本能寺の変とはなんだったのか79/95 本能寺の変の全体像25/41 2024/12/13
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~24」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
※ 本能寺の変の全体像20 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01~04
※ 本能寺の変の全体像21~24 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )05/19
※ 前回 1489 年 10 月 延徳元年十月 までからの続き
1489/11/20 度会神主亀田末久( かめだ ひさすえ )、三河一円の伊勢道者などの管理権を福井末盛( ふくい すえもり )に移管。亀田末久譲状写 輯古帖。( 輯 は 集。しゅう あつめる と同意味 )※ 以下原文 ※
福井之分
美濃之国一ゑん( 飛騨市を除く岐阜県 )
伊賀之国一ゑん( 三重県西部の伊賀市と名張市。なばり )
三川之国一ゑん( 愛知県東部 )
津之国 一ゑん( 摂津。大阪府北部 )
伊勢之国一ゑん( 志摩、伊賀、名張を除く三重県 )
※ 伊勢の伊勢道者一円についてはただし書き 続ける ※
但国司様之御内家城のするか殿ハ太郎大夫之方へ ( 以下 )
一、一石一斗代 浜田乃岸田 ふないもん四郎つくり
一、六斗代 川さき之出口松本
一、たはけ一たん ふないのまゑ 彦左衛門つくり
一、いせんつくり候両所之はたけ
一、川さき之屋敷 百姓こんや
右( 各位 )定所如件
延徳元年とりのとし十一月廿日 度会神主亀田 末久( 花押影 ) 福井( 末盛 )之方へ。※ 愛知県史 資料編10で特に説明もないため解説。伊勢道者は、伊勢神宮の遠隔領( 神戸・御園・御厨領。かんべ、みその、みくり )の通行権( 有徳特権 )とその整備責任を預かる管理者のことだが、その遠隔領に関する特権も含まれていたり、その遠隔領そのものを指していた場合もあったと見てよい。福井末盛なる人物が、伊勢外宮序列権威の社人なのか、室町序列権威側の代理人・代官なのか、朝廷序列権威の代理人なのか不明だが、いずれにしても伊勢神宮権威の統制の書状になる。家城氏( いえき )は伊勢の有力国衆のひとつで、国司( こくし。くにつかさ。伊勢全体の代表家長。権威的には守護大名と同じ )は北畠氏( きたばたけ )。伊勢内における伊勢道者の内、5箇条の部分においては国司の被官・支え役のひとつ家城駿河守( いえき するがのかみ )殿の預かり地・管轄とする、という確認。度会氏( わたらい )は伊勢神宮で重きを成す氏子総代の家系で、熱田神宮における千秋氏と同じような立場になる。度会神主亀田末久という書かれ方から、総代である度会家の役分を、伊勢社人の有力のひとつ亀田家が代理するという官職扱いがされていることが窺える。さんずいが付く方の渡会は、伊勢湾を伝って尾張( や恐らく三河も )の伊勢神宮遠隔領に出向していた分家筋の度会一族であることを指すが、度会家の代理人という意味で赴任先で渡会を名乗るようになった社人もいたと思われる。度会家は南北朝闘争時代( 聖属政権再興の南朝派の後醍醐天皇&新田義貞 と 世俗政権再出発の北朝派の光厳天皇&足利尊氏 の戦い )には南朝派である北畠家を支援するために、伊勢社領をまとめるために武士団化を強めた時期もあったが、世俗政権が再認識された室町時代からは騒いだりはせず( 聖属政権意識の神領武士団の性質は強めるようなことはせず )に和平努力に努めた
1489/12/08 本願寺実如、三河の上宮寺門徒中に対し、幸寿丸( 如舜 )が上宮寺を継ぐことを認める。本願寺実如書状 上宮寺文書。※ 原文 -> 佐々木門徒衆へ 実如。角為( 如願尼 )由言( 遺言 )、幸寿丸( 如舜 )跡定度之由候間、坊主相定候、各此分可被日心得候者也。( 延徳元年 )十二月八日 実如( 花押 ) ( 碧海郡上宮司 )佐々木門徒中へ。※ 三河の佐々木門徒衆という名跡が、浄土真宗の上宮寺のことを指していたことが窺える。まず浄土真宗( 親鸞派 )はそもそも、旧態既成権威との足並みをただ揃えるだけの体質( 自力信仰一辺倒主義 = 全体像無視の自己責任一辺倒のねじ伏せ合い主義 = 苦行像的正しさの気取り合いの非地政学的体質の聖道門主義・閉鎖老害権威主義。そのような姿が仏の道・聖道な訳がないと経典も、ブッダ・シッダールタもむしろ否定していた典型的な陥りがちな悪用教義の愚かさの部分 )との決別・刷新の傾向( 他力信仰不足への対応主義 = 次世代異環境間交流主義・組織構想主義 )が、浄土宗( 源空派 )よりも元々強かった。応仁の乱を経て実如( 蓮如の子 )が次期門主として表立つ時代は、法の次世代化が遅々として進まずに、重なる天災と戦乱に下から順番に苦しむ末法の世( 中世の人間性と社会性の教義認識 = 老害旧態権威のままでは、今後の地政学的文化経済交流社会化への矛盾・弊害でしかなくなっているにも拘わらず、それによる低次元な顔色の窺わせ合いとねじ伏せ合いの人事敷居からいつまでも脱却できない有様のこと )が露呈し始めていたからこそ、その課題にとうとう浄土真宗が組織的に対応し始めた( まずは蓮如が非難を恐れずに教義面で立ち上がり、次代実如の前身を作る )。