本能寺の変とはなんだったのか81/95 本能寺の変の全体像27/41 2025/01/04
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~26」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
※ 本能寺の変の全体像20 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~06
※ 本能寺の変の全体像21~26 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )07/19
※ 前回 1490/08/29 からの続き
1490 閏 08/23、相国寺の亀泉集証、同寺僧の沢甫祥恩に書状と贈り物を託し、尾張の織田敏定の交流に向かわせる。相国寺蔭凉軒日録。※ 原文では贈り物は、火打袋二金襴( きんらん は華やかな柄や模様を入れた和風の布生地のこと。上層階級者のための、火打石を入れるための上質な袋2つという意味と思われる )とあり、日頃から相談に乗ってくれる織田家に対して用意した記念品と見られる。織田敏定と沢甫祥恩との会合があったことだけが短的に書かれ、書状の内容についてや重要な確認事項についてはやはり書かれていない。項目としては省略したが、この閏( うるう )08/23 の前月 1490/08/30 に相国寺は、斯波義寛( しば よしひろ。尾張守護 )と織田敏定( おだ としさだ。尾張守護代 )の両名に対しての寿像賛( じゅぞうさん )が作成された文献項があり、織田敏定は斯波義寛と同格扱いされていることが窺える。この頃はまだ室町序列権威の表向きの体裁は尾張では気を配られ、主導が織田家であっても斯波家のことを表立って格下扱いするような気風はそこまでは強まっていない。寿像賛は、僧なのか武家なのかに関わらず皆が一目置くような社会貢献をしたり、重要や役割を果たすことをしていると見なされた著名な人物についての肖像画作りと、どのような人物であったのか、どのような貢献をしたのか等の紹介文を添えることを指す。中央から頼られて相談を受けていた尾張の主導が織田敏定であることははっきりしていたが、斯波義寛( しば よしひろ。尾張武衛家の当主 )としても、行き違いはあったとしてもその立場を巡って騒動に向かうような対立は控えながら、表向きの室町権威の重役の立場として仲介役を務めていた様子がこれまでの文献上から窺える。室町権威への気遣いもあっただろうが、相国寺としてもそうした姿勢で居てくれた斯波義寛に対してもかなりの好印象をもって評している様子が、先月の寿像賛から窺える。相国寺もただ織田敏定や織田安芸入道を呼び寄せるだけでなく、重役のひとり沢甫祥恩を使者に尾張に向かわせ、尾張織田家との交流関係を大事にしようとしていた様子が窺える
1490/09/02、熱田大宮司千秋駿河守政範( せんしゅう するがのかみ まさのり )、萩( はぎ )氏と大宮司職の権限を巡って幕府に訴える。伺事記録。※ 原文( の千秋政範の言い分 )では、熱田社の社領における主な知行管轄権は、等持院殿( 室町初代将軍・武家の棟梁の足利尊氏のこと )からの由緒ある公認家格の典礼を千秋家が受けて以来、その御威厳がこれまで重視されてきたはずが、以前から萩入道( 熱田社領内の小地域家長なのか、朝廷担当の室町代官なのかよく解らず )が、禁裏( きんり。朝廷のことや、廷臣上層たちとの限られた会合の場のこと )から直々に許可を得ているからと( 千秋家には何の通知も来ていない言い分を )言い張り続け、熱田社領における千秋家の統治権限に従おうとせず社領年貢地の義務を長らく渋り続けている、という訴えを、朝廷担当のひとりと見られる幕府代官の葉室光忠( はむろ みつただ )に届け出をしたという内容。こうしたいざこざは現代でも、現場が何が困っているのかの状況や実態を省( かえり )みずの、本来は上同士( 中央上層・地方上層 )が予定計画的に後任・後事( 期限境界・権限境界の地政学的敷居管理 )まで体制的( 前近代議会的に )に等族指導( 前近代議事録処理的な指令線統制の健全機能化。中央と地方の公務吏僚の手本の示し合い )をしていかなければならない所を、目先の利害次第にそこを無神経・無関心・無計画に延々と後回しにうやむやに低次元慣習・老害権威( 力関係の顔色の窺わせ合いによる下同士の偽善憎悪の押し付け合わせ合い )を乱用・たらい回され続け、上同士で何ひとつ事態を把握できず収拾不能にしていく典型的な末期症状( 高次元側から異環境間情報戦・地政学的領域敷居を問われても、ただ下を作り合うのみのだらしない偽善憎悪を押し付け合うことしかしてこなかった、準備要領・人事統制を自分たちでろくにしてこなかったにも拘わらず合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する側を身の程知らずにも気取り続けようとする愚かさだらしなさ )の愚かさだらしなさとして現代でも同じことがいえる、荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論で特に指摘されている明日は我が身の教訓といえる。この文献からも、この頃には何が起きているのか、そこは畿内と尾張の有力者間の内々ではこういう所( 室町序列権威中心の中央から地方への等族指導、などできなくなっているから地方の守護代層・有力層がその面倒見役を肩代わりしている関係が )がはっきりしていたことと、この頃を境に尾張はどういう流れになっていったのか次項で繋がってくる。上同士のその社会心理も次項でまとめる
