『アンチ・オイディプス』入門講義 | ほうしの部屋

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 仲正昌樹の『アンチ・オイディプス 入門講義』を読了しました。

 仲正昌樹については、『千のプラトー 入門講義』のレビューで説明しましたので、省きます。

 哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析学者のフェリックス・ガタリが共同で挑んだ「資本主義と分裂症シリーズ」の第1弾が『アンチ・オイディプス』です。フランスでは1972年に刊行されました。第2弾が『千のプラトー』(1980年)であり、私は、仲正の入門講義の本は、順序を逆に読んでいますが、原典の『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』は刊行順序通りに読んでいます。

 複雑怪奇な概念や用語が、ほとんど定義のないまま、いきなり提示されて使用されたりして、難解を極めます。様々な方面へ話が飛び、それを難解な表現で説明するので、集中して読もうとしても、どうしても注意散漫になってしまいます。原典を読んだ段階(10年ぐらい前)では、要約はもちろん、解説モドキもできず、ただ2書から得たイメージを小さな物語として表現することしかできませんでした。

 しかし、今回、解説書を読んでも、まだ理解とはほど遠い状況です。とはいえ、原典の狙い、射程のようなものは、かなり明瞭に浮かび上がってきました。仲正昌樹は、難解な哲学・現代思想の原典を、クオリティを落とすことなく平易に解説することで定評のある哲学者ですが、その仲正をもってしても『アンチ・オイディプス』の解説は、相当に難解なものになってしまっています。タイトルの「入門講義」という表現を額面通りに受け取ると、酷い目に遭います。ただ、議論の射程が掴みにくい『千のプラトー』に比べて、既存の精神分析が資本主義と結託して虚妄を振りまいて人々を抑圧しているという、ドゥルーズ+ガタリの批判の矛先が明確な『アンチ・オイディプス』のほうが、とっつきやすいとは言えるかもしれません。本の題名からして、エディプス(オイディプス)・コンプレックスに全てを還元しようとするフロイト流の精神分析に対する批判の姿勢は明らかです。

 とはいえ、文化人類学、自然科学、哲学、聖書、神話、文学、芸術などなど、様々な分野の知見やテクストを引用して、分析を重ねて自説を織り上げているので、読み解くのは難儀を極めます。仲正は、引用がある場合、その原典や作者に関する情報も簡潔に書いてくれるので、親切ですが、その引用の解説が、議論の本筋を見えにくくさせるという副作用もあり、解説書としてはかなり難解なものになっています。

 

 ここで、『アンチ・オイディプス』が標的としている、精神分析学者フロイトが発見(発明?)した、「エディプス(オイディプス)・コンプレックス」について、念のために概要を示しておきます。これがわからないと、『アンチ・オイディプス』のそもそもの論旨が全く理解できないからです。

 エディプス(オイディプス)・コンプレックスとは、幼児期におこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことです。母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱きます。子供の発達段階の男根期に生じ始める無意識的葛藤とされます。子供は、父親のように母親と性交することを望むようになり、それを父親に禁止されて男根を切断される(去勢される)という脅しを感じます。それで母親を諦めますが、母親と性交したいという願望や、去勢の恐怖は、無意識の中に抑圧されます。その抑圧が、様々な形で(成長後も)精神に変調をきたすのが神経症だとされています。エディプス・コンプレックスを経て、子供は「父親ー母親ー自分」という核家族の三角形(エディプスの三角形)に編入され、そこで自分の身分と役割を認識します。フロイトは、この抑圧の体系を、ギリシア悲劇のオイディプス王になぞらえて、「エディプス(オイディプス)・コンプレックス」と名づけました。オイディプスは、知らなかったとはいえ、父親を殺し、自分の母親と結婚しました。ここから、フロイトは、母親に対する近親相姦的欲望とその抑圧をエディプス(オイディプス)・コンプレックスと呼んだのです。エディプス・コンプレックスは女性にも見られ、その場合、娘の愛情の対象は父親になり、母親はライバル視されます。これを日本では「あじやせコンプレックス」と呼ぶ場合もあります。

 

