ほうしの部屋

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 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『カフカ マイナー文学のために』を読了しました。

 本作品は、ドゥルーズ+ガタリのベストセラーである『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』の間に刊行された、二人の共同作業としては、ほぼ2作目です。分裂分析、アレンジメント、欲望機械といった奇天烈な概念は、カフカの作品を評論する本作品でも縦横無尽に使われています。従って、読んだと言っても、内容を理解したとは言いがたい、脳疲労と奇妙な読後感が残ります。

 私自身は、フランツ・カフカの短編も長編もほぼ全て読んでいます。短編『変身』『流刑地にて』『家長の心配(オドラデク)』とか長編『アメリカ』『審判』『城』といったものです。しかし、手紙(書簡)は読んでいません。ドゥルーズ+ガタリの『カフカ』では、短編、長編、そして手紙も評論の俎上に載せられています。とはいえ、仮に、カフカの作品を全く読んでいなくても、本作品の読後に残る印象は、それほど違っていないかもしれません。ドゥルーズ+ガタリは、カフカの作品群を評論するふりをして、自分たちの文学的、政治的な見解を述べているのです。カフカの作品を「マイナー文学」として扱っているのは、これほど世界的に高名な作家はメジャーではないのかと、表面的な批判を浴びそうですが、ドゥルーズ+ガタリの「マイナー」の定義が普通とは異なるからです。それも含めて、『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』に勝るとも劣らない、狂気じみた理解に苦しむ内容になっています。それでも、読み進めていくうちに、ドゥルーズ+ガタリは、カフカの仕事の中に、既存の様々な抑圧から逃走し、真の自由を得る試みを見出そうとしていることが、おぼろげながら浮かび上がってきます。抑圧に反発しながら別の抑圧を創造して自ら望んでその抑圧に囚われてしまうような袋小路に陥っている現代人に、真の解放の道筋を示そうというドゥルーズ+ガタリの野望が、カフカの作品の分析を通じて見えているような気がします。

 

[第1章 内容と表現]

 カフカの作品の中にどのように入っていけばよいのでしょうか。それはリゾーム(地下茎)であり巣穴です。「うなだれた頭」と「肖像-写真」の対比は、阻止され、服従させられ、服従させ、無力化され、最小の連結しかもたない欲望、子供時代の記憶、領土性あるいは再領土化を示します。「もたげた頭」と「音楽的な音」の対比は、直立し、あるいは逃走し、新たな連結に開かれる欲望、子供時代のブロックまたは動物的ブロック、脱領土化を示します。私たちが信じるのは、カフカの一つの政治学だけで、それは想像的でも象徴的でもありません。私たちが信じるのは、カフカの一つの、あるいは諸々の機械だけで、それは構造でも幻想でもありません。私たちが信じるのは、カフカの試みた一つの実験だけで、それには解釈も有意性もなく、実験の実施要領があるだけです。カフカの機械は、様々な度合で形式化された内容と表現によって構成されるのですが、同じくこの機械に出入りし、あらゆる状態を経由する諸々の素材によっても構成されます。問題は自由であることでは決してなく、出口を見つけること、あるいは入口、側面、廊下、隣りなどを見つけることです。欲望はまさにあらゆる位置や状態を通過し、あるいはむしろこうしたあらゆる線をたどります。欲望は形式ではなく、プロセスであり、訴訟なのです。

 

[第2章 太りすぎのオイディプス]

 カフカの言うように、問題は自由ではなく出口なのです。父の問題とは、父からいかに自由になるかではなく(オイディプス的問題)、父が見つけなかったところに、どうやって一つの道を見出すかです。父と息子に共通の無罪、共通の苦悩という仮説は、それゆえに最悪のものです。神経症を生むのはオイディプスではなく、神経症のほうが、つまりすでに服従して、自身の服従の姿勢を伝染させようとする欲望のほうが、オイディプスを生み出すのです。問題はつまり欲望のミクロ政治学、袋小路と出口、服従と矯正といったことです。袋小路を開放すること、それを開通させること。オイディプスのうえと家族の中に再領土化するのではなく、世界のなかでオイディプスを脱領土化すること。精神分析の誤謬とは、その袋小路にはまり、私たちをそこに閉じ込めるということで、それは精神分析自体が神経症の商品価値によって生き延び、そこからあらゆる剰余価値を引き出しているからです。カフカにおいて苦しみ楽しんでいるのは、父ではなく、超自我でも、なんらかのシニフィアンでもなく、すでにアメリカ的なテクノクラート機械、あるいはロシア的な官僚制機械であり、あるいはファシスト機械なのです。そして家族の三角形の一角が、あるいは突然三角形の全体が分解され、それらの勢力がこれに乗じて現実に作動するにつれて、背後に出現する別の三角形は漠然として拡散する傾向をもち、たがいの中で絶えず変形しあい、一角や一点が増殖しはじめ、あるいは各辺の全体がたえず形を歪められます。オイディプスが喜劇的に肥大し、つぶさに見ると別の圧政者たちの三角形が見え始めるにつれて、同時に出現するのは、そこから逃げる出口の可能性であり、ある逃走線なのです。動物になることは、少なくとも原理的には絶対的脱領土化であり、カフカによってたくまれた砂漠的世界に下降する動きなのです。動物になること、それはまさに運動を実行すること、まったくの肯定性とともに逃走線を描くこと、閾を超え、それ自体にとってだけ価値をもつ強度の連続体に到達すること、純粋な強度の世界を見出すことであり、そこではあらゆる形態は分解し、あらゆる意味作用、シニフィアンとシニフィエも分解して、形式化されない素材、脱領土化した流れ、非有意的な記号が優先するのです。カフカの動物たちは、神話とも原型とも無縁であり、ただ踏み越えられた勾配、解放された強度のゾーンに対応するだけであり、このゾーンにおいて内容はその形態から解き放たれ、同じく表現はそれ自体を形式化するシニフィアンから解き放たれます。肝心なことは自由ではなく出口を見つけることだとすれば、この出口は決して逃走につながるものではありません。しかし一方で、逃走は空間における無用な動きとして、見せかけの自由の動きとして拒絶されているだけです。逆に場所を動かない逃走として、強度における逃走としては肯定されるのです。オイディプスの発達あるいは喜劇的肥大は、まず家族の三角形の下、あるいはその中で、反対に作動する他の三角形の発見をもたらします。それは孤児に属する「動物になること」における逃走線の道筋ともなります。甲虫、コガネムシ、クソムシ、ゴキブリになることは、家族の三角形に対して、そして特に官僚的かつ商業的な三角形に対しても、強度の逃走線を引くのです。動物になることの全体が、分裂的な出口とオイディプス的な袋小路の間で揺れているのではないでしょうか。

 

[第3章 マイナー文学]

 マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことです。マイナー文学の第一の特性は、言語が脱領土化の顕著な要因に影響されることです。カフカのいたチェコのプラハのドイツ語は脱領土化された言語であり、マイナーな例外的使用にふさわしいのです(別の現代的コンテクストでは、黒人がアメリカ英語にもたらしうる変化がこれに対応します)。マイナー文学の狭い空間では、それぞれの個人的事項がそのまま政治につながるのです。また、マイナー文学では、あらゆることが集団的価値を帯びています。実際にマイノリティ文学においては才能がみちあふれているわけではないので、巨匠に属する個人的言表行為が生まれる状況がないのです。そのような言表行為なら集団的言表行為から分離されることも可能なのです。文学こそが、たとえ懐疑的態度を含んでいても、能動的な連帯を生み出すのです。たとえ作家が周縁にあり、脆弱な共同体から孤立していようとも、この状況のせいで彼はなおさら別の潜在的共同体を表現し、別の意識、別の感性にいたる手段を鍛え上げます。文学機械は来たるべき革命機械のための仲立ちになるのですが、それはイデオロギーが理由ではまったくなく、ただ文学機械だけがその世界のどこでも欠如している集団的言表行為の条件を決然として満たすからです。つまり文学は、民衆の問題となるのです。カフカはまさにこのような語彙を通じて問いを提出するのです。主体など存在せず、言表行為の集団的アレンジメントがあるだけです。そして文学は、これらのアレンジメントが外部に与えられておらず、ただ来たるべき悪魔的な勢力として、または構築すべき革命的な力として存在するという条件において、これらを表現するのです。マイナー文学の三つの特性とは、言語の脱領土化、個人的な事項がじかに政治的事項につながるということ、言表行為の集団的アレンジメントです。「マイナー」とはもはやある種の文学を規定するのではなく、大規模(あるいは確立されたもの)と言われる文学のなかのあらゆる文学の革命的状況を規定する語なのです。まさにマイナー文学こそが、素材を加工することにずっと適している、とカフカは言うのです。カフカの発見したやり方は次のようなものです。プラハのドイツ語を、あるがままに、その貧しさのままに採用すること。つねにもっと遠くまで脱領土化すること……その簡潔さに乗じて。語彙が枯渇しているので、それを強度において振動させること。言語のもっぱら強度的な用法を、あらゆる象徴的、さらには意味的、あるいは単に有意的な用法に対立させること。形式化されない完全な表現に、強度の物質的表現に到達すること。自分自身の言語から、いかにマイナー文学をもぎとり、それが言葉を穿ち、簡素な革命的方向に言葉を逃走させるようにもっていくか。いかにして遊牧民に、移民になり、自分自身の言語にとってジプシーになるか。カフカは徹底してあらゆるメタファー、象徴性、意味作用、さらに指示作用を抹殺するのです。変身(メタモルフォーゼ)はメタファーの逆なのです。もはや本来の意味も、比喩的な意味もなく、語のひろがりにおける様々な状態の配置があるだけです。もろもろの系列を振動させ、語を未聞の内的強度のうえに開放すること、肝心なのは言語の非有意的な強度的使用法なのです。もはや言表行為の主体も、言表の主体もありません。あるのは必然的に多数的あるいは集団的なアレンジメントの真っ只中に相互的な生成変化を形成する諸状態の行程だけです。一言語のあらゆる窮乏性の特徴がカフカのなかに見出されますが、それは創造的に使用され、新しい簡潔さ、新しい表現性、新しい可塑性、新しい強度を創出するのです。言語はもはや表象的なものではなく、みずからの極点あるいは限界に接近します。一言語はある事項に関してある機能を果たし、別の事項に関しては別の機能を果たしうるのです。それぞれの言語の機能は分割されて、多数多様な権力の中心をともないます。諸々の言語の混沌があるだけで、言語の体系など存在しないのです。プラハのドイツ語は、いくつかの点で脱領土化されており、強度においてより進化しているのですが、それはつまり新たな簡潔性、新たな前代未聞の矯正、無慈悲な修正の方向です。叫びの構文法が生まれ、枯渇したドイツ語の硬直した構文法と結合されます。それはもはや文化や神話によって補償されることのない脱領土化にまで推進されるのですが、この脱領土化は、たとえゆるやかで、粘着質で、凝固したものであろうとも、絶対的です。ゆるやかに、徐々に、言語を砂漠にもっていくこと。叫ぶため、叫びに構文法を与えるために、構文法を用いること。偉大なもの、革命的なものは、ただマイナーなものだけです。あらゆる巨匠の文学を嫌悪すること。自分の言語において多言語主義を採用すること、自分の言語のマイナーな、あるいは強度的な使用法を見出すこと、この言語において制圧されたきた特性を、制圧者の特性に対立させること、一つの言語が脱走し、動物が移植され、アレンジメントが連結される非文化、未発達な地点を、言語にとっての第三世界地帯を発見すること。たとえささいなものでも、なんと多くの文学の文体、ジャンル、あるいは運動の夢が、ただ一つにきわまることでしょうか。これらは、言語のメジャーな機能を実現すること、国家言語、公的言語として奉仕することになります。それとは真逆の夢を見ること、「マイナーになること」を創造しうることが重要です。(哲学にもその機会はあるのでしょうか。長い間公的かつ参照のためのジャンルを形成してきた哲学に。反哲学が権力の言葉であろうとしている今日こそ逆に好機です。)

 

[第4章 表現の構成要素]

 私たちは、内容の諸形式と表現の諸形式という二種類の形式のあいだの構造的対応ではなく、ひとつの表現機械に直面しているのであって、この機械はそれ自身の諸形式を解体し、内容の諸形式をも解体し、同じ強度の素材において表現と一体である純粋な内容を解放するのです。マイナーな、あるいは革命的な文学は、言表することから始めるのであって、観察し認知するのはあとになってからです。表現は形式を破壊し、断絶や新たな分岐点を示すのです。

 カフカにおける文学機械、執筆あるいは表現の機械の構成要素とはどんなものでしょうか。

(1      手紙)