そこを自分たちで改めることなどできていなかった公的教義を始めとするだらしない禁門寺院( 同じ浄土教である浄土宗を除く、公的教義の公認のいいなりにやむなく屈してきた各宗本流派の中央本寺 )は浄土真宗のその動きに対して猛烈な批判・妨害( 等族指導の手本の示し合いをうやむやにし合うための偽善憎悪の乱立拡散 )をするようになる。聖属議会( 朝廷 )権威など何ら機能していなかった、その等族指導役( 中央教義の元締め )のはずの肝心の公的教義( 比叡山延暦寺 )も、公認序列権威でただ威張り散らすことしか能がない偽善統制( 性善説放任主義 = 孟子悪用主義 = ただの偽善憎悪 = ただの老害序列統制 )の仕方に今まで頼り切ってきたに過ぎない。その家系の肩書き( 老害権威 )をたらい回してきただけのそれと同罪の廷臣たち( 朝廷。教義の管理機関 )は、そこを自分たちで次世代化させることなどとてもできそうになかったことは、のちに織田信長が畿内に乗り込んだ時でもはっきりしていた重要な部分( この日本の教義問題の次世代化が、本能寺の変に関係してくる重要部分。今後の日本の海外文化交流における教義対策について、そこをどうするのか議決できなければならない廷臣上層たちは相変わらずまとまりがなく、モタモタといつまでも埒が明かなかったため、痺れを切らした織田信長が「神道と仏教の習合例があるのだから、今度はキリスト教も習合してしまえば良いだけのことではないか。なんなら日本のキリスト教の扱い方( 日本の前近代政権体制の教義序列統制 )を西洋人( ローマ教皇庁 )が見習う側だと、日本の神道・仏教・キリスト教融合解釈こそが世界間教義の主導・中心・格上( 西洋人たちが奉戴する神事は、その眷属である陛下の家臣に過ぎん! )だと言い放ってやればいいだけのことではないか」と踏み切ってしまった。その最低限の国際地政学観の手本典礼ももてない気の小さい身の程知らずの法賊・偽善者・低次元化分子どもがなぜ、世界間経済技術文化交流社会における下々の合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する等族指導側に立とうとしておるのだという話である。実際に織田家では、熱田の神領家臣の千秋氏らと良好関係を築き、伊勢神宮を保護再建し、法華宗、浄土宗、分寺の天台宗その他の各宗派の地方寺院への閉鎖有徳禁止を条件に保護、それぞれに帰依する家臣たちも家長権統制し、そこにキリスト教に帰依する家臣を実際に混合させる前例社会実験が実施され、やってのけた。総家長権に対する評議名義的・選任議決的な意見回収提出も始めない内から、教義別を巡って上同士・家臣同士でいがみ合うことは織田政権下では一切禁止され、経済面では堺衆に協力させ、近江経済の大津衆を再建して街道の公事奉行体制の手本まで作った、すなわち織田体制の家訓敷居なら次世代国家体制すなわち国際文化技術経済交流社会化・外貨為替経済が十分可能であることまですっかり証明されてしまった。一方で神道・仏教内ですら低次元な旧態門閥主義でまとまりなど見せることなどなかった廷臣たちは、世俗権威側の織田信長にそこを完全に見せ付けられてしまったのである。公的教義の寡頭権威も自分たちで等族指導( 国際地政学的視野の人事序列・議席の敷居管理 )してこれなかった日本のだらしない教義界・聖属議会は気まずいばかりのどうにもならない新局面を迎え、聖属議会らしく自分たちの敷居を自分たちでろくに決めてこれなかった手遅れ寸前になって、自分たちの置かれている事態の重みをようやく少しは認識し、廷臣たちが明智光秀に泣きついてやむなく起きたのが本能寺の変 )になる。応仁の乱が起きる前から、世俗議会( 室町権威 )にしても聖属議会( 廷臣上層たち。国内教義と国際外交の管理人たち )にしてもそのだらしなさが既に色濃く現れていたのが、帝都経済の支え役であった畿内の荘園領( 聖属領 )の崩壊になる。旧態隷属統制のままの荘園領の下々の矛盾と苦痛を野放し( 性善説放任主義 )にし続けて限界を迎え、完全崩壊させた有様がそこをよく物語っていた所になる。そこを自分たち( 中央機関 )で何ら再建できなくなっていた( 地方寺社領に手本を示すことなどできなくなっていた )時点で、等族指導役( 地政学的中央政権議会 )として何ら機能していない中央の崩壊ぶりが、まず聖属権威側からはっきりしてしまっていたのである。何の解決( 低次元ないがみ合い・偽善憎悪のただの乱立拡散を2度と繰り返させないための評議名義性・選任議決性といえる次世代身分制議会の議事録処理を巡る争和・手本 )にも向かわない老害序列権威を向け続け、それに逆らっているとただ怒り狂うことしか能がないその低次元な威勢ただ向けることしか能がなかった禁門( 公的本寺。中央聖属体質 )に対し、そこは浄土真宗でなくても現場( 地元地縁 )がまずは大事な地方分寺は、それと距離を置くようになるのも当然の話であり、そこは将軍権威でも同じになる。蓮如上人による浄土真宗( 日本の自力教義の最後の希望 )再興の流れが活かされる実如時代になると、浄土真宗が日本の自力教義の手本の示し合いを肩代わりし始める( 世間がそう見なし始めた。旧聖属序列権威の低次元な顔色の窺わせ合い体質が浄土真宗の特に蓮如のせいで崩れ始めた )既成事実( 支持・人気 )ばかりが顕著になった( 非公認・正式な仏教ではないと権威側から非難されているはずの浄土真宗に、鞍替えを考え始める寺院や下々が急増し始めた。地域間でいがみ合うばかりでうまくいっていない地方地域ほどその傾向が強かった。