本能寺の変とはなんだったのか75/95 本能寺の変の全体像21/41 2024/11/01
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~20」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
※ 本能寺の変の全体像20 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01/19
今回、千秋氏に触れるということで、Wikipedia 等での千秋氏についてのネット上での情報は少なく、また熱田神宮史、津島市史だけで情勢を追うことは難しかったことを確認した。愛知県史 資料編10( 清書文献 )からなら、戦国後期の突入期までの情勢をざっと確認できそうだったため、全体像を整理していくことにした。熱田神宮の有徳特権( うとく の意味は広義的には地域ごとの伝統教義文化のこと。狭義的にはそれを後援する武家側の有力者たちや庶民側の有力者たちのこと )の様子は、現在の熱田神宮から見て北側は高蔵町まで、東側は41号線という大通りをもう少し東あたりまでが熱田社領だったようで、江戸中期には3000石近くあったかも知れない。それとは別の、武士団としての性質もあった千秋家としての本領は、熱田からは離れている野並( のなみ。愛知県名古屋市天白区野並。てんぱく。今の名古屋市営地下鉄の野並駅から北側を基点に、西は天白川まで、東は今の相生山緑地公園 あいおいやま ともう少し東側までの広めの一画が、千秋氏の伝来の領地で、織田信秀・織田信長時代に改めて公認されていたことが確認できた。この野並の封地は、豊臣時代から徳川初期時代にかけて、地価を決める上田・中田・下田 じょうでん・ちゅうでん・げでん の検地・測量の基準を決めながらの豊臣時代に、千秋氏の野並の地は大雑把に700石ほどと査定されていることから、江戸中期には実高1000石くらいはあったと見られる。表向き下田扱いは、道路や小川・水路や山林や資材置き場といった共用の場と見なす免税・非課税対象となる。元禄から宝暦 げんろく ほうれき あたりでの大経済期後、経済対策に行き詰まって迷走が顕著になる江戸時後半を迎えると、庶民側に有利だった定免法 じょうめんほう から、幕府権力側ばかりに有利な検見法 けみほう 取れ高の毎度の監査税制 への切り替えによる増税に上が目を吊り上げる一方になったため、庶民政治側は中田、下田であることを必死に言い訳をした。江戸時代の三大一揆である近江天保一揆 おうみてんぽういっき の時、それまで特別扱いのユルンユルンが続いていた近江の検地も急に厳しさが強められ、明らかな下田地域の多くを鍬下年季・下準備期間 くわしたねんき も無しに急に中田・上田扱いする増税検地を強行しようとしたため、検地を妨害し始めた近江の庶民政治側と幕府権力側との対立が大規模化する初動となった。幕末に近づいていた頃に起きた近江天保一揆は、賦課・税制を始めとする産業法をいい加減に近代体制へ切り替えなければならない時期に来ていてことははっきりしており、江戸中期以降に、庶民政治側の身分制議会の一環のはずである田畑永代売買禁止令など体を成しておらず、もはや下級武士と有力庶民との境界など形ばかりで半壊していたからこそ、近代型の身分制議会に改めなければならない時期に来ていた、既に幕末の前身を見せ始めていた一揆だったといえる。上田・中田・下田を査定するという方式での、国家らしい測量統一での検地の原型を始めたのが、織田信長の施政予定をよく把握していた豊臣秀吉である。天下総無事戦・仕置き戦による日本全域巡回で、絶対家長・武家の棟梁を中心とする中央総家長政権の公認・謄本登録など受けていないどころか、格下げ覚悟の意見提出とその受理という中央と地方の間での政権議会的な交流すら行われていない、旧室町体質のままの地域の旧態慣習で自称していたに過ぎない非公認武士団の閉鎖序列とその非公認領地特権の自治権運動はこれからは世俗・聖属共に許されなくなる、帯刀・武装の一切を禁止・自称武士団解体の刀狩りによる官民再分離が強調された。その一方で庶民政治側が資産を蓄財しやすくなるようする、すなわち農地、商工地、寺社等の整地拡張と用水路工事や道路工事のための資材・設備・人員を準備する費用を捻出しやすくするための、近世では4公6民なら仁政といわれた中で、3公7民といっても大げさではないユルンユルンの検地による地価整備が豊臣時代に前例手本として進められてしまった。その次世代身分制議会を当面は見習う他ない、その方針を急に大幅変更する訳にもいかない徳川政権の初期時代は踏襲した部分も多かったからこそ当時の検地は、幕府への奉仕義務を代償にしてでも家格欲しさで上田にしようとする意図が働かなければ、実高より少なめな傾向があったのである。