近世日本の身分制社会(152/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか80/95  本能寺の変の全体像26/41 2024/12/22

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~25」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 ※ 本能寺の変の全体像13 で先述


 九鬼嘉隆 くき よしたか

 ※ 本能寺の変の全体像14 で先述

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 ※ 本能寺の変の全体像15 で先述

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 ※ 本能寺の変の全体像16 で先述

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )

 ※ 本能寺の変の全体像17 で先述

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし

 ※ 本能寺の変の全体像18 で先述

 

 小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後

 ※ 本能寺の変の全体像19 で先述


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり

 ※ 本能寺の変の全体像20 で先述

 

 千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~05

 ※ 本能寺の変の全体像21~25 で先述

 

 千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )06/19

 ※ 前回 1489 年末 延徳元年十月 までからの続き

 

1490/01/02、織田安芸入道( おだ あきにゅうどう。尾張織田家中における親類家臣として、中央寺院との交流役を任されていた様子が以前から見られる )、相国寺蔭凉軒を訪れる。しばらくの交流が続く。蔭凉軒日録。※ 原文では 01/02、01/11、01/28、02/11 での会合の様子が書かれている。相国寺の別陰の僧たちも参列してのささやかな贈り物がされながらの会合がされた様子までしか書かれていない。間違いなくあったはずの政治的な内容は触れられていないのは、まだ決定事項にもなっていない段階、どんな方針案が交わされたのかの状況確認段階の中での地方や家系の名が少し挙がったに過ぎないものであっても、それがいたずらに世間に広まるようなことになれば、ただでさえ畿内も地方もまとまりがなく落ち着きのなかった所が多かった中で、それを理由に騒ごうとする地域を急増させてしまうことは上同士では解り切っていた所になる。室町権威や中央寺院は織田氏だけでなく、荒れながらも体裁はなんとか保てていた美濃斎藤氏など、他とも連絡は取り合っていたからこそ、地方間の必要以上の対立を作らないように、各重要事項の覚書は、蔭凉軒日録 とは別に機密で書状管理していたり、または文書を残すことには慎重になっていたと見てよい。文献を見渡していく上で、本能寺の変を窺う場合でも同じことがいえるが、上同士のそうした社会心理も考慮できなけばならない所になる。本来は両中央議会( 中央の室町御所と朝廷 )が統括・等族指導役でなけばならない所、どうにもならなくなっていたからやむなくの相国寺( 臨済宗の大手。中央寺院 )が、どこまでまとめることができるかも難しい中でもその肩代わりをしようとしていた様子がよく窺える。中央寺院との外交役を任されていた親類家臣の織田安芸はこの時は、現地に滞在していたのではなく、数日の滞在をしながらの尾張との往復だったと見られ、尾張織田家が頼られる形で多くの相談に乗っていた様子が窺える

 

1490/02/01、相国寺鹿苑院( 臨済宗の中央寺院に連なるひとつ )の僧彦龍周興、尾張の妙国寺( 臨済宗の地方寺院 )に妙法蓮華経を送る。相国寺鹿苑院彦龍周興妙法蓮華経文 妙国寺文書。※ 妙国寺は尾張の大手寺院のひとつ。尾張で上同士で時折揉めながらでも、織田家や熱田社との和平関係はなんとか維持、まとまりは見せられていた方だった。織田家となんとか連携はできていた妙興寺は、中央寺院の再建計画において少しは手助けできそうな遠隔寺領の維持もそれなりにできていたため、相国寺からみれば貴重になる。これまで省略してきたが、重要な写経が送られたり奉納されたりの文献はこれまでもよく出てきたが、この 妙法蓮華経 は臨済宗に限らず重視されてきた経典のひとつのため、このように重要経典が正式に送られる記録がされる時点で、地方分寺としての自治力はなんとか維持できていた妙興寺は、同臨済宗内での格式の高い重要分寺と見なされていた様子が窺える

 

1490/03/13、相国寺蔭凉軒、尾張( 中嶋郡 )禅源寺( 臨済宗 )からの祖師百年忌のための香銭を受け取る。四月二十八日に、尾張( 中嶋郡 )円興寺( 天台宗も重視の両立的な臨済宗と見られる )からも香銭を受け取る。蔭凉軒日録。※ 原文では禅源寺は、蔭凉軒へ香銭一千疋( 10貫文 )だけでなく雲門庵にも二千疋( 20貫文 )を支援している。8月28日には円興寺が祖忌銭として二繦( ぜにさし。銭差 )を支援、禅源寺も一繦を支援。永楽銭をヒモでまとめたものをふたつとひとつ渡したという意味で、額面は書かれていないため額は少なめだったと見られる。しかし何にしても尾張ではそのような支援ができるだけの余力ある地方寺院が維持されていたことは、畿内の荘園領体制( 寺社領身分制 など完全崩壊していて、それを自分たちで立て直すことなどできそうにも無かった中央の聖属関係者たちから見れば、貴重だったといえる

 