1490/09/03、織田紀伊守広遠( おだ きいのかみ ひろとお )、尾張の妙興寺天祥庵に制札( せいさつ )を与え、法式( ほうしき )を定める。織田広遠制札并法式 妙興寺文書。 ※ ここでとうとう出てきた 制札 は、文面についてはともかく、この書状( 誓願奉納文写し )の存在自体が、このようなものがついに出てきたこと自体が何を意味しているのかがまず重要になってくる。愛知県史 資料編10での文面清書内容をとりあえず記述する。のちの地方判物( はんもつ = すなわち明確な代表家長による戦国後期の地方の世俗・聖属に関わらずの再統一の認識が強まり始める )の前身といってよい、尾張における尾張守護代の上層たちによる地方寺社領統制の代替の口火といってよいこの 制札 がここでとうとう出てきた流れも順番に説明していく。以下原文。
制札
一 当郷之下地以下、寺僧為買得、不可被引得之事
一 百姓等名田以下、他所并同名ニ契約之時、歴公儀加事ハ、納所出管判形可渡置、背此旨者、寺家江可被取上之事
一 門前百姓力者以下、何方モ不可被管、聊( いささか )背此旨者、在所名田可有闕所( 欠所 )所事 ( その寺領との縁の名主とそれに所属する庶民・半農半士らは今後、室町権威の寺家被官の役所的相談窓口をこれから代理することになる織田広遠に対し、そむく意図を露骨に見せるような者は、織田家の誓願保証・謄本登録管理においてのその名主の保有地権つまり田地権・商工流通権は欠番・失効・認めない扱いとする。名田は名主の管轄地という意味。名主 は なぬし・みょうしゅ 半公半庶の小地域小家長的な立場で、かつて大名・小名 だいみょう・しょうみょう で区切られた後者の立場を指す。大名は元々は、小名たちの代表・まとめ役という単純な意味だったのが、次第に郡のまとめ役規模の小政局らしい居城をもつ小大名のことや、地方全体のまとめ役規模の戦国大名のような、上同士で力をもった存在のことを指す意味に代わっていった )
一 博奕張行之輩、堅可処罪科事
一 寺家并惣構之内、間道、直道可有停止之事
右( 上記制札 )五ヶ条、所定置、永可守此旨者也、伋( より )下知如件
-----------( 裏花押 )-----------
法式
一 寺家諸役者、并維那之事、不可背評儀( 評議 )、万一於違乱之衆僧者、早広遠ニ可有注進事
一 毎日常住勤行、自諸寮舎、可有出仕之事
一 寺内居屋敷、不立寮而空地、不可被引得、並為常住加成敗、其時ハ可立寮之方江、可被渡付事
右条々( 上記法式3個 )、於違犯之輩、堅可如成敗者也、伋法式如件
延徳二年九月三日 ( 代行名義人 )織田紀伊守広遠( 花押 )
( 宛先 )( 妙国寺 )天祥庵 まいる 侍衣禅師
※ 以下、この関連文献 ※
織田広遠書状 妙興寺文書。
先度就寺家之儀、制札を進之候儀ニつゐて、御懇ニ示預候、祝着之至候、殊御樽・御者両三種送給候、恐悦不少候、別賞翫無極候、尚以、自然家来之者、寺家へ用銭并無謂事申者候ハヽ、交名を給、きと御注進あるへく候、然者即時ニ可加成敗候、於我等、聊不可有如在候事候、恐々謹言
「文亀参年癸亥」延徳二年十二月二日 ( 代行名義人 )( 織田 )広遠( 花押 )
( 宛先 )妙輿寺評定衆 御返報
※ 以下も関連文献だが、こちらは日付と名義の一行のみで、奥書き( おくがき。裏書 )名義保証の小紙と見られる ※
文書断簡 妙興寺文書。
延徳二年卯月八日 織田紀伊守
※ ここでとうとう出てきたこの 制札・法式 は、戦国後期に顕著になる地方判物( はんもつ。地方の代表家長・戦国大名中心による、世俗・聖属に関わらずの地方公認権・地方家長権統制 )の前身といってよい。この慣習が以後、顕著になり始める。尾張においてこれまで織田家と連携し、寺領の足並みをどうにか揃えることはできていた方だった妙興寺( 臨済宗の本拠の相国寺が重視していた同宗の地方分寺 )が特に、以後も織田家と連携しながらこの制札・法式の見本役として、身分制議会的な教義崩壊( 低次元化 )を防止するための、身元確認( 地域ごとの住人たちの役分序列と謄本登録的な生活権公認 )のための寺領目録の作成にも次第に熱心になる。他寺領でも、そこを見習い始めるようになる様子が文献から次第に窺えるようになる。この近日の時系列を整理するが、まず 1490/08/30 の相国寺での斯波義寛と織田敏定に対する寿像賛が作られ、1490/09/02 には熱田社での前々から問題が起きていた社領統制を巡る千秋政範の訴えの様子からだけでも、この 1490/09/03 の 制札・法式 の文献が上同士で何が起きていたのか、何を意味していたのか丸解りである。