 手紙は直截に、潔白なままに、文学機械の悪魔的力能を提示するのです。手紙という機械を組み立てること、それは誠実不誠実の問題ではまったくなくて、機能の問題です。手紙とはリゾーム、組織網、蜘蛛の巣です。手紙をむさぼる吸血鬼、文通に固有の吸血鬼性が存在します。カフカの中にはドラキュラが、手紙によるドラキュラが住んでいて、手紙は蝙蝠のようなものです。手紙はどのように機能するのでしょうか。手紙というものは、二つの主体という二重性をもっています。表現の形式として手紙を書く言表行為の主体と、内容の形式として手紙が話題にする言表の主体です。まさにこの二重性について、カフカは倒錯的、あるいは悪魔的な使用法を実践するのです。言表行為の主体が、自分自身の到着を知らせるために手紙を役立てるのではなく、架空の、あるいは見せかけにすぎない移動そのものを言表の主体が引き受けることになります。手紙を書いて、相手からの手紙をもぎとろうとする狂気じみた欲望。手紙の欲望とは、運動を言表の主体に転移させ、言表の主体に見せかけの運動を、つまり便箋の移動を委ね、言表行為の主体に対しては、ほんとうの運動をすべて免除するのです。マイナーなジャンルとしての手紙、欲望としての諸々の手紙、手紙の欲望は次のような特性をもっています。言表行為の主体の最も深いところにある恐怖の正体は、外部にある障害として示されますが、手紙に託された言表の主体は、たとえ死ななければならないとしても、なんとしてもこの障害を克服しようとするのです。手紙は全面的に書くことの機械、表現の機械の一部をなしているのです。手紙の使用または機能は、見たところ有罪性が回帰してくるのを阻止するものではありません。潔白でありながらも悪魔的であることが可能なのです。もし有罪性が見せかけの運動でしかないとすれば、それは厳密にはまったく別の危険、別の問題の指標として振りかざされるのです。ほんとうに怖ろしいのは、手紙を書く機械が、機械工に歯向かうときです。カフカにとって手紙は不可欠な部品であり、十全に書くための肯定的な動力でしたが、彼自身は書く欲求を喪失し、四肢は罠に引き裂かれ、その罠に閉じ込められそうになっています。カフカは親密性を祓いのけようとして、恋人との空間的距離、遠く離れた位置を維持し持続しようとします。彼は自分を囚われ人とみなし、恋人に会うこと、あるいは落ち合うことを阻む障害を増やしていくのです。

(2      短編小説)

 短編小説は本質的に動物的です。カフカによれば、出口を見つけ、逃走線を引こうという短編小説の特権的目的に、動物は一致するのです。カフカが自分の部屋のなかで実践することは、動物になることであり、これは短編小説の本質的目的なのです。カフカにとって動物的本質とは、たとえその場や檻のなかに閉じ込められているとしても、出口であり、逃走線なのです。出口であって自由ではなく、生ける逃走線であって攻撃ではないのです。変身は二つの脱領土化の連接のようなものであり、第一の脱領土化は人が動物に強制するもので、動物は逃走せざるをえなくなり、あるいは服従するのですが、第二の脱領土化は動物が人間に提示するもので、人間だけでは思いつかない出口または逃走手段を示唆するのです(分裂的逃走)。二つの脱領土化は、それぞれがもう一方に内在し、もう一方を加速し、閾を超えさせるのです。動物になることは言表行為の主体と言表の主体という二重性から何も存続させることはなく、主体性にとって代わるただひとつの同じ訴訟を、ただひとつの同じプロセスを構成するのです。短編小説は、完璧で完成されたものであるにしても、自分自身のうちに閉じてしまうことになります。短編小説は、動物という出口の実は出口のない状況に、逃走線の行き詰まりにぶつかります。動物をあつかう短編小説は、表現機械の一部品です。それは現実と接触し、現実そのものにおいて書かれ、それでもやはり対立しうる二極、二つの現実の緊張にとらえられるからです。カフカにおいては、分子的多数多様性それ自体が、機械と一体になり、機械にとってかわる傾向があります。機械というより、むしろ機械状アレンジメントというべきで、その部品はたがいに独立していますが、やはりいっしょに機能するのです。短編において動物であり、動物になるものとして、動物は二者択一に直面します。袋小路に陥り、閉じ込められ、短編が終わってしまうか、あるいは自己を開き、増殖させ、いたるところに出口を穿ち、もはや動物ではなく、それ自体として長編小説でしか扱えない分子的多数多様性に、そして機械状アレンジメントに場所を譲るかです。

(3      長編小説)

 長編小説にはめったに動物は登場しないし、登場するとしてもまったく副次的な存在で、動物になることはまったく不在です。文章が本質的に、動物になることに集中している場合は、長編小説に発展することは不可能です。動物になることに集中している文章が長編小説に発展しうるとみなせるのは、それが十分に機械状の指標を含んでいて、動物の範囲から逸脱し、これによって長編小説の胚珠になるときです。長編小説の胚珠になりうる文章は、カフカが動物という出口を想像するときには終わることができ、放棄されます。長編小説が実現するのは、たとえそれが未完であろうと、さらにはとりわけ終わりなきものであろうと、機械状の指標が、それ自体確固とした真のアレンジメントに組織されるときです。反対に、明白な機械を含むテクストは、にもかかわらず、何らかの具体的な社会的-政治的なアレンジメントに接続されなければ展開されません。だから、カフカは、突然打ち切るからにせよ、終わりがないからにせよ、ひとつの文章を放棄する理由には事欠きません。

 手紙との悪魔的協定、短編小説と動物になること、長編小説と機械状アレンジメント。三つの要素のあいだにはたえまなく、ひとつからもうひとつへと横断的交通が起きます。カフカにおいて人生と書くことを対立させるのは、彼が人生を前にして欠陥、弱さ、不能によって文学のなかに避難したと考えるのは、つまらないグロテスクなことなのです。ひとつのリゾーム、ひとつの巣穴、そういうものであって象牙の塔ではありません。逃走線であっても避難所ではありません。カフカはたとえ瀕死の状態でも、打ち勝ちがたい生の流れに貫通されるのですが、その流れは彼の手紙から、短編小説、長編小説から、そして理由は異なり、通底し、交換可能であっても、それら相互の未完性からも彼にやってくるのです。これはまさにマイナー文学の条件というものです。カフカは笑う書き手であり、根本的に陽気で、生きる喜びに満ちています。彼はどこまでも政治的な書き手であり、未来社会の占い師なのです。それは彼が二つの極のようなものを抱え、まったく新しいアレンジメントのなかでそれを結合することができたからです。カフカにおいて書くことは、書くことの優先性はただひとつのことを意味しているだけです。言表行為は文学に属するのではなく、諸々の法も国家も体制も超えて、欲望と一体であるということを。それでも言表行為はつねにそれ自体政治的社会的であり、歴史的です。欲望の観点から見て、これ以上に喜劇的で歓びにみちた作者はいなかったし、言表の観点から見て、これ以上に政治的で社会的な作者はいませんでした。

 

[第5章 内在性と欲望]

