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 ポール・オースターの長編小説『ミスター・ヴァーティゴ』を読了しました。

 著者オースターに関しては、過去ブログで何回も紹介しているので、細かいことは省きます。1947年生まれの現代アメリカを代表する作家の一人です。コロンビア大学卒業後、船員として世界を放浪し、パリに住み着き、翻訳、詩作、評論などで生計を立てます。その後、アメリカに戻り、いわゆるニューヨーク三部作を1980年代に発表し、小説家としての地位を揺るぎないものにしました。その後、映画の脚本、監督なども務め、2000年代に入っても、旺盛な執筆活動をしています。

 本作品『ミスター・ヴァーティゴ』は1994年にアメリカで刊行されました。1989年の『ムーン・パレス』、1992年の『リヴァイアサン』に次ぐ物語(小説)作品です。本作品『ミスター・ヴァーティゴ』を刊行後、著者オースターは、映画制作に、脚本家や監督として、積極的に関わるようになります。オースターの得意技は、作中作を何重にも組み込んだ、いわゆるメタ・フィクションの手法ですが、本作品『ミスター・ヴァーティゴ』は、メタ・フィクションではありません。主人公ウォルトの一人称(俺)で語られる、回想記の体裁をとっています。空中浮遊というイカサマにも感じられるような能力で大道芸のスターになった主人公が、その技量を含めて全てを失い、何度も再出発を強いられるストーリーです。空中浮遊という絵空事が物語の核心にあるにも関わらず、他の描写や考察などは、リアリティに満ちており、空中浮遊の芸(超能力)が出てきても、興ざめすることなく読み進めることができます。この辺が、物語作家としてのオースターの面目躍如というところでしょう。若き主人公の遍歴と成長を描く、いわゆる発展小説(ビルドゥングスロマン)として読むことができます。

 

 それでは、本作品の内容を紹介します。主人公(俺)の一人称で書かれていますが、内容紹介では、ウォルトという名前の三人称で書くことにします。

 

[Ⅰ]