もはや旧聖属序列権威に公認してもらうための顔色の窺い合いどうのの話ではなくなってきていた )からこそ、立場がなくなるばかりの口ほどにもない禁門本寺( 同じ浄土教である浄土宗は除く )どもは浄土真宗への非難運動( 低次元なままであり続ける足並みに揃えようとしないことへの偽善憎悪統制 )に拍車がかかるも、地方分寺は禁門側( 公的教義の公認権威に屈しざるを得なかった中央本寺 = 上・等族指導役としての手本の示し合いを徹底的に面倒がり合いうやむやにし合う低次元な老害権威 = 下同士で下をいがみ合わせるのみの偽善憎悪の乱立拡散 )と距離を置く一方となる。だから禁門側( 公的教義の公認権威側 )で例えば日蓮派法華宗と空海派真言宗とでもし揉めようが、公的教義( 比叡山延暦寺 )がそれを喧嘩両成敗扱い( 格下げ・謹慎処分 )しようが、では地方の法華宗と真言宗との間で険悪化するのか、連座的に自粛しなければならなくなるのかといえば、ただちにそうなる訳ではなかったのである。戦国前期における中央・禁門( 本家的権威 )と地方・山門( 分家的権威 )のこの距離感は、世俗( 武家 )序列権威側も全く同じ構図になる。戦国前期( 室町権威の崩壊が表立つ時期 )の経緯は、室町権威の上層同士( 聖属の面倒見役でなければならない上級武士たち同士 )で揉め続けている間にまず聖属( 教義統制 )序列権威側が限界を迎えて崩壊し始め、その事情が室町序列権威( 将軍権威公認の地方総家長や代官・被官 )の崩壊を助長・波及させていった( からこそ特に世俗側の地方家長側たちにとっての現場の統制権・家長序列権の問題は、旧既成権威通りであるかがどうかがなど表向きでしかなく、世俗側が聖属側の面倒見役の等族義務を実質的に果たせているのかどうかについて改めて問われるようになった )というのが、相互作用的な順番になる。「地方は室町序列権威の公認も無しに、何を勝手に分国法改め( 家訓改め。領国体制 )を始めておるのだ」という威勢( 桶狭間の戦いにおける織田家に対しての今川家の威勢 )を向けた所で、これまでその見通し( 国際地政学観の評議名義性・選任議決性といえる前近代人事敷居 )の手本を示すことなどしてこれなかった旧序列権威側の公認うんぬんの話ではなくなって迎えたのが、地方間で広域等族統制力( 器量 )が競われた戦国後期の地政学的領域敷居戦( 総力戦体制のための次世代人事敷居改革。家長裁判権再統制 = 国家構想を巡る手本家長の示し合い )なのである。そこに至るまでの大事な過程として、モタモタやっていたら武家側( 世俗権威側 )もそこを全て浄土真宗( 世俗・聖属の旧態既成権威と決別の聖属軍閥運動 )にかっさらわれそうになった、だから地方単位( 旧管領領・旧守護領ごと )で慌てて見直すようになったその起爆剤の導火線に火を付けたのが、( 聖属側の方が先に崩壊したからこその危機感の )蓮如上人の教義面での活躍( 次の時代への合図 )なのである。聖属側でも、浄土真宗による軍閥運動・聖属一揆の強まりに日蓮派法華宗も、対抗意識的に旧畿内で大規模な世直し一揆( 法華一揆 )を起こしている。こちらは世俗権威と決別する前提という訳ではないこともあって長続きはしなかったが、どの他宗ともそもそも馬が合う訳がなかった法華宗( 不受不施。ふじゅふせ。助け合いのための教義の向き合い方にいい加減な者と関わってはならない、同胞は大事にしなければならない、置いて行きぼりにする力関係を作ってはならないとする日蓮の教え。日蓮派法華宗の指導部は他宗間交流でここをうまく調整することができないことが多く、他宗には厳しくなりがちだったが、それでも同じ法華経重視・自力信仰重視の公的教義と比べれば、必要以上の下同士のうちのめし合いや力関係を嫌悪していたこちらの方が遥かに健全化に貢献している )は、畿内においての旧聖属公認序列権威( 今の日本の低次元な教育機関と何も変わらない偽善老害序列 )への反感を示すことをしただけでも、旧畿内の方でなんとかしようと危機感がもたれただけでもまだ良い方だったといえる。その前後背景( のち織田信長の「世俗にせよ聖属にせよ、お前ら旧権威筋どもは一体何をしておったのだ!」の言い逃れ無用の上から順番の総格下げの全体像・社会心理 )を踏まえた上で、この先もよく出てくる浄土真宗に関する文献から窺える、当時の世襲問題に触れたい。まず、そもそも旧態聖属とは違う改革傾向( 他力信仰重視を始めたことで、今までの自力信仰の伝統に逆らっていると禁門側・中央教義側から非難された部分 )が、浄土宗( 源空派 )よりもさらに強かった浄土真宗( 親鸞派 )では、聖属内において世襲もあり得る人事統制( これまでの聖界から見れば、破戒だと非難される規律 )が前提になっていた特徴が、以後の文献からも窺える。まず手本を示すかのように門主の世襲を前提としていた浄土真宗は、やってのけた肉食妻帯の妻帯の部分ともちろん関係している。それまでの仏教界では僧籍の身となった以上は女人を近づけてはならないとするのはいいが、そう見なされるのか見なされないのかが低次元な顔色の窺わせ合い次第の権威によるねじ伏せのためのものでしかなかった。弊害( 見た目と肩書きのためだけの )戒律と見なした親鸞が、肉食( 殺生食といっても日本は海産物が中心だった )と共にとうとう破戒( 次世代化 )した。
