苦闘の末の読了 | ほうしの部屋

ほうしの部屋

哲学・現代思想・文学・社会批評・美術・映画・音楽・サッカー・軍事

 トマス・ピンチョンの大長編小説『重力の虹』、やっとこさっとこ、上下2段組1000ページを読了しました。尋常でない数の登場人物がいて、複雑に絡み合うので、登場人物表を手放せません。

 メインストーリーらしきものはありますが、さざ波のように寄せては返し無数にまとわりつくサイドストーリーのせいで、全てがサイドストーリーのようで、それがどこかで関係し合い、小説の核心部分に近づいたり離れたりします。

 発表当時流行していたポストモダン思想の「大きな物語の終焉」「小さな物語の連鎖」「メタフィクション」を実践している作品です。

 読み進めるのは苦行ですが、出てくる小さな挿話の数々や、第二次大戦直後の欧州という舞台背景がとても面白く、読んでいて飽きません。ただ、先述したとおり、サイドストーリーがメインストーリーを飲み込んでしまっているので、次第に、何を読んでいるのか分からなくなり、発狂しそうになります。危険な書物です。

 

 この小説のテーマは、ナチス・ドイツが最終報復兵器として開発し、ロンドン市民を1万人も殺した、世界初の弾道ミサイルV2ロケットです。実際の歴史でも、米ソを中心とする連合軍は、終戦後に、ドイツのV2の発射基地、製造工場、設計図などを血眼になって探しました。そして、のちにアメリカのアポロ計画(月面探査計画)のリーダーとなる、フォン・ブラウンをはじめとして、V2ロケットの開発・製造に従事した技術者を奪い合いました。

『重力の虹』では、V2を巡る史実は後景に退いて、V2に象徴されるテクノロジーの秘教的側面が前面に出てきます。各国の軍人や秘密結社、隠密部隊、諜報機関などが、V2ロケットにまつわるものを探し回り、ライバルを出し抜くことに必死になります。各々のグループやその所属人物、リーダーなどには各々の哲学、思想、人生観、奇癖、経歴があり、それが無数のサイドストーリーの中で展開されます。

 主人公は一応、スロースロップというアメリカ人中尉で、ロンドン滞在中に、V2の落下から必ず紙一重で免れるという特殊能力を諜報機関に買われて、終戦後の欧州(連合軍の分割統治下)で、V2ロケットの秘密の一端を把捉すべく派遣されます。それは、V2ロケットを制御する「S装置(黒の装置)」とその部品に使われている「イミポレックスG」という新型のプラスチック(合成樹脂)です。スロースロップは「イミポレックスG」の匂いをかぐと勃起するという条件付けがされています。しかし、スロースロップの行動は実に場当たり的で、命令書も口頭命令もない、ただの条件付けられた行動パターンにインプットされた曖昧な指令しか受けていないため、欧州各地を勝手気ままに飛び回り、現地で知り合った仲間に合わせて行動を右往左往させます。ハーバード大卒のエリートなのに、実に軽薄に見えます。サイドストーリーに出てくる他の登場人物たちのほうが、よほど深い人生観や哲学を示します(たとえロケットの魔力に引き寄せられているとはいえ)。

 そういうわけで、主人公スロースロップの言動に傾注して追うのも無駄なことです。スロースロップの行動以上に意味深な他の登場人物の言動がサイドストーリーの中で展開されていくからです。

 そういうわけで、ラストシーンは他の登場人物によるV2ロケットの発射であり、スロースロップは出てきません(他の登場人物の記憶の断片としてのみ存在)。サイドストーリーの連鎖がメインストーリー(そんなものがあればの話ですが)を乗っ取り、S装置の秘密もイミポレックスGの秘密も明かされません。大団円は、サイドストーリーの連鎖が生み出すのです。

 また、この小説には、大都市から田舎村、海辺から内陸部の草原や山岳地帯など、様々な舞台が出てきますが、その情景描写の細密さにも驚かされます。小説に不可欠な具体性を与える描写という面では、この小説は王道を行っています。

 あっちこっちへ飛び回るサイドストーリーを邪魔扱いせず、その波のうねりに身を任せるようにリラックスして読み進めていけば、この重層的で多声的(ポリフォニック)なテクストの快楽に浸れます。筋を追いすぎてはいけないのです。V2ロケットという象徴がもたらすメッセージが輻輳したテクストのざわめきの中から浮かび上がってくる、それを捉えるしかないでしょう。

 

私事に結びつければ、私が1990年~1995年頃に書いていた『坩堝(るつぼ)』という長編小説も、『重力の虹』と全く同様の狙いとコンセプトで書かれていることから、自分の試みは案外にも時流に乗っていたのだと思えました。大きな物語の崩潰、サイドストーリーの連鎖で紡ぐ巨大な織物。『坩堝』は、電子書籍(アマゾンのKindle(キンドル)版)で販売しています。全然売れません。それを読めば本体を読んだ気分になれるほど懇切丁寧な内容紹介(あらすじ)を商品紹介の欄に載せているからかもしれません。