 カフカの解釈の大半においては、否定神学あるいは不在の神学、法の超越性、有罪性の先験性(アプリオリ)といったことが頻繁なテーマになっています。法はもはや、前もって存在して法に材料を与える善に依存するのではなく、純粋な形式であって、善それ自体のほうがこれに依存します。法がみずからを言表する際の形式的条件において、法が言表するものが善です。カフカはこのような転倒を共有したと言えます。彼がそこに注ぎ込んだユーモアは、まったく別の本性をもつ一機械のメカニズムを解体することなのであり、この機械は、歯車を同調させ、完全に連動するように全体を機能させるために、単にこのような法のイメージを必要としているだけなのです。法は対象をもたず純粋な形式であって、認識の領域に属することはありえず、もっぱら絶対的実践的必然性に属するだけです。法は認識対象をもたないのだから、言表されてはじめて規定され、刑罰の局面においてのみ言表されます。つまりそれはじかに現実に触れ、じかに身体と肉体に触れる言表であり、あらゆる思弁的命題に対立する実践的言表です。言表が、言表行為が、言表する人物の内在的権力の名において、法に等しい力をもつのです。書類は、法の必然的な派生的表現であるどころか、法に先んじるのです。法、有罪性、内面性を、カフカは多いに必要としますが、彼の作品の見せかけの運動として必要とするのです。見せかけの運動とは、むしろ実験を導くべき分解や解体のポイントを指示し、分子的な運動や機械状のアレンジメントを露わにしようとするのであって、見せかけはそこから実際に包括的に由来するだけです。カフカのリアリズム的社会的解釈を擁護すべきでしょうか。その通りです。なぜならそれは非解釈に限りなく近いからです。カフカは社会的表象から言表行為のアレンジメントを、そして機械状アレンジメントを抽出し、しかもこれらのアレンジメントを分解しようとします。動物をめぐる短編小説で、カフカはもろもろの逃走線を引いていたのですが、彼は世界の外に逃走したわけではなく、むしろ世界とその表象を逃走(流出)させ、これらの逃走線上に引っ張っていったのです。書くこと(エクリチュール)は、アレンジメントに転記すること、アレンジメントを分解すること、という二つの機能を持っています。それゆえカフカの全作品を通じて、いわば互いに入れ子になった審級を私たちは区別しようとします。まず、機械状指標、ついで抽象機械、最後に機械のアレンジメントです。機械状指標はまだそれ自体として分離され、解体されていないアレンジメントの記号です。アレンジメントを構成する部品が把握されているだけで、部品がどのようにアレンジメントを構成しているか、わかっていないからです。アレンジメントは、それが機械と表象に対して行う解体によってはじめて意義をもつのであり、現勢的に機能しながら、自分自身の解体によって、解体においてのみ機能します。アレンジメントはこの解体から生じるのです。この積極的な解体の方法は、批判によるものではなく、社会野を横断する運動そのものを拡張し加速することです。それは、現勢的ではないがすでに現実的な、ある潜在的なものにおいて作動するのです。法があると信じられたところに実は欲望があり、欲望だけがあります。正義とは落ち着かない欲望であって法ではありません。司法が表象されないものであるとすれば、それは司法が欲望であるからです。したがって、法の超越性という観念は、放棄しなければなりません。無罪か有罪かは無限の問題で、それは確かにカフカにとって問題ではありません。反対に期限延長は有限で無制限で連続的です。有限なのは、もはや超越性がないからです。

 

[第6章 系列の増殖]

 アレンジメントの働きは、それを分解しつつ、その構成要素と、その関係の性格を考察してはじめて解明されるものです。カフカは、つねに三人組を、明白に官僚制的な三角化を提示します。そこに何かが封鎖されています。三角形を無制限に変形することによって、また二人組を際限なく増殖させることによって、カフカは、ある内在平面を切り開くのであり、これは解体、分析として作動し、彼の時代にはまだ扉を叩くものにすぎなかった力、社会的動向、勢力の診断として作動します(文学が意味をもつのは、ただその表現機械が内容に先行し内容を導くことによってです)。諸々の項は、司法のアレンジメントの動因となり、密接に関連しあう歯車となり、それぞれの歯車は欲望の立場に対応し、あらゆる歯車と立場は、継起する連続性によって交通しあうのです。ひとつのアレンジメントとして、欲望とは、機械の諸々の歯車と部品、機械の力能と厳密に一体なのです。誰かが権力についてもつ欲望とは、この歯車の魅惑であり、これらの何らかの歯車を作動させたいという欲求、自分自身もこの歯車の一部でありたいという欲求なのです。抑圧のほうが機械に依存するのであって、その逆ではありません。したがって無限の超越性として権力一般というものが存在するのではありません。権力とは切片的であり線形的であり、隣接性によって機能します。それぞれの切片が、ある機械であり、またはある機械部品ですが、機械が解体されるときは、その隣接する部品のひとつひとつがまた機械となり、より多くの場所を占めるようになります。官僚制とは、何らかの切片において、機械の何らかの状態によって、何らかの契機において決定される欲望なのです。欲望としての官僚制は、一定数の歯車の働きと一定数の権力の行使と一体であり、このような権力は、それが支配下におく社会野の構成にしたがって、その機械を操作するものと機械によって操作されるものとを等しく決定します。カフカには、社会批判の意図的欠如があります。権力機械に対立する革命的欲望があるわけではありません。彼がわかっているのは、すべての関係が、表現の文学機械に彼を結びつけており、彼は同時にその歯車、技師、官僚、そして犠牲者であるということです。世界史は、決して永遠回帰からなるのではなく、いつも新しく、ますます硬化する切片の増進からなり、その切片性の速度、切片的生産の速度は加速され、切片化された系列は勢いを増し、さらに増強されるのです。集団的社会的機械は、人間の大規模な脱領土化をひきおこすので、私たちはこの方向にさらに遠く進み、絶対的分子的脱領土化に至るのです。批判はまったく無用です。はるかに重要なのは、現勢的ではないがすでに現実的な潜在的運動に与することです。この切片化の加速または増殖の方法は、有限、隣接、連続、無制限に与するのです。諸々の切片の加速された連鎖を断つために、公式の革命に期待することなどできないのだから、文学機械に期待することになります。この機械は切片の加速を先取りし、諸々の悪魔的勢力が形成される前に、これらを追い越すのです。欲望は一方で何らかの切片に、何らかのオフィスや機械あるいは機械の状態に取り込まれ、何らかの表現形式において結晶した何らかの内容形式に結合されるでしょう。他方では同時に、まさに線の上を逃走し、解放された表現に牽引され、変形した内容を牽引し、内在性あるいは司法の領野の無制限性に到達し、出口を、厳密な意味での出口を見出します。欲望のこれらの二つの共存する状態は、法の二つの状態でもあります。パラノイア的超越的な法は、有限の切片を揺り動かし、それを十全な対象として、あちこちで結晶させます。他方で、スキゾ的内在的な法は、司法、アンチ法、手法として機能し、それがあらゆるアレンジメントにむけてパラノイア的法を解体するのです。機械状のアレンジメントを分解すること、それは動物になることによっては把握することも、まして創造することもできなかった逃走線を、現に創造し把握することです。これはまったく別の脱領土化です。反叙情性、つまり世界を把握すること、それは世界から逃走し、あるいは世界を愛撫することではなく、世界を逃走(流出)させることです。カフカは無批判の力ゆえに危険なのです。互いのうちに取り込まれる二つの運動があります。一方は大きな悪魔的アレンジメントのなかに欲望を捕獲し、ほとんど同時に下僕や犠牲者、指導者や従者を巻き込み、人間の大規模な脱領土化を実現しますが、オフィスや監獄や墓地のなかのことでしかないとしても、この脱領土化は人間を再領土化する運動でもあります(パラノイア的法)。もう一つの運動は、あらゆるアレンジメントを通じて欲望を逃走させるもので、あらゆる切片に接触しますが、どれにも取り込まれることがなく、脱領土化の勢力の潔白性を、たえずより遠くに移動させます。脱領土化は出口と同じことです(スキゾ的法)。