 ウォルトは、貧乏な孤児としてセントルイスの街を徘徊する9歳の時に、イェフーディ師匠に拾われました。師匠は、ウォルトの一応の保護者のスリム伯父と伯母を説得して、ウォルトをもらい受けました。イェフーディ師匠は、ウォルトがけだもの同然の風体で生活していたから、自分の飯の種として彼を選んだといいます。イェフーディ師匠はウォルトを連れて、列車でカンザスに到着しました。そして、田舎の農場に建つ古い農家に入りました。そこがイェフーディ師匠の根城だったのです。同居するのは、家の雑事を担当するインディアン女のマザー・スーと、黒人で身体に障害を抱えるイソップという少年でした。イェフーディ師匠は、人間はみな兄弟だという発想で、人種差別のような意識を極力排除していました。ウォルトは、部屋や服を与えられ、食事もふんだんに与えられましたが、都会が恋しくて、田舎暮らしになじめずに、何回も逃走を図りました。イェフーディ師匠は、ウォルトに、空を飛ぶための訓練を始めるといいます。イソップには学問を授け、ウォルトには空中浮遊の術を授けるというわけです。ウォルトは、マザー・スーに命じられる雑用を日々こなしました。障害を持つ黒人のイソップは、抜群に頭が良く、ウォルトにも優しく、本を読んで聞かせてくれました。イソップによると、イェフーディ師匠はハンガリー系のユダヤ人でした。ウォルトは何度も脱走を図りましたが、そのたびにイェフーディ師匠に行き先を先回りされ、連れ戻されました。大雪の日に逃げ出した時には、死にそうになって、イェフーディ師匠の恋人(親友?)で未亡人のミセス・ウィザースプーンの屋敷に助けられました。風邪をひいて高熱が出て、寝床で苦しみました。イソップは優しいことに、何度も脱走を図るウォルトを弁護してくれました。ようやく、逃げても無駄だとウォルトは諦めました。そして、空を飛ぶための訓練が本格的に始まります。地面の穴に生き埋めにされたり、ムチで打たれたり、走る馬から投げ落とされたり、屋根に縛りつけられて数日間放置されたり、真夏に裸にハチミツを塗りたくられて虫にたかられたり、炎の輪の中に座らされて体中に火ぶくれができたり、牛の排泄物を口にさせられたり、左手小指の第一関節から先を切り落とさせられたり、無残な修行が続きました。13歳までに空を飛べなかったらイェフーディ師匠を殺していいという約束を胸に、ウォルトは訓練に耐えました。そのつらさを紛らわせてくれたのは、義兄弟のようになっていたイソップでした。マザー・スーも、子供の頃、自分の部族の若者が空を飛ぶのを目撃したという話で、ウォルトの苦しみをやわらげてくれました。イェフーディ師匠は、ウォルトの切り落とした小指の先をホルマリン漬けにして、ペンダントを作り、首からぶら下げていました。それから、イェフーディ師匠はウォルトに、納屋の藁を一本一本数えさせたり、師匠の名前を1万回言わせたり、24日間の沈黙の行を強いたり、一般的な大道芸を習得させました。その後、訓練はなくなり、ウォルトは師匠に見捨てられたのかと心配になりました。イソップに、数字と文字を教わりました。ミセス・ウィザースプーンが、冬のための大量の食料を届けてくれました。イェフーディ師匠は外出がちになり、ウォルトは寂しさに打ちのめされました。2年が経った頃、マザー・スーとイソップが病気で寝込んでしまいます。世界に全く無関心な無の感覚に襲われたウォルトは、自分の体が床から浮き上がるのを感じました。せいぜい4~5センチでしたが、何の苦もなく、ウォルトは空中に浮かぶことができるようになったのです。ミセス・ウィザースプーンが来て、二人の病人が回復するまで家事を担ってくれることになりました。家事から解放されたウォルトは、自室で、空中浮遊の業に磨きをかけました。次第に高く浮き上がれるようになりました。ウォルトはクリスマス・パーティーで、皆の前で空中浮遊を披露しました。イソップと二人の女性はあっけにとられ、イェフーディ師匠は笑いながら涙を流し、ウォルトの小指が入ったネックレスをウォルトに渡しました。その後、イェフーディ師匠は、商売として空中浮遊を見せるためには、数多のイカサマ芸人との違いを見せつけるために、できるだけ高く浮上がり、浮遊中に動き回る必要があるとして、ウォルトに訓練を積ませました。イェフーディ師匠は、1ヶ月かけて、イソップを入学させる大学を吟味するために、東部の都市を回りました。ウォルトは、マザー・スーから、自分の祖先や親類縁者が受けたインディアンに対する過酷な仕打ちの思い出を聞かされました。その間も、ウォルトは空中浮遊の業を磨きました。イェフーディ師匠が帰ってきて、ウォルトの芸を見て、あと9ヶ月ぐらいで人前に出せると言いました。イソップは、イェール大学へ奨学金を得て通えることになりました。5月には、ウォルトは空中を数十メートルは歩けるまでになりました。水の上を歩くこともできるようになりました。ところが、ある日、農場の外れで訓練していたウォルトとイェフーディ師匠は、無数の馬の蹄の音を聞きます。家に戻ろうとしたウォルトをイェフーディ師匠が止めます。白人至上主義者の秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)の襲撃でした。家から引きずり出された、インディアンのマザー・スーと黒人のイソップは、縛り首にされて吊され、家に火が放たれました。イェフーディ師匠とウォルトは、木陰から見つめてただ涙を流すしかありませんでした。

 

[Ⅱ]