内々での遠回しではあるが、中央関係者( 本来は地方への等族指導役を果たさなければならないはずの、表向きの畿内の権威者たち )たちはとうとう織田家( と斯波家 )に、尾張における寺社領統制の主導を委任し始めたことが決定的といえるのが、この本文献といえる。形だけでしかない中央権威( 室町幕府・世俗議会 と 朝廷・聖属議会 とで連携しながら、次世代政権議会改めと地方行政指導をしなければならない側。その評議名義的・選任議決的な敷居管理のための争和の手本を示さなければならない側 )は以前から、中央( の上同士 )がどうにも立て直せそうにもない( 中央の立場としての、地方への今一度の手本主導を示せそうにもない )自覚自体はあった、つまり応仁の乱から23年近く経過したこの頃の畿内では、室町旧態権威を肯定し続けようが否定し始めようが、どちらにしても国際地政学史観( 教義史観・裁判権史観・身分再統制史観・議会史観・国家構想観 = 荀子主義の基本 )など皆無な偽善憎悪をたらい回し合い、ただ下を作り合い、ただ低次元化させ合うことしか能がない一方をやめ合う、やめさせ合う( 合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する側の上同士としての手本を作り合う )ことを何ひとつしてこれなかった( のち織田信長が畿内に乗り込むことになった 1568 年冬の段階でも畿内は ただのイス取りゲーム大会と負担の押し付け合いの罰ゲーム大会 = ただの報復人事戦と敗者復活戦戦 = ただの偽善憎悪の乱立拡散とその押し付け合い を延々と繰り返していただけで、等族指導側としての本来の政権議会らしい誓願奉納文写しの議事録処理・謄本登録管理といえる地政学的人事敷居改めの手本の示し合いなど一切していなかった )末期症状の畿内を、今一度をまとめ直せそうな者( 将軍の親類であろうが、畿内権威の親類であろうが )を輩出させることができそうにもなくなっていた限界を、内々ではいい加減に認め始めていたのは間違いない。一方で畿内から見た尾張は、妙国寺にせよ熱田社にせよの遠隔荘園領が( 畿内では荘園領旧序列の崩壊が著しい所だらけだった中で尾張では )奇跡的に機能( 納税や奉仕義務と、それに相当する代替特権や保証権の維持が )させられていた。まずは中央内( 畿内 )で地方に対するその見本( 上同士での上の等族指導の手本 )にならなければならないはずができていないことを尾張では、武衛斯波家の肩代わりをしていた守護代織田家( となんとか連携していた妙国寺や熱田社その他 )が、室町権威( 面目 )がまだ機能しているかのように演出する余裕さえ見せられていた。日本再建の見本たる畿内再建の見通しなど全く立たない状況が延々と続いている以上は、畿内よりも尾張の方がまだその見本の見込みがあったといえる状況だったのである。尾張でも時折揉めながらでも地方はなんとかまとめることはできていた方だった織田家( とそこに協力的だった斯波家 )に対し、だから尾張での寺社領統制の主導を改めて託し始め、もはや尾張が他の地方の見本になってもらおうとする意味すらあって、中央聖属が畿内再建への匙( さじ )を投げ始め、尾張( その他にも可能性のありそうな地方 )に見通しを求め始めた地政学観( 上同士の社会心理 )が丸解りなのが、この本項文献の実態といってよい。前項の千秋政範が困っている熱田社の人事権統制を巡る対処を、畿内再建のめども立っていない中央( 世俗・聖属の両中央権威 )がそこをモタモタと失策を重ねようものなら、もはや畿内( 中央 )が尾張( 地方 )の足を引っ張ることにしかならない構図( むしろ畿内の利害を地方にもちこむことにしかならないから地方を破壊することにしかならない構図 = 中央寺院と廷臣たちにとって貴重な尾張の遠隔荘園領を自分たちで破壊しかねない愚かさだらしなさの構図 )になり始めていた深刻な状況になっていたことくらい、織田氏の支援でかろうじて体裁は維持できていた相国寺とそれと近しい廷臣たちも、いい加減にそこに気まずくしていたのは間違いない。織田家と相国寺とのこれまでの交流で、そういう所を前々から
「中央からの要請・相談に織田氏( 地方 )が応じているという、その表向きの体裁はこれまで通り織田氏にお願いするとし、尾張における今後の寺社領統制については、我ら中央関係者があれこれと口出ししてしまうと畿内で全く解決していない派閥間利害( 低次元化させるのみの偽善憎悪の乱立拡散とその押し付け合い )を尾張にいたずらに持ち込むばかりになってしまう。だから尾張の寺社領統制はしばらくは、内々で社会実験的に織田氏主導で( まずは臨済宗の妙興寺と熱田社その他の連携で )施政してもらい、その結果を我らが回収し、やがて他の地方にそれを活用・推進していく、という手順に切り替えた方が良策ではないか?」