 では、『アンチ・オイディプス』の概要を、仲正昌樹の解説により、紹介します。

『アンチ・オイディプス』は、精神分析の中核的仮説であるエディプス(オイディプス)・コンプレックスを批判することが、資本主義批判にもなるという前提を持っています。精神分析と資本主義は不可分に絡み合っているという前提で両者を批判しています。『アンチ・オイディプス』では、「機械」という概念が重要な役割を果たします。生物を含めた自然界から人間の心的領域、さらには社会の諸慣習・制度に至るまで、あらゆる対象や出来事が、相対的な自立性を保ちながら運動する機械の連鎖から生まれてくるという見方を示します。人間の欲望や無意識、主体もその中に含まれます。機械による欲望の生産の中で、それぞれの欲望がどこに属するか登録がなされ、欲望の産物を消費する主体が生まれてきます。複雑に連鎖しながら様々な現象を生み出す「機械」を、静的な「構造」に対置し、構造主義化されたフロイト主義を解体していくのです。ドゥルーズ+ガタリは、人間の身体を統合された全体としてでなく、様々な機械の組み合わせと見なします。機械は、その活動のための素地となる「器官なき身体」(誕生した瞬間の胎児のように、各器官が未分化で機械の活発な動きも見られない身体)との間で反発や吸引の関係を結び、身体外の自然物やおもちゃ、他人の身体などを構成する機械とも相互作用します。接続と切断を繰り返し、多方向的なエネルギーの流れを作り出す機械の組み合わせによって、私たちの生命プロセスが成り立っているといいます。それに対して、エディプス三角形(父ー母ー子供)が、核家族における人格形成を重視する、近代の家族主義のイデオロギーに対応しているように見えます。エディプス・コンプレックスの仮説が社会で根強く支持されているのはなぜかという問題意識があります。エディプス的な葛藤を幼児が本当に経験したかどうか、リアルタイムでは証明できません。分析療法の過程で、記憶を再現させるしかないのです。当然、分析医による誘導が避けられません。それでも、エディプス・コンプレックスにリアリティがあるように感じられ、なかなか無視できないのは、これが近代の家族主義と密に結びついており、核家族が資本主義的な生産体制(欲望の生産体制)とつながっているからだといいます。エディプス・コンプレックス仮説は、父親が子供を母親から引き離さないと子供は自立できない、という直感に訴えかけます。ただし、その直感自体が、精神分析やそれと関連する心理学的・精神医学、あるいいは社会的言説によって構成されている可能性があります。その背後に、社会のいろんな問題を家族の問題へと還元しようとする家族主義的なイデオロギーが潜んでいるかもしれません。精神分析批判を通して、その背後にあるものまで解体する必要があります。ドゥルーズ+ガタリは、文化人類学的知見を引き合いに出しながら、少なくとも、神話の世界では、エディプスの出番はないこと、近親相姦の禁止はむしろ女性をめぐる交換システムの形成と関係していることを示唆しようとしています。ここで「大地機械」「専制君主機械」「資本主義機械」が登場します。資本主義機械は脱領土化と脱コード化を特徴としています。大地機械の段階では、各人が生まれ育ち、登記された大地にしっかりと縛りつけられ、同じコードに従って循環運動していた欲望機械が、次第に軌道を喪失していろんな方向に分裂して運動するようになります。専制君主機械の段階では、君主の身体を中心に据えて欲望の流れをコントロールしていたけれど、資本主義機械はそれさえも壊してしまいます。ただし、壊すだけだと、資本主義自体が成り立たないので、国家などを通じて再領土化ー再コード化を行います。そうした資本主義機械はどうやって個人の欲望機械やアイデンティティ形成に関係するのか。そこでエディプス問題が再登場するわけです。家族、特に「父ー母ー私」の三者関係の中での自己形成です。精神分析は、この三角形の狭い枠の中での自我形成が必然的なものと見なされるよう、近親相姦の欲望とか、父殺しとか、潜在期間とか、エディプス神話とか仮定を導入したわけですが、ドゥルーズたちはそれを疑います。少なくとも資本主義以前から三角形が存在していたという見方は否定します。大地的表象では、胚種的流体なイメージがまだ強く、近親というカテゴリー自体が一義的には確立していませんでした。帝国的表象になると、建国者である専制君主の特権としての近親相姦が表象されるようになりましたが、一般化してはいませんでした。一般化は資本主義的表象において起きるのです。そこで、ドゥルーズ+ガタリは、精神分析にかわって分裂分析を目指します。分裂分析の肯定的課題、つまり分裂分析は何ができるのか。精神分析は、一般の精神医学よりは一人一人の患者の個性を尊重して、開放的なイメージがありますが、いわゆる分裂症(統合失調症)は本来的ではない状態、心の病とみなします。ラカンの言い方を借りれば、エディプス・コンプレックスを通過することで形成されるはずの象徴界が壊れてしまった状態とみなされます。対して、分裂分析を提唱するドゥルーズ+ガタリは、人間を一つの生命体というより、欲望機械の連合体と見ているので、分裂の状態の方こそ本来だとします。そして機械という概念を肯定的に使用し、その組み合わせとして見ているのです。分裂症はそもそも病気ではなくて、欲望機械に具わっている傾向であり、家族という狭い領域ではなく、広い社会野の中でその元になる流れが形成されるのですから、家族の中に病因を探るのははなから見当外れであるわけです。分裂分析では、分裂症のプロセスが阻止されること、あるは、空転させられることが、分裂者を苦しめる病気だと見ます。各人の欲望機械の状態とは関係なく、資本主義の公理系によって、外から強制的に脱コード化させられ、分裂症的傾向を加速されるのです。新しい欲望の表明が続けば、資本主義機械が包摂しきれなくなる、と見ているのでしょう。そういう新たな欲望は、器官なき身体の安定志向を突き破る、分裂症的な傾向から生じてきます。プロセスとしての分裂症は、精神科にかかっている特定の個人が示す症状ではなくて、その人自身の身体や関係性を変化させ、更には周囲の人たちの欲望を喚起し続け、資本主義機械に大きな切れ目を入れる可能性のある、継続的なプロセスです。分裂症的なプロセスが社会的抑制のために無理矢理停止したり、空転したりすること、あるいは、そういう状態になった人が自分の置かれている状態をネガティブに評価することから、分裂症という病気がはじまると考えています。分裂分析が、機械の現実的な分子的運動に注目するのに対して、精神分析は、構造を介して各人の心を象徴的に解釈しようとするわけです。分裂分析により、無意識レベルでの欲望機械の運動、リビドー(性的エネルギー)の備給と、前意識レベルでの利益や目標の追求と、そのための既存の体制へのパラノイア(偏執)的固執という二つの傾向のせめぎ合いを全体として捉え、その分析の成果を明らかにすることで、脱コード化の運動をさらに進展させて、資本主義を追い込むのです。社会変革する者は、どうしても、ユートピア的な目標、安住の地を設定しようとします。そして、ある一定の領域を支配できるようになったら、その支配を恒久化することに専心するようになります。それによって、分裂の動きを止めることになります。欲望を生産し続けねばならないのです。獲得したと思った領土が、脱領土化され、新しい文化のコードが脱コード化されて、どんどん変わっていくこと、それに自分が取り残されていくかもしれないことを甘受しなければなりません。分裂しつつ自己再生産し続け、どこに向かっていくか予想できない欲望生産の連鎖を見守っていかないといけません。