 イェフーディ師匠とウォルトは、マザー・スーとイソップの亡骸を葬り、ミセス・ウィザースプーンの屋敷に行きました。イェフーディ師匠は3ヶ月以上も悲嘆に暮れていました。ウォルトは黙々と、空中浮遊の芸を磨きました。ミセス・ウィザースプーンがウォルトの遊び相手になってくれ、二人は、ドライブにしばしば出かけました。ミセス・ウィザースプーンは運転は上手いのですがスピード狂でした。猛スピードで疾走する車の助手席で、ウォルトは恐怖に苛まれ、ある日、脱糞してしまいます。ミセス・ウィザースプーンは嫌な顔もせず、湖の水で、ウォルトの下半身を洗ってくれました。ミセス・ウィザースプーンは、イェフーディ師匠が紳士を気取って、いつまでたっても自分を抱いてくれないという不満を、ウォルトに漏らしました。ある日、イェフーディ師匠は自室の調度品をすべて破壊し尽くして、すっきりした顔で部屋から出てきました。悲しみの禊ぎ(カタルシスの実践)を済ませたのです。元気を取り戻したイェフーディ師匠は、いよいよ、ウォルトの空中浮遊の芸を世間に公開する算段を始めました。1927年8月25日、ウォルトはカンザス州ラーニットで、初めての公演を行いました。ところが、イカサマを疑った酔っ払いの投げたビンが当たって、ウォルトは転落、公演は失敗に終わり、イェフーディ師匠とウォルトはほうほうの体で逃げ出しました。ウォルトは、自分が考えた衣装、会場、切符の売り方、音楽、上演時間、宣伝方法などを提案し、イェフーディ師匠も受け入れました。二人は、空中浮遊芸上演の旅巡業に出ることになりました。ミセス・ウィザースプーンは、本当は一緒に行きたかったのですが、イェフーディ師匠がまたも煮え切らない態度で留守番を頼んだので、二人の愛は冷めていくとウォルトは思いました。ウォルトの公演は田舎町を転々として行われ、田舎者に受けるような衣装や口上のかいもあって、大成功が続きました。ウォルトはどの会場でも絶賛されました。公演の合間に、滞在先でウォルトは映画を観に行きました。宿に帰ると、イェフーディ師匠はスピノザの本を読んでいました。巡業は順調に進んでいきました。田舎町を巡る公演から始めたのは、イェフーディ師匠が、ウォルトの芸の噂をゆっくり広め、一過性の流行に終わらせないための配慮でした。不景気風の吹く田舎町で、ウォルトは崇拝の対象にさえなっていきました。1928年の5月半ばまで巡業を続けて、ウォルトの13歳の誕生日祝いもかねて、ミセス・ウィザースプーンの屋敷に戻って2週間ばかり休暇を取ることになりました。ウォルトは、イソップとマザー・スーのことを思い出して、涙を流しながら、復讐すべきだとイェフーディ師匠に言いましたが、白人至上主義者はそこら中にいるから反抗するのは無駄だと諭されました。巡業を再開して、順調に公演数や収益が伸びていき、イェフーディ師匠とウォルトは清潔なホテルに泊まれるようになりました。ウォルトは、公演中に新しい技を試すようにもなり、空中の見えない階段を上り下りするような芸もできるようになりました。いくつも新機軸の空中芸を生み出して、評判はますます高まりました。10月半ば、イリノイ州で公演をしている最中、なんと、幼かったウォルトを乱暴に育てていたスリム伯父が現われたのです。スリム伯父は、ウォルトをイェフーディ師匠に譲り渡す際に、収入の25%を渡す約束だったと言いますが、イェフーディ師匠は契約書も何もないでたらめだと、切って捨てました。その後の各地での公演では、ウォルトは、いつスリム伯父が姿を見せるかわからないと不安に駆られ、それを打ち消すために芸にのめり込みました。ところが、ある町で一人で映画を観ている最中に、ウォルトは、スリム伯父に薬で昏倒させられ誘拐されてしまいます。隠れ家を転々と移動して、スリム伯父はイェフーディ師匠にウォルトの身代金を要求していました。ウォルトは1ヶ月以上監禁されました。ある日、スリム伯父が、ウォルトの空中浮遊がイカサマでないことを証明するために、目の前でやってみろと言って、ウォルトの手足を自由にしました。スリム伯父が仲間ともめている最中に、ウォルトは監禁部屋を抜け出して、スリム伯父の車を運転して逃げ出しました。ウォルトの誘拐事件は、1ヶ月も新聞の一面記事になっていました。警察までウォルトに親切にしてくれました。イェフーディ師匠とウォルトは再会を喜び、ニューイングランド行きの列車に乗りました。そこで、イェフーディ師匠は、ミセス・ウィザースプーンが再婚することになったと話しました。相手は、コックスという男で、ウォルトを誘拐したスリム伯父が要求してきた5万ドルを肩代わりすることの見返りとして、ミセス・ウィザースプーンと結婚することを申し込んだのでした。ウォルトの空中浮遊の公演は大盛況が続き、いよいよ大都市を巡って、ついにはニューヨークで公演する予定が立ちました。イェフーディ師匠とウォルトは、大都市での公演のために、ストーリーのある脚本と演出を作り上げました。大都市では、学者を中心として、ウォルトの空中浮遊はインチキだという言説も大きくなってきました。ところが、ある日の公演で、ウォルトは空中浮遊している時に、酷い頭痛に襲われて転落し、気絶してしまいます。これにより、ウォルトの空中浮遊は皮肉なことに本物だと証明されましたが、ウォルトは病院に運ばれました。ウォルトは物凄い頭痛に苦しみました。しばらくして、頭痛は治まり、体調を回復したウォルトは、大都市での公演を順調にこなしていきました。しかし、再び空中浮遊の最中に頭痛に襲われます。イェフーディ師匠は、このままでは「お前は、ミスター・ヴァーティゴ(めまい男)になってしまう」と言って、病院で休むように諭しました。無理に公演を続けましたが、ウォルトは再び発作を起こして昏倒し、12日間も入院することになりました。病院での検査ではどこにも異常は見つかりませんでした。しかし、イェフーディ師匠は、過去にも空中浮遊の芸人が同じような症状に見舞われたことがあるといい、これが始まったら、もうこの商売は続けられないと言いました。14歳のウォルトは思春期を迎え、大人の男になる途上でした。それが空中浮遊の失敗につながっているとイェフーディ師匠は言います。去勢すれば治るかもしれないと言われましたが、ウォルトにはその提案は受け入れがたいものでした。イェフーディ師匠は新しいビジネスを考えていました。ハリウッドへ行って、ウォルトを映画俳優として売り出すというアイデアです。空中浮遊で全米に知れ渡り、芸達者なウォルトをハリウッドは受け入れるだろうとイェフーディ師匠は考えていました。イェフーディ師匠とウォルトは、車を走らせて西海岸へ向かいました。ところが、アリゾナ西部を越えたところで、砂漠の中の一本道を何者かが封鎖しています。それは何と、スリム伯父でした。スリム伯父は銃を構えていました。イェフーディ師匠は車をUターンさせようとしましたが、スリム伯父に撃たれて右肩を負傷し、車は横転してしまいました。スリム伯父は強盗仲間とともに、2万7千ドルの入った金庫を奪って、逃げていきました。ウォルトは、負傷したイェフーディ師匠を車から引きずり出し、病院まで連れて行くと言います。しかし、モハーベ砂漠のど真ん中で、どれだけ歩いたら町に出られるかもわかりません。イェフーディ師匠は拳銃をウォルトに渡して、自分の頭を撃ってくれと頼みます。イェフーディ師匠は肩のケガだけでなく、ガンを患っていて余命半年もないとのことでした。ウォルトは撃つのを拒絶しましたが、イェフーディ師匠は自分で拳銃で頭を撃って絶命しました。

