『千のプラトー』入門講義 | ほうしの部屋

ほうしの部屋

哲学・現代思想・文学・社会批評・美術・映画・音楽・サッカー・軍事

 

 仲正昌樹の『千のプラトー 入門講義』を読了しました。フランスのポスト構造主義の思想家、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが協力して執筆した、「資本主義と分裂症シリーズ」の『アンチ・オイディプス』に続く作品が『千のプラトー』です。

 ドゥルーズ+ガタリは、資本主義を必要悪と認めつつも、その狂暴性から逃れる術を見つけようとします。国家(国家装置)に対しては否定的で、国家を相対化し崩壊に導く、遊牧民的(ノマド的)な逃走とゲリラ戦を評価しています。ドゥルーズはもともとアナキスト(無政府主義者)ですから、国家に対して批判的なのは当然と言えます。国家装置と遊牧民との間で、戦争機械がやりとりされ、戦争機械の働きで、国家が崩壊することを予見的に述べています。戦争機械とは、もともとは遊牧民(ノマド)の専有物です。これは、現在の、ISやアルカイダといったイスラム系テロ組織がアメリカを始めとする資本主義の帝国に対して大きなダメージを与えていることを予見しているかのようです。

 しかし、ドゥルーズ+ガタリの著作は、難解を極めます。聞いたこともない概念が次々と創造されて提示され、その定義を忘れて読んでいると、何が書いてあるのか、さっぱりわからなくなります。特に『千のプラトー』では、話が多岐に渡り飛ぶので、理解するのは非常に困難を極めます。逐次的に解説することなど、不可能のようにも思えてしまいます。しかし、それを仲正昌樹はやり遂げたわけです。しかし、原書の性質からして、仲正の解説もまだまだ難解なままです。本書を読んだからといって、『千のプラトー』を万全に理解したことにはなりません。ただ、原典を読んだだけでは分からなかった線が見えてくるような感じはするので、『千のプラトー』の概要はやや掴めると言えるでしょう。

 仲正昌樹は1963年生まれで、金沢大学教授です。専門は、現代思想、法哲学、政治思想史、ドイツ文学などです。難解な哲学書をわかりやすく解説した本を多数執筆しており、定評があります。旧統一教会(原理運動)から脱会した経験があり、宗教と人間に関する考察も、執筆しています。『ヴァルター・ベンヤミン』『現代ドイツ思想講義』『日本の思想講義』『カール・シュミット入門講義』『プラグマティズム入門講義』『日本哲学入門講義』『ジャック・デリダ入門講義』『戦後思想入門講義』『後期ハイデガー入門講義』『マルクス入門講義』『ニーチェ入門講義』『フーコー<性の歴史>入門講義』などなど、数多の解説書・入門書を生み出しています。これらの多くは、「入門」と称していますが、かなり専門的で、難解なところもあります。しかし、全体的には、平易に親切に説明しており、読者の理解を助ける内容になっています。

 この仲正が取り組んでも、『千のプラトー』の解説書は、難解にならざるをえませんでした。それほどまでに、ドゥルーズ+ガタリの「資本主義と分裂症シリーズ」は理解するのが難しい書物なのです。それでも、私の場合、『千のプラトー』を読んだ時点よりも、仲正のこの解説書を読んだ後のほうが、ドゥルーズ+ガタリが何をテーマに何を掘り下げようとし、何を提唱していたのかが、掴めた気がしました。

 とはいえ、『千のプラトー』の概要を安易に(私の悪い頭で)示そうとするのは暴挙です。そこで、原典の中で主要なドゥルーズ+ガタリの著述箇所について仲正が解説している部分として重要と思えるものをピックアップして提示するに留めます。それでも、このピックアップを読めば、『千のプラトー』が何を扱って、何を主張しているのかが、おぼろげに浮かび上がってくると思われます。

 

 それでは、仲正の解説からの抜粋を紹介します。各々の[ ]で示した表題は、概念の理解を助けるために、私が独自に付したもので、必ずしもドゥルーズ+ガタリが原典で章題や小見出しとして用いていた言葉と関連するとは限りません。

 

[リゾームとは何か?]

 垂直な幹のような中心軸があって、そこから茎や根が生えているようなタイプではなく、垂直軸抜きに、地下茎の相互の不定形の結びつきで、方向を定めないで広がっていくような生命体、集合体です。

 

[プラトーとは何か?]

原義は「高原」「台地」です。既存の制度、文化、環境、生命形態を構成する諸地層から構成されていて、私たちが具体的な存在者について考察しようとすれば、「プラトー」を問題にせざるを得ず、その意味で、つねに真ん中にあるわけですが、特定のプラトーが全ての運動の起点や終着点になっているわけではなく、様々な形をした「プラトー」同士の間にいろいろなつながりがあり、リゾームをなしているので、リゾームの中で生成しつつある各プラトーに注目すべきだといいます。

 

[逃走とは?]

