本の無条件降伏で終了しました。被爆地の記録映像などを見て、オッペンハイマーは原爆で焼け死ぬ人々の幻覚に悩まされるようになります。しかし戦争の英雄になってしまった彼の苦しい本心を大衆は理解しませんでした。1945年10月、功績が認められてトルーマン大統領と面会したオッペンハイマーは弱気な発言を繰り返し、ロス・アラモスを閉鎖して土地を原住民に返却すると言い、大統領の不評を買います。さらに「手に血がついた気持ちです」と心境を吐露しますが、大統領から「被曝者は開発者のことなど考えもしない、恨まれるのは落とすと決めた私だ」と叱責されて、面会は中断されました。●

◆1959年。ストローズの回想です。戦後、オッペンハイマーは立場を利用して政府を誘導しようとしました。弟フランクやロマンティスやシュバリエが赤狩りにあってもオッペンハイマーの信念は変わりませんでした。水爆実験を進めたトルーマンには嫌われ、マンハッタン計画の重要な一員だったフックスがソ連のスパイだったと判明してからはFBIの監視も強まりましたが、それでも懲りず、大統領がアイゼンハワーに代わるとオッペンハイマーは再び積極的に活動しました。原子力合同委員会の事務局長だったボーデンがオッペンハイマーの身辺調査の再実行をFBIに上申しました。◆

●1945年11月。ロス・アラモス研究所長の退任式典の演説で「この施設は呪われるだろう」とオッペンハイマーは言いました。●

◆1959年。ストローズの写真が表紙になったタイム誌を買ってきた上院補佐官が、オッペンハイマーを批判する記事を見つけます。記者と交友があるストローズによる世論操作だと見抜いた上院補佐官が詰問すると、ストローズは1954年の工作の話をします。◆

▲1954年。原子力合同委員会事務局長のボーデンに情報提供したのはストローズでした。正式な裁判ではなくて身辺調査という手法です。法的に認められる証拠も必要ありません。ボーデンがFBIに密告して、FBIのフーバーからの依頼にニコルズが対応して聴聞会の設置を決めました。審査員も検察官もストローズが指名しました。オッペンハイマーの弁護士には十分な資料を渡しませんでした。この聴聞会の目的はオッペンハイマーの共産党関与を証明することではありません。彼に掛かる嫌疑だけを残して、オッペンハイマーに二度と政治に口出しできぬようにすることでした。オッペンハイマーは国家機密にアクセスする権限を剥奪されます。▲

◆1959年。話を聞いた上院補佐官は怒りを露わにしますが、ストローズはこれがワシントンの流儀だと言いました。◆

▲1954年。オッペンハイマーの妻キティはストローズにハメられたのだと最初から確信していました。アイソトープの輸出をめぐる公聴会でストローズが馬鹿にされたことを恨んでいるに違いないと思いました。オッペンハイマーは敏腕のギャリソン弁護士を雇いますが苦戦します。旧知の物理学者ローレンスは、ストローズにオッペンハイマーとトルマン夫人の不倫関係がトルマンを死に追いやったと吹き込まれたせいか、協力してくれません。聴聞会で、オッペンハイマーの親友の物理学者ラビがオッペンハイマーの功績で原爆も水爆も完成したのだと成果を強調しました。▲

◆1959年。公聴会にて、ストローズが招集した物理学者テラーがストローズを絶賛します(ストローズが水爆開発の推進派であることから)。◆

▲1954年。聴聞会で、原子力合同委員会事務局長ボーデンのフーバーへの報告書が読み上げられます。FBIの極秘資料に基づくソ連のスパイ容疑をかけられ、オッペンハイマーと弁護士は打ちのめされます。▲

◆1959年。公聴会で、シカゴ派の科学者ヒルが、ストローズは商務長官に相応しくないと証言します。理由は、アイソトープ輸出時の公聴会でオッペンハイマーに馬鹿にされたことをストローズはずっと恨んでいて、1954年にオッペンハイマーの社会的地位を破壊したと多くの科学者が考えているからです。それからもストローズの言動は政治的なアクションに満ちていたとヒルは言います。公聴会は騒然となりました。◆

▲1954年。聴聞会で、物理学者テラーがオッペンハイマーは忠誠心があると証言します。一方で行動や発言には理解できない部分もあったとも証言します。去り際に謝罪しながら握手を求めるテラーにあっさり応じるオッペンハイマーに、キティは紳士すぎるとあきれます。聴聞会で、グローヴスは自身の信念に従い誰も簡単には信じないからオッペンハイマーも信用してないと断言します。しかしオッペンハイマーがソ連のスパイだったフックスの雇用には一切関わっておらず、その点に不信があるわけでもないと断言します。▲

