さや侍 | ほうしの部屋

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 松本人志監督の3作目の映画『さや侍』を観ました。
 前2作『大日本人』『しんぼる』と同様、単純に「松本が撮る映画だから」と、笑い(爆笑)を期待して観ると、見事に裏切られます。『さや侍』もやはり、ほとんど笑えません。しかし、深く考えさせられます。松本も北野武と同様、相当に海外を意識して映画を作っていると思われ、今までの3作品はすべて、松本の独特の目線を通した「人間観」「日本人観」が如実に現れています。それ(そのニオイ)を作品から読み取れない(感じ取れない)人は、松本の映画を観る資格がありません。
 私が日頃観察する「いかにも日本人」という日本人は、たぶん松本の映画を観て「面白くない。笑えない。つまらない」で終わらせるでしょう。松本の映画を観て、内省的に日本人(自分自身も含む)というものの本性を思考できるかどうかは、いわば外国人の目線を持って、つまり(日本人であることも含めた)自分自身を客観的に相対化して見たり考えたりすることを少しでもできる能力を持つ人に限られます。それは本当の意味で(海外旅行の回数などの下等な問題ではなく)コスモポリタンとして生きられるかどうかという個人の資質に関わります。
 松本の映画は間違いなく外国人には受けます(実際『大日本人』はハリウッドでリメイクされます)。問題は、松本の映画を観る日本人のあり方です。自分自身が日本人であることのどうしようもなさ(くだらない自尊心や誇りなどではない)を自覚しつつも、自分が日本人だろうが何人だろうが構わないという諦念を、自らの思考と行動を鍛錬するために抱くことができるかどうかが、問われているのです。例えば、日本がぶっ潰れて中国の領土になったとしたら、私は一生懸命中国語を習って中国人のもとで働くでしょう。そうなっても全く構いません。日本が消えようが、日本人が日本人でなくなろうが、一向に構わないのです。極端に言えば、そこまでの諦念と覚悟がないと、生きる資格はないし、松本の映画の真意も理解できないと思うのです。
 前2作では松本人志が自分自身で主演も務めました(そうしないと客が集まらないという理由で吉本興業に強制されたらしいです)。しかし『さや侍』の主人公(主役)である浪人・野見を演じたのは、野見隆明というズブの素人のオッサンです。俳優でも芸人でもありません。松本はテレビのお笑い番組(例えば「ガキの使いやあらへんで」など)で素人の変な人を呼んできて、無理なことをやらせて笑いを取ることがありますが、野見隆明というオッサンも、そういうプロセスで発掘されました。本当の素人というものは、天然ボケだけで自己統一することができません。何とか(自分なりに)ウケようとして無理に作ろうともします。そういう側面がかえってスベリを助長します。このプロセスが生み出す、ひねくれた笑い(苦笑)というか人間の本性に対する皮肉的なものを、松本は発掘するのが得意です。これは、一種の残酷な行為であり精神的な拷問とも言えます。
 かつて、フランスの映画監督ブレッソンは、プロの俳優でない素人だけを出演させて映画を撮ることを得意としていました。映画で素人(あるいは全くの新人俳優)が起用されることは珍しくはありません。テレビドラマとは異なる、映画のスクリーン上では、素人の存在感が不思議な化学反応を起こして、かえってリアルな雰囲気を生み出すことも少なくありません(編集技法にも助けられている面もあります)。しかし、松本が野見という素人のオッサンを主役に据えたのは、そういう既存の映画の語法を真似たからではなく、上記のような、お笑い番組で素人に無理をさせる精神的拷問の延長なのです。しかも、『さや侍』では、野見のオッサンの素人なりの奮闘に対して、松本はさらに冷酷に、救いようのない結末を突きつけます。お笑い番組では存在した最低限のカタルシスさえ喪失させたのです。
 反則を承知で『さや侍』のあらすじをバラします。そうしないと論じることができないからです。