 

 これが、ごくおおまかな『アンチ・オイディプス』の概要です。概要の概要の概要です。

 実際に『アンチ・オイディプス』を読むと、精神分析批判、資本主義批判は、非常に多くの参考資料をもとに、精緻に行われています。器官なき身体に伴って作動する、様々な「機械」が、人間の身体だけでなく、社会や文化も形成していると考えています。そして、資本主義機械の傾向に従うように、精神分析におけるエディプス・コンプレックスが発明されたと見なしています。少なくとも、エディプス・コンプレックスは人類に普遍的なものでも何でもなく、資本主義が勃興した近代になって、創造(捏造)されたものだと見ているのです。

 この、エディプスの三角形という家庭状況に個人を押し込める、資本主義と結託した精神分析を批判し、ドゥルーズ+ガタリは「分裂分析」を唱えます。この分裂分析というのは、いわゆる医学としての精神医学の中で行われる医学的方法論というよりも、社会や文化、国家を分析するための、一種のメタファー(隠喩)と言えます。実際、精神分析も、純粋な医学的メソッドを飛び越えて、文明や社会や人間関係などの考察、分析に応用されているのですから、分裂分析もそのような応用の方法として提示されても構わないと言えます。

 脱領土化ー再領土化、脱コード化ー再コード化を繰り返して怪物のように生き延びる資本主義を攻撃し、打倒するために、分裂症的に、脱領土化、脱コード化を際限なく推し進めることが重要だと、ドゥルーズ+ガタリは考えているようです。一見すると、人々に自由を与えているように見える資本主義ですが、実態は、資本主義が生み出す型に人間を当てはめ、矯正しており、そこに精神分析も加担しています。それを打ち破るのが、分裂症的な人々の創造的な逃走とゲリラ戦なのです。マルクス系の革命理論とは異なる立場から、資本主義打倒のメソッドを示したと言えます。

 この、資本主義に対抗する分裂症者の行動という概念は、後に、ネグリ=ハートが『帝国』の中で言及した「マルチチュード(群衆)」の概念などに転用され、多くの資本主義批判、資本主義的グローバリズム批判に今日まで影響を与え続けています。