 死を消滅させるのではなく、死を減少させ、死それ自体を一つの変化とする唯一の仕方です。宣告された死に囚われないよう、身体が一つの命令に支配されることがないよう、逃げ続けるという感じです。いかにして指令語が内包している死の宣告を逃れるか、いかにして逃走力を展開するのか、いかにして逃走が想像力の中で空転したり、ブラック・ホールに落ちこんだりすることを避けるか、いかにして指令語の革命的潜在性を保持し、抽出するかにあるといいます。逃走が一筋縄ではいかず、想像力の空回りが起こる危険や、途中でブラック・ホールの引力に引き寄せられて、逃げられなくなる可能性も見据えています。

 

[主体化から逃げる]

 ポスト・シニフィアン体制が、「主体化」「隷属化」から始まります。「主体化」というのは、単に見かけのうえで自律しているかのように振る舞っているだけでなく、既定の円環運動から離脱して、独自の運動を開始し、一定の方向に向かっているという意味合いが強いようです。そうした「主体化」のいくつかの点が同じ個人に存在するというのはどういうことか。新しい共同体的アイデンティティを立ち上げて元の共同体から逃走する、新しい思考様式を開発して従来の枠組みから逃走する、モノマニー的にある特定の動作にだけ固執する形で逃走する、という三つの線形的プロセスが進行しているとすれば、それらがきれいに重なった一つの運動になっているとは限らないでしょう。逃走線を走っていても、その運動を何らかの安定した記号体制に回収して、安定化させようとする作用が生じます。

 

[器官なき身体とは?]

 理論上存在する仮想の存在で、純粋な状態としては存在しません。現実の人間の発生では、受精卵が細胞分裂し始めた時点から既に機能分化しているので、器官がない状態の身体はどこかの時点で存在しているというわけにはいかないのですが、各機能が発現する前の、まっさらな状態の身体が、個体発生の前にヴァーチャルに存在する、と仮定することはできるでしょう。身体の様々な箇所が「器官である」ことに疲れて、逸脱し始める、というのは私たちの身体で既に起こっている現象だということです。前衛的な作家とか芸術家には、そういう感覚の人が多そうです。

 

[精神分析の幻想」

 精神分析は、人々が抱く幻想を解釈して、その幻想の元にある、主体化や意味性の不調の原因を突き止め、主体がもう一度しっかり意味を把握できるようにするのを目標にしますが、ドゥルーズたちはそれもまた幻想だと言いたいわけです。幻想を幻想で解釈するのではなく、実験のプロトコールをちゃんと守って、器官なき身体に到達する実験を遂行するのが自分たちのやっていることだ、というわけです。

 

[器官なき身体の特徴]

 器官なき身体は卵である、としたうえで、この卵が有機体と隣接していて、有機体と関わりながら自己を生み出すといいます。卵としての器官なき身体は、母親の胎盤から一定の組織を奪い取って、自己増殖していく可能性を秘めています。器官なき身体の増殖する細胞のような性格を理解したうえで、どの器官なき身体が現にどういう傾向を帯びているのか、ちゃんと把握しないとダメだということです。個々の人間の身体上の器官なき身体も含めて、器官なき身体はいろんな形に生成変化していくものなのに、精神分析は、家族を中心とした決まった身体像しか持っていなくて、何が起こっても家族的なイメージに還元しようとするので、ダメなのです。

 

[器官なき身体の共存]

 様々な器官なき身体が共存できる存立平面ができればいいけど、そう簡単ではない。抽象機械が拒否してしまうかもしれない。抽象機械というのは、パソコンで言うと、一番基本的なOSのようなものでしょう。変なアプリ(器官なき身体)は拒否されてしまうし、機能不全でバグになってしまうアプリもあるかもしれない。だから、いろんな器官なき身体を両立させられる抽象機械が必要になる。抽象機械は、直接的に可視化できないけれど、恐らく、私たち人間の立場からすれば、器官なき身体を目指して活動する、様々な人々の思想と実践、言語活動を含んだ実践の総体ということになるでしょう。だから、自分たちがどういう実践をしているか評価するための、プラグマティクスが重要になります。

 

[機械とは?]

 ドゥルーズ+ガタリの枠組みでは、金属的な部品や生体を構成する物質が機械の実体ではなく、自立的な運動を続けるユニットがあれば「機械」と呼ぶことができます。

 

[切片化とは?]