1490/04/18、相国寺、織田良縁と松一龍からの書状と支援銭を受け取る。※ 織田良縁( おだ りょうえん? )は原文では織田藤左衛門尉良縁とあり、この藤左衛門尉 とうざえもんのじょう )の肩書きを継承する家系と、因幡守 いなばのかみ )を継承する家系と、弾正忠( だんじょうのちゅう/だんじょうのじょう )を継承する家系が、のち顕著になる織田三奉行( 清州三奉行 )それぞれの家系になる。この内の弾正忠が織田信定の家系( おだ のぶさだ。織田信秀の父。織田信長の家系 )。織田良縁の次代の織田良頼( おだ ながより )の頃あたりから三奉行体制が力をもち始め、筆頭の因幡守の家系が本家大和守の家系( 元々は伊勢守の家系が本家筋だったが、大和守の家系が主導となった )と近しい共同統治者、その次席の藤左衛門尉の家系は重要地の小田井( おたい。名古屋市西区。農地や商業地の拡張に有利な低地地帯。小田井城 )を、第三位の弾正忠の家系 織田一族が大きくなるにつれて形成された、大和守の家系からの新たな分家筋 )は当初は重要地でもなかった勝幡( しょばた。愛知県西部の津島市。勝幡城 )をもち場に、それぞれ力を付けるようになる。この序列の中では格下もいい所のはずであった弾正忠の家系が、のちの織田信定から織田信秀の時代にかけての津島の農工商改革の奨励・繁栄にともない、尾張における急進的な軍閥権威を身に付けるようになる。のち弾正家の台頭によるまずは産業面での津島社と熱田社との連携が進められるが、それは織田家と良好関係の津島社とその寺社領と友好関係をもつ旧武士団と、熱田社との友好関係をもつ旧武士団との連携・結束が強められることを意味する。熱田社との交流関係をそれまで重視してきた妙興寺や笠覆寺( りゅうふくじ。今の笠寺。かさでら )といったあなどれない寺領( それぞれ生活権・相続権を守るために、地縁的にそれら寺院に寄進しつつ地域間交流を保ちながら、どうにか小武士団らしい形をそれまで維持してきた、その閉塞的な旧態社会観をやむなく続けてきてうんざりしていた者も少なくなかった各地大小の地域家長たち )を抱えていた地方大手寺院と、勝幡城の弾正家( 織田信定・織田信秀 )との良好関係を深めるきっかけ、すなわちのちの地方再統一の足掛かりを意味するである。そこは、国際地政学観( 手本家長らしい等族指導・序列敷居管理のあり方 )など無い一時的な力関係に頼った片手間感覚( 手遅れ寸前と手遅れに至るまで徹底的に面倒がり合いうやむやにさせ合う無関心・無神経・無計画な性善説放任の顔色の窺わせ合いの押し付け合い = 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように上同士の手本の作り合いなど皆無に下を作り合うことしか能がない自分たちの愚かさだらしなさを自分たちで改めることもできたこともないにも拘わらず、人・よその合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する側に立ちたがる )でねじ伏せ従わせればいいというものではない。むしろ戦国前期のそういう所( 目先の利害次第に偽善憎悪をたらい回し合い押し付け合い低次元化させ合う前近代地方議会荒らしの姿勢・次世代人事敷居荒らしの姿勢 = 偽善行為 が少しは見直されるようになった中( 評議名義性・選任議決性の敷居管理のまとめ役といえる総家長・代表格の姿の無さ、公務士分的な名目・誓願を整理・家訓改めする姿の無さにうんざりする者も増えていた。総国一揆 -> 代表代替の下剋上 -> 地政学的主導の明確化の地方再統一の流れ )で、尾張の結束をただ乱すのみの外因対策に乗り出した織田信秀は、寺社と下々に対する面倒見がかなり良かった( 部下や下々への生活権の保証整備を進めた。織田信長の前身の流れを作った )人気があったからこそ、尾張をその認識( 地政学的改革の地方再統一 )に向けることもできたのである。本項の話に戻り、原文ではやはり織田安芸が書状と支援金を届ける交流役を務めている。支援金は二繦( ぜにさし。銭差 )とあり額面は書かれていないが、繦ひとつで多ければ1貫文であるようなため、2貫文ほどだったかも知れない。その額の支援金の手助けもできない、まとまりのない地方ばかりだったことを考えれば、額面は少なくても貴重であることに変わりはない。原文で織田安芸のことを 斎織侍者 と呼び、斎は冠婚葬祭や寺社儀礼などを指すため、織田安芸は織田家における寺社の相談窓口の重臣であったことが窺える

 

1490/07/22、松平親忠( まつだいら ちかただ )、三河( 額田郡。ぬかたぐん )大樹寺( だいじゅじ。浄土宗 )に父信光の月忌料として田地を寄進する。松平親忠寄進状 大樹寺文書。※ 三河松平氏( 徳川家康の出身 )と、その菩提寺の大樹寺の良好関係が窺える。既に主導となっていた次代の松平親忠が、この年に亡くなった父の松平信光のための、威厳ある法要費のための田地を大樹寺に寄進

 

1490/08/01、近衛家領( このえ。廷臣上層のひとつ )の尾張( 海東群 )冨田庄、( 中嶋郡 )大須庄の年貢が納入される。※ これまで同様、内容も大体同じなため略。廷臣の尾張の遠隔領が機能している時点で貴重。尾張でも時折揉めつつでも、尾張内での寺社間の交流を通じての早めの和解終結が、他よりできていたことが窺える。尾張全体の折衝役である熱田神宮を地方議会の象徴にできていたこと、その面倒見役として織田家とも連携できていたことが窺える

 