 

[第7章 連結器]

 ある種の系列は特別な項によって構成されます。これらの項そのものは、通常の系列において、一系列の最後あるいは別の系列の最初に配置され、諸系列が連鎖し、変形され、増殖する仕方、ひとつの切片が別の切片に付加され、あるいは別の切片から生じる仕方を画定するのです。したがってこれらの特別な系列は、連結器の役割を果たす目覚ましい項からなりたっています。なぜならこれらの項が、それぞれの場合に、内在的領野における欲望の連結を増加させるからです。三つの特性が、逃走線の三つの構成要素に、また自由の三つの段階に対応します。すなわち、運動の自由、言表の自由、欲望の自由です。スキゾ-近親相姦という組み合わせの定式は何を意味しているのでしょうか。それは多くの点で、神経症的なオイディプス的近親相姦に対立します。後者は母とのあいだに起きること、起きると想像されること、起きると解釈されることであり、領土性であり、再領土化です。スキゾ-近親相姦は姉妹とのあいだに起きることであり、母の代理物ではなく階級闘争の別の側面、女中と娼婦の側面において起きること、脱領土化的近親相姦です。オイディプス的近親相姦は、それを禁止する超越的なパラノイア的法に応答し、それ自身この法を侵犯するのですが、好みによっては直接侵犯することもあろうし、仕方なく象徴的に侵犯することもあるでしょう。子供にかまいすぎの母親、神経症の息子はやがてパラノイアになります。そしてすべてが家族-夫婦の循環のなかで反復されます。なぜなら侵犯とは実は何でもなく、単に再生産の手段にすぎないからです。スキゾ-近親相姦は反対に内在的な法-スキゾに応答し、周期的な再生産のかわりに逃走線をもたらし、侵犯のかわりに前進をもたらすのです(姉妹との問題は、母との関係より少しましなものだ、ということを分裂症者は知っています)。スキゾ-近親相姦は音に結合され、音は逃走するようになり、記憶なき幼少期のブロックは、生きたまま現在に忍び込み、現在を活性化し、加速し、諸々の連結を増殖していきます。スキゾ-近親相姦は最大の連結、多義的拡張とともにあり、女中や娼婦に媒介され、彼女たちが社会的系列において占める場所とともにあって、神経症的近親相姦に対立するのです。スキゾ-近親相姦はさらにもうひとつの要素なしには、一種の同性愛的発露なしには、理解不可能です。そしてここでもやはりオイディプス的同性愛とは反対に、分身たちの、兄弟の、あるいは官僚たちの同性愛があります。官僚的または兄弟的分身そのものが、もっぱら同性愛的指標として機能しているように思われます。もろもろの系列または切片のあいだの連結点はめざましいポイントであり、特異点であり、ある意味では美学的印象に似ているようです。それはしばしば感覚的質であり、匂い、光、音、接触あるいは想像力の奔放な形象、夢や悪夢の要素などです。カフカの全努力は、彼の反叙情主義、反美学主義の表現なのです。つまり世界から印象を引き出す代わりに、世界を掌握すること、印象のなかではなく、対象、人物、出来事において、現実にじかに触れて作業すること。メタファーを殺すこと。美学的印象、感覚あるいは想像力は、カフカの初期の試作においてはまだそれ自体として存在し、そこにはプラハ派のある種の影響が働いています。しかしカフカのあらゆる進化はそれを斥け、もはやそういったものとは無関係の簡潔性、ハイパーリアリズム、機械主義を優先します。だからこそ主観的印象は一貫して連結点に置き換えられ、連結点は切片化における数々の信号として、系列の構成における数々の注目すべき、または特異的なポイントとして客体的に機能します。カフカより以上に美学的なものを一切参照することなく、芸術あるいは表現を定義しえた人はいません。カフカによるこの芸術機械の特性を要約してみるなら、こう言わなくてはなりません。それはひとつの独身機械です。まさに多数多様な連結をもつ社会野につながっていることによって、ただひとつの独身機械なのです。これは機械にかかわる定義であって、美学的なものではありません。独身的なものとは、近親相姦的欲望や同性愛的欲望よりもずっと広大でより強度な欲望の状態です。おそらくそれには強度の低さという難点や弱点もあります。凡庸そのものの独身者ほど美学に欠ける連中はいません、しかし彼ほど芸術的なものもいません。彼は世界から逃走するのではなく、世界を掌握し、芸術家的な連続的線のうえを逃走させるのです。最高の欲望は、同時に孤独を欲し、あらゆる欲望機械に連結されることを欲します。ひとつの機械は、孤独であるがゆえになおさら社会的集団的であり、逃走線を描きながら、ただそれ自体として必然的にひとつの共同体にふさわしいものですが、その条件はまだ現勢的なものとして示されてはいません。要するにこれが表現機械の客体的定義であり、私たちが見てきたように、それはマイナー文学の現実的状態にかかわり、そこには個人的事情などもはや存在しないのです。社会体における強度量の生産、諸系列の増殖と加速、独身者の動因によって誘導される多価的集団的連結、これ以外の定義はありません。

 

[第8章 ブロック、系列、強度]