 切片化とは、ソシュールの構造主義言語学で言われているように、いろんな事物に切れ目を入れ、差異化することで、意味の体系を生み出す営みです。単に言語的に差異化するだけでなく、それに基づいて社会的に組織化するわけです。

 

[戦争機械]

 国家は遊牧性を起源とする「戦争機械」を自らの内に取り込んで飼い馴らし、利用してきたわけですが、分子的な切片を生み出す突然変異が、何かのきっかけで破壊に、権力と反権力、帝国同士のつぶし合いに転じると、それまで国家の部品になっていた戦争機械の狂暴性が解放されてしまうわけです。軍部独裁から全体主義国家になるのと、ファシズムが全体主義国家になるのとでは、全然違っていて、前者は、国家が戦争機械を利用しているという従来の範疇で理解できるけれど、後者の場合は、戦争機械の方が国家を乗っ取ったと見ることができるということです。ドゥルーズたちは、ミクロな次元で働き、多くのブラック・ホールを持つファシズムを、戦争機械に近い、本当に危ない存在だと見ているわけです。自己保身的な国家に対して、戦争機械はどこまでも破壊を続ける、自滅的な傾向を持っているというわけです。

 

[構造主義がダメな点]

 構造主義は、自然界に見出される客観的な構造をモデルにして、社会も構成されているという理論なので、生成変化とは相性が悪くて当然です。一般的に、ポストモダン系の思想で、構造主義とポスト構造主義が分かれるのは、このポイントをめぐってだとされています。

 

[コント(奇譚)について]

 コントを、その社会に根本的な生成変化、アノミーをもたらすものとしての魔術師と結びつけ、その魔術師の行為を儀礼的なものとは別に捉えています。伝統的な「供犠ー系列」モデルでも、構造主義的な「トーテム制度ー構造」モデルでも説明できない、もっと深い、社会の底に地下茎のように根を張っていて、時として存在の地平を一気に解体させる、生成変化をもたらすものの現われと見るわけです。通常の神話が二つのモデルのいずれかのレベルに対応しているのに対し、コントの主役は、首長でも祭司でもなく、周縁的な存在である魔術師(魔法使い)であるわけです。

 

[系統]

 進化論的な意味での系統は、人間が相似や模倣に関する想像力を働かせて再構成したものにすぎず、生成変化はそうした人間の想像力の範疇を超えたところで生ずる、といいます。

 

[書くこと]

 作家は魔術師の一種です。本当の意味で「書く」ことは、自我を解体させて、群れ的な存在、多様体にしようとする力と、それに抗いながら、魅せられてしまう自分との闘いの帰結であるといいます。

 

[機械の群生]

 狩猟機械、戦争機械、犯罪機械は、いずれも荒々しいという意味で動物的な感じがしますが、ドゥルーズたちは、ポイントは「群生」、単独の個でも、固定した組織の一部としてでもなく、あくまでも不確定な「群れ」として生き、行動することだと見ています。これらの機械の特徴である群生は、機械に関わってしまった人たちに感染します。ならず者、反逆者のグループに関わると、自分も巻き込まれる可能性があるわけです。

 

[魔術師の生成変化]

 動物への生成変化は中間地帯にすぎず、過大評価してはならない。その手前には女性への生成変化や子供への生成変化が見られます。そして中間地帯を越えた先には、細胞、分子状態、知覚しえぬものへの生成変化があるといいます。

 

[多様体]

 いくつもの多様体があって、それらがウイルスのようなもので媒介されていると考えても、複数の多様体に見えるものが実はつながっていると考えても同じことです。リゾームです。存立平面は全体としてリゾーム圏をなしている、あるいは、直接見えない抽象機械によって様々な機械やアレンジメントがつながっている機械圏であるといいます。

 

[欲望機械]

 私たちを構成している欲望機械は、狭い意味での性的欲動だけで動いているわけでなく、私たちの身体が組み込まれているアレンジメントの中で、身体と、馬や喫茶店、倉庫、街路、父親や母親のそれぞれの役割行動など、他の事物との相互作用で情動が生じ、それがいろんな自動運動する機械のユニットを生み出しているわけです。同じアレンジメントの中にある他の個体、あるいは身体的なものとの相互作用で生じる情動の分布によって、その在り方が決まってきます。「此性」というのは、一つの個体であることを、いわば、身体間、要素間の関係性という面から捉えようとしているのでしょう。相互作用という観点から個体性を拡張するドゥルーズたちの発想は、近年、「思弁的実在論」と呼ばれる新しい哲学的潮流の中の「対象指向の存在論」と呼ばれるものの発想に近いと思われます。

 

[此性]

 私たちは、どうしても主体である自分が個体として存在していることは極めてはっきりしていて、内外の相互作用のバランスで辛うじて存在していると言える「此性」などとは全然違うと思いがちですが、ドゥルーズたちに言わせれば、「私」という意識自体、その時々の身体を構成する分子群と外の分子群、身体を構成する細胞と外の生態的環境の間の相互作用の暫定的産物にすぎないわけです。