◆1959年。公聴会で、フェルミの助手だった物理学者ヒルは、オッペンハイマーの聴聞会の検察官ロブを指名したのはストローズだったと暴露します。会場はまたもや騒然となります。◆

▲1954年。聴聞会で、検察官ロブがキティに厳しく詰め寄り、彼女がいまだに共産党と金銭的につながりがあることを指摘します。かつて祖国ドイツを捨てたアインシュタインはオッペンハイマーにこんなアメリカのような国のためにどうしてそこまでするのかと問います。オッペンハイマーはアメリカを愛しているからだと答えます。聴聞会で、オッペンハイマーが原爆は役に立ったことを認めます。あくまでも政府から命令された仕事をしただけで、原爆を落とす意思決定をしたわけではないとも言います。そして1949年に水爆開発に反対したのは、原爆がそうだったように、米国が水爆を開発すればソ連も開発するしかなくなるからだと言いました。これは1945年当時は原爆開発に良心の呵責はなかったとも受け取れる証言です。オッペンハイマーが明確に水爆開発反対の道徳的信念を持ったのは、人類は武器があると知れば全て使うと確信した時だったと言います。▲

◆1959年。控え室でストローズが激昂しています。フェルミの助手だった物理学者ヒルはストローズが1954年の聴聞会を操作しことも、連邦議会原子力合同委員会事務局長だったボーデンに極秘資料を渡したことも証明できません。しかしこれは法廷ではないので証明する必要がないのです。かつてストローズ自身がオッペンハイマーに仕掛けたように、証明はせずに、ただ否定だけしているのです。この証言でヒルには何の利益も生まれませんが、原爆開発反対派だった彼の正義だけで行動しているようです。ストローズはまたしても科学者の信念に立身出世を邪魔されました。「オッペンハイマーが被害者ヅラして原爆開発の殉教者になることで保身に走ったから、俺が失脚させてやったのに」「ヤツは私に感謝するべきだ」などと控え室で取り乱すストローズに「さずがにそれは言い過ぎだろう」と上院補佐官はあきれます。◆

▲1954年。聴聞会の証言全体を通して、オッペンハイマーが米国に忠誠な市民であることは認められました。しかし共産党員との関わりが無いことは証明できなかったので、事実上の公職追放の処分がされました。傷心のオッペンハイマーはキティにトリニティ実験の暗号で「シーツを家に入れるな」と報告しました。帰宅するとキティが泣いていました。「世界はあなたを許すかしら」と問われ、オッペンハイマーは「今にわかるさ」と答えました。▲

◆1959年。ストローズの商務長官への昇進は却下されました。反対の署名をした人物の中にはジョン・F・ケネディもいました。控え室でストローズは今回もオッペンハイマーにやられたと悔しがります。アイソトープ輸出の時もそうでしたが、ロス・アラモスに限らずシカゴの科学者もオッペンハイマーに操作されていたと邪推を言います。1947年にアインシュタインにストローズを無視するように伝えた時と一緒だと言います。上院補佐官はあきれて「そんなことじゃなくて、もっと大事なことを話していたんじゃないですか」と問いました。◆

▲1947年。オッペンハイマーがストローズ少将と初対面した日。庭の池で遊ぶアインシュタインに近づくオッペンハイマーを、アインシュタインは笑顔で歓迎します。しかしアインシュタインは、オッペンハイマーが原爆という大量殺戮兵器を作った落とし前をつけるべきだと迫ります。「そして、いつか人々は君を十分に罰したと思ったら、もう許した証として君を表彰するだろう。でも忘れるな。その栄誉は君の為ではない。自分たちが君を罰したことを君に許させるためのものなのだ」と言って去ろうとしたアインシュタインを引き止めてオッペンハイマーが話しかけます。「いつか地球を燃やし尽くす核爆発の連鎖反応の話をしたでしょう、あれですけどね、本当に地球の破壊は起きると思います」と。アインシュタインは返す言葉を失い、意識も朦朧として歩いて行きます。だからストローズが話しかけても無視してしまったのです。降り始めた雨で波紋が広がる池を見つめながら、オッペンハイマーには幻覚で何十発、何百発という核ミサイルが見えています。それらが一斉に発射されて、次々と着弾し地球を無数の炎が包み込んでいきます。そういう面では、たった一発の核爆弾が連鎖反応を起こして世界を焼き尽くしてしまうというのは正しかったのです。水面に広がる波紋にオッペンハイマーは核弾頭の爆発を見ていました。▲