1490/08/29、幕府、尾張守護代織田敏定に、南禅寺の尾張の遠隔寺領である( 中嶋郡 )杜庄( もりのしょう。杜 もり は鎮守の森などの神領的な意味合い )を、寺家代官( 室町権威代官 )に引き渡すよう( その取り締まりを織田敏定に )命じる。幕府奉行人連署奉書写 新何是名事文書。※ 原文内容は簡潔なため略し、名義だけ記載する ※ 延徳弐 八月廿九日 ( 斎藤 )宗基( 花押影 ) ( 松田 )数秀( 花押影 ) ( 宛先 )織田大和守( 敏定 )殿。※ 原文で意図が見えるのは 早可被去渡寺家之代官之由 の部分だけのため、南禅寺( 中央寺院 )の遠隔領のはずである尾張の杜庄に居座り続けている連中に対し、向かわせた2名の寺家代官が接収できるよう、早々に立ち去らせ明け渡させるよう織田敏定にその取り締まりを要請している様子だけは窺える。目先の利害次第の荘園領の押領が著しかった( 教義崩壊していた )畿内ではこのような取り締まりは困難になっていたが、尾張は織田敏定がだいぶまとめることができていたからこそ、尾張における室町権威は表向きは維持できているように見えるだけで、結局は織田敏定のような頼りになるまとめ役がその地方に居てこその話になる。戦国後期の地方再統一が認識されるのは今しばらく( 先々を組織的に明確化できなければならない機運は今しばらく )のこの頃は、室町体制に乖離( かいり。主軸概念とどんどん離れていくことや、別の道を進み始めている様子など )する独立運動( 室町権威通りで過ごしている場合ではない戦国後期の分国法改め・領国体制の家訓改め )を表立ってする訳にいかず、遠回しにやらないと不利になる( いがみ合いを招いて名目を失う )からこその地方は、形骸化していたことは解り切っていた室町序列権威に形式・体裁面で気遣っていただけに過ぎない。先々を巡るための争和( 名目・誓願 = 評議名義性・選任議決性 )の手本を見せることが結局できなかった室町体制は、転換期への足枷でしかなくなっていき、現代でも共通する今の日本の低次元な教育機関のようなただの偽善老害序列権威のたらい回し合いの典型的な低次元化構図といえる。地方の統治権は、管領・守護とその代官・被官ら室町序列権威( 絶対家長の手本中心の身分制議会 )による等族指導( 行政指導。国家らしい身分制議会的な地政学的家訓 )など行き渡っておらず、その実質の実務者である最有力家臣( 守護代の家系が多かった )による等族指導( 敷居管理役の代替家長 )次第にかかっていたというのが、この頃には既にそれが実態だったのである。地方間の上同士でズレつつもその地政学的認識が強まり始め、尾張ではこの頃にはひと足早い戦国後期の前身の認識は芽生え始めていたと見てよい。間もなく浄土真宗( 本願寺 )が、遠回しの乖離どころか表立っての既成権威( 世俗・聖属両室町体制 )との決別の軍閥運動( 地政学的自治権運動が前提の聖属一揆。戦国仏教化 )を強めるようになり、結果的に地方への戦国後期( 地方議会改革 )への認識に向かわせる促進( 世俗側・武家側の地方の有力者たちが慌てて浄土真宗の人事敷居の背中を追いかけ始める )となる。大事なことを連携( 議会的な再計画・再統一・規律敷居改め )し合うその努力( 上としての等族義務の手本の示し合い。名目・誓願・まとめ役の代表選び を、今の日本の教育機関とそのただのいいなりどものような低次元な顔色の窺わせ合いで徹底的に面倒がり合い、片手間感覚の偽善憎悪をたらい回し合い手遅れ寸前と手遅れの段階になるまでケンカ腰にうやむやにし続ける末期症状 上同士の手本視点のISO9000系的な議事録文書の敷居管理をしてこれたのかの合格・高次元/失格・低次元の敷居管理力・地政学的領域観が露呈してくる部分。ブログであっても人間性・社会性に関して非難する側を表立って気取る以上は、低次元ないがみ合い = 片手間感覚の偽善憎悪の乱立拡散の押し付け合い を2度と繰り返させないための社会教義史観・民権言論議会観・国際地政学観といえる評議名義性・選任議決性を常に大事にする上同士の手本を自身で/自分たちで明確化できるのか、それとも偽善憎悪の乱立拡散の押し付け合いで下を作り合うことしかしてこなかった身の程知らずのか、その愚かさだらしなさを荀子主義的・自己等族統制的にまずは自分たちで改善してこれた高次元側と、そこを無神経・無関心・無計画に外圧任せに性善説放任し続けることしか能がない低次元側との力量差が現れてくる部分 )の室町崩壊の陥りがちな旧構図も、戦国後期の代表選( 地政学的領域敷居競争。前近代的な評議名義性・選任議決性といえる人事敷居改め・家訓改め )で地方ごとの力量差が明確化していくことになる次世代構図も、現代におけるそれぞれの個人間・組織間・国家間の事情( 転換期 )ごとの境界敷居観( の社会心理の国際地政学的認識力 = その高次元低次元の情報戦 )でも共通していえる部分である。本題に戻り、この文献で、室町権威の代官に斎藤一族が出てきたため、本能寺の変の誤認に対する補足を解説しておきたい。本能寺の変が起きる直前、京に諸用に訪れた織田信長に廷臣たちが急に殺到する形で、祝辞の挨拶のための面会の行列となった。その足止めを受けた織田信長は、むげに追い返すことはせずに律儀に応じることにし、早々に安土に引き上げる予定だった所、本能寺に宿泊することにしてその応対を続けることにした。そこを明智勢の手の者( 筆頭家臣の斎藤利三の手勢。さいとう としみつ )が襲撃することになったため、これは廷臣たちが共謀していたというより、内心は気まずいやむない結託の上での足止めだったことははっきりしている。