 

[Ⅲ]

 ウォルトはスリム伯父の居所をつきとめるのに3年かかりました。大都市を放浪して回り、乞食同然の生活を送りました。ルーズヴェルトが大統領に就任する間近で、禁酒法が廃止寸前になっていました。そういう時期に密造酒業のような斜陽産業にこだわるのがスリム伯父の癖でした。密造酒業者をあたり、中部のイリノイ州ロックフォードで、ウォルトはスリム伯父を見つけました。ウォルトはかつてイソップに読んでもらったアーサー王と円卓の騎士の物語を思い出し、スリム伯父を毒殺することに決めました。イェフーディ師匠が自殺に使った拳銃でスリム伯父を脅し、ストリキニーネ入りの牛乳を飲ませました。スリム伯父は20~30歩ぐらい歩き回って、パッタリと倒れて絶命しました。その一部始終を見ていた、スリム伯父の雇い主でギャングのボスであるビンゴ・ウォルシュが、ウォルトを脅して、自分の手下にしました。ウォルトは雑用係から始めて、ビンゴの下で黙々と働き、仕事を覚えていきました。生活は安定し、再び、金に不自由しない状態になりました。店のみかじめ料の徴収の仕事をしたり、ナンバーズ(数当てくじ)の胴元をしたり、場外馬券を売ったりして、クリーニング店の奥に隠れた私営馬券売り場の経営者になりました。21歳のウォルトは、羽振りの良い暮らしを享受しました。そしてある日、ウォルトは、ミセス・ウィザースプーンとばったり再会しました。彼女は、結婚寸前に逃げ出して、今でも独り身だといいます。ミセス・ウィザースプーンは、イェフーディ師匠からの手紙を大切に持っていました。「君がどこにいようとも、僕は君と共にいる」と書かれていました。これを読んで、ミセス・ウィザースプーンはイェフーディ師匠をあきらめたといいます。ウォルトとミセス・ウィザースプーンはレストランで食事をしながら、昔話に花を咲かせました。ミセス・ウィザースプーンは、ウォルトが空中浮遊をできなくなったこと、イェフーディ師匠がウォルトをハリウッドで売り出そうと目論んでいること、イェフーディ師匠がガンに冒されていること、などを逐一、手紙で把握していました。ウォルトは、イェフーディ師匠の最期の様子を話して、形見の拳銃を見せました。ミセス・ウィザースプーンは暴落間際に株券を全部売り払って、ニューヨークに住まいを買って暮らしていました。ミセス・ウィザースプーンは、ウォルトに、テキサスで石油を採掘する現場監督の仕事をしないかと誘いました。何かあったら連絡してくれとミセス・ウィザースプーンは名刺を渡しましたが、ウォルトはそれを紛失してしまいました。その後、ウォルトは競馬で大当たりして、得た賞金などを元手にして、ビンゴに相談の上、ナイトクラブの経営に乗り出しました。売り上げの半分をビンゴに上納する約束でした。ウォルトはシカゴのど真ん中に開いたクラブを「ミスター・ヴァーティゴ(めまい男)」と名づけました。豪華なクラブは、街で一番のホット・スポットになりました。しかし、栄華は3年半しか持ちませんでした。大リーガーのディジー・ディーンのせいでした。ディジーはルーキーイヤーから大活躍を続けた大投手ですが、度重なるケガに悩まされました。それでも何度も没落と復活を繰り返しました。ウォルトは野球賭博の胴元にもなり、ビンゴからマンションをプレゼントしてもらいました。ディジーは、27歳ぐらいで早くも、使い物にならないとチームに見捨てられかけました。そんな頃に、ディジーはミスター・ヴァーティゴを訪れました。ウォルトはディジーと親しくなりました。まともな球を投げられなくなっていて、もう引退するだろうと思われていたディジーですが、再び、翌年の契約を結びました。ウォルトは、悪あがきするディジーが見ていられなくなり引退を勧めましたが拒絶されます。ウォルトは、イェフーディ師匠の最期を思い出し、ディジーにこれ以上生きていたくないと思わせることにしました。ウォルトは自分がディジーを殺してやると決めて、拳銃を向けました。ディジーは床に座り込んで泣きながら命乞いをしました。これは誇り高い大リーガーだったディジーの姿とは思えませんでした。ディジーは妻とともに警察に行き、ウォルトを告発しました。ウォルトは逮捕されましたが、ビンゴのおかげで示談が成立し、軽い罪に問われただけでした。9ヶ月間の服役か、軍隊に入るかを選ばされて、ウォルトは軍隊を志願しました。高級クラブのミスター・ヴァーティゴはビンゴに渡り、ウォルトは無一文の一兵卒として入隊しました。結局、ディジーは現役引退しました。