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 本作品の日本版CMでは「一人の天才科学者が今の世界を作った」という意味のコピーを掲げていましたが、それに対して私は疑問を持っていました。オッペンハイマーは天才と言えるほどの科学者ではなく、チームリーダーとして資源や人材の差配、開発の進捗状況の把握と計画立案など、マネジメント能力に長けていたと私は考えたのです。というか、それが科学史における通説です。

 本編では、さすがにノーラン監督は、そういうオッペンハイマーの本質を見事に捉えていたと言えます。オッペンハイマーは、組織人として苦悩を抱えました。自分が考える原爆(核兵器)の扱いが政治に受け入れられず、共産主義者との関係が疑われます。世界中の有力国で核兵器を共同保有・管理することで、核戦争を防ごうという、若干ユートピア思想めいたアイデアを持っていたオッペンハイマーは、そういう主張ゆえに、共産主義者さらにはソ連に原爆の技術を漏洩したと疑われました。自分の信念と組織の論理の狭間で苦しむ姿は、天才の悩みというよりも、私たち多くの凡人にも共感できる、組織人としての悩みの現れでした。チームリーダーゆえに、あらぬ疑いをかけられ、マッカーシーの赤狩り旋風の真っ只中で、共産主義者に加担したと疑われ、チームリーダーだからこそ、政治的な疑惑を突きつけられました。このいささか俗っぽい姿こそが、オッペンハイマーの真の姿だと思います。孤高の天才ではなく、組織人として、組織のリーダーとして悩みを抱える、いわば普通の管理職だったのです。

 本作品は、ノーラン監督お得意の、時空を自在に行き来する、時制を切り刻んで交互に配するモンタージュ(編集)手法が存分に発揮されています。1954年のオッペンハイマーを巡る聴聞会、1959年のストローズを巡る公聴会が、カラーと白黒で交互に出てきて、そこにオッペンハイマーの過去の活動記録がカラーで絡んできます。単に原爆を開発しただけでなく、それをどう扱うかにまで気を巡らせていたオッペンハイマーの功罪と影響力が、戦争終結後の後年になっても根強く残っていたことがよくわかります。

 ただし、前提となる基礎的知識の説明がほとんどないため、当時の事情(米国史など)や原爆開発に関する予備知識がないと、観て理解するのに苦労すると思われます。膨大な情報と膨大な登場人物が、3時間余りの大作に盛り込まれています。ややもすると、「天才ゆえの苦悩」といった俗な印象に流れがちで、それが日本版CMのコピーを生む原因にもなっているのでしょう。むしろ、オッペンハイマーは、組織人ゆえの苦悩を背負わされていたのです。

 本作品を観ていて驚くのは、音楽とSE(効果音)の迫力です。トリニティ実験での原爆爆発の衝撃音は確かに大きいのですが、それに匹敵する音量で、各所で、音楽やSEが鳴り響くのです。微分音を重ねた分厚いトーンクラスターのような現代音楽的アプローチも出てきます。これが、映画の重厚感を高めていると言えます。核兵器という人類の負の遺産を扱う映画だからこそ、音響効果でも重苦しい雰囲気を醸成しているのだと言えます。

 本作品については、主に日本人などから、広島・長崎の被爆の惨状が描かれていないという不満が出がちですが、それはお門違いというものです。オッペンハイマーは原爆を開発する指揮をとりましたが、原爆の恐ろしさ、核兵器の脅威を誰よりも自覚していたと言えます。アメリカ本土で原爆開発に携わったオッペンハイマーの伝記ですから、広島・長崎の映像などは挿入する必然性がありません。また、作品中で、トルーマン大統領と面会したオッペンハイマーが、トルーマンから「被爆者に恨まれるのは、科学者のお前ではなく、投下を決定した私だ」と一喝されるシーンに象徴的なように、科学者の戦争責任を問う限界も見えてきます。戦争は政治の延長ですから、戦争犯罪の責任も第一に政治が負うことになります。とはいえ、国中の優秀な科学者を総動員した原爆開発の「マンハッタン計画」は、その後の軍事に加担する科学者の問題や、軍民共用技術の問題を、世界中に突きつけているとも言えます。現在の戦争は、最先端の科学技術がなければ成立しません。それほどまでに、軍事技術の開発競争に加担する科学者や技術者の責任をどう考えるかは、答えの出ない問い(アポリア)を形成しています。「戦争(軍事)に科学者は加担してはならない」などと綺麗事を言って逃げていられる時代ではないのです。