帝都内での騒乱であるはずの本能寺の変で、その巻き添えを受けた廷臣たちが全く見られない上に、本能寺の変が起きたことについての文献上でも、廷臣たちの原因究明的な見解の言及が不自然なほど触れられていない様子からもまず間違いない所になる。実行役の斎藤利三 明智光秀の筆頭家臣 )も、廷臣たちを巻き添えにしないよう事前の配慮があったのも間違いない。斎藤一族は、まずは美濃守護の土岐氏の支え役( 守護代 )の斎藤家が特に著名だが、この一族は他の地方でもちょっとした国衆として点在し、名族としてよく知られる家系のひとつになる。美濃では、元々の代表格・美濃守護( 室町体制における美濃の総家長・守護大名 )であった土岐源氏一族の、その地方権威の衰退が早くも著しくなり、土岐家との親類関係を結ぶ者も多かった守護代( 最有力家臣 )の斎藤家が、美濃支配の主導を肩代わりするようになる。尾張でも斯波家の守護代である織田家が早くも主導になり始めたように、1467 年の応仁の乱の前後には、美濃も尾張も既にその傾向が強まっていた。応仁の乱後の尾張織田家は、臨済宗の分寺や熱田神宮の交流の縁を通じての、相国寺( 聖属側の旧中央関係者ら )にも頼られながら将軍権威と連絡を取り合う( 中央の様子を情報戦的に窺う )ようになっていたことがこれまでの文献上からも明らかであるように、武家側の名士として知られるひとつ斎藤一族も、本文献でも窺える、室町代官として中央に給仕していた分家筋のこの斎藤宗基 さいとう むねもと )との縁を介して、美濃斎藤家は中央との連絡を取り合うことができていた( 中央の様子を窺いやすかった )と見てよい。少し前まで文献によく名が出てくる幕府代官の公事役の松平親長 まつだいら ちかなが )なる人物も同じく、三河松平家もその分家筋の縁を通じて中央の様子を情報戦的( 再建に難儀している中央から見て、何がうまくいっていないから困っているという認知の仕方を中央はしているのか、中央にとっての今の関心事と無関心事が何なのか、地方ごとの動きを中央がどう解釈する傾向があったのかなど )に優位に窺うことができたと見てよい。戦国後期の下地が作られる段階として、美濃では斎藤家が力を、尾張では織田家が力をもつようになったことと、中央関係者との連絡の取り合いができていたことの影響力は、決して小さなものではなかったのは間違いない。これは例えば信濃守護の小笠原家でも、戦国後期の本格化以降は甲斐再統一を先に果たした武田氏による信濃攻略に押されて消滅することになるも、それまでは、南北朝闘争時代の時でも応仁の乱の時でも信濃小笠原家は不利になる場合もたびたびあっても、甲斐武田氏よりも格上であるかのような家格・権威を信濃小笠原氏が優位に維持し続けることができていたのも、有職故実( ゆうそくこじつ。中央の式典の作法のこと )に関与していた分家の京都小笠原家との連絡を取り合うことができていた影響力が、決して小さなものではなかったといってよい。三河守護であった一色氏が室町権威内の紛争で潰されて以後、三河の明確な代表格が誰なのかがずっと安定しなかった間、のちに松平清康 まつだいら きよやす。徳川家康の祖父 )が三河再統一に乗り出すほど、三河松平氏が三河内における実力を身に付ける流れになったのも、中央関係者の分家筋の松平親長との連絡を取り合うことができたことの影響力は小さなものではなかったと見てよい。その事情を踏まえてここで時系列を変え、織田信長が 1560 年頃に尾張再統一を、そして 1568 年頃に尾張・美濃併合の大局が決して間もなく、足利義昭の要請を機に畿内に乗り込むことになるが、この時に名族出身の幕臣筋の細川藤孝の推挙で、足利義昭と織田信長の連絡役を務めることになった明智光秀が、織田信長からも優遇的に認知、高く買われる初動となる。これは厳密には織田信長が細川藤孝のことを 旧畿内の事情に詳しく、その次世代化にも間違いなく役立つ人材として 高く買っていたからこそ、その細川藤孝が見込んだ人材ならと織田信長も、明智光秀のことを見込むようになった経緯の、織田信長の旧廃策的な人事の重要な所になる。ここでは明智光秀が、没落した美濃衆の明智光安( あけち みつやす。土岐源氏一族 )の家来筋であった説を前提として説明を続ける。前後するが織田信秀の死去を契機に織田信長が継承式典代わりの尾張再統一に乗り出している最中には、美濃でも美濃再統一を巡って斎藤道三( さいとう どうさん )派と斎藤義龍( さいとう よしたつ )派とで今後の方針が争われ、明智光安は斎藤道三派として敗れて失脚、明智一族は国衆としての地位を失う。故郷の明智庄を失う立場だった明智光秀は、諸説あるが外遊を経て都市化が進んでいた越前に滞在して仕官を模索していた矢先、京を追われた足利義昭を始めとする反三好派の中央関係者たちが越前に逃れてきた。ここも諸説あるが、幕臣筋として足利義昭に付随して越前に同行していた細川藤孝が、越前に滞在していた明智光秀と出会い、見込んで優遇的に認知することになった、ということにここではしておく。以降の明智光秀は、細川藤孝の知遇によって体裁上は足利将軍家の幕臣の立場を維持することになるものの、足利義昭は朝倉家へ、続いて織田家へ亡命する立場であった時点で、細川藤孝のように広い人脈による庇護を受けられる名士だった訳でもない明智光秀は、生活面を細川藤孝に保護されていた立場に過ぎない、つまりこの時点では強力な代表家長( 地方再統一ができる代表格 )による明確な家格裁定と家禄( 戦国後期のならわし )を受けられていた訳でもない。さらには明智光秀が国衆出身といっても、大手というほどでもなかった明智家のその家来筋( 土岐源氏一族や、その親類の縁を強めていた家系もあった斎藤一族ら上層から、認知されていたのかも怪しい序列 )から士分特権を失って没落した立場に過ぎず、同じような事情のそこらの半農半士たちと大差ない、下級武士と庶民の境界など曖昧な下の間での地域家長候補層と明智光秀は大差ない立場だったといえる。