メタフィクションの愉しみ | ほうしの部屋

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トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を読了しました。

 読書家で物書きでもある知人が挫折したと聞いていたので警戒しながら読みましたが、それほど難渋を極める内容でもなく、すらすら読めました。邪推するに、友人は、もしかして、中盤に出てくる演劇(劇中劇)の長々しいくだりに辟易したのではないでしょか。私もそうです。しかし、こういう劇中劇とかメタフィクションの構造を理解しているつもりなので、演劇の内容には深入りせず、さらさら読み飛ばして、ストーリーの主軸と関係ある、闇の郵便制度の創始者の名前が出てくるところのみを記憶して読み進めました。

 

 元恋人の大富豪の遺産管財人に遺言で指名されたエディバは、遺産の目録や実物を調べる内に、闇の郵便制度とそれを仕切る結社の存在に気づきます。そして、闇の郵便制度結社のマーク(印)や符丁、そのメンバーや関係者らしき人々に会うごとに、闇の郵便組織の陰謀(国家が定めた郵便制度を転覆させることを通して国家に反逆する)に気づいていきます。しかし、派手な殺人もアクションもなく、エディバの妄想なのか現実なのか区別のつかない出来事が連鎖し、闇の郵便制度で使われたとおぼしき偽造切手(大富豪の遺産の一部)の競売シーンの始まりで、物語は終わります。

 件の、演劇シーンもさることながら、ピンチョンは、サイドストーリーの過度な冗長性を特徴としていると思われます。冗長性は、サイドストーリー、蘊蓄、情景描写などにも表れます。この冗長性こそが、読者を、テクストのメタな領域に誘い込む手段なのだと思います。この冗長性に真面目に正面から付き合ってしまうと、何を読んでいるのかわからなくなり、話が見えなくなります。冗長性に対しては、読み飛ばしが有効でしょう。読み飛ばしつつ、冗長性を持って書かれている部分のだいたいの要旨とキーワードらしきものを心に留めて、メインストーリーに戻るのです。そうすると、ピンチョンの罠に絡め取られることなく、読み進めることができます。ピンチョンは、読者の様々な知識レベルを試すような書き方をしますが、出てくる話題やアイテムの全てを知っている必要はさらさら無いのです。

 メタフィクションでは、暗喩によって様々な秘密を隠して語りが進みます。私が、メタフィクションが好きなのは、自分の知識(雑学的教養も含む)の限界を試されているような進行が好きだからです。メタフィクションを書く上で難しいのは、読者への挑戦状のさじ加減です。全くわけのわからない隠喩ばかりでは、読者はついてこれません。かといって、あまりに単純なストーリーのみを前面に押し出すと、メタフィクションを解読する愉しみが失われます。読者を選ぶことにもなりますが、自分が想定する理想の読者の知識・教養のレベルに合わせて、暗喩的表現やアイテムの投入を調整する必要があります。テクストの中に謎を隠し、それを読み解く愉しみとともに、仮に(読者の知識レベルを超えてしまって)読み解けなくても、ストーリーを追うのに支障がない程度の調整が難しいところです。

 ピンチョンとウンベルト・エーコを比べてみたくなりますが、ピンチョンは自分の構想に忠実に(いささか自分勝手に)メタフィクションを創造しています。エーコは、もう少し、読者へのサービス精神があります。知識が足りなかったり暗喩に気づかなくても、物語(メインストーリー)を十分に堪能できるように物語を作成しています。

ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』は、ミステリー仕立てですが、最後まで謎解きは完結しません。追っている謎がどういうものかもぼやけてきます。そういう意味で、ミステリー仕立てとはいえ、本格物の推理小説を期待して読むと足元をすくわれます。ピンチョンの狙いは、ミステリー的な追跡劇(主に精神面の)を見せつつ、メタフィクションの迷宮に読者を誘い込むことにあるのです。

『競売ナンバー49の叫び』は、後にエーコが世に出て書くことになる、『フーコーの振り子』『プラハの墓地』『ヌメロ・ゼロ』あたりの20~30年も先を行っている作品です。ただし、多少荒削りな面は否めません。