 

[分子状の生成変化]

 生成変化が分子状であるというのは、モル的に固まった状態から離脱するということです。「犬になる」「女性になる」とかいっても、身体全体がモル的に固まったまま、別のものに変換するわけではありません。だから目立った変化がなく、従来のモル的な振る舞いや状態から、部分的、局所的にでも、何か別の性質のものに向かう方向で変化が現われ、それが意識的で模倣でなかったら、生成変化と言えるわけです。生成変化が行き着く先にあるだろうものは、「知覚しえぬもの(非有機的なもの)」「識別不可能なもの(非意味的なもの)」「非人称性(非主体的なもの)」です。「主体」「実体」とみなされていた私たちの自我ですが、それが生成変化の結果、次第に緩んでいって、同じアレンジメントの中の他のものとの相関関係に左右されながら瞬間ごとに成立する「此性」が純粋な形で見えてくるわけです。主体に囚われていると、「此性」が見えにくいわけです。「此性」同士は、基本的に主体によって分断されていないので、透明性があり、互いの内に滑り込みやすいわけです。

 

[社会の転倒]

 モル的に固まった大きな社会を本当に転倒するには、単純に反権力の戦闘行動を起こすだけでなく、秘密結社のような形で社会の中に深く浸透し、人々に、期待を抱かせるにせよ、脅かすにせよ陰謀論的な妄想を抱かせ、動揺させないといけない。

 

[リトルネロとは?]

 もともと音楽の概念で、メロディとリズムが変形を含みながらも反復して現われる様式です。その原型は、生成しつつある機械の、地に足をつけるための、つまり現実化し、自分が存在する地盤を固めるための反復的な行動です。一定の形式を反復することで、周囲の領域を領土化していく作用です。単純に反復してくのではなく、変形が生じていく余地のある反復の仕方です。『差異と反復』以来のドゥルーズのテーマに通じています。

 

[鼻歌の効果]

 無自覚的に鼻歌のようなものを歌うのは、原初的な機械の運動の現われです。歌を歌うことで自分の動きに一つのリズムやメロディを与え、自分の動きを規則づける。カオスから秩序が生じてくる契機にしていくわけです。歌の規則性に依存するようになると、今度は、歌がうまく出てこなくなると、それと共に秩序が崩壊する恐れもあるわけです。

 

[リトルネロの働き]

 音楽の原点としてのリトルネロは、カオスに一定の秩序を与える作用として性格づけられます。

 

[所有の概念]

 環境の上に自分を表示する、動物とも共通する芸術的な行為があり、それが事後的に、特定の対象の所有の概念として固定化するわけです。表現の帰結として、「固有なもの=所有」が形成されると、今度は、それを基準に、存在の地平が形成されてくる、ということです。自然を自在に加工する主体性のようなものが最初からあるわけではなく、領土化という行為の過程で、そこにあるものを利用することになり、それが次第に署名として通用するようになります。

 

[芸術の始まり]

「芸術は人間を待たずに始まる」というのは、従来の芸術観のように、人間の知能が発達して、美というものを意識し、道具ではなく、芸術作品を作るようになってから始まるわけではなく、領土化に伴う表現行為と共に始まるということです。社会科学的には、労働とか宗教儀礼と共に始まるという見方がポピュラーですが、ドゥルーズたちはむしろその逆であることを、根源的な表現行為としての芸術の付随的効果として、労働や宗教が生まれることを示唆しています。

 

[機械とアレンジメントの違い]

 領土的アレンジメントで脱領土化の運動がはっきりしてきた時、その脱領土化の先端に位置する、脱領土化を一定の方向に誘導するのが機械だといいます。領土的アレンジメントが安定している間は、少なくとも、新しい機械は生まれてこず、機械は脱領土化しつつあるアレンジメントなしには始動しない、ということになります。脱領土化がどこかで進展していることが、この世界に機械が存在できる前提になっているわけです。

 

[ブラック・ホール]

 ブラック・ホールは自らの周囲に運動している諸要素を引きつけ、その引力の圏内から出られないようにするので、脱領土化を抑制しているように見えますが、そうした性質を持つブラック・ホールも、様々な領土に領土化/脱領土化の運動と無関係にいきなり現われてくるわけではなく、むしろ、リトルネロの性格を持つ複数のアレンジメントが相互に干渉し合うことで、どこかで動きが止まっているように見える箇所が生じ、それが結果的にブラック・ホールとして現われてくる、ということです。従って、より俯瞰的な視点をとれば、脱領土化は進んでおり、ブラック・ホールはその副次的効果ということになるでしょう。