 

[Ⅳ]

 兵士となったウォルトは、任務はきちんとこなし、厄介事は避けて、殺されもせずやり遂げました。1945年11月に除隊となると、各地を転々として、バーテンダーをやったり、競馬やポーカーで稼いだり、建築現場の仕事をしました。結婚もしましたが、半年でだめになり、妻の顔も覚えていないほどでした。何をやるにも気力が萎えてだめでした。1950年に、ベーキング菓子やパンを作る工場で働きはじめました。ウォルトは真面目に働き、モリーという女性と結婚しました。モリーは戦争未亡人で、ウォルトのかつての饒舌を引き出してくれました。ウォルトは工場でも出世し、子供を産めない体のモリーと二人だけで幸せな生活を送りました。23年後に、モリーはガンで他界しました。そのせいでウォルトはアルコール依存症になり、工場もクビになりました。断酒の治療を受けながら、ウォルトはかつてイェフーディ師匠と回った空中浮遊の芸の夢を見るようになりました。その夢はウォルトに勇気と自信を取り戻させてくれました。退院した時点で58歳になっていましたが、明るい気分でした。一番可愛がっていた甥っ子のダンが、清掃の仕事を紹介してくれました。しかし、ウォルトはその仕事にはつかず、ミセス・ウィザースプーンの旧家を訪れました。ミセス・ウィザースプーンは健在でした。数々の事業がうまくいかず、財産を大きく減らして故郷に戻っていました。戦時中はボランティアで看護婦をやり、戦後になって、故郷で、コインランドリー業を始めていました。そのマネージャー業をウォルトは引き受けました。ビジネスは順調に発展しました。それからの11年間、ウォルトとミセス・ウィザースプーンは夫婦同然で暮らしました。90歳ぐらいまで生きたミセス・ウィザースプーンの介護を、ウォルトは甲斐甲斐しく行いました。ミセス・ウィザースプーンの葬式はウォルトの手配で盛大に行われました。しばらくは、一人で何をやろうかと思い悩みましたが、ウォルトは、この自伝を書くことを思い立ちました。ノート13冊に書き綴っていきました。書き終えたら、貸金庫に預けて、死後、甥っ子のダンに渡すようにするつもりでした。この『ミスター・ヴァーティゴ』という自伝小説は、ウォルトの死後に出版されるはずです。自伝の執筆に明け暮れている頃、ヨランダというカリブ海出身の女性が掃除に来てくれていましたが、彼女が連れてくるユセフという(イソップに顔の似ている)8歳の子供が、幼い頃の自分をウォルトに思い出させました。ウォルトはユセフを自分の子供にして、空中浮遊の芸を授けたいと思うようになります。イェフーディ師匠の33段階の修行が本当に必要なのかは疑わしいばかりでした。ウォルトは修行とは関係なく、自力で、空中に舞い上がったのですから。ウォルトは、人はみな、空を飛ぶ能力を内側に秘めていると考えていました。まずは、自分を捨てる。そして、筋肉の力を抜いて、魂が自分の外に流れ出るのが感じられるまで呼吸を続け、目を閉じる。体の中の空虚が、周りの空気より軽くなる。少しずつ、体の重さがゼロ以下になっていく。そうやって、少しずつ、地面から浮上がっていく。そうウォルトは考えました。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 主人公ウォルトが数奇な運命と体験に直面し、その都度、悲喜こもごもの感情とともに、成功や失敗を繰り返し、それなりに成長していく、19世紀のフランスやドイツなどで流行った、ビルドゥングスロマン(発展小説)として読むことができます。客観的な善悪の判断は意味を失っています。ウォルトやイェフーディ師匠など主要人物が生き延びられれば、それは善なのです。犯罪行為も犯罪スレスレの行為も、その客観的意味は相対化されてしまいます。ウォルトやイェフーディ師匠は、目的のためには手段を選ばない人々です。成功すれば善、失敗すれば悪という判断のもとに行動していきます。空中浮遊という超能力は、それだけでもイカサマに思われる行為ですが、現実の出来事として描くことで、それ以外の人間たちの言動の生々しさ、現実味を際立たせています。空中浮遊もまた、この作品の道具立ての一つにすぎないのです。実際、前半はウォルトの空中浮遊の習得や興行での実践などが中心的に描かれますが、後半、超能力を失ったウォルトが、生きるために手段を選ばずに行動する姿も、重要な物語の一部として描かれています。様々な生業を転々とするウォルトの成長、老い、そして回想を描くのが中心的になっています。

