たった1日の出来事(その4) | ほうしの部屋

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 ジェイムズ・ジョイスの長編小説『ユリシーズ』の[2部」[14][15]を読了したので内容紹介します。丸谷才一訳の文庫本の第3巻に当たります。古典的文体、文体の歴史的変遷、長い演劇的描写、現実と幻覚が渾然一体となった表現などで、この部分は難解を極めます。しかし、あらゆる言葉の実験を厭わないジョイス文学の醍醐味を(日本語訳とはいえ)味わえる部分でもあります。

 

[2]

[14章「太陽神の牛」]

 午後10時。病院。主人公ブルームは、妻モリーの友人ミセス・ピュアフォイ(多産な女でこれが9番目の子)の難産が気がかりで、ホリス通りの産婦人科病院に立ち寄ります。病院長ホーンはやり手の産婦人科医です。ブルームが医師のディクソンに誘われて、医学生たちが酒を飲んでいる部屋に行くと、レネハンや教師・詩人のスティーブンもいます。学生たちはオリーブ油漬けの魚などをつまみに飲んでいます。緊急時に母子いずれの命を優先するかとか、中絶のタブーについてなど論議します。スティーブンは、聖母マリアを引き合いに出し、快楽なき懐胎、苦痛なき出産、傷なき肉体、膨張なき腹を認めないと言いますが、皆はスティーブンの女癖の悪さをからかいます。ブルームは飲まずにしらふです。レネハンの淫蕩ぶりも話題になります。にわか雨が降って、日照り続きが終わり、稲妻そして雷が聞こえます。恵みの大雨が降ります。アイルランドでの牛の扱いについて議論になります。ジョージ・ムーアの家のパーティーから来たマリガンも加わります。マリガンは、受精場なる、女性の欲望を満たす施設の計画を語ります。ディクソンはミセス・ピュアフォイの病室へ去りますが、他の者はビールを飲みながら、衒学的な(ペダンティックな)冗談を言い合います。若者たちの話の主題は、性的体験、避妊、手淫、妊娠、出産などです。ブルームは若者たちの卑猥な話や女性の優雅を傷つけるような態度に不快になりながらも、聞き役に回っていました。ブルームはずっと女の性癖について自説を展開するスティーブンに注目しつづけ、自分はもう再び息子を持つことはできないと思います。ミセス・ピュアフォイの男子出産が告げられ、夫人の難産の原因、出産や相続にまつわる様々な考えが出されます。ブルームは若き日のことを回想します。皆はスティーブンの詩才を讃え、母を亡くした痛手に同情します。レネハンは競馬の話をします。若者たちはみな、バークの酒場へと駆け出します。ブルームもピュアフォイ夫妻への祝いの言葉を思い浮かべながら、スティーブンのことが気がかりで、ついていきます。酒場で若者たちは飲みまくり羽目を外して低俗な話に興じます。この章の場合は、とりわけ文体が重要です。ここは、古代英語からマロリー『アーサー王の死』、デフォー、マコーリー、ペイターなどを経て現代の話し言葉に至る英語散文文体史のパロディ(パスティーシュ)で書かれています。丸谷の翻訳では、日本語文体史のパロディ(パスティーシュ)になっています。古代英語は祝詞や『古事記』、マロリーは『源氏物語』などの王朝物語、エリザベス朝散文は『平家物語』、デフォーは井原西鶴、マコーリーは夏目漱石、ディケンズは菊池寛、ペイターは谷崎潤一郎の文体で訳されています。さらに、この文体変容は、9ヶ月にわたる人間の妊娠期間のリズムを示しているとジョイスは言います。章題の「太陽神の牛」については、産婦人科病院は叙事詩『オデュッセイア』に出てくる、太陽神の島トリナキエ、病院長ホーンは太陽神、看護婦は太陽神の娘たちに対応します。トリナキエに上陸したオデュッセウスの乗組員たちが殺した牛は、生殖力、豊饒を表します。

 

[15章「キルケ」]

 午後12時。夜の町。バークの酒場を出ると、教師・詩人のスティーブンとリンチは夜の町と呼ばれる娼家街へ来ました。夜の町の入り口のアイスクリーム売りの屋台に子供たちが集まっています。小人や屑拾いの老人など貧しい人々が夜の準備をしています。兵隊たちを横目に、スティーブンは陽気にステッキを振り回し、復活祭ミサの入祭文を暗唱します。主人公ブルームはスティーブンの泥酔ぶりが心配で二人を追ってきましたが、見失います。腹が減って食物を買い込みます。ブルームは腹が痛くなり、線路に飛び出したところ電車に轢かれそうになり、めまいを覚え、ここから幻覚が始まります。

《幻覚。死んだ父ルドルフが現れてブルームの無駄遣いやユダヤ教を捨てたことを叱ります。死んだ母エレンが現れてブルームを探します。なまめかしい衣装に身を包んだ妻モリーが駱駝(ラクダ)とともに現れます。モリーはブルームの世間知らずをなじり、立ち去ります。娼婦であるガーティー・マクダウエル(海岸で会った娘)が自分の処女を犯したとして、ブルームをなじります。モリーの友人ミセス・ブリーンが現れ、ブルームと昔の恋愛について語り合います。》