といった、地方を破壊しかねない畿内権威の実態を憂慮した今後の方向性についての連絡の取り合いを、これまで内々で( 尾張の織田家と山城・京の相国寺蔭凉軒の間で )続けていたのは間違いない。のちの戦国後期の認識が強まる過程での、上同士の内々の畿内側の懸念でそこを地方( 織田氏 )に任せ始めたことは、廷臣たちや禁門寺院と表向き連携しているように見せていた世俗権威側の足利義尚( あしかが よしひさ。9代将軍 )と伊勢貞宗( いせ さだむね。執権というより幕府政務吏僚筆頭の立場。どちらかといえば将軍代理的な執権は管領細川氏 )ら重役たちも内々は了承の上だったと見てよい。こうした見落とされがちな、上同士の段階的な社会心理を把握していく前提も重要になる。のち戦国後期の地政学的領域敷居競争( 前近代的な総力戦体制のための評議名義性・選任議決性の象徴といえる代表家長中心の地方再統一 )が強まり始めた際に、下々にとっては急に始まったように見えたとしても、上同士では段階はあったという前後関係( 異環境観と時系列観 )も見渡していく前提は、当時にせよ現代にせよ普段からのそうした向き合い方が力量差となって現れてくる姿勢なのである。ここで 1490 年時点での日本全体の情勢( 地政学観。特に上同士の社会心理 )を誤認してはならないための説明を続ける。まず、臨済宗の本拠の相国寺は、皇室の縁が強かったこともあって他宗もいたずらに非難できない所もあった、つまり陛下の御威光と尾張織田家からの支援で相国寺はかろうじて臨済宗の本拠らしい体裁をギリギリ保つことができていたに過ぎない。聖属側のまとめ役機関でなければならない公的教義( 比叡山延暦寺 )は、ただ下品で汚らしいだけの今の日本の低次元な教育機関と全く同じで地政学的( 国際人道観の近代民権言論の手本といえる異環境間の当事者軸・痛感性・自己責任領域と主体軸・教訓性・社会責任領域の尊重 )な領域敷居管理などできる訳がない、そこを手遅れ寸前と手遅れの狭間を迎えるまで徹底的に面倒がり合う性善説放任( 教義権力頂点主義 = 老害権威 = 偽善憎悪のたらい回し合いの低次元化 )でねじ伏せ合うことしか能がないことを、その管理責任者たる肝心の廷臣たちもその旧態序列権威に根深く頼り続け過ぎて自分たちで再起不能にしてしまっていた。織田家に頼ることはともかくとし、いつまでも陛下の御威光に頼っている場合ではない危機感( それに頼った状態が続くこと自体が陛下に心労をかけてしまう上、何かあったときに将軍にせよ管領にせよ廷臣にせよ等族指導の代替を果たせない以上は皇室の威厳を著しく低下させてしまい、ただでさえ危うい中で低次元化を加速させる原因となる。つまりその評議名義性的・選任議決的な等族義務の明確な代替ができる日本全体の総家長の姿もいつまでもはっきりさせられていない時点で、国際地政学観から見た日本列島全体の威信を大いに低下させ続けることと同じだからこそ常に危険と隣り合わせの危ない状態。ここは南北朝闘争で皆が苦しんだ、聖属政権再興を謳っておきながら廷臣たちがそこをろくに支えられずに荒廃させるばかりだった、すなわち皇室の威厳を低下させるばかりとなって思い知った部分。だからこそ、そこを強力つまり次世代国家構想の手本として、奥の院の皇室に心労や負担をかけない肩代わりまでできる、次の段階の明確な武家の棟梁・絶対家長とその等族指導体制・序列権威を改めて明確化しなければならなかったのを、はっきりさせられない情勢がいつまでも続いていたこと自体は上同士では深刻さはもたれていた。キリスト教社会でも15世紀末までに 教会大分裂・聖属側の教義分裂 と 大空位時代・世俗側の明確な教義圏総裁不在同然 を教義圏内で自分たちで解決できずに長引かせ、皆が苦しんで思い知った所詮は人間のやることは、日本もそれと大差ない情勢を歩んでいる、という所もろくに指摘されてこなかった )は少しはもたれていたと見てよい。少し先述したこととして繰り返すが、畿内での目先の利害次第に皆が振り回されがちだった中で、そこを何ら等族指導できていない公的教義( 低次元な老害機関 )が教義権威第一の足並みを強制させ続けていただけの、ただ中央教義を押さえつけていただけの禁門側( 低次元な公的教義の公認権威にそれまでやむなく従っていた中央本寺。教義力が優れていたからこそ常に格下扱いされ続けた本願寺・浄土真宗が、この頃に迫害が強められる一方となったのを機にとうとう表立った中央教義・自力信仰一辺倒からの離脱で戦国仏教の地政学的軍閥運動に動き出すことになる )と距離を置き始めた山門側( 地方教義。各宗派・流派の尾張の地方分寺と神社 )らは、畿内( ろくでもない偽善 )と連携し続ける( それを仰ぎ続け甘やかし続け浪費され続ける )よりも、織田家となんとか連携できていた熱田社( 神道であるため、最終的には宗派・流派は問わずに習合的に、地方議会の象徴・敷居指標として皆で大事にしなければならない存在。熱田神宮の氏子総代である千秋家もそこをだいぶ努力できている方だった )の方で足並みを揃えようとした方が、遥かにマシだった有様だったのである。畿内は乱れ続ける一方の中で、禁門( 中央教義 )の見直しの明るさなど一切なかった中での相国寺( とその縁の強い廷臣たち )の立場というのは、この先どうなるのかの予測も難しいこの段階で、尾張織田氏のことを表立ってひいきする訳にもいかない状況( 今後、織田家が失策を重ねてしまい総崩れを起こしてしまう可能性もないともいえない、判断も難しい状況 )になる。