※ 真言宗( 空海派 )が重視していた密教の強い有名な理趣経( りしゅきょう )でも、物欲や酒に溺れて道を見失ないがちなことと、男が女に溺れがちなことも同じであるが、後者は女人という所だけ過敏反応すればいい訳ではないと指摘。女の取り合いや女人遊びに溺れることがまずい( 女側も自分の立場を有利にするために女同士で騙し合ったり男を惑わせ合うことをしてはならない )のであって、男女が恋仲になり夫婦仲を大事にしようとすること、そのひと時を楽しむことまで非難し合ってはならない、そこを非難することが仏道ではないと指摘。天台宗と法華宗は法華経の経典を最重要としていたが宗派ごとの優先順位の問題であり、それらも方針に応じて浄土教や理趣経も研鑽対象にしていた。特に理趣経はどの宗派でも重く見られていたため、この部分においては解釈の仕方はともかく周知な部分になる。法華宗はともかく、天台宗というよりも比叡山延暦寺は、法華経の経典を最重視しようとしないという時点で非難・失格の対象で、その顔色の窺わせ合い次第に散々格下扱いするという、今の日本の低次元な教育機関と何も変わらないようなただ下品で汚らしいだけの老害権威を振るい続けた
ここは、20世紀以降はすっかりの話だが、寺院の敷地内・修行道場内での場所ごとでの規定、いわば現代における会議室などの場ごとの基本的な社会規律が前提にあった上での話になるのは当時も同じ。江戸中期までの前後で徳川政権が、禁止した不受不施を改めようとせずに各地で根強い人気をもち続けた所が多かった法華宗の力を弱めるために、修行僧が商業施設に出かけて女遊びをしていた現場を押さえたとし、捕まえて市中に引き回して大恥をかかせて寺院の評判を下げるなどに躍起になるが、わざわざ食楽や女遊びを推奨している訳ではないという前提がまずあった上での浄土真宗の場合は、誰かに迷惑をかけているということでなければ、道場外で女と会ってどうこうしようが、表立って妻をもとうとすること自体( 特に寺院内でその正式な話がされるなら )別に問題ではないことは、戦国前期以前からそうだったのである。なお、道場外での肉食についても同じことがいえるが、肉食のそもそもの目的は、植物も含めての殺生食を、その形次第に罪人の所業・悪だと一方的にねじ伏せればいいものではないという帰依者たちへの改革が元々の目的で、僧側の食に関する規律はそれぞれ設けられていた。前後するが江戸時代になると、食に関する規律は諸大名間でも仏門が見習われる形で気を配られていた所もある。突発的な飢饉に備えて月1日は絶食の日を武家側で設け、毎月1日分の穀物を自発的に備蓄し、それで飢饉になった時に武家側が領民側にできるだけ負担をかけないようにするといった工夫をする所も少なくなかった。それと同じように浄土真宗での肉食の戒律の方もそれぞれの寺院ごとで、例えば緊急期間だったり、この日は肉食は構わないなど工夫をしていた。妻帯の話に戻り、浄土真宗では開祖の親鸞自身がそうだった( 恵信尼を妻としていた。えしんに )ように、浄土真宗での公認次第で妻帯僧が住職になることやその僧籍入りの決定( けつじょう。選択の せんちゃく と同じく仏門では、そちらの読み方を用いることによって、いい加減な気持ちでそう判断した訳ではないという、厳格な意味の示し合いになる )の確認のし合いによって認められた他、地元有力の檀家( 地域家長 )と檀那寺( 浄土真宗の寺院 )との縁を深めるための、宗僧の子息と地域家長の娘との縁談( 宗僧の娘と地域家長の子息との縁談 )も、浄土真宗では何の問題なかった。そこまで露骨にはしなかった源空が穏健的に浄土教重視を広め始めた時でさえ、今までの仏教の優先順位と違うから異端・破戒だと賛否で大騒ぎになった中、親鸞は浄土教主体だけでなく妻帯も前提としたさらなる破戒( 次世代 )規律を敷き始めたため、浄土宗どころではないほど浄土真宗は、公儀の表向きからは延々と格下扱いに非難され続けてきた部分になる。だからこの文献では遺言を認めるという世襲権的な書き方がされているのである。浄土真宗のこの相続権的遠隔寺領統制をやめさせようと比叡山延暦寺は( 公的教義への顔色の窺わせ合いに逆らっていると )延々と非難し続けた。これについては中世末までのキリスト教社会も全く同じで、聖職禄・聖属官職( 司教・高位司祭・修道院長とその役職者。聖堂参事会員。神学者など )は表向きは妻帯者であってはならない、世襲制であってはならないことがキリスト教社会でも強調され続け、日本と全く同じそこは公的教義体制の顔色の窺わせ合い次第でそう見なされるか見なされないかの悪用が続けられ、確かに世襲制ではなくても高位聖職( 各地教区ごとの司教権威 )は上級貴族たちが独占し続け、教義力による選任的支持は教区( 司教座 )の支え役の修道院長や聖堂参事会長までの世界だった。しかしそれもアウクスブルク( ドイツ・バイエルン州 )での人文主義( 教会改革 )の機運が高まり( ゲルマン圏の王族代表・オーストリア王室のマクシミリアン1世が人文主義を奨励していた )、聖書研究( 次世代解釈 )に優れて注目されていたマルティン・ルター( プロテスタントのきっかけ )がこれを機に、その旧体質に対して親鸞と同じようなことを言い始める。聖職者になるなら離縁せよとする今までの伝統体裁を、教義権力への顔色の窺わせ合い次第に悪用しているだけだと批判しながら、妻帯神学教授第1号を示す( だけでなく、これまで聖書研究においてラテン語が強要され続けてきたその顔色の窺わせ合いも破って、ドイツ語での聖書の新解釈研究書まで作成してしまい、当時の各都市の印刷業の流行も手伝ってドイツ語ルター解釈聖書が爆発的に流通する。