それでも名士である細川藤孝に優遇的に認知してもらえたことは、それが有るのと無いのとでは確かに違いは大きい。しかし何にしてもこの時点では、織田家の古参でもなければ旧縁があった訳でもなく( 強いていえば、織田信長にとって良縁の義父であった斎藤道三に明智家が味方した縁はあるが、斎藤道三が明智光秀のことを認知していたのも怪しい )、権力基盤の由来も大してもっている訳でもなく無名といってよかった明智光秀を、織田家中における幹部候補として上級士分に格上げするのも簡単な話ではなく、その人事計画もそれだけ大変であることを意味する。美濃攻略で、織田氏の敷居による仮公認の条件付きで美濃衆を従えるようになった織田信長はまず、明智光秀に武士団としての格式を改めて身に付けさせるために、美濃斎藤時代に明智家との友好関係はある方だった妻木家( つまき。明智家と同じく土岐源氏一族 )と連携させ、明智光秀を家長とする小家臣団作りを手始めにする。そのやり方は、武士団の権威的な基盤など皆無だった木下藤吉郎を幹部候補に抜擢するために、木下家・杉原家・安井家ら親類をまとめていた浅野家に家長( 武士団長の座 )を譲らせたやり方と類似する。この絶対家長的な次世代人事統制は織田信長だからこそできたといえ、織田氏の敷居に追いついていない( それができるだけの次世代国家構想といえるような人事敷居改革を進められていない )他の戦国大名がこのような人事を強行しようものならあっという間に内部崩壊を起こすほど、織田信長とその他の戦国大名たちの地政学的人事敷居差は既に歴然としていたのである。織田家の組織がこれから大きくなっていく一方なのも目に見えていたからこそ、有志ではある( 人徳はある )が武士団としての権威基盤( 人望 )が乏しかった明智光秀を師団長格として織田家の一翼を担( にな )わせるためは、連合家長というほどでもない小国衆の妻木家の支えだけでは足りる訳がなく、だからこそ明智師団の創設計画が内々では急がれたのである。その中で旧美濃衆筋の縁で、明智光秀と意気投合したひとりが、結果的に本能寺の変で織田信長を手にかける役をやむなく請け負うことになる斎藤利三 さいとう としみつ。のち徳川時代に権勢をもつようになって歴史的にも注目されることになる春日局の父でもあるため、史学に興味をもつ者の間で大げさな誤認が飛び交いがちな人物。しかも、この春日局が幕府内で重きを成す存在となる以前は、関ヶ原の戦いの勝敗の分岐点となった大手のひとつ小早川勢が、とうとう重い腰を上げて徳川方に加勢することになった際に、まだ若かった小早川秀秋の決断を代替する家老の立場であった稲葉正成の妻だったことから、大げさな陰謀論が飛び交う原因になっている。そこも説明していく )になる。この斎藤利三は、旧美濃衆の最上層とまではいかないまでも、その支え役・次席の中堅国衆出身で、明智光秀と比べればだいぶ格上の立場になる。織田氏による美濃攻略で、地政学支持戦的( 織田氏の敷居に合わせるかどうかの地方再統一的 )に斎藤氏に見切りを付ける形で織田氏に臣従した美濃衆も少なくない形で、織田氏による美濃支配が明確となった当初の斎藤利三は、織田信長に対する不満というよりも、やむなくの旧美濃衆構造に対しての健全な意味での不満をさっそく強めていた。これは斎藤利三に限った話ではなく、健全な意味で織田氏の敷居の中で才気に自信があった新参たちはそう考えていた者( 美濃斎藤時代は美濃衆の同胞として足並みを揃えていただけで、その競争力の弱さ・物足りなさに内心では既に不満をもっていた国衆や吏僚たち )も少なくなかったと見てよい。斎藤利三は美濃衆の一員だったからこそ、同じく美濃斎藤時代での最有力家臣だった稲葉良通( いなば よしみち )の寄騎扱い( よりき。与力。家臣というよりも、師団長の支え役の旅団長の立場 )とする織田家の序列権威統制を改めて受けることになったため、当初は斎藤利三は稲葉良通との縁を大事にしようとするも、斎藤利三は才気に自信があったことも手伝って、健全な意味で早くもその構図に不満をもつようになっていたようである。というのもこの稲葉良通の立場というのは、新たに織田家中において活躍・貢献してあわよくば格上げを期待する、というような立場なのではなく、旧美濃斎藤時代の序列では高かった格式・領地特権をどうにか仮公認してもらうことになった立場、本来は織田信長にいったん返上して削減・再手配されなければならない前提である所を、旧美濃時代の稲葉家のそれまでの大きめの家格・領地特権を仮公認してもらった立場、それを正式に公認してもらえるかどうかがこれから問われる立場、旧敷居から織田家の次世代敷居に対応できるかが問われる前借り待遇の気まずい立場だったためである。美濃の中堅国衆の中には、そうした旧美濃上層の寄騎として所属するよりも、織田信忠、佐久間信盛、柴田勝家( のち明智光秀や羽柴秀吉も )といった、昇格が目立っていた有力たちの寄騎になりたいと願ったり、その次席で信任の厚かった池田恒興、河尻秀隆、前田利家、金森長近、森可成らといった手本的な有能な面々と同列扱いしてもらうべく努力したいと思う( 織田氏の敷居 = 戦国後期から戦国終焉期にかけての上同士の社会心理 )ことは自然な話になる。織田氏に臣従してなんとか仮公認してもらうことになった旧美濃衆たちというのは、土岐家の分家国衆の妻木家や久々利家( くくり )、斎藤家の分家国衆の斎藤利三の他にも、遠藤家、日根野家( ひねの )、佐藤家、不破家( ふわ )といった中堅国衆たちも少なくない。しかしそういう所は上から順番に厳しさを強める本来の荀子主義的( 低次元化防止主義的 )な織田氏の敷居では、旧美濃時代でそれらよりも格上だった稲葉家( 河野一族。