また相国寺としても、他にもまとまりの見込みが出てきた地方の有力者たちとの連絡の取り合いもしていかなければならず、戦国後期の領域敷居競争が上同士で認識されていた訳でもなく、下々はなおさらのこの頃の段階では、今都合が良いからというだけで表立ってて織田家をひいきし始める( 地方の聖属統制の制札・法式を織田家に任せることにしたという、見込まれ期待された優れた格式を強調する )ようなことをすれば( 公的教義の再指導もできていない以前に、廷臣同士で神道の流派、仏教の宗派ごとの非国内地政学的な旧態門閥権威をだらしなくひけらかし合うばかりでまとまりなどない中、臨済宗相国寺による地方に対する友好関係の序列を表立って始めてしまうように見えてしまえば )、せっかく再建の見込みが立ってきた地方同士を、再建に向かう前に偽善憎悪の対立を煽るのと同じ、余計なことをして畿内の二の舞のごとく地方も巻き込んで破壊しかねない原因( ひいては相国寺の縁の強い皇室の威信を破壊しかねない原因 )となる。だからこの頃では、そうならないよう内々で話を進めていくしかなかった事情( 文献上では過渡期ほどその明記も残りにくい、本能寺の変に関する文献でも同じことが言える国内地政学観・上同士の社会心理 )がまず考慮できなければ( 日本人だろうが西洋人だろうが所詮は人間のやることの愚かさだらしなさへの向き合いでなければならない前近代史学観 = 自国教義史観 = 次世代身分制議会史観 = 前近代裁判権史観 = 国家構想史観 における上同士の社会心理が把握できなければ )ならない。一方で当項の文献で見られる、この頃にとうとう 制札・法式 という名目・誓願文写しを用いて、尾張での寺社領統制の主導的な代替を織田氏がとうとう執( と )り仕切り始めた( 中央の代替者としての見本になり始めた )様子に、下々は上の間で何が起きているのかはすぐには理解できなくても、地方間の上同士では織田氏のその様子に注目し始めるに決まっており、それが何を意味していたのかくらいは上同士では察知し、次第にあせり始める所も出てくるのも当然の話になる。尾張の寺領統制については、以後も、足利家・伊勢家らや寺家代官ら室町権威側が、表向きはさも尾張を公認裁量・室町身分制議会が維持できているかのような文献は出てくるものの、織田家が主導であることを強調する訳にもいかない体裁( 畿内を一向にまとめることができていない将軍権威よりも、いったん閉鎖化してしまった尾張各地の寺社を、時折揉めながらでも熱田社を通じながらなんとか連携させ直すことができていたその等族指導・面倒見役ができていた方だった尾張織田家の方がよっぽど頼りになる総家長らしい存在であることを、この頃の段階でいたずらに強調させる訳にもいかない、そこに互いに慎重な残酷な体裁 )が実態といってよい。ここで誤認してはならないのは、制札・法式 という形でこの頃からとうとう始まった尾張織田家による寺社領統制は、どのような 制札・法式( 禁制写し。特権と規律 ) を授ければ( 施政していけば )農工商( 賦課と徴税改めの次世代化・旧廃策的な産業法改め・街道整備 )を健全化( 前近代化 )させることができて、公務治安軍の見本らしい貢献的・国家吏僚的な体制が創設ができるようになるのかの、その社会実験的( 見本・手本作り的 )な施政をこれから努力していかなければならない段階になる。本来は畿内がそれを巡る争和の見本でなければならない所をとてもできそうにもない( のち戦国後期から戦国終焉期にかけての織田氏による畿内再統一について、歴史家を気取っておきながらその最低限の地政学観ももち合わせていない、その意味からまず理解できていない時点であきれる他ない )、しかしだからといって何も進められないままなのも( 形ばかりの中央の世俗側・将軍権威としても聖属側・朝廷権威としても )いい加減にまずい、だからとうとう尾張にその役目を代替し始めるようになった段階、見込まれた尾張織田家( 守護代の織田敏定 )がその重大な見本役を請け負うことになった段階、これからその検証をしていかなければならない段階になる。尾張と三河中心の愛知県史 資料編10だけだと、その他の地方の制札・法式( 禁制の誓願文写し )の様子は窺えないが、他でも見込まれた地方や郡では同じように始まっていたと見られる。次第に三河の有力国衆の松平氏( のちの徳川家康の家系 )でも、制札( 禁制 )を寺社領に授ける統制に努めるようになる。これがのちの地方判物( はんもつ。戦国後期の代表家長中心の地方再統一・地方議会の人事敷居序列改めの領域敷居競争が前提の公認・誓願文写し体制 )の初動といってよく、結果的にのちに織田信秀が、次代の織田信長の前期型兵農分離( とうとうの大幅な閉鎖有徳改めのいったんの半農半士らの、のちの刀狩りの前身の地縁慣習序列の総巻き上げと再手配の官民再分離。旗本吏吏僚体制、雇用序列体制、寄騎体制の人事敷居改革。さらなる街道整備の産業法改めと下々までの生活権保証の謄本登録体制 )の前身まで優位に進めることになった大事な流れが、この制札( 面倒見御役の世俗権威側が、聖属側の物的領域敷居を整備するための、その公認保証のための禁制・規律を授ける典礼 )からといってよいほどである。そしてこの事情は、浄土真宗がそこを一向に整備できないままでいた武家社会( 世俗権威側 )にだから見切りをつけ始めたことと大いに関係してくる部分でもある。