 ブルームは、雑談する浮浪者たちや兵隊たちや土方たち、客引きの娼婦をすり抜けて歩きます。ブルームは見失ったスティーブンが金をすってしまうのを心配します。犬たちにつきまとわれたブルームは、自分が食べるために買った肉の塊を与えます。

《幻覚。二人の巡査に不審訊問されるブルームは、貴族のように振る舞い意味不明の言い訳をします。文通相手のマーサによるブルームの女たらしぶりの告発。ブルームは裁判にかけられ、自分は作家であると騙り、自分の愛国心(イギリス愛)を訴えますが、盗作者として非難されます。女中のメアリ・ドリスコルがブルームに誘惑されたと証言します。ブルームは意味不明な自己弁論を演説します。弁護士オモロイが、ブルームは精神障害者だから無罪だと弁護します。上流婦人たちが証人となってブルームの猥褻な所業の数々を責めます。ブルームは「寝取られ亭主」と呼ばれ、絞首刑の判決が言い渡されます。》

 ブルームは若い娼婦ゾーイーにスティーブンがいると言われて誘惑され、ベラ・コーエンが経営する娼家に入ります。

《幻覚。ブルームは将来のダブリン市長と呼ばれる議員になり、タバコを批判する演説、オランダ人の機械好きを批判する演説を行います。ブルームは大行列を従えて白馬にまたがり、皇帝レオポルド一世として戴冠式をあげます。ブルームの前配偶者は囚人として連れ去られ、夜の光輝セレネ姫が妃になります。ダブリンの自治権を象徴する鍵がブルームに贈られます。メシアとしてのブルームは、近い将来、ダブリンが黄金の都市ブルームサレムになると告げます。そして良心裁判所を開廷し、次々と判決を下します。ところが突然、形勢が変わり、ブルームはイギリス贔屓の不可知論者、御都合主義者として告発されます。ブルーム派の女たちが次々と自殺します。ブルームは汚物を投げつけられ非難されます。両性具有の精神障害者として告発されます。そして出産間際のブルームに多額の寄付金が集まります。ブルームは8人の子供を産み落とします。ブルームは虐待されます。》

 娼婦ゾーイーに誘惑されて娼家に入ったブルームは、客でごったがえす音楽室で、スティーブン、リンチを見つけます。スティーブンは帽子に向かって奇妙な音楽論を説きます。

《幻覚。ユダヤ人、アンチキリストの到来。小鬼たちがいたずらをして回ります。スコットランド人たちが、奇妙な格好をしてやって来て、舟漕ぎ踊りを踊ります。世界の終わり。エリヤの再臨。娼家にいる面々に、天使の側につくことを勧めます。娼婦たちは身持ちの悪さを懺悔し、スティーブンは聖書の一節を読み上げます。ドルイド僧が呪文を叫びます。》

 爆発的に燃えさかるガスマントルをゾーイーが直します。ゾーイーはリンチにタバコをねだり誘惑します。

《幻覚。ブルームの祖父ヴィラーグが現れます。祖父は娼婦たちの服装や肢体を分析して見せます。そしてヴィラーグはブルームに向かって性的雑学を講義します。ブルームは、本能が世界を司るという自説を述べます。ヴィラーグは聖書の一節から男女の情交を引き出します。そしてキリスト教徒やローマ・カトリック教会を批判します。》

 スティーブンは自分が少し酔ったことを自覚します。人格が「酔いどれフィリップ」と「しらふのフィリップ」に分裂します。リンチは娼婦に問われて、自分は枢機卿の息子だと冗談を言います。

《幻覚。スティーブンが枢機卿になります。壇上から大きな身振り手振りで恩寵を願いますが、ブユの群れにたかられて閉口します。》

 スティーブンは娼家からいったん出ます。ブルームはゾーイーにチョコレート菓子を与えます。ブルームはチョコレートの催淫効果を思い浮かべます。ドアが開き、装飾品で飾り立てた、娼家の主ベラ・コーエンが現れます。ベラの扇に煽られて、ブルームは自分の性的劣等感を披瀝します。そして跪いて、ベラの靴紐を直します。

《幻覚。ブルームは被虐性変態趣味(マゾっ気)を見せます。女性になって、娼家のヒモ男にいたぶられます。四つん這いになり馬乗りされて睾丸を強く握られます。そして娼婦になるように命ぜられます。ブルームは身体を締め付けるコルセットが好きだと言います。昔の変態的性癖と猥褻行為を責められます。ブルームは娼婦としての務めを命じられ、競売にかけられます。そして男性としての自分が、妻が浮気しているのを指をくわえて眺めていると非難されます。娘ミリーが若い男と睦まじくしているのを眺めます。妻や娘を誘惑する男たちがブルームを侮辱する行為を働くと宣告されます。そしてブルームの臨終を悼むユダヤ教徒たちが祈りを捧げます。ブルームの寝室に飾られた絵のニンフが、ブルームを悼みます。ブルームは少年時代ののどかで卑猥な体験を思い出させられます。ニンフは自分を犯そうとしたブルームをなじります。》