織田家の政務吏僚筆頭の林家と近縁 )、氏家家( うじいえ )、安藤家、遠山家( 加藤一族の上層筋 )といった仮公認たちには、その中堅たちなどよりも表向きこの上ない厳しさを織田信長は向けていた。旧美濃衆たちというのは、織田氏の仮公認を得たに過ぎないだらしない立場に安心している場合ではない、これから畿内再統一が始まりそうな中で旧敷居にこだわり続けてモタモタやっているようでは、次々に頭角を現わし始めていた古参の尾張衆たちに遅れを取る一方、活躍を全てもっていかれる一方( 何ら良い所を見せることもできないまま戦国終焉を迎えてしまい、中央吏僚格や等族諸侯格といった管区整備側としての大した家格公認も受けられないままの陪臣扱いで、新政権時代を迎えてしまう )の立場なのである。だからこそ美濃衆たちの中にはここで心機一転しなければと、せっかくの織田氏の敷居を好機に、良い意味でそこに便乗しなくてはとあせる者も当然多く、斎藤利三もそのひとりだったのである。織田氏が尾張・美濃併合を果たして間もなく畿内に乗り込むことができたのことの、その優れた大事な人事体制( 上同士の社会心理 )が全く説明されてこなかった。織田氏による統治が始まって間もない美濃衆に軍役を従わせても動揺や錯乱が少なかったのは、そういう流れにもっていくことができた織田氏の次世代敷居 国家構想が前提の上から順番・まずは上同士の家訓改め )がいかに優れていたか( もはや畿内再統一も可能だった所 )の有望ぶりが窺える所なのである。織田氏による美濃攻略の大局が決するのは 1568 年だが、もう時間の問題だと見なされ始めた 1565 年の段階で地方間では、織田氏の敷居に追いついていない気まずさが上同士では認識され始めていたのが実態といってよい。その 1565 年の時点で足利義昭が織田家に期待していた様子も、畿内経済をさっさと再建して欲しいと願っていた堺衆たちが内々で織田家に接近していた様子( 堺衆とひと足早く文化技術交流を進めていた西洋のキリスト教徒たちからも、織田氏のことを次世代政権として早い段階で期待するようになっていた様子 )からも、そこはもうはっきりしていたといえる。1568 年に尾張・美濃を併合し、伊勢北部への優位な介入も始まっていた織田氏がとうとう畿内に乗り込むことになった際、近江北東の浅井家は旧権威( 近江支配の佐々木源氏一族 )に反感的な形で台頭した筋だったこともあって、織田氏とはとりあえず妨害し合わない不戦協約を結ぶことができた。一方でもう時間切れだった( 崩壊し続けた畿内に対する再建の立役者としての等族義務的な活躍を、旧畿内権威者たちが示すことが結局できなかったことがはっきりしてしまった。それが問われる転換期をついに迎えてしまった )南近江のかつての大手権威のひとつ六角氏( ろっかく。近江支配の佐々木源氏一族の主導 )は、畿内の再建も可能そうだった織田氏の家長権敷居( 畿内・中央の人事敷居改革 )に乗り込まれるといことになれば、どう転んでも大幅な格下げは免( まぬが )れないことは、上同士では解り切っていた状況だったのである。ここで人事統制の方に視点を戻す。言い回し方に注意だが「細川藤孝が見込んだ明智光秀が見込んだ斎藤利三なら」ということもあって、明智家を師団長格に形成していくことを急ぎたかった織田信長は、稲葉良通の寄騎として配属されていた斎藤利三を、明智光秀の寄騎扱いに配置転換するが、この時のやりとりには見落とされがちな大事なことが多く窺える。これは表向きは、斎藤利三が稲葉良通の寄騎から明智光秀の寄騎への転属願いを、織田信長、明智光秀、稲葉良通に対して申し出たことになっている。そして、稲葉良通が斎藤利三のことを惜しんで断るも、織田信長に説得されて稲葉良通もやむなく承認することになった、という形が採られている。これは準師団格の稲葉良通の威厳的な立場を織田信長が配慮した演出的なやりとりだったと見てよい。織田信長は稲葉良通のことには表向きはかなり厳しめな態度を採っていた一方で、良い意味であせって貢献しようとしていた稲葉良通の姿勢には内々では評価していた。これからという所で稲葉良通が有望な斎藤利三を手放したくなかった様子からも、斎藤利三は頼もしい中堅であったことがまず窺える。織田信長はこれを強権的に一方的に配置転換するように写るやり方を避け「稲葉良通も威厳ある発言権も認められた上で、議会的な話し合いによって配置転換される結果になった」という威厳も強調するために、そうした演出的な人事体裁が採られたと見てよい。織田家中から見て新参間もない稲葉家中がこれから頑張ろうと心機一転していた矢先に、お前らより明智光秀の方が大事なんだ観や、何も解っていない新参どもは黙って上のいうことを聞いておればいいんだ観といった、旧態室町権威の崩壊の非地政学的人事・非議会的人事( 低次元な顔色の窺わせ合い体質 = 傾国・衰退の原因の勘違い絶対家長体質 )がまかり通っているかのように思わせてしまう、そこに無神経・無関心でも構わないかのような末期症状の強権人事を強行しているかのように思わせてしまうと、稲葉家中だけでなく美濃衆全体の尊厳や意欲を削ぐことになってしまい、総力戦体制においての足の引っ張り合いの非協力観( 我々がいくら頑張ってもひいき人事で評価してもらえない観 )を作り出し、家中対立や離反に向かわせる原因となる。ここは組織が大きくなっていけばいくほど上同士で考慮( 議会的品性規律の構築が )できなければならない大事な部分であり、そうした旧廃策的( 荀子主義的 )な向き合い方の手本姿勢が大事なのは現代でも共通して大事な部分になる。