蓮如上人による本願寺( 浄土真宗 )の再建運動とその人気沸騰をきっかけに、特に加賀( 石川県 )でそこを巡って騒ぎ始めていた、つまり聖属側( 教義側 )のひとつ浄土真宗が室町体制のそこを非難・離脱し始め、自治権軍閥運動の機運ばかり強めていった( 地方によっては貧窮が重なって餓死者が出始め、先々の明るさなどないまま皆が苦しみ続けているにも拘わらず、健全化の見通しなど何も期待できないだらしない室町権威・武家社会・世俗中心政権と、それと等族指導し合う連携関係などできていない禁門・中央教義を仰ぎ続けるよりも、蓮如上人が時代に合わせて再整備してくれた浄土真宗における家訓的な優れた規律教書を根幹に、産業法と軍事法の寺社領改革を自分たちで進めた方が話が早い、なんなら全て浄土真宗の管轄の寺領扱いにして浄土真宗が全て肩代わりすればいいと見なし始めた。蓮如上人は元々は「こんな時代だからこそ皆で助け合い支え合わなければならない」という一心だけで、どこも進められていなかった教義再整備を熱心に進めただけだったつもりが、そういう方向になってしまった。これには蓮如上人自身も慌てた )様子に、上同士( 畿内権威者ら、地方権威者ら )の内心は気まずいことこの上ないに決まっており、だから室町権威にしても相国寺にしてもなんとかしなければならないあせりも当然あった、当時のそのグダグダぶりの上同士の社会心理が丸出しであるのが、この 制札( あてにならない畿内の見本観から、見込みある地方の見本観への切り替えで、聖属政権中心ではまずいからこそ世俗政権中心でなんとか立て直そうとする動き。畿内を肯定しているのか否定しているのかも曖昧な危うい狭間 ) の文献に色濃く表れているといってよい。のちの織田信長と本願寺顕如( ほんがんじ けんにょ )の死闘は、その背景を無視のまるでこの2名が個人的な意向によって対立したかのような単純な話で片付けようとする風潮が今なお改められていない。結果的には場凌ぎで聖属統制を始めてしまい、戦国終焉期を向かえてどうにも引っ込みがつかなくなっていた浄土真宗に対し、その流れ自体は織田氏のせいでそうなった訳ではない、織田氏がそうした訳ではないという一方で、畿内再統一( 次世代身分制議会改め。世俗序列権威中心の物的領域敷居管理の謄本登録制という前近代身分再統制 )の一環として浄土真宗を放置する訳にはいかない転換期をとうとう迎えた、というだけの話に過ぎない。それを織田氏( 次世代政権議会の姿を見せ始めた世俗権威側。皇室代替すなわち国家の領域敷居の健全化を守り支える絶対家長側・武家の棟梁側・中央総裁側・地方を等族指導する側 )による今一度の閉鎖有徳禁止( 世俗権威中心の国際地政学的領域敷居の仕切り直しによる上から順番の総格下げと半農半士らの一斉の次世代官民再分離・刀狩りの前身の軍兵站体制の雇用序列再統制・前近代街道整備への反抗と見なす取り締まり )で解体せざるを得ないのを誰かがやらなければならなかった、しかし織田氏しかできなかった、下々にとってはそこをすぐに理解するのは難しい残酷な話のというだけの話に過ぎない。世俗側( のち織田氏が肩代わり )と聖属側( のち浄土真宗が肩代わり )とでの物的領域敷居を巡る根深い問題も、織田信長と本願寺顕如の時代になってからその対立が急に始まったのではない。そこを巡る意味でもここでとうとう出てきたこの 制札・法式 の様子からもはっきりしているように、世俗権威側( 当時は室町権威。のち織田氏 )と聖属権威側( というよりも全ての既成権威と決別の浄土真宗 )の対立の下地はこの頃から既に始まっていて、そして戦国後期から戦国終焉期に向けて( 自力信仰一辺倒の偽善憎悪を踏みにじった他力信仰同士による )頂上決戦をせざるを得なくなった( 聖属裁判権再興による物的領域敷居戦の軍閥運動を維持し続けてきた浄土真宗がそれまで世俗権威への手本を肩代わりする形で下々の救済を促進し続けてきたが、のち畿内再統一も時間の問題の織田信長が台頭した今、浄土真宗がこれ以上それを肩代わり必要がない転換期を迎えた。そこは織田氏による世俗政権中心で今一度請け負うという、織田政権の次世代身分制議会体制は浄土真宗を上回っているという、反抗できなかったという、その白黒を今一度はっきりさせなければならない )というだけの話に過ぎない。下々はその意味をすぐに理解することは難しくても、浄土真宗は多くの戦国大名たちよりも強力な物的領域敷居戦をそれまでは維持できていた( ただし形式としては世俗的な武家の棟梁・絶対家長が基準ではない聖属裁判権を表立せていたからこそ、戦国終焉・世界間敷居管理に向けての次世代身分制議会の観点から見れば今一歩だった。聖属裁判権を畿内に持ち込むことは、時期尚早な感があったはずの皇室の擁立運動の危険性をともなった上に、浄土真宗の教義序列でなければ決別とするという戦国仏教運動をこれまで続けてきた中で、織田信長にとうとう閉鎖有徳と見なされ始めた浄土真宗が、今後の公的教義体制も含める神道・仏教再統制と外国教義交流の朝廷再整備までできるのかはさすがに怪しかった。だから浄土真宗による畿内再統一も簡単な話ではない。