 ブルームは娼家の主ベラの品定めをして悪口を言います。ブルームはゾーイーからじゃがいもを取り戻します。スティーブンが娼家への支払いとして金を出します。残りをブルームが支払います。ブルームがスティーブンの残りの金をあずかります。スティーブンはマッチの火を見つめて幻想を語ります。ゾーイーがスティーブンとブルームの手相を見ます。ブルームのことを「雌鶏の尻に敷かれる御亭主」と言い当てます。

《幻覚。ホテルのバーを出た興行師ボイランがレネハンと共に馬車に乗り込みます。ブルームの自宅前で馬車を降りてモリーに会うことを求めるボイランを、ブルームは慇懃に迎えます。ボイランはモリーと二、三回やると宣言して、ブルームに鍵穴から覗いているように言います。寝取られ亭主としてのブルームは、ボイランとモリーの嬌声に聞き耳を立て、それを煽ります。鏡にシェイクスピアの姿が現れ、ブルームをなじります。》

 スティーブンは、娼婦たちに求められて、フランス語なまりでパリの客引きの真似をします。

《幻覚。スティーブンの父サイモンが、狩猟にスティーブンを導きます。それが急に競馬の場面になります。スティーブンはゾーイーの誘いで、自動ピアノの伴奏に合わせてダンスします。多くの人々がワルツを踊ります。スティーブンは娼婦たちを取っ替え引っ替えして踊ります。スティーブンが急に止まると、母の花嫁姿の亡霊が現れます。自分が母親を殺したと言われて悩むスティーブンを、母親はなだめます。緑色の蟹がスティーブンの心臓に鋏を突き立てます。母がスティーブンのために神に祈りを捧げます。》

 スティーブンがトネリコのステッキでシャンデリアを打ち砕き、あたりは暗闇になります。スティーブンが娼婦たちから逃れ去ります。スティーブンが壊したランプの代金を巡り、ベラとブルームは口論になります。ブルームは1シリングをテーブルに置き、娼家を出て行きます。

《幻覚。顔を隠して逃げるブルームを、群衆や犬どもが叫びながら追います。顔見知りの人間たちもたくさんいます。ブルームは石など色々な物を投げつけられます。》

 ビーヴァー通りの角、口論が行われている場所でブルームは立ち止まります。スティーブンが兵隊たちと言い争っています。スティーブンは兵隊の一人が自分を侮辱したと言います。ブルームはスティーブンの袖を引き、この場から逃れようとします。

《幻覚。エドワード7世が勲章をたくさん着けてアーチ道に現れます。彼は、フリーメーソンのマントをはおり、左官屋の格好をしてキャンディーをしゃぶっています。正々堂々の勝負を見たいと言って、スティーブン、ブルーム、兵隊たちと握手します。スティーブンは死を愚弄し、生命を讃える叫びをあげます。ブルームは、スティーブンに絡んでくる兵隊たちに許しを乞います。悪魔の理髪師ランボールドが現れ、数々の惨殺に用いた凶器の刃物を見せます。ランボールドに絞首された男は勃起して息絶え、その精液を貴婦人たちがハンカチで吸い取ります。歯なしの老婆がスティーブンを罵ります。》

《幻覚。炎が燃え上がり、ダブリンは大火事に見舞われます。火事の中で戦闘が行われます。墓場から死者が蘇ります。街の人々は身を守るために各々勝手なことをします。魔女が空を飛びます。悪魔の祭壇が設けられ、祭服を裏返しに着た聖職者たちが黒ミサを執り行います。神への宣誓を逆さに読み上げます。》

 リンチがスティーブンを見捨てて女を連れて立ち去ります。兵隊の一人がスティーブンを殴りつけます。気絶して地上に横たわるスティーブンをブルームが助けます。警官たちが到来します。兵隊たちが逃げます。警官は群衆を追い散らします。たまたま葬儀屋のケラハーが来たので、ブルームはスティーブンが名士ディーダラスの息子だと警官に説明し、ケラハーにうまいこと警官と話をつけてもらいます。ブルームは馬車で去るケラハーを見送り、倒れているスティーブンを介抱します。スティーブンは意味不明な詩を口ずさみます。

《幻覚。物思いにふけるブルームの前に、幼くして死んだ息子のルーディーが、11歳の妖精の少年になって現れます。ルーディーは本を読みながら、ブルームにキスします。倒れているスティーブンが11歳のルーディーに化けて現れたのでした。》

 この章は、戯曲形式で書かれた夢幻劇で、怪奇幻想映画のシナリオを連想させます。現実と幻覚は混沌とし、どの登場人物が幻覚を見ているのかも明確ではありません。複合的人物の内的世界としての幻覚で、幻覚の主体の最も重要な者は観衆としての読者です。章題「キルケ」は、叙事詩『オデュッセイア』でオデュッセウスの部下たちを豚に変じ、オデュッセウスに破れて部下を元に戻した魔女キルケのことで、娼家の主ベラ・コーエンに対応します。