エラスムスがその前身を既にしていたが、内容は遠回しだった上にマクシミリアン1世による人文主義奨励庇護もあったため大目に見られたが、帝国議会の建前を完全に超える形で急浮上したルターは、その賛否の中でマクシミリアン1世が亡くなったこともあって、低次元な教皇庁と司教権威をたらい回してきた貴族どもの首根っこを掴み始めた帝国議会主体による、聖職者の人事統制の一環としての異端審問にかけられることになる。ルターが亡くなった後も教会改革を巡る加熱は一向に収拾することはなく、シュマルカルデン都市同盟とアウクスブルク信仰告白の裁定へと進む。最初は新教プロテスタントなどキリスト教徒として認めないと帝国議会は強気で通し続けるも、その総議長である皇帝カール5世がのちプロテスタントという存在を条件付きキリスト教徒だと曖昧に認知してしまい、ドイツ外へのプロテスタントの波及のきっかけとなる )ようになった。ルターはカトリック派( 公的教義の伝統重視の西方教会主義 )たちからは破戒だと猛批判されるも、人文主義の枠を越え始めたプロテスタント派( 教義権力を悪用しているだけの公的教義の伝統と決別の地政学的地域交流間重視主義 )たちからルターは熱烈な支持を受けることになった所も同じになる。ポルトガルの世界間航海技術がきっかけのアントウェルペン国際産業交流社会化で、大経済時代に入り、下の間で資本力を身に付けるようになったことで地域間の福祉運動の改革( 下同士の助け合いの人文主義の芽生え )も始まっていた中で、下同士で下を作らせ合う( 下同士で偽善憎悪を押し付け合わせ低次元なままであり続けさせる )力関係に逆らったら天罰を受けるだの地獄行きだのの、その教義権力への顔色の窺わせ合いの悪用ばかりされ続けてきた偽善序列教義社会のあり方に、今までずっと懐疑的だった人々の怒りがとうとう抑えきれなくなった時代に入ったのが、16世紀だったのである。日本では13世紀に、親鸞の手本となった源空上人がひと足早く、今までの偽善教義社会と違う新解釈( 他力信仰不足を補う規律 )を始めたひとりとして支持・認識され始めた。そこからさらに改革的な解釈を進めた親鸞上人のやり方も人々も改めて支持するようになり、他宗も見習い合いの観点では無視できないものにしていったのである。等族指導( 国際地政学的な評議名義性と選任議決性といえる議事録処理・人事敷居管理・議会的品性規律 )の手本の示し合いを徹底的に面倒がり合いうやむやにし合っているだけの何を逆らっとるんだ観の顔色の窺わせ合い教義体質( 偽善老害体質・低次元化体質 )へのだらしないしがみつきは、日本でも西洋でも当時でも現代でも同じ、所詮は人間のやることの、明日は我が身の教訓である。
・エラスムスとルター = キリスト教社会の他力信仰一辺倒の顔色の窺わせ合いに対決的に自力信仰不足に取り組む
・源空と親鸞 = 日本の仏教社会の自力信仰一辺倒の顔色の窺わせ合いに対決的に他力信仰不足に取り組む
・自力信仰 = 人間性・当事者軸・痛感性・自己責任境界観
・他力信仰 = 社会性・主体軸 ・教訓性・社会責任境界観
・自力信仰( 陽 )と他力信仰( 陰 )による両立規律( 太極。二律整理力 )が本分的終点( 合格・高次元/失格・低次元 )の敷居管理力。異環境間の境界範囲ごとの目的構築力・組織構想力・国際地政学的文化交流観・近代民権言論の基本中の基本の最低限
浄土真宗では戦国前期に、宗内の僧に対する遠隔地間での妻帯・縁組の公認体制・相続権的保証という、まずは上同士の地域家長単位からではあるが、前近代的な謄本登録の下地が先駆けで再構築されていった。室町時代は、明確な士分と半農半士の境界( 次世代身分制議会 )などいつまでも曖昧なまま、そこが一向に整備されることはがなかった。だからこそ閉鎖有徳化せざるを得なかった各地の大小の地域家長たちというのは、上層同士でいがみ合ってばかりでうまくいっていない地方ほど、証如時代から本格化する浄土真宗の先駆けの敷居序列の軍閥運動( 既成権力と決別ならではの身分再統制 )の呼びかけに迷いがちだったのである。そこ( 地方再統一。地政学的遠隔領統制・広域統制 )をいつまでも議事録処理( 明確な代表格中心の地方議会化とその人事敷居改革 )できていない世俗側を慌てさせた大事な部分になる。戦国後期の突入期の織田信秀( 織田信長の父 )、武田信虎( たけだ のぶとら。武田信玄の父 )、長尾為景( ながお ためかげ。上杉謙信の父 )時代に、この頃はまだ中途半端ながらも地域家長同士( 武士団同士 )での縁組もこれからは戦国大名( 世俗権威としての地方の明確な代表格 )の公認次第( 家長権序列の地政学的裁定次第 )とする、まずは上からの謄本登録制を急に改め始めるようになった( 代表格中心の序列権威による公認を得ていない権限をいったん返上させる地方再統一を始めた )のは、先にそれができていた浄土真宗の背中を、地方の世俗側( 武家側 )が慌てて追い始めたのが実態だったのである。そして今度はその浄土真宗の敷居に対し、巻き返し的に一気に追い抜く尾張再統一( 旗本吏僚体制と前期型兵農分離の次世代官民再分離 )を果たしたのが織田信長である。織田信長が街道整備( 国内地政学的交流網・閉鎖有徳改めのためのいったんの総巻き上げと再手配 )の一環として、下々ひとつひとつ( 村役単位と雇用序列の細分化・前近代産業法改め )の謄本登録体制まで整備するようになったため、浄土真宗だけでなく他の戦国大名たちも、その織田信長の総家長的( 次世代国家構想的 )な移封体制( 赴任先への人事異動の国家構想的な管区整備体制。