 

[音楽の課題]

 リトルネロはこの宇宙の至るところに潜在的に働いている波動のようなもので、何か機会があれば、周囲の事物を強く共振させて、絶えず、新しい機械やその領土を生み出しては、脱領土化しているわけです。私たち自身も、リトルネロのカオス的な力に動かされているわけですが、ドゥルーズたちは、古い機械やアレンジメントに固執せず、脱領土化したリトルネロを産み出し、宇宙に再び解き放つことを、音楽の課題だと言っています。

 

[条里空間と平滑空間]

 国家が支配する条里空間は、いろんな線が入っていて、組織的に管理されています。戦争機械が進んでいく平滑空間は、はっきりと機能分化しておらず、移動に伴って違った姿を見せるということでしょう。国家が、それぞれの地域に意味・機能を割り振るコードを持っていて、コード化/脱コード化をしながら、自らが支配する固定した空間と関わっているのに対し、戦争機械はコードを持たず、領土の範囲をその都度変化させているので、領土の中に境目の線のようなものは入っていないといえます。

 

[情動と戦争機械]

 生成変化を伴いながら移動する戦争機械を構成する人たちは、理性的な指令ではなく、情動によって結合します。特定の領土に囚われ、アイデンティティが固定化しないよう、かなりの速度で移動していかねばなりません。

 

[国家の権能]

 国家が常に外部、つまりその国家の管轄外のものとの関係で成立しているという仮説があります。これは、国家には主権があるとすると、当然のことです。他の国との関係での独立性と、国家の内部での他の集団に対する優位ですね。教科書的には、領土内の国民一般に対する排他的支配権ですが、ドゥルーズたちは、それを個々の市民ではなく、徒党集団、周辺の集団、少数派集団などの、国家に対抗する可能性のある集団、戦争機械のもとになる諸機械に対して優位に立ち、領土を支配できている状態として捉えているわけです。国家は、そうした対抗してくる諸集団がいるところに支配機構を作り上げ、逆に、それらのミニ集団はいくら反国家的な態度を取っていても「原国家」を内に抱えているわけです。

 

[巡行的科学]

 王道空間が等質的空間を想定し、定量的な計算によって答えを出そうとし、社会の安定を図ります。それに対し、「巡行的科学」は、抽象化された概念体系から出発するのではないため、科学として自立した体系を持つことがない、現場での技術的操作で解決策を見出すこともあるが、もろもろの問題を発明することで満足することが多いのです。

 

[遊牧民の影響]

 遊牧民はその行程を進んでいく中で、様々な地点を利用するので、確かに空間を配分することにはなるけれど、彼らの空間自体が開かれており、かつ、どこにどの部族がいるかは刻々変化するので、定住民の場合のように、条里空間を形成することにはなりません。遊牧民にとってのノモスは、あくまでその都度の配分であって、ポリスの土地所有制度のように、確定したものではないと考えているようです。平滑空間の中にも、各部族が行程を進んでいくと共に特徴線は引かれますが、それはすぐに変化します。

 

[遊牧民と数]

 独立(自立)した数として、遊牧生活に即して、少ない量が問題となります。数が主体になります。つまり、数えることが中心になるのです。国家の場合、まず領土内の全体的ストックの中でやりくりし、足りなかったら、特定の外国から……ということになるので、数字が、領土上・既成組織上の現実から完全に自立、独立することはないわけです。遊牧民は、平滑空間の中から、原理的には何の制約もなく、数を調達しては移動し、目的を達成すると、新しい数の編成が始まるわけです。国土や人民を支配する必要がまずあって、そのために数字を利用する国家とは違って、遊牧民は、まず数字が先行するのです。

 

[マイナー科学]

 マイナー科学というのは、王道科学の特徴である「形相/素材」の二元論ではどう変化していくかを一義的に導き出せないということと、それに関わる職人や、遊牧の民、動物たちの生成変化を引き起こすことを指しています。通常は金属の道具や武器が用途も形も決まっているという私たちの思い込みに対して、冶金の過程から分かるように、金属は職人や道具、仕事場の環境などとの関係で、いろいろな方向に生成変化する可能性がある、赤ん坊の身体と同じように「器官なき身体」と見るべきなのです。または「組織なき物体」と言うべきか。

 

[絶対戦争]

 国家は自分の領土的な目的のために戦争機械を利用して、限定戦争をやろうとしますが、戦争機械はもともと、条里空間を破壊して平滑空間を作り出そうとする性質を持っているので、使っていると、自分が戦争機械に引きずり回されて、お互いの総力をかけてつぶし合う「絶対戦争」に発展していく可能性があります。

 

[革命戦争と戦争機械]