 カフカには、ある超越的、抽象的そして物象化された機械の表象があるので、なおさら不連続がきわだつことになります。まさにこの意味で、無限のもの、制限されたもの、不連続性は同じ側にあります。権力が超越的権威、専制君主のパラノイア的法として出現するたびに、それは諸々の期間の不連続的配分を強制し、二つの期間のあいだの中断や、ブロックの不連続な分割を、また二つの期間のあいだの空白をともなうのです。実際に超越的な法は、距離をおいてその法のまわりをまわり、たがいのあいだにも距離をおく諸々の断片を支配することができるだけです。カフカはもはや無限-制限-不連続によってではなく、有限-隣接-連続-無制限によって前進するのです。ブロックは、ひとつの円周上に配分されて、その不連続ないくつかの弧だけが描かれるというふうにではなく、むしろ廊下や回廊の上に配列されるといえるでしょう。つまりそれぞれのブロックはこの無制限の直線の上に、多少とも離れた切片を形成します。しかしこれでは十分な変化が生まれないのです。諸々のブロック自体が、存続する以上は、少なくともひとつの観点から別の観点に移りながら形を変えなければなりません。そして実際に、おのおののブロック-切片が廊下の線の上に開放部や扉をもち、一般にそれらが次のブロックの扉や開放部から遠く離れているとすれば、それでもあらゆるブロックには裏口があって、裏口同士は隣接しています。それはカフカにおいて最も衝撃的な地勢図であって、単に心的なものではありません。二つの点は正反対の位置にありながら、奇妙なことに接触してもいることが明らかになります。私たちは二つの建築的状態の現実的区別とそれらの可能な相互的浸透を強調しなければなりません。それらが区別されるのは、古く新しい二つの異なる官僚制に対応し、つまり一方は専制的帝政的中国的な古代の官僚制に、他方は資本主義的または社会主義的な新しい官僚制に対応するからです。現代の官僚制は当然ながら古代的形態のなかに生まれ、それを再活性化し、それにまったく現勢的な役割を与えることによってそれを変化させるのです。だからこそ二つの建築的状態は本質的に共存し、カフカは彼の大半の文章の中でそれを描写しています。パラノイア的前衛。最も現代的な機能主義が多少とも意志的に、もっとも古代的あるいは伝説的な形式を復活させていたように思われます。ここでも二つの官僚制、過去と未来の官僚制が相互に浸透しあっています。カフカは、構成主義者や未来主義者のようにもっと社会参加した同時代人たちの何人かと、少なくとも同じくらいこの歴史的問題を意識した先駆者のひとりであると思えます。なぜ私たちは、離れているものと隣接しているものを同じ側に位置づけ、もう一つの側に遠いものと近いものを位置づけるのでしょうか。近いことと離れていることは同じ次元に、つまり高さに属し、この次元は、ひとつの円の形態を描くある運動の軸に貫かれています。この円のなかで一点は遠のいては近づくのです。しかし隣接するものと離れたものは、ある別の次元に、つまり長さに、まっすぐな直線に属し、運動の軌跡に交差し、はるか遠くの切片を隣接させます。二つの建築的まとまりは次のように分割されます。一方は、無限であり-制限され-不連続で-近い-遠い。もう一方は、無制限であり-連続的-有限-離れている-そして隣接的である。ところがカフカはどちら側でもブロックによって作動するのです。記憶は幼児期の再領土化を実現します。しかし幼児期のブロックはまったく別の仕方で機能するのです。これこそが子供の唯一のほんとうの生です。それは脱領土化を行い、時間のなかを、時間とともに移動し、欲望を再活性化し、その連結を増殖させるのです。それは強度的で、最低の強度においてさえ、ある高い強度を再始動させます。姉妹との近親相姦、芸術家との同性愛はこのような幼児期のブロックです。確かに子供はたえまなく両親の上に再領土化します。つまり彼は低い強度を必要とするのです。しかし自分の活動においても情念においても、彼は同時に最も脱領土化され、かつ最も脱領土化する存在、つまり孤児なのです。こうして子供は脱領土化のブロックを形成し、それは時間とともに、時間の直線上を移動し、マリオネットに息を吹き込むように大人を再生させ、生き生きした連結を彼に再注入するのです。幼児期のブロックは単に現実としてではなく、方法と規律として時間のなかを移動し続け、子供を大人に注入し、あるいは仮想された大人を、ほんとうの子供に注入します。このような交通はカフカのなかに、彼の作品の中に、実に興味深いマニエリスムを生み出すのです。それは記憶をともなわない簡潔性のマニエリスムであり、それによって大人は、大人であることをやめることなく幼児期のブロックにとらえられ、同じく子供は、子供であることをやめることなく大人のブロックにとらえられることがありえます。カフカによれば、子供たちは女性たちよりもずっと遠くに進むようです。彼らは女性の系列よりも強度な交通と脱領土化のブロックを形成し、もっと強力なマニエリスムに、あるいはもっと機械状のアレンジメントにとらえられます。二つの作法、そしてマニエリスムの二つの極は、カフカの分裂的道化芝居を構成しています。分裂症者は二つともよくわかっていて、それは社会的座標を脱領土化する彼らなりの方法なのです。おそらくカフカは、人生においても創作においても、それを見事に使いこなしたのです。まさにマリオネットの機械状芸術です。

 

[第9章 アレンジメントとは何か]