織田信長が家臣たちに法華宗のみを強要するというようなことはせず、寺社領特権の一斉の巻き上げと再手配に応じる以上は、の浄土宗、臨済宗、地方天台宗その他寺社を次世代公認保証し、さらにキリスト教への帰依者も公認し、一切いがみ合わせなかった。便宜上は法華信徒である織田家がキリスト教も容認、すなわちもし日本にキリスト教のための大使館代わりの教区・司教領ができようがそれも最終的には陛下の家臣扱いを前提とするその肩代わり絶対家長政権、世俗権威側が聖属側の物的領域敷居の面倒見役・等族指導役を果たすという、世俗中心ならではといえるその次世代人事統制を、浄土真宗だけでない他の戦国大名らもそれができるのかという、実践するのは難しくても意味自体は大して難しい話でもない。ここが本能寺の変に大きく関わってくる事情。そんな基本的な国際地政学観くらい内々では解り切っていた上で織田信長を頼ったのが、当時の西洋のキリスト教徒たち・スペイン王室議会からの外交大使役を請け負ったイエズス会士たち )からこそ、のちの織田氏の台頭に改めて向き合わなければならなくなり、そういう情勢になってきていたことくらい内々では本願寺顕如( とその参謀役の下間頼簾。しもづま らいれん。下妻氏 )は理解できているに決まっており、織田氏と早々に和解交渉に動かなければならなかったのも、しかし今まで反既成権威を牽引してきた立場として多くの信徒たちに現状を理解させるのも簡単ではなかった、だから気まずかったというだけの残酷な話に過ぎない。この構図は浄土真宗に限った話ではなく、浄土真宗の背中を追いかけている場合ではなくなって織田氏の領域敷居の背中を慌てて追いかけるもつまづき始め、同じく大幅な格下げも免( まぬが )れなくなった六角氏、三好氏、浅井氏、朝倉氏、北畠氏、武田氏、上杉氏、毛利氏、長宗我部氏( ちょうそかべ。四国 )らも全く同じ、さっさと織田氏と和解調停に動くこともできなかったその気まずさも全く同じになる。まず織田氏が台頭するまでの戦国前期の末期症状期に日本の自力教義の希望を見せた、当時の社会全体( 上同士の社会心理 )に多大な影響を与えることになった蓮如上人( 浄土真宗 )の存在が過小評価され続けてきた、だから全体的な流れ( 中世から近世への認識の芽生え = 前近代時代の過程 )が認識できていないだらしない解釈拡散が一向に改められない史学界にはあきれる他ない。その自国史( 日本はどういう国なのか )の基本中の基本の最低限の整理説明もできない、すなわち
近代議会的な評議名義性と選任議決性の領域敷居管理の品性規律といえる上から順番の手本の作り合い見習い合いを前提にできている高次元側
と
ただの老害慣習・偽善憎悪の乱立拡散とたらい回し合いの顔色の窺わせ合いでただ下を作り合い低次元化させ合うことしか能がない低次元側
との違いの区別( 低次元化防止の自己等族統制 )も自分たちでできたこともない、片手間感覚でいい所取りできている気になっているだけのただ下品で汚らしいだけの知能障害者の集まりの今の日本の低次元な教育機関が、等族指導する側としての合格・高次元/失格・低次元を領域敷居序列管理する資格などないのは当時でも現代でも、日本でも西洋でも、個人間でも組織間でも同じである。ここで本文献の当時に視点を戻し、代理名義人の織田広遠は伊勢守家の有力者のようである。尾張で織田一族が大きくなるに連( つ )れ、大和守系でも伊勢守系でも方針を巡る内外の対立はあっただろうが、大和守系である織田敏定が伊勢守系を必要以上の格下扱いなどはせずの、この重要な 制札・法式 の代理の抜擢人事もできている面倒見の良さがまず窺える。文面の博奕張行( ばくえきちょうこう )の禁止については、要するに博徒行為の禁止のことであるが意味としてはもっと広く深い。博打も含めて、織田広遠( 尾張織田家 )が認知していない、権限に関する条件や約束事を下同士で勝手に作ること自体を禁止、つまり農地や商工地の生活権や管理権限の勝手な売券・買得の禁止の取り締まりの一環として、権限に対して公認などしていない下同士の勝手な条件や約束事を作っている( つまり下同士で寺家帰依長を気取りながら所属有徳の勝手な悪用解釈をし始め、下同士で力関係を作り合い規制し合う )時点で売官的な譲渡を準備している・行われていると見なす、それ自体を博徒罪科( のちの閉鎖有徳禁止 )と見なし、その農地や商工地の生活権は公認保証の対象外・無効として没収するという、文面全体としてはそういう意味になる。世俗政権再出発の室町発足ということで、改めて聖属側の面倒見役の世俗権威側( 武家側 )がそうした物的領域敷居管理を努力しなければならないと再認識された、までは良かった。しかし室町の大経済期以後は次世代産業法をどうにもまとめ切れなくなり、応仁の乱以後も畿内も地方も上同士でまとめること( 上同士の議席再統制 )もできていない有様の中央権威に、権限( 物的領域序列敷居 )についての伺いを立てた所で、上項の千秋政範の訴えのように5年も10年も待たされるかも知れない挙句、その前例布令を全国に浸透させることもできない所か、むしろ地方間のいがみ合い乱し合いの原因にすらなり始める有様だった。だから地方の直接の面倒見役が務まりそうな、地元の事情に詳しい守護代ら有力層に数ヵ月で裁量してもらう方が早い、という流れになってしまったのである。