 ゲリラや民衆の革命戦争が、もっぱら「代補的」だというのは、平滑空間である新しい存立平面に「置き換える」ことを目指しているということと、それらが本格的な戦争の「代わり」であるという二重の意味を込めた言い方で、何か大きな組織を作ったり、経済的利益を目指したりしているわけではないことを示唆しています。といっても、それはあくまで当初の性格であって、ファシズム的な戦争に途中で変質する恐れはあるわけです。

 

[戦争機械と平滑空間]

 ファシズムに陥る危険性を回避しながら、戦争機械の平滑空間を広げていく作用をどう生かすかという戦略が模索されています。『アンチ・オイディプス』では、各人やグループがどうやって、原始大地機械の段階で既に始まっていたオイディプス化傾向から逃走できるのか、分裂分析の視点から論じていましたが、それを平滑空間の拡大というより広い視点から改めて論じようとしているわけです。

 

[原国家]

 国家が正式に存在するようになる以前から、「原国家」とでも言うべきものが、あらゆる人間社会に潜在している、と考えざるをえない。『アンチ・オイディプス』における原国家概念です。

 

[原国家とストック形成]

 結果的に余りが出たから、それを、単なるメンバーの生き残りを超えた目的のために戦略的に使うようになったのではなく、まず人々の間に、自分たちの生活パターンを変え、ある目的に向かって生産を増やそうとする、何らかのインセンティブ、企図が生まれ、実際それに基づいて働くことで、現存のメンバーの生き残りのための必要最低限を超えるという意味での「余剰」が出るようになったのではないか、ということです。そうやって、ストックを形成すべく生活様式を変えるよう、人々を最初に動機付けしたものを、「原国家」と呼んでいるのでしょう。

 

[いたるところに存在した国家]

 複雑なネットワークの中で、国家といくつかの原始共同体が共存している、ということでしょう。国家という実体がリアルな境界線の内側に原始共同体を取り込んでいる、ということではなく、文字どおり、超コードの体系としてヴァーチャルな存在として、いたる所にあったのでしょう。ただ、全く実体がないわけではなく、原始共同体同士がコミュニケーションし、生産物を交換し、安全保障の上で協力することを可能にする組織として存在していたわけです。そういう個別の共同体を越えてつながっていこうとする、組織形成への傾向が、「原国家」とでも言うべき観念へと結晶し、それが至る所にあった、というわけです。

 

[遊牧民の戦争機械]

 国家的なものに戦争を仕掛けながら、自らは国家にはならない、かつ、国家に負けて捕獲されることもないようにするには、戦争機械が必要で、それが遊牧民の発明です。原始社会が国家に負けて完全に捕獲された後、遊牧民の戦争機械が台頭し、その後、もう一度国家による捕獲が起こる、というような国家中心の進化がジグザグに進んでいるような感じになってしまいます。

 

[都市と国家の存立]

 都市がネットワークの中で成立するのに対し、国家は様々な要素を、ネットワークから切り離し、独自の回路を作ったうえで、王を頂点とする階層を形成します。都市は、国家と資本主義の双方に対して、ある程度は必要としながら、それが完全な形で到来して、自分が取り込まれることには抵抗します。資本主義をもたらす決め手は国家のようです。

 

[社会の形成]

 原始社会という機械は、国家を先取りしながら、祓いのけるように作用します。都市社会は、ネットワークの一点に人や物を集中させるように作用します。国家社会は、原始社会、都市、戦争機械などを捕獲するように作用します。遊牧社会は、戦争機械を作り出し、あらゆる社会に生成変化を起こさせるように作用します。これらの作用をする諸社会が、相互に影響を及ぼし合いながら、それぞれ変化していくプロセスが進行しているわけです。なので、これらは生産様式の低い段階、高い段階という関係にあるわけではない、ということです。

 

[戦争機械の変身]

 戦争機械の変身の力能というのは、戦士の変身の延長で出てくるのでしょうが、この場合は、戦争機械が国家の軍隊に変身するというように、自分を受け入れたり、自分と対峙したりする社会的機械の性質に、カメレオンのように適応するということでしょう。それが、軍隊の暴走という形をとることもあれば、革命という形を取ることもあるでしょう。国家に捕獲された戦争機械はどういう風に反逆するか分からないわけです。

 

[社会と経済]

 限界効用価値説の基本は、どんなに欲しいものでも、これ以上は要らなくなる限界というものがあって、その限界に近づくにつれてその財の交換価値は減少していき、最後はゼロになるという発想です。買い手にとって、限界効用価値に達する一歩手前の商品は、ごく自然に存在するわけではなく、そういう観念として設定されているだけです。通常の限界効用理論だと、取引する各個人にとっての効用だけを問題にしますが、ドゥルーズたちに言わせれば、「効用」なんて抽象的な単位が実在するわけではなく、その人がそれを取引するには、その瞬間の欲求とか習慣とか立場とかいろんな要素が絡んでいるし、周りの人と関係なく、純粋に自分だけの判断で取引することなどないだろう、ということです。