 脱藩浪人の野見は、妻を病気で失い、一人娘を連れて、諸国を逃げ回ります。武士であることのプライドも失い、刀を捨てて、鞘(さや)だけを腰に差しています。しかしある藩でついに捕まり、そこの殿様の趣向により、「三十日の業」という刑罰を命じられます。一日一芸を披露して、母を失って以来全く無表情になった若君を笑わせることが使命です。三十日続けても若君を笑わせられなかったら、切腹です。
 野見は無い知恵を絞って、芸を見せますが、数日でネタが尽きてしまいます。しかし、野見の必死さに同情した、一人娘や牢番たちが知恵を出し合い、一日一芸は続いていきます。しかし、若君は全く笑いません。野見のネタ見せ→失敗→一人娘のセリフ「父上、自害なさってください」とか家老(伊武雅刀)のセリフ「切腹を命ずる」という一連の流れは、矢継ぎ早に繰り返されます。これは、お笑い業界では「天丼」といわれる「同じようなことを繰り返すことで笑いを誘う」というテクニックの一つです。松本人志は、かつて、アメリカ人を笑わせるコメディーを作るという企画をテレビで長時間かけて行い、現地調査も経て、外国人がかなり「天丼」手法で笑うことを見いだしていました。そのため、松本は自作映画でも「天丼」を意識したギャグやストーリー展開を多用します(これも海外を意識していることの一つの現れでしょう)。
 野見や周囲の人々の努力にも関わらず、若君は一向に笑いませんが、次第に城下の町人たちの人気を集めるようになり、野見は一種のヒーローのようになって応援されるようになっていきます。野見の不器用な努力に対して、殿様も共感するようになっていき、三十日目になっても若君は笑いませんが、殿様は切腹の直前までに何かをして若君を笑わせたら許すという温情までかけました。
 切腹の当日、白装束の野見を前にして、殿様は若君の顔を傘で隠します。つまり、若君が笑ったか笑わなかったかは殿様が判断するということで、野見は実質的に、何かネタを少しでも見せれば、赦免になるチャンスを与えられたのです。
 ところが、野見は、周囲の期待を裏切り、ネタを見せることなく、おもむろに短刀を腹に突き立てて、切腹して死んでしまいます。この切腹のシーンは、かなりリアルに描写されていますが、いかんせん素人の野見のオッサンの演技のため、切迫感も緊張感も不足しており、結果として、逆に、無様な脱藩浪人の最後にふさわしい描写になっています。自分の腹を切った短刀を野見はそれまで空っぽだった自分の腰の鞘(さや)に収め、介錯されて死にます。
 普通に(芸人としての松本に)期待して観ていたら、終盤の盛り上がり方からして、野見がヘボ芸をやって、殿様に何らかの形で赦免される、一種のハッピーエンドを予測するでしょう。映画の展開そのものも、そういう方向性をにおわせるベタな演出をわざと仕掛けています。しかし、松本は一切を否定して、野見の切腹で終わらせてしまいます。何の救いもありません。その後に出てくる後日談のようなものは、『大日本人』のエンディングと同じで、ダラダラと意味のないことをやることで逆に失笑を誘うという、これも松本が得意とする手法にすぎません。
 このストーリーや、野見というオッサンの存在(使われ方)には、二重三重の意味が込められていると思われますが、まず言えるのは「しょせん素人が悪あがきして余技(余芸)をやってもムダだよ」という松本の突き放した見方です。
 素人が切羽詰まると、予測できない面白さを生み出すことはあります。そのせいで(一時的にプロになったり)周囲に持てはやされていい気になることも少なくありません。特に、ネットメディア全盛時代にあって、素人が余技を公開する機会は格段に増えており、その方法も簡単です。しかし、しょせん、素人は素人です。どんなに(松本が野見のオッサンに見いだしたような)奇妙な面白さがあっても、一時的に持てはやされても、素人は結局のところ、最後は奈落の底に突き落とされて、見向きもされなくなって終わるのです。