だからこその 制札・法式 は当然のこととして尾張織田家( となんとか連携できていた熱田神宮や妙興寺ら )のようにまずは地方の上同士でのある程度の( 遠隔荘園領もどうにか維持できているほどの )まとまりが問われる、つまり上同士でただいがみ合い低次元化させ合うのみのだらしない老害慣習( 偽善憎悪 )を地方でただ乱立拡散し合っている時点で、それをやめ合う/やめさせ合うことができていない時点で到底整備していける訳がない、すなわち誓願文写しの典礼( 地方議会的な評議名義性と選任議決性 )といえる議事録処理( 地政学的見本の確立 )などできる訳もない。売券・買得は、その書状の現物が文献上では残っていないだけで横行していた深刻さがこの文面で窺える。ただでさえ次世代身分再統制( 本来は室町体制が進めなければならなかった産業法改め )が進んでいない中で、没落した半農半士らが貧窮次第にかつての血族等を根拠に正規武士団かのように再結託していがみ合おうとする傾向をなんとかしなければならなかった中、公認外の 売券・買得 の横行を放っておく訳にはいかない、まさに地方の代表家長らしい等族指導の力量の問われ所といえる。以後の文献上で、ある時期ごとに 売券・買得 が頻繁に出てきたりしばらく見なくなったりが繰り返されるが、ここは少しややこしいが、まとまりはある方だった尾張では、天候不良の飢饉で苦しみつつも産業改革が進んでひと息の安定を見せるようになり、物流供給の広がりで自然に農園や都市の広がりも見せていくようになり、今までできなかったことができるようにる、されるようになる、情報面にしても物的面にしても以前より豊かになる、からこそ次の段階に急に対応できずに行き詰まりを見せるようになりがちの、そこは江戸時代も現代も同じ、その代替経済の手法としての産業法が追いつかなくなることが原因の 売券・買得 が横行( 近代議会的な整備がされていない、仮の規則に過ぎない閉鎖慣習化が横行 = 下々への残酷さの横行 )してしまうという側面もある。そうした前近代産業経済史観の社会現象まで見渡さずに、ただ破ったから悪だからとやらの偽善憎悪の顔色の窺わせ合いでねじ伏せ合い下を作り合うことしか能がない、等族指導と議会規律の領域敷居管理( 国際地政学観の民権言論的整理といえる手本の示し合い )など自分たちでできたことがない、そこを徹底的にたらい回し合う偽善憎悪・老害慣習を押し付け合い低次元化させ合うことしか能がない今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような末期症状の見方しか日頃からできないようでは、当時のことでも現代のことでも何が起きているのかが、どのような状況なのかが全く見えてこなくなる原因になる。その現象はまさに、江戸時代の大経済景気後に幕府が経済対策の行き詰まりを見せ、物価高と増税と米価下落の一方の貧窮が原因の、下同士の田畑永代売買禁止令( 売券・買得禁止令 )もとうとう守られなくなり、幕府( 徳川家の天下の御政道の身分制議会 )に非公式な下同士の上下関係が巻き戻ってしまった( かろうじて保有地権の民政力を維持する大地主 と 借金を抱える一方に保有地権の民政力を失う隷属小作人 の序列。幕府がなんとしても防がなければならなかったはずの、織田信長と特に豊臣秀吉がせっかく作ってくれた次世代庶民政治体制・前近代身分制議会の半壊 )構図と類似する。ただし戦国前期のこの頃は、江戸時代とは規模的にはまだまだのしかも尾張限定での話になる。のち産業改革が目立つ一方の織田信秀時代も、織田信秀も難儀も多い中でもしっかりしていたからなんとかまとめることができた。当文献項らしばらくして妙興寺文書の文献で、身元確認の目録が熱心に作成される様子も目立つようになるが、織田氏の制札・法式の連携によって、次第に熱田社の神領再統制も含める尾張全体の寺社領統制の武士団の再構築( 尾張再統一 )の前身手本が織田信秀時代に社会実験的に実践され、そこから織田信長時代に国家構想らしい強力な前期型兵農分離に改良されていくという、大事な流れになっていく。のち織田氏は社領の氏子武士団たちもあえて特別扱いせずに人材を旗本吏僚に組み込んだり、仮公認の領地特権を公式化させるための重い軍役を課すようになる。特に熱田神宮の千秋家は、進んで織田勢の見本になろうとするかのように、戦場で常に厳しいもち場を進んで請け負い、多くの社人たちを失いながらも皆に一目置かれる活躍をしてみせることになる。のち産業改革が著しくなる織田信秀時代の尾張津島では、1533 年に大勢の中央関係者ら( 廷臣たち )を、すっかり商業文明都市化していた津島に招いて、いずれは畿内再統一もできるのではないかと思わせるほどの津島の経済繁栄力を見せ付け、皆を驚かせる大会合が行われる。畿内権威者たちから内々では地方施政の見本が期待されていた尾張が、当文献項年から40年かけて社会実験的な整備が少しずつ進められ、弾正忠の家系の軍閥的な成長ぶりを見せたことは、尾張は畿内権威者たちから内々で期待され、見守り続けられてきた内々の関係が窺える
もっと様々の事例を絡めた多くの説明をしたかったが、字数制限の都合で今回はここまでになる。