 

[ストックの役割]

 生産様式が発達して、余剰が出たので、それが分業や生産拡大のためのストックになるのではなくて、ストック形成への動機が先行する、という話がありましたが、ここでは、ストックが始まるのは、見かけ上の交換が閾を越えた後だと言っているわけです。要は、その交換をそれ以上続けてももはや利益が出なくなった後、ストックがその社会にとって新しい利益、欲求可能性の源泉になる、さらに言えば、新しいアレンジメント形成の起点になるわけです。狩猟採集を基本にする原始社会は、そもそもストックすること自体を祓いのけるメカニズムを備えているわけです。ストックの誕生に対応して生まれてきた、三つの捕獲装置を備えた新しいアレンジメントが、メガマシーンまたは古代帝国だというわけです。地代、利益、税が、古代の帝国と結びついています。特に税は、王家や官僚、聖職者、軍隊などを維持するために必要になります。専制者の顔は、国家が形成する超コード系の頂点に位置し、経済的アレンジメントが徐々に変化していく中で、国家が捕獲装置によってストックを維持し続けることを正当化します。専制者の顔によって、究極の所有の主体が露わになるわけです。

 

[超コード化と脱コード化]

 超コード化が不可避的に脱コード化を伴うというのは、超コード化すると、どうしてもそれに収まらない流れが生じるからです。原始社会がもはや独自に機能しなくなって、古代専制国家に組み込まれ、後者による超コード化が始まると、それが、それまで原始社会に属していた流れの脱コード化を引き起こすわけです。コードは領域固定的で、どのような性質のものをその要素にするのかが決まっているけれど、公理系は、具体的な対象から抽出された数理的に処理可能な要素間の単純な関係から成り立っています。内在的公理系というのは、この場合、その論理あるいは法則だけで既に自己完結的な体系になっている、完成した公理系というような意味でしょう。基本的には、誰かの口座の貨幣の量としてもっぱらヴァーチャルに存在する資本が、いろんな地域の物や人に投資されて、資本主義的な生産体制を実体化するわけです。国民という集団的主体として、内外に向けて自立的に振る舞うようになるには、まず資本主義的な公理系に従属しないといけない、つまり資本の流れに適合した生き方をみんなでするようにならないといけない。イデオロギー的に生き生きとしているように見える、資本主義が生み出した、自由な労働力群としての民衆ということになるでしょう。

 

[機械状隷属]

 機械状隷属の方は、機械に属し、その部品になることです。この場合、機械は、通常の意味の機械ではなく、ドゥルーズたちがずっと話題にしている狭義の機械と人間や動物がユニットになっている機械や、社会的機械も含んでいるでしょう。自律的に運動し続けるユニットとしての機械の一部になっているわけですね。服従のほうは、労働のシステムの外部に位置する他の誰かに服従することにポイントがあるわけです。服従と主体になることが関係づけられているのは、実質的な意味としては、いったん機械から解き放たれて、自立的に判断する主体に一応なった後で、他の主体に服従するということでしょう。近代国家は、機械的隷属を次第に社会的服従に置き換えていったということですね。自由な裸の労働者を主体化していったわけです。資本主義の公理系そのものではなく、むしろその実現モデルにおいて主体化←→社会的服従が現われてくるのです。公理系は単なる、取引されている数値を式にしただけのものです。AIやインターネットが生活・仕事のいたるところに浸透している現代のような状況でこそピンと来やすい話だと思います。私たちは、AIで管理された手順に従って、PCで作業する。その結果がネットを通じて企業や組織ごとに、AIで集計され、次の生産へフィードバックされていく。システムがフィードバックしながら、自己再生産しているので、どこが起点なのか分からないわけです。

 

[国家の危機]

 全ての国家は資本主義の世界市場に囚われているので必然的に同形的になるけれど、必ずしも等質的ではありません。同型性が一番はっきり現われる西側の資本主義諸国でさえ、全体主義国家(新自由主義)と社会民主主義国家に分かれる。東側の官僚社会主義は、一応、資本主義国家ではなく、これは西側から見ると、異形性を示しているけれど、資本主義の世界市場の中で寄生虫的な役割を担っている、ということです。このいずれにも属さない、第三世界の多形性に注目すべきと強調しています。

 

[戦争機械と平滑空間]