 野見のオッサンに必死の一発芸を連発させて(台本も渡さずに撮影日ごとにその日にやることだけを告げたらしいです)、周囲で盛り上げておいて(映画の観客にも期待させておいて)、あっさり、殺して終わらせたのです。しょせん、素人なんてそんなもんだということでしょう。
 また、野見のオッサンが演じた浪人は、プライドを失った脱藩浪人とはいえ、もともとは武士です。プライドを捨てきって、三十日間、芸人に徹しようとしましたが、その努力が周囲を動かしかけたのにも関わらず、最後の最後で、くだらない武士のプライドに目覚めて、自ら芸を拒否し、切腹し、刀を鞘(さや)に収めて、死んでいったのです。しょせん、素人は、平凡な本業(本来の生業)にでもチンケなプライドを見つけて満足して死んでいくしかないという、松本の皮肉で残酷な見方でしょう。
 まあ、色々な意味を読み取れるでしょうが、私は上記のような、いわゆる「素人に対する突き放し」に特に着目しました。
 これは日本人か外国人かに関わらず、人間にすべからく当てはまる「素人の勘違い(思い上がり)」に対する鉄槌とも言えます。
 日本人の場合、サラリーマンのオッサン(特に団塊の世代に顕著)などが、自分の趣味(余技)を自慢げに語るという、みっともない特性を暴露しがちです。私は、そういう趣味とか余技を自慢げに語る素人が大嫌いです。しかも、自分がいっぱしの芸術家(あるいはスポーツマンなど)のような存在になっていると思い込むオッサンやババアや学生は非常に多く、腹立たしい限りです。要するに、凡庸なサラリーマン生活(あるいは主婦・学生生活)で満足できず、くだらない余芸を自慢することでチンケなプライドを維持しようとしているのです。しかも、周囲に(なぜか本業以外のことで)認められたくて、腕前を披露したり、お世辞で褒められようものなら有頂天になります。まあ、学生など若者なら仕方ありませんが、中年サラリーマンや引退世代がそれをやったらみっともないかぎりです。「凡庸に死ね」と言いたい。
 本業である仕事に関しても言えます。周囲に盛り上げられたり、自分自身で根拠のない達成予測(空しい期待)を抱かないと仕事に熱が入らないタイプの人間が、私は大嫌いです。客観的に見れば逆境なのに「まだまだ行けますよ」とか「これからです」とか「売れますよ」とか根拠もなく言う輩、そうやって自分を盛り上げていないと生きられない輩がいかに多いことか。こういう人間は本業でも素人なのです。人間は本来、過剰な期待など抱かず、「どうせこんなもんだろう」という諦念と寄り添って、コツコツと地道に生きていくしかないのです。それが本当の「人間のプロ」というものです。
 いわゆる「素人根性」というものを、日本人という存在にすべからく通底する心性にも当てはめることができます。たかが趣味を自慢するぐらいならまだ可愛いものですが、「自分が日本人であることを(意味もなく)誇らしく思う」ようになると重病です。本業でも趣味でも、いや、ただ存在しているだけの本質的な自分というものを、そのままの姿で「まあ、しょうがねえな」と受け入れることができないと、行きつくところ、右翼団体まがいに「日本人」「日本民族」としてのアイデンティティーとか自尊心といった、くだらない虚構を捏造(妄想)して、そこにすがりつくことになります。これも大きく言えば、松本が皮肉る「素人の自己顕示」にすぎないのです。
 ここで、私が冒頭で指摘した、松本人志の映画に現れる「人間観」「日本人観」という見所とのつながりがおわかりいただけるでしょう。
 松本は「素人の限界」というものを通して「日本人が日本人であることに自意識過剰になることの限界とばかばかしさ」を見せつけているのです。
 民族意識のような趣味(余芸)に目覚めてしまった日本人(素人)としてでなく、何人でもない単なる一人の人間(本業)としての自分、結局のところはどこにも帰属できない、孤独な存在である自己というものに、真摯に向き合って生きることこそが、真のコスモポリタンであり、そういう人でないと、本当の意味では、松本人志の映画に込められたメッセージ(というか皮肉)を理解することができないと思うのです。
 私自身も自戒と反省をさせられるところが多々ありました。