斎藤利三を巡る人事は、織田信長、明智光秀、稲葉良通の話し合いの上では対等なやりとりが行われたという議会的な演出によって、活躍の期待ができそうだった稲葉家中の面目を損なわないようにする配慮が、そこにはされているのである。細川藤孝に見込まれた明智光秀が、さっそく幹部候補として特殊扱いされていた織田信長らしい人事は、下々はよく解らなくても、中堅たちはどんな人事計画だったのかくらいは早くから察していたと見てよい。畿内に乗り込もうとしていた時点で、室町権威( 足利義昭の名義によって世俗議会改め・畿内再統一をするのかどうか )だけでなく朝廷( 聖属議会の廷臣たち )とも今後について話( 次世代化 )を進めていかなければならないことへの数々の想定もしなければならないことと、斎藤利三のこうした人事とも大きく関係している。斎藤利三が明智光秀の寄騎に改めて配属されることになった理由として、まず美濃斎藤一族は旧中央関係者との縁は強い方だったこと、そして斎藤利三の家系はその中での序列は低かった訳ではない、美濃斎藤本家の支え役の国衆家長の立場として、美濃衆の中では中央の事情にも詳しい方だったと見てよい。比叡山延暦寺( ただ下品で汚らしいだけの今の日本の教育機関とそのただのいいなりと何も変わらない低次元な公的教義体質 の今後のあり方も含める朝廷対策( 国内教義の今後の国際地政学的敷居への対応 )に、早くから参画することになったひとりの明智光秀は、本人はそうした人脈基盤が元々乏しかったからこそ、細川藤孝と斎藤利三にそこを補佐させる人事計画が、早い段階で進められていたことが窺えるのである。織田信長は内々では細川藤孝を有志としてかなり買い、細川藤孝としてもこれまで何の見通しもなくうんざりしていた畿内再統一( 次世代国家構想 )について、織田氏の敷居なら見立てられたためできるだけ期待に応( こた )えようと友好的・協力的な姿勢を見せていた。戦国大名よりも強力な戦国仏教運動を続けてきた浄土真宗について、本来はまずは教義問題として朝廷の廷臣たちがその和解終結の( 特に公的教義が )主導でなければならなかったのも、大して貢献できない( 地方に向けての教義再統制以前に、畿内の旧荘園隷属体質に対する次世代化の手本の示し合いも、中央はろくに進めることもしてこれなかった )まま織田信長に解決( 重要人物の本願寺顕如とその参謀役の下間頼廉を織田信長がついに降参させ、和解調停に向かわせる。けんにょ。しもづま らいれん。下妻。戦国仏教の旗頭であった石山本願寺の武装解散の呼びかけに従おうとしなかった、遠隔別当の加賀一向勢と紀伊の連盟仏教軍閥運動派たちについて、それらが簡単に従う訳もないことは織田信長も蓮如も頼簾も解り切っていたため、後のことはやむなく織田氏に託す形になる。以後それらは浄土真宗の別当や連盟とは見なさなれなくなる。絶対家長による士分階層の公認・典礼を得ていない以前に意見提出の認知すらされていないにも拘わらず武装自治権運動を続けることは官民再分離妨害・次世代街道整備妨害・次世代身分制議会荒らしの閉鎖有徳扱い )されてしまい、1580 年代に入った大詰めの段階で、旧中央関係者の内の低次元分子どもが佐久間信盛( 織田家中筆頭 をまるで第二の足利義昭のごとくおもちゃ扱い( 無神経・無関心・無計画な対抗権威の担ぎ上げ )し始めた様子にしびれを切らした織田信長が恫喝する形で解任、明智光秀にその後釜の朝廷対策の総責任者に据える。結果的に本能寺の変に向かってしまう流れになったのは残念な所ではあるが、それまでも明智光秀のその補佐役として朝廷対策にも懸命に務めてきた斎藤利三は、議決の時間切れで慌てていた廷臣たちの間に入り浸っていた様子がその頃に目立つようになるが、それ自体は決して不自然な話ではない。名族高官の家系の肩書きと教義権力( 低次元な力関係の押し付け合い )の肩書きに頼り切る旧態体質を続け過ぎてしまった末、それはもう通用しない国際地政学的転換期( 世界間敷居への文化技術経済交流の対応力、その評議名義力・選任議決力の次世代序列敷居が問われる時代への突入期 )をとうとう迎えた中で朝廷内で足並みを揃えることに難儀し続けてきた廷臣たちからすれば、朝廷の旧知など一切ない世俗側の者に廷臣同士の調停役として割って入られるよりも、朝廷の事情とは旧知の縁のもつ斎藤利三のような、良いか悪いかはともかくの朝廷慣習や、それまでの廷臣たちの事情の理解もある程度できている家系の人物に仲介してもらった方が、進まない話も少しは進められるため、斎藤利三が世俗権威側としての相談役になってくれたことは廷臣たちから見てもかなり助かっていた( が、それでやっと本能寺の変という下方修正の破談に至るという残念な有様だった )と見てよい。畿内に乗り込んだ織田信長は、廷臣たちにも上から順番に厳しさを向けていた一方で、世俗権威側と聖属権威側との次世代政権議会の手本の姿らしい調停交渉( 前近代国家らしい今後の中央のあり方の名目・誓願式の評議名義性と選任議決性の調印 = そこに向き合うことを上同士でしてきたという大事なことを改めて確認し合う良例手本の場 )のために、事情に詳しい斎藤利三や細川藤孝も起用・手配し、他にも中央の事情に詳しかった京極高佳 きょうごく たかよし。佐々木源氏 )、朽木元綱 くつき もとつな。佐々木源氏 )、山岡景隆 やまおか かげたか。幕府護軍としての機能をどうにか維持してきた貴重なひとり )ら、今後のことも考えることができていた有志たちとも友好関係を築きながら何度も確認し合っている。織田信長は、力関係の顔色の窺わせ合い( 上同士の手本の示し合いをうやむやにし合う偽善憎悪 )でねじ伏せることしか能がない旧態老害体質に対する旧廃策的( 今まで中央がろくにできていなかった前近代政権議会の手本の示し合い = 上同士の低次元ないがみ合いを2度と繰り返させない危機管理を上同士ができなければならないための、まずは上同士の等族指導の良例作り )なやり方で、犠牲を以って畿内を刷新しておいてくれた のを本能寺の変という形で、史上最後のうやむや騒動に出られる結果となってしまう )からこそ、豊臣政権時代、徳川政権時代になんとか進めことができたのである。