 本作品は、主人公ウォルトが一人称(俺)として登場し、老いたウォルトが幼い頃からの体験や見聞を回想する、自伝的な形式で書かれています。空中浮遊という非現実的な超能力が出てくるので、主人公が回想を語る形式でなければ、絵空事の色彩が強まってしまいます。自伝、回想録ゆえに、主人公の言動や登場人物の言動が、現実味をもって伝わってくるのです。主人公ウォルトが「俺は見た」と回想すれば、それは本当にウォルトが見たこととして認識されるのです。この、回想、手記、自伝的構成によって、物語が現実味をもって読者に受け止められる仕掛けになっています。

 主人公ウォルトの波瀾万丈な人生を追体験することで、読者は物語を読む愉しみを十分に味わうことができ、同時に、生きるとはどういうことかという根源的な問いを突きつけられます。人は何によって生きるのか(生かされるのか)、何を目的に生きるのか、といったことを、読者は深く考えさせられます。ハナタレ小僧だったウォルトが次第に成長して大人になり、老年を迎えて過去を振り返る過程で、人生とは何か、人生の意味とは何か、を読者は考えさせられるのです。直情径行型で、思いつきのままに行動し、しばしば失敗し、くだらないことにのめり込むウォルトの生き様は、年を取って老年を迎えるころには、成熟して思慮深い判断力を持ち合わせるようになります。そういう老人が過去を回想して書く手記だからこそ、それは現実味をもって伝わり、読者を引き込むのです。実在した大リーグ投手ディジー・ディーンの伝記的事実がそのまま物語に取り入れられており、そういう細工も、現実感の演出に一役買っています。「誰もが一作品の作家になれる。それは自伝だ」という金言がありますが、まさにウォルトの回想記は、それを立証していると言えます。本作品を読む楽しさは、数奇な体験を重ねた人物の自伝を読む愉しみに通じるものがあります。そのように著者オースターは巧みな演出を施していると言えるでしょう。

 イタリアの大作家にして記号論学者のウンベルト・エーコは、作家としてのデビュー作でありベストセラーになった『薔薇の名前』の巻頭辞で「手記である。当然のことながら」と記しています。手記、回想録という体裁で書かれることが、フィクションの壁を崩して、物語にリアリティを生み出していると言えるでしょう。