 公理系が、自らが処理している力能以上の力能を作り出してしまうということが述べられています。制御不能な力が生じて、危機に陥るということです。ここでの戦争機械は、軍隊というより、軍産複合体とか、あるいは、そうした攻撃的な性質を備えたグローバル資本主義を指しているのでしょう。グローバル資本主義が、国境や特定の国の法律やライフスタイルに縛られることなく移動して回り、全世界を作り替えていくことを「平滑空間」と表現しているのでしょう。リアルな遊牧民が移動して回る、もともとのイメージでの平滑空間とは大分違うけれど、国家の捕獲装置に囚われず、数値的な論理だけに従って自己を構成し、国家に攻撃を加えていく、という意味では、確かに戦争機械です。

 

[マイノリティ]

 マイノリティは数の問題ではなく、生成変化するかしないかです。数だけだと、白人がマイノリティだということになってしまいます。マイノリティをカテゴライズするのは困難です。紛争を解決しようとしても、必ず当てはまらない人が出てきて、元のマイノリティとは異なった分布になります。生成変化というのは、そういうことを含意しています。どこに焦点が当たっているかで、マイノリティの範囲や集団数、マジョリティとの関係がどんどん変わってきます。彼らはこのことを闘争に結びつけようとしているようです。マイノリティが至るところに出現すれば、公理系は解答を出せなくなってしまいます。

 

[戦争機械の革命運動]

 世界が戦争機械に覆われた全面的恐怖としての平和の次の段階として、戦争機械が革命的運動を起こす可能性を示唆しています。脱領土化・脱コード化した流れを再び接合しようとする資本主義の公理系の作用を逃れて、自由に運動をめぐる新しい大地を描きながら、相互に連結することができるかどうかです。この大地を存立平面と言い換えています。この平面は、資本の組織または発展の平面とも、官僚社会主義的平面とも違って、多様なものの多層的な共存を可能にします。機能的に分化していない、器官なき身体の様相を呈しています。

 

[平滑空間と戦争]

 単一の戦争機械が、全面的恐怖としての平和で世界を覆い尽くすという話の軍事的側面です。国境線を越えて威力を発揮する兵器の出現で、国家間の合意によって成り立っていた国際秩序の基盤が揺らぐ、ということです。潜水艦とか長距離ミサイルがどこから出現するか分からない、ノマド的な動きを示すおかげで、海や空が、ある意味、平滑空間化しているわけです。

 

[機械への隷属化]

 私たちの身体が全体的に機械に取り込まれ、隷属化しているせいで、機械の中にいる限り、どこまでが生計を立てるための本気の労働か、どこからが遊びか区別の付けようがなくなっているわけです。流動的状況になり、様々な対象や人間の間で、平滑空間的=リゾームな関係が生じていることを、ドゥルーズたちは、資本主義による条里化が社会の隅々にまで浸透したことの帰結と見ているわけです。

 

[視覚と触覚]

 条里化は、一定の距離を置いて、対象の全体を視覚的に捉え、空間的に位置づける作用だと言えます。都市計画とか、大規模なプロジェクトは、光学的・視覚的な図面に基づいて実行されます。それに対して、視野がほとんど閉鎖されてしまうくらいものすごく近い距離にあって、体的接触を通じて感じ取られるようなものから構成される空間は、ドゥルーズたちの言う平滑空間な性質を帯びてくるのではないか、と考えられます。ただ、こういう対比は相対的なものでしかありません。条里空間の細部を、触覚が働くくらい近くから見ると、細かい断裂や襞、フラクタル曲線のようなものが見えてきて、修正を余儀なくされる。その意味で、条里空間には常に潜在的に平滑空間を含んでいます。

 

[抽象線]

 抽象線は、単に芸術的創造の始まりであるだけでなく、無限の運動を続ける機械状の力によって生じるもので、存立平面を形成する抽象機械の現われです。芸術における抽象化というのは単に直線的な幾何学模様を描くことではなく、平滑空間の中での流動性の高い運動、自らが存在するための存立平面を形成する運動だということでしょう。現代芸術が抽象的なものを求めているというのは、よく聞く話ですが、それが条里空間を支配する有機的・幾何学的な表象を逃れようとする機械的運動の現われで、砂漠やステップでの遊牧民の運動、戦争機械を作り出す運動と連動しているわけです。条里化が極度に進むと、細部の平滑性が露出してくる、抽象線が次第にはっきりした痕跡を見せるようになるのだとすると、資本主義的な公理系の支配が全世界に及んでいる現在のような時こそ、いろんな抽象線が見えてくるはずです。そうしたいろいろな抽象線が集まって、平滑空間になるのでしょう。左派的な芸術運動で、空間を作るという言い方をします。それは条里ではなく平滑空間を作るということ、様々な抽象線が交差する、リゾーム的な空間を作ることになるわけです。平滑空間は、器官なき身体の拡大ヴァージョンのような感じでしょう。