寄騎序列体制 )などできていないことを見せ付けられてしまった。所詮は地縁の枠組みから脱却できていない一所懸命体制( いっしょけんめい。代表格を中心に有力者単位に地縁固定的にはなんとかまとまることはできても、管区整備のための流動的な階層統制・前近代身分制議会すなわち次世代国家構想人事体制まではできていない。織田氏のように公務吏僚側と公務雇用序列の階層の細分化すなわち官民再分離が進められていない、大人の運動会止まりの総出体制のまま = 織田氏の敷居に追いついていない時点で交渉権は大幅に低下・上から順番に格下げされて当然の国際地政学的理由 )から次に進められていない、聖属側の浄土真宗はともかくとし、浄土真宗の敷居の背中を追いかけていた段階だった気まずい有力諸氏たち( 戦国大名たち )は、今度は慌てて織田氏の背中を追いかけ始めるも、格下げ( 人事敷居管理される家臣側の立場 )はどうにも免( まぬが )れずにつまづき始める気まずいばかりの有様となる。織田時代に公認有力者同士の縁組もこれからは絶対家長による謄本登録的な認知が前提とされたのは、中央総家長への意見提出という議会的な認知も得ていない内から、所属する菩提寺の宗派ごとの閉鎖的・非地政学的な不都合次第に勝手にいがみ合うことを今後はまず上同士から徹底的に禁止させる( 織田信長が今後の海外文化経済交流対策として、まずは上同士として家臣たちに、キリスト教の入信も含めて家臣それぞれの宗派の事情ごとでいがみ合わせないための人事統制に踏み込む。この事情が本能寺の変に大きく関係。便宜上は法華信徒である織田信長がキリスト教を認可・条件を敷居管理する立場を採っていた時点で世界文明的な壮挙。そこは本当は廷臣たちが世俗側と連携して整理しなければならなかった部分。国際地政学的に陛下を支えなければならないはずの世界間文化外交に情報戦的に対応できなければならなかった朝廷が一向にまとまりを見せず、モタモタと20年30年待っても議決できるのかも怪しい有様だったから織田信長がどんどん話を進めてしまい、話が進んでしまった後になってからようやく事態の重みを認識した廷臣たちが慌て始めた。だからこそのそのまとまりのない廷臣たちの折衝役を任されたのが最初、佐久間信盛、次に明智光秀 )ことも絡んでの、織田時代のその家訓改めが豊臣時代になお強調、徳川幕藩体制に踏襲される。下々までの次世代序列保証体制が進められるようになった織田時代と豊臣時代の人事統制の良例を参考に、江戸旗本だけでない地方藩士の下級武士層まで謄本登録保証されること( によって中級武士層以降に所属の足軽・中間の雇用序列も当初は安定。しかしのち江戸中期の大経済期後に経済対策の行き詰まりを見せるようになった反動期からは、まず足軽・中間と有力庶民の境界が売官的に曖昧になり、次第に下級武士・中級武士と有力庶民の境界まで準売官的に曖昧に崩れていった。特に豊臣秀吉が作ってくれておいた、低次元化防止のために必要以上に下同士で下を勝手に作らせないようにする庶民政治体制・産業側の身分制議会も崩壊し始め、農家の貧窮が原因の大地主と小作人の序列が再形成されていってしまった。経済対策の行き詰まりの江戸後半からは、生活権保証が守られなくなり不利になる一方だった大勢の下級武士と、同じく保有地権を維持できなくなった大勢の貧窮農家への救済対策にいつまでも向かわなかったことで、近代化の幕末の下地すなわち国際地政学的産業交流の認識が作られるようになった )になり、その天下の御政道( 徳川家を絶対家長とする裁定 )を基準とする参勤交代制、国替え制、長崎交易体制( 諸大名たちに海外交流を厳しく規制の鎖国政策・情報規制 )も可能とした。この家長統制の初動は、聖属側の浄土真宗から尻を叩かれる形で、世俗側が慌てて整備を始めたものだったといっても過言ではないのである
1489/12/29 尾張熱田の加藤図書助宗繁( かとう ずしょのすけ むねしげ )、笠覆寺( りゅうふくじ。真言宗。現在は笠寺の方で著名。かさでら )に田地を寄進する。加藤宗繁寄進状 笠覆寺文書。寄進状 永代寄進申下地之事 合壱貫弐百文。※ 寄進状の原文の書調はほとんど同じであるため省略し、後ろのただし書きの所だけ記載する。彼田之在所者( 愛智郡 )戸部の下弐反、但公方年貢六百文、水野彦右衛門方へ御さたあるへく候、此外諸やくあるましく候。※ 今回寄進する1貫200文の内の2反600文は公方( くぼう。室町代官 )の水野彦右衛門の御沙汰の地( 代官領的年貢地 )という、公儀( 室町権威 )にも配慮した寄進だったことが窺える。あまり紹介されないが、のち津島社、熱田社と関係の寺社領商工権との関わりが深く、商才に優れていた( 織田信秀以降の時代に重宝 )この加藤家に関する文献が、次第に愛知県史10に頻繁に出てくるようになるため、解説しておきたい。この加藤一族は熱田神宮史の方でも、今の愛知県瀬戸市( 中世以降の瀬戸は陶器技術に優れ、小都市化していた )にもいた加藤一族との商工権と連携し、織田氏による尾張の農工商整備に協力的に動いていた様子が窺えるようになる。明記こそ見られないものの、瀬戸という位置とも関係することから、そこからはそれほど遠くはない美濃恵那郡の有力の遠山家( 名族加藤一族。戦国前期では美濃東部をまとめる、あなどれない有力国衆だった。