 アレンジメントは、小説にとって特権的対象ですが、二つの面をもっています。それは言表行為の集団的アレンジメントであり、欲望の機械状アレンジメントなのです。カフカは最初にこの二つの側面を分解したばかりではなく、彼が二つを結合した結果はひとつの署名のようなものであって、それを通じて読者は彼を必然的に認知するようになるのです。彼の天才は、男女が労働においてのみならず、それ以上に近接する諸々の活動において、休息において、性愛において、抵抗において、怒り等々においても、機械の一部となっていることを考えるところにあります。機械はあらゆる連結要素に分解されなければ社会的たりえません。そのような連結要素がそれ自体で機械を構成するのです。機械とは欲望ですが、それは欲望が機械の欲望であるからではなく、欲望がたえず機械のなかに機械を生み出すからであり、先行する歯車のわきに、不確定な仕方でたえず新しい歯車を形成するからです。たとえこの歯車が抵抗し、不協和な仕方で機能するようにみえることがあっても、このことに変わりはないのです。厳密に言えば、機械を構成するのは連結であり、分解を条件づけるあらゆる連結なのです。技術的機械はそれ自体、その前提となる社会的アレンジメントにおける一部品でしかなく、社会的アレンジメントこそが機械状と呼ばれるに値するということ、このことは別の側面に私たちの注意をうながします。要するに、欲望の機械状アレンジメントは、言表行為の集団的アレンジメントであるということに。言表は、服従、抗議、抵抗等々に関するものであり、全面的に機械の一部です。言表はいつも法的であり、つまり規則にしたがって作られます。まさにそれは機械の使用法を構成するからです。言表それ自体が機械の一部であり、こんどはみずから機械を構成し、全体の作動を可能にし、あるいはそれを変更し、あるいは爆発させてしまいます。欲望の社会的アレンジメントではない機械状のアレンジメントはないし、言表行為の集団的アレンジメントではない欲望の社会的アレンジメントはないのです。カフカ個人は境界線上にいます。彼は単に古く新しい二つの官僚制のあいだの蝶番のところにいるだけではありません。彼は技術的機械と法的言表の蝶番の位置にもいます。彼は同じアレンジメントにおいて二つが結合していることも体験するのです。カフカにおいて本質的なことは、機械、言表、欲望が唯一の同じアレンジメントの部分をなし、長編小説に無制限の動力と対象を与えているという点です。彼の文学は過去を横断する旅ではなく、私たちの未来の文学です。二つの問題にカフカは熱中します。最悪にせよ最良にせよ、どういう瞬間にひとつの言表は新しいと言われるのか。悪魔的であろうと、無垢であろうと、あるいはどちらでもあろうと、どんなときに新しいアレンジメントが姿をあらわしていると言えるのか。ひとつの言表が独身者によって、あるいは芸術的な特異性によって産出されるときは、それはいつも国民的、政治的、社会的共同体とのかかわりでしか産出されません。たとえこの共同体の客観的条件が、さしあたって文学的言表行為の外部では与えられていないとしてもやはりそうなのです。ここからカフカの二つの原則的主張がやってきます。要するに進んだ時計としての文学、民衆の事業としての文学ということです。最も個人的な文学的言表行為も、集団的言表行為の特別なケースにすぎません。ひとつの言表は、言表行為の集団的状況を先取りするひとりの独身者によって引き受けられるときに文学的なものになるのです。主体が言表を生み出すように、アレンジメントが言表を生み出すと言うだけでは不十分です。アレンジメントはそれ自体において、あるプロセスにおいて言表行為のアレンジメントであり、このプロセスは何らかの指定可能な主体に場所を与えるのではなく、むしろ諸言表の性格と機能を強調することをなおさら可能にするのです。なぜなら諸言表は、なんらかのアレンジメントの歯車としてしか存在しないからです。言表行為は言表に先行するのであって、それは言表を生み出す主体との関連においてではなく、言表行為を第一の歯車にするひとつのアレンジメントとの関連において先行するのです。他の歯車は、それにしたがいつつ、しだいに位置を定めるにすぎません。言表行為の優位は、マイナー文学の条件そのものに私たちを引き戻します。つまり先取りし先行するのは表現であり、それは内容に先立ち、内容がやがて忍び込むことになる頑丈な形式をあらかじめ描き、あるいは内容が逃走や変形の線上を移動するようにするのです。しかしこの優位は、少しも理念性をともなうものではありません。なぜなら表現あるいは言表行為も、やはり内容自体に劣らず、アレンジメントによって厳密に規定されるからです。そして唯一の同じ欲望が、唯一の同じアレンジメントが、内容の機械状アレンジメントとして、また言表行為の集団的アレンジメントとして現われるのです。アレンジメントは単に二つの側面をもつばかりではありません。一方でそれは切片的で、それ自体が、隣接するいくつかの切片の上に広がり、あるいは諸々の切片に分割されますが、その切片もやはりアレンジメントです。この切片性は多少とも硬質であり、または柔軟でありえますが、この柔軟性も硬質性と同じ程度に強制的であり、そしてより以上に息苦しいものです。ひとつのアレンジメントは、脱領土化の複数の尖端をそなえており、それにはいつも逃走線があって、それによってアレンジメント自身が逃走し、自身を分解する言表行為や表現を逃走させます。同時にその内容のほうも劣らず変形され変身し、逃走させられるのです。アレンジメントは無制限の内在的領野に広がり、そこに浸透し、この領野は切片を溶解させ、欲望をそのあらゆる凝固と抽象から解き放ち、あるいは少なくとも積極的に凝固や抽象と戦い、それを解消しようとするのです。たとえ私たち各人が、自分のなかに親密なマイノリティを、親密な荒地を発見しなければならなかったとしても、それらはいつも集団的ではありますがマイノリティの状況のなかに、マイナーな文学と政治の状況のなかにあります。具体的アレンジメントは、もはや抽象機械の偽りの超越性をはぎとって、それに現実的存在を与えるようなものではありません。むしろ反対に抽象機械のほうこそ、アレンジメントの存在と現実の様式的成分を測定するのであって、それはアレンジメントの示す、それ自身の切片を分解し、脱領土化の尖端を推進し、逃走線の上をすべり、内在野をみたす能力によって測定されるのです。抽象機械とは、無制限の社会野であり、また欲望の身体であり、それはまたカフカの持続的著作であり、それらにおいて諸々の強度はうみだされ、そこにあらゆる連結と多義性が登録されます。①なんらかのアレンジメントは、どの程度まで超越的法というメカニズムなしにやっていけるのか。②それぞれのアレンジメントに固有の切片性の本性はどんなものか。③固有の切片を逸脱するアレンジメントの能力はどんなものか。④それ自身欲望の領野としてこの抽象機械を形成する文学機械の能力、言表行為あるいは表現のアレンジメントの能力とは何か。この4つの強度量の指標を作用させること、それに対応するあらゆる強度を、最低から最高まで産出することが、カフカの作品を数量化することです。つまり機能K。これこそまさに彼が実践したことであり、まさに彼が持続した作品なのです。

 

 本作品の概要はこのようなものです。

 

 本作品で出色なのは、ドゥルーズ+ガタリが、マイナー文学というものについて独特の見方を示していることです。単純なメジャーvsマイナーといった対比ではなく、マイナーであることがメジャーを脱構築し、脱領土化する起点になると考えているのです。

 

【マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことです。マイナー文学の第一の特性は、言語が脱領土化の顕著な要因に影響されることです。カフカのいたチェコのプラハのドイツ語は脱領土化された言語であり、マイナーな例外的使用にふさわしいのです(別の現代的コンテクストでは、黒人がアメリカ英語にもたらしうる変化がこれに対応します)。】

 

 このようにマイナー文学を定義づけています。チェコという当時のハプスブルク帝国の辺境にあり、田舎からプラハに出てきたユダヤ人であるカフカが、ドイツ語で書くということが、マイナー文学を形成しているというのです。

 

【マイナー文学の狭い空間では、それぞれの個人的事項がそのまま政治につながるのです。また、マイナー文学では、あらゆることが集団的価値を帯びています。文学こそが、たとえ懐疑的態度を含んでいても、能動的な連帯を生み出すのです。たとえ作家が周縁にあり、脆弱な共同体から孤立していようとも、この状況のせいで彼はなおさら別の潜在的共同体を表現し、別の意識、別の感性にいたる手段を鍛え上げます。文学機械は来たるべき革命機械のための仲立ちになるのですが、それはイデオロギーが理由ではまったくなく、ただ文学機械だけがその世界のどこでも欠如している集団的言表行為の条件を決然として満たすからです。つまり文学は、民衆の問題となるのです。カフカはまさにこのような語彙を通じて問いを提出するのです。】

 

このように、マイナー文学のもつ政治性について語っています。文学機械としてのマイナー文学が、革命や政治的変革の呼び水になると考えているようです。

 