本能寺の変についてはまた最後にまとめようと思うが、明智光秀のことを幕臣( 足利義昭の家臣 )だと強調しようとする、出身や斎藤利三や細川藤孝らとの関係( 上同士の社会心理 )を見落として重要でないその体裁に固執しようとする傾向が今も強いが、その時点で当時の実態( 戦国前期から戦国後期へ、そして戦国終焉期への敷居変容の全体像 )などろくに把握できていない証拠といえる。地方再統一( 畿内再統一 )によって今一度明確化された代表家長による、明確な管区整備的な序列権威の家格裁定といえる典礼を、明智光秀は足利義昭から正式に受けていた訳ではない。表向きは織田信長の後押しを得て共に畿内に乗り込む( 二条城に返り咲く )ことに成功したに過ぎない立場の足利義昭が、室町権威( 足利家が武家の棟梁の将軍権威を中心とする、地方への手本の中央の序列権威 = 畿内が地方を再併合・身分再統制できるだけの次世代身分制議会・国家構想を敷く )の再建にこだわるのはいいが、それなら室町崩壊に向かった旧態体質を繰り返させない、そこを改めるための畿内再統一を足利義昭中心にできるかどうかがこれから問われる立場なのである。柴田勝家が越前再統一を代行できたように、また明智光秀が丹波方面の再統一を代行できたように、また羽柴秀吉が特に大変だった播磨の再統一の代行をやってのけたように、足利義昭もそれらと同等の再統一ができるだけの将器を示せるのかどうか、次世代政権議会的な品性規律の手本の示し合いができるのかどうか、戦国後期( から戦国終焉期にかけて )の原則の総家長権( 武家の棟梁・絶対家長の姿 )を足利義昭も示せるのかどうかがこれから問われる立場なのである。織田信長のように尾張・美濃を併合早々に美濃衆も結束させ、畿内再統一の軍役( 上同士の等族義務 )に従わせることが足利義昭でもできるのかがこれから問われる立場、織田信長が畿内に乗り込んでさっそく街道整備( 荘園領改め・閉鎖有徳改め・庶民政治側の産業法改めのための前期型兵農分離 )に着手し、早々の帝都経済再建( 戦国終焉の機運 )で下々を喜ばせたことを、足利義昭も同じその敷居管理ができるのどうか、国際地政学的な政権議会らしい、絶対家長による謄本登録的な身分保証序列改めが足利義昭にもできるのかどうか、朝廷対策( 浄土真宗の戦国仏教運動も含める教義問題の解決 )のための人事統制( 世俗権威側としての聖属側への物的管理の面倒見役 )が足利義昭にもできるのかどうかがこれから問われる立場なのである。美濃衆たちから見ても、反織田派たちと距離を置くようになった旧中央関係者たちから見ても、明確な将軍直轄領など皆無( だからこそいったん総返上させられるだけの家訓改めができるのかどうか )な段階の足利義昭自身にその器量があるのかどうかなど怪しいと思っていても、そこは上同士では皆が気まずい所だったからこそ、また惜しくも謀殺されてしまった足利義輝公の弟君( おとうとぎみ )だったことも配慮されたからこそ、実権など怪しい体裁でもむやみに追及しなかっただけである。それら事情を、旧室町体質と何も変わっていないだらしない片手間感覚の低次元な顔色の窺わせ合いの下の作り合いでなんとかできる( 次世代化できる )のなら、戦国時代の乱世はここまで長引いていない。そこが反省された末に16世紀を迎えたのは、同じく15世紀末まで常に乱れがちだった西洋のキリスト教社会でもそこは全く同じになる。大事な補足として、そういう当時を見ながら朝廷対策にも参与、軍事面でも明智光秀の支え役として目立った頼もしい筆頭家臣の斎藤利三は、それまでのその人脈家格が過小評価されがちだっただけである。斎藤利三も細川藤孝に次いで有力な名士扱いもされていたことは、Wikipedia での斎藤利三の縁組関係をざっと見渡すだけでも、格式は決して低かった訳ではないことが窺える。旧畿内の事情に詳しかった一員の中で、斎藤利三は人脈的にも見込まれる形で、織田政権の事情で朝廷対策で深入りする役目を任される立場だったから、その娘ののちの春日局にしても陰謀論が作られやすいというだけの話に過ぎない。細川藤孝、朽木元綱らのように旧畿内の人脈をもっていて、本能寺の変に至った事情に詳しかった者というのは他にも多くいる。上の事情をすぐに理解できる訳もない下士官以下の下々が、そこを誤認して陰謀論を作りたがる風潮が当時も強かったからこそ、廷臣たちにしても上同士でそこをよく解らないようにする工夫をしていたに過ぎない。豊臣政権はともかくの徳川政権時代の幕藩体制作りの初動の際には、旧畿内の事情に詳しい筋で協力的だった生き残りの諸大名や名士出身、織田時代の旗本吏僚らを面倒見良く収容する傾向が強かった。本能寺の変がどのようなものであったのか、親類たちから内々で聞かされていたのは間違いない福( ふく。斎藤利三の娘。のち稲葉正成の妻。のち春日局 )が、徳川家から改めて人材として女中統制で抜擢される縁に結びついたこと自体も、なんら不思議な話でもない

 

字数制限の都合で今回はここまでになる。年表がなかなか前に進まないが、戦国前期、戦国後期、戦国終焉期の前後関係を通しての国際地政学観( 上同士の社会心理 )が理解できていないと、当時を生きたそれぞれがどんな背景の中で、それぞれの立場ごとでどのような進退を迫られるようになったのか、本能寺の変とは何だったのか、千秋氏のことにしても何も解らないままになる。次も、説明しておきたいと思える項目次第に、同じ調子で説明を続けていく。