のちの時代劇の遠山の金さんの元になった家系 )からの派生( 家来筋 )と見られる。美濃恵那郡の経済事情として、州はまたぐが信濃木曽郡との物流交流は古くからもっていたことで知られるため、同じく尾張春日井郡瀬戸との物流交流も古くからもっていたと見てよい。のち羽柴秀吉の親類家臣として頭角を現わし大手大名への大昇進を果たすことになった加藤清正の、その父の加藤清忠は、美濃加藤一族ではあるものの序列の低い家来筋で、美濃衆の抗争で士分特権を維持し得ず、生計のために鍛冶屋に転身したという経緯をもつ。この加藤清忠は、鍛冶師の娘との結婚のツテで鍛冶屋に転身することになったが、この鍛冶師の娘というのが、木下藤吉郎( 豊臣秀吉 )の母の親戚という。加藤清正がまだ3才の 1565 年頃に父の加藤清忠は病死してしまうが、1565 年頃といえば、浅野家の親類上層扱いを得た木下藤吉郎が織田信長から幹部候補生扱いされて目立ち始めた頃で、加藤清正は幸いにも、上級士分扱いされ始めていた木下藤吉郎から養育支援が得られた。のち織田氏による近江浅井氏制圧後に、羽柴秀吉が旧浅井領を任されて以降の 1575 年頃には、加藤清正は羽柴秀吉の親類家臣としての明確な士分扱いとなり、若年期から上級士分側としての等族指導を羽柴秀吉から直々に受けることになる。大政所( おおまんどころ。豊臣秀吉の母 )は美濃の関の地の国衆である関一族( せき。こちらは発祥は藤原一族といわれる )の娘だったといわれ、序列はあまり高くはない家来筋の娘だったのだろうがこれ自体は事実だっと思われる。関一族といえば伊勢の有力国衆の平氏の末裔が著名だが、今の岐阜県関市の関一族の方は、それとは別の藤原一族の末裔といわれる。こちらの関の地は製鉄技術に優れた小都市として知られ( 現代でも岐阜県関市は刃物の名産地としての伝統が続いている )、ここの鍛冶職人たちは美濃関一族の家来筋の末裔たち( その地縁を由来とする半農半士たち )が顕著だったのは間違いない。豊臣秀吉の母の出身と、その親類といわれる加藤清正の母の出身のつじつまもピッタリ合う。間もなく織田政権によって士分と庶民の明確化( 大幅な前近代産業法改革。庶民政治体制 )がやっと進められるようになるが、それまでは下級武士と庶民の境界など曖昧だった、史学上でろくに注目されてこなかったその狭間の時代をこうして改めて見渡してみれば、見落とされがちな大事な部分が見えてくるようになる。美濃遠山一族( 恵那郡をまとめていた加藤一族の上層たち )は現役の名族( 本家筋的 )の認識はされていた一方で、尾張近隣に点在するようになった加藤一族の家来筋たちは、国衆( ちょっとした広さの小武士団的な地域家長 )といえるほどの家系はなかったことで、旧室町権威側の士分階層から見れば認知などしていない下層扱いだった。しかしその家来筋たちはその出身を誇りに、一族同士で地域間で連携し合いながら商工権側でちょっとした力をもっていた様子が窺え、点在していた加藤一族は下の間から見れば十分に有力者だったといえる。尾張東部の瀬戸( 陶器技術小都市 )でちょっとした力をもっていた加藤一族、熱田社の社領の一員として名が見えるようになる加藤一族、本項文献での尾張の大手寺院の笠覆寺の寺領関係者の加藤一族、のち目立つようになる津島社の商業権の有力者・資本家の加藤一族、これら点在は地域間で連携しながら、織田信秀時代( 戦国後期 )の改革( 身分再統制。有徳と産業法の整備。織田信長の前期型兵農分離の前身 )に理解を示して協力的に手助けするようになる。特に津島社と熱田社での流通経済特権側で目立つようになり、産業面で織田家から優遇的に認知されるようになる加藤家は、戦国後期への転換期において活気をもってだいぶ社会貢献していた、優れた一族だったといってよい
1489/12 尾張( 大須庄 )石田郷の毛利実忠、僧覚清に畠地を売る。毛利実忠売券 真福寺文書。永代売渡申下地之事 合畠壱段 坪付中切道ヨリ東ニ田畠大アリ 又道ヨリ西ニ畠小アリ 三方ニ堀アリ。右此( 畠大と畠小とその堀までの三ヶ所について )下地者、依有要用、代弐貫伍百文ニ北野真福寺江( へ )売申所実正也、但( ただし )此下地ニ年貢六百七十文候、次毎年色成ニ三拾文毛利江( へ )納可申候、若於此下地迄子々孫々、有違乱煩申仁者、時之為御代官、可有盗賊御沙汰也、況他之不可有妨者也、伋為後代亀鏡、支証状如件。 延徳元年酉巳十二月日 売主毛利掃部助実忠( 花押 ) 買主北野真福寺 広蔵寺本買主覚清( 花押 ) ※ 売券・買得。売主の毛利掃部助実忠( もうり かもんのすけ さねただ )が代金2貫500文にて真福寺に永代売り渡しをしたという証状。ただし書きで、この年貢地670文の内の30文は、この永代保証に対する違乱を取り締まる御代官( 室町権威の地方代官 )とのやりとりの費用( 毎年の謄本登録的な書状の作成費用など )に充( あ )てられるとし、そこは毛利実忠が請け負うと補足。買主は広蔵寺の僧の覚清とあるため、この広蔵寺は真福寺からの分寺と見られ、すなわち真福寺は大きめの寺領をもち、この毛利実忠はその寺領との結び付きをもつ地域家長だったことが窺える。覚清が個人的に買得したという意味ではなく、寺領管理としての受領名義人( 住職・管理者 )が覚清といった意味になる。毛利姓や安田姓は、鎌倉時代にはかなりの力をもつようになっていた大江( おおえ )一族で、尾張毛利氏( 愛知県 )の他、越後毛利氏( 新潟県。安田家が顕著だった )、安芸毛利氏( 広島県 )など各地でそれぞれちょっとした力を有していた。