【マイナー文学の三つの特性とは、言語の脱領土化、個人的な事項がじかに政治的事項につながるということ、言表行為の集団的アレンジメントです。「マイナー」とはもはやある種の文学を規定するのではなく、大規模(あるいは確立されたもの)と言われる文学のなかのあらゆる文学の革命的状況を規定する語なのです。まさにマイナー文学こそが、素材を加工することにずっと適している、とカフカは言うのです。カフカの発見したやり方は次のようなものです。プラハのドイツ語を、あるがままに、その貧しさのままに採用すること。つねにもっと遠くまで脱領土化すること……その簡潔さに乗じて。語彙が枯渇しているので、それを強度において振動させること。言語のもっぱら強度的な用法を、あらゆる象徴的、さらには意味的、あるいは単に有意的な用法に対立させること。形式化されない完全な表現に、強度の物質的表現に到達すること。自分自身の言語から、いかにマイナー文学をもぎとり、それが言葉を穿ち、簡素な革命的方向に言葉を逃走させるようにもっていくか。いかにして遊牧民に、移民になり、自分自身の言語にとってジプシーになるか。カフカは徹底してあらゆるメタファー、象徴性、意味作用、さらに指示作用を抹殺するのです。変身(メタモルフォーゼ)はメタファーの逆なのです。もはや本来の意味も、比喩的な意味もなく、語のひろがりにおける様々な状態の配置があるだけです。】

 

 このように、マイナー文学の方法論とそれがもたらす文学から政治への影響の内容を説いています。マイナー文学こそが、革命的な方向へ言葉を逃走させるといいます。

 

【もろもろの系列を振動させ、語を未聞の内的強度のうえに開放すること、肝心なのは言語の非有意的な強度的使用法なのです。もはや言表行為の主体も、言表の主体もありません。あるのは必然的に多数的あるいは集団的なアレンジメントの真っ只中に相互的な生成変化を形成する諸状態の行程だけです。一言語のあらゆる窮乏性の特徴がカフカのなかに見出されますが、それは創造的に使用され、新しい簡潔さ、新しい表現性、新しい可塑性、新しい強度を創出するのです。言語はもはや表象的なものではなく、みずからの極点あるいは限界に接近します。一言語はある事項に関してある機能を果たし、別の事項に関しては別の機能を果たしうるのです。それぞれの言語の機能は分割されて、多数多様な権力の中心をともないます。諸々の言語の混沌があるだけで、言語の体系など存在しないのです。プラハのドイツ語は、いくつかの点で脱領土化されており、強度においてより進化しているのですが、それはつまり新たな簡潔性、新たな前代未聞の矯正、無慈悲な修正の方向です。】

 

 このように、プラハのドイツ語というマイナー言語を使うことによる、政治にもたらす変革の流れを述べています。マイナー文学という、脱領土化された言語の使用による、多数多様な新しい政治状況の可能性を探っています。

 

【偉大なもの、革命的なものは、ただマイナーなものだけです。あらゆる巨匠の文学を嫌悪すること。自分の言語において多言語主義を採用すること、自分の言語のマイナーな、あるいは強度的な使用法を見出すこと、この言語において制圧されたきた特性を、制圧者の特性に対立させること、一つの言語が脱走し、動物が移植され、アレンジメントが連結される非文化、未発達な地点を、言語にとっての第三世界地帯を発見すること。たとえささいなものでも、なんと多くの文学の文体、ジャンル、あるいは運動の夢が、ただ一つにきわまることでしょうか。これらは、言語のメジャーな機能を実現すること、国家言語、公的言語として奉仕することになります。それとは真逆の夢を見ること、「マイナーになること」を創造しうることが重要です。】

 

 マイナーな言語を用いることで、メジャーな政治、文化からの逃走が可能になります。一つの言語が脱走し、動物が移植され、アレンジメントが連結される非文化、未発達な地点の発見が重要だと言っています。

 ドゥルーズは、最後の著作である『批評と臨床』の中でも、カフカの文学やマイナー文学について触れています。ドゥルーズの考えるマイナー文学の定義は、今日的な意義があると見ているようです。以下は、『批評と臨床』に出てくる、ドゥルーズのマイナー文学論です。

 

【ドゥルーズの文芸批評で意外なのは、彼が、フランスやドイツのような大陸文学よりも、英米文学特にアメリカ文学を評価していることです。ドゥルーズは特にアメリカ英語の混交性、つまり、様々な言語や訛の要素を取り込んだアメリカ英語の特異性に着目します。晩年のドゥルーズは常々「自分の言語であたかも外国語のように書くこと(話すこと)」の重要性を指摘しています。現代のアメリカ作家はそれができていると見ているのです。自分の言語であたかも外国語のように書くことにより、新たな言語が生成し、その作品は、生成変化の産物になります。母語の外国語化をもたらす、多様な文化の混交がアメリカ社会の反映であることは言うまでもありません。そこに、ドゥルーズは文学の未来の可能性を見ているのです。これは、近年のグローバリズムにより均質化・画一化する文化や、特にトランプ政権による移民排斥の動きとは全く逆で、本来の多様性とそこからくる生成変化のダイナミズムに満ちあふれた、良きアメリカを象徴しています。グローバリズムも移民排斥もまだ目立っていなかった時代に、ドゥルーズはアメリカの文化や社会の多様性に期待を寄せていたとも考えられます。】

【逆に、チェコ人であったカフカがドイツ語で書いたように、マイナーな言語圏の人がメジャーな言語を逆手に取って使うことで、パロール(発話)のレベルでなくラング(制度的言語)のレベルで吃らせ、口ごもらせ、つぶやかせるという実践により、言語をその支配体系から逃走させ、不断の転調を行って、構成要素のそれぞれにおける分岐と変化をもたらすことにも、ドゥルーズは着目しています。これもまた、主体の不動性、画一性、固定性に抗する、多様性の産出と生成変化の可能性を探る試みと言えます。】

 

 このように、ドゥルーズは、マイナーな言語圏の人が、あえてメジャーな言語を使うことで、吃らせ、口ごもらせ、つぶやかせるという実践により、多様性の産出と生成変化の可能性を探っています。ここにある言説のインスピレーションは、明らかに、本作品つまりドゥルーズ+ガタリの『カフカ』から得ていると言えるでしょう。

 マイナー文学としてのカフカの作品は、文学機械であるカフカがチェコにおけるマイナー言語(ドイツ語)で書き、言表行為の集団的アレンジメント、欲望の機械状アレンジメントを形成します。カフカは最初にこの二つの側面を分解したばかりではなく、彼が二つを結合した結果はひとつの署名のようなものであって、それを通じて読者は彼を必然的に認知するようになるのです。このようにドゥルーズ+ガタリはカフカの文学の特性と未来への可能性を分析しています。