この中で安芸毛利氏がのちに、毛利元就( もうり もとなり )を輩出し、中国地方の覇者として台頭したため歴史的に注目されている。大江氏は元々は宿祢( すくね。宿禰。神官軍属 )の土師氏( はじ )を源流とし、そこから有力武士団化した一族だということで、この毛利実忠は、熱田社の神領武士たちの目録で多く見られる土師一族との結び付きも強かったかも知れない。のち織田信長に見込まれて活躍が目立つようになる斯波一族出身の毛利秀頼( もうり ひでより。戦国後期にはすっかり実権など無かった尾張武衛家の斯波義銀の弟。しば よしかね。のち信濃南部の政局の飯田城主に大抜擢。本能寺の変が起きずに織田政権が確立していればだが、毛利秀頼は管区整備側の上級吏僚の仲間入りの第一歩を意味していた )が毛利姓を名乗るようになったのは、織田信秀から織田信長の時代にかけての尾張再統一の際に、尾張毛利一族をまとめるため( 正規武士団らしく格上げをするため )に斯波家( 名族 )の名跡を利用の、養子入りという経緯だったのかも知れない。桶狭間の戦いで、今川方の本陣を襲撃することになった織田方は、本陣に乗り込んだ下級武士の服部一忠( はっとり かずただ。服部小平太 )が今川義元を発見して負傷させ、しかしあと少しの所で服部一忠も負傷してしまった。あとから駆け付けた下級武士の毛利良勝( もうり よしかつ。毛利新介 )が加勢、服部一忠が手柄を譲る形で好機だと催促・応援し、今川義元を討ち取ることができた。織田信長は、今川義元を取り逃がすことなく協力して討ち取った、いがみ合うことをしなかった服部一忠と毛利良勝のふたりを直々に絶賛し、共に二段階昇進の格上げがされたため下々からうらやましがられた。この毛利良勝は尾張毛利氏の中での序列の低い家来筋だったが、毛利秀頼( の家中 )が以前から目をかける認知をしていたといい、織田信長は毛利秀頼( の家中 )のその点( 部下の才覚に面倒見よく大事にしていた所 )も評価している。本項の売券についての本題に戻り、地域家長たちそれぞれが地元の生活権を守るために、寺院を通さざるを得なかった( 家系ごとの継承・相続権の身分保証的整備などろくに進められていなかったからこそ、寺領単位の旧態相続慣習に頼らざるを得なかった )ことと関係してくる当時の売券は、寄進の意味合いもあったとは思うが、寄進ならともかく売券( 身分制に響いてくる不動産取引 )にも拘わらず、ここでは証状説明の中にすら室町代官の当座名義が無い。一方で尾張毛利家は地域家長としてはちょっとした力をもつ国衆だったことから、室町体制の代官権威( 地縁があったり無かったりのよそ者 )よりも地元小権威( 国衆扱いの地域家長 )の名義の方が重く見られがであった当時の様子が窺える。この売券文献では、地元小権威の明確な名義によって売券・買得が行われているだけまだいい方といえる。ただしそれは、その地元小権威の支持先次第の、室町行政権威よりもその有力家臣筋の権威を中心とする上同士の対立次第で、その保証権の事情も大いに左右してくるという、その保証権の一貫性の無さ( 強力な総家長による公認でない所の曖昧さ。自分たちの地方のもろさ・まとまりの無さ )が問題になってくる。だからこそ戦国後期の地方再統一( 地政学的領域敷居体制 )への認識( 国衆たちにとっての代表格とその方針・敷居序列の明確化を確認し合う地方改革が前提の争和 )に向かうようになるのである
1489冬頃 織田敏定、亀泉集証( きせん しゅうしょう。室町権威から一目置かれていた相国寺蔭凉軒の軒主 )に美濃の匠工二人が作った紬( つむぎ。マユや綿による紬糸から作った丈夫な布 )を贈る。蔭凉軒日録。※ これまでもそうだが、中央寺院から頼られた織田敏定が、現地では常に物不足で困って至ることを配慮して、上質な布を届けさせている。こうした余裕もなくまとまりのない地方が多かった中での尾張織田家は、かなり頼られていた様子が窺える
字数制限の都合で今回はここまでになる。当初は千秋氏の概要だけざっと紹介し、本能寺の変を最後にまとめ、5年続いたこの 近世日本の身分制社会 を2024年以内に投了しようと思っていた。しかし織田家のために果敢に戦い、進んで厳しいもち場を請け負って多くの社人たちを失った上で、誰にも文句を言わせない形で軍役免除・優遇扱いされることになった千秋家の事情を伝えるには、それまでの社領と寺領の閉塞事情が解っていないとそれを伝えるのも簡単ではないと判断した。ずっと避けてきたが結局文献を用いることになってしまい、だからいつ終わるのかがまた見えなくなってしまったが良い機会だったとも思っている。手遅れ寸前と手遅れの狭間まで性善説放任し続け、その時になってから片手間感覚で解った気になり合う偽善憎悪の顔色の窺い合い・押し付け合い・たらい回し合いを繰り返していても大事なこと( 人間性・痛感性・当事者軸と社会性・教訓性・主体軸の国際人道観 = 近代議会的な評議名義性と選任議決性の敷居管理 )など何も見えてこない。現代の目的構築や組織構想の敷居でも同じことがいえることとして、どの段階でどうしなければならなかったのか、どこからおかしくなったのか、最初からおかしかったのか、どこが見落とされてきたのか、どこがどうごまかされ続けてきたのかの地政学的時系列を荀子主義的に追跡・原因究明し、ISO9000系的処理をしていく等族指導の認識がなぜ必要なのかが伝わればよいと思い、しばらくこの調子で続けていく。