国内で大規模な低次元ないがみ合いを2度と繰り返させないための、公務士分側にとっては地獄の懲罰軍役であった文禄・慶長の役のからくりは、前近代強国化を果たした日本を対等国だと認めようとせずに、国際交易の仕切り直しにおいて日本をこれまで通り格下家臣扱いに朝貢を要求し続けようと、今まで通りの世界最強の王様を気取り続けようとした明国・中国大陸政府 みん を懲らしめるのと同時に、武士側を疲弊させて庶民側に助けてもらうために頭を下げなければならないかのように仕向けようとした露骨な一石二鳥の民力強養政策だったのはいうまでもない。豊臣秀吉が亡くなると、気まずい豊臣家臣たちが慌てて豊臣秀頼をかつごうとしていただけで、そもそも政権序列を親類で固めようなどしていなかった豊臣秀吉が、次世代政権のためになるのかどうか怪しい子孫繁栄とやらの権力的なものなど望むようなことなどしていない。なんなら次の段階に進むためなら短命政権で終わっても構わないと、どの家系が引き継ごうが交代制に過ぎんと思っていた節すら豊臣秀吉は強かったのである。自身がまさにそうだったように草の根の有志が大事だとする近代人事感覚だったからこそ、豊臣秀吉の次世代人事のあり方に、豊臣秀吉が亡くなって間もなくの関ヶ原の戦いで、本能寺の変に続く第二次下方修正の旧廃策を敷くのかどうかを迷った諸大名たちも多かったのが上同士の実態である。下方修正する派つまり権威的人望はしばらく重視せざるを得ないということでやむなくその旗頭となった徳川家康と、しない派つまり有志的人徳重視の国造りの執権になろうとした石田三成とがどのような立場だったのか、見落としてはならない上同士の大事な背景でもある。織田信長と豊臣秀吉の近代的な人事敷居というのは結果的に、下方修正を2度せざるを得なくなった本能寺の変と関ヶ原の戦いに起因しただけあって、より文明強国化として日本が世界に手本を見せ付ける好機が、時期尚早と見なされてしまった非常に惜しい、残酷ともいえる話になる。その理解には今一度の国内統一後から100~150年はかかりそうだったことは、石徹白騒動 いとしろ そうどう と重なった郡上一揆 ぐじょう いっき の迷走の様子からもはっきりしているように江戸時代に起きたこうした大規模な一揆というのがそもそも、織田信長と豊臣秀吉の人事敷居が下方修正されなければこの陳情運動の内容ももっと高次元なものになっていた、すなわちより近代民権化 = 庶民政治側の次世代化・産業法強化 を巡るものに変わっていたのも間違いない。ここは現代でも同じことがいえる残酷な話であり歴史・人類史の実態でもある話として、上方修正しようとしても後で皆で下方修正しようとする反動も必ずあるからこそ、だからこそ荀子主義的手本による大幅な上方修正を誰がいったん示さない限り上方修正に向かうことはないのは現代でも同じである。それが世界間社会心理史以前の、自国史・教義圏内異環境間史・国内地政学的社会心理史の実態なのである。1の室町末期状態から10に畿内再統一した織田信長の敷居を明智光秀がやむなく否定することになった後に、そこからやむなく8まで下方修正したのが豊臣秀吉、さらに6まで下方修正せざるを得なかったのが徳川家康の立場。最後にまとめる予定 )がそうだったことが確認できた。情勢説明に入る前の補足として、熱田神宮はよく「日本の三大神社」なのかどうかについて迷われるが、ここは少しややこしい話だが熱田神宮はそちらではなく「日本の三大宮司( ぐうじ )」のひとつ、ということのようである。
三大神宮 = 島根県の出雲大神宮( 出雲大社 )の格式、三重県の伊勢神宮の格式、奈良県の石上神社の格式
三大宮司 = 広島県の厳島神社( いつくしま じんじゃ )の宮司の格式、愛知県の熱田神宮の宮司の格式、静岡県の浅間大社( せんげん たいしゃ。富士山本宮浅間大社 )の宮司の格式
本項は千秋氏の紹介ということになるが、戦国後期から戦国終焉期までの千秋氏の事績のみだけ追っても情勢が何も見えて来ないため、主に愛知県史 資料編10( 尾張・三河に関する 1475 ~ 1559 年の文献清書 )を基点に、そもそも当時がどのような情勢だった中で、熱田神宮と宮司( しきたりと神領を管理する立場 )の千秋氏はどうだったのかの様子( 有徳特権の変容 )を整理していくことにした。まずは崩れる一方の室町体制の有力者ら・高官らの様子や有徳( 聖属領側・寺社領側 )の特徴をざっと挙げながら、整理していく。
※ 1467 年に東軍旗頭の細川勝元( ほそかわ かつもと。足利親類衆の最有力・細川家の本家筋。細川本家は京兆家や京兆細川家とも呼ばれた。けいちょう )と、西軍旗頭の山名宗全( やまな そうぜん。但馬守護。たじま。兵庫県北部と鳥取県の本領を元手に一時的に一大勢力に台頭する )とでの応仁の乱が始まり、1474 年に細川政元( ほそかわ まさもと。細川勝元の次代 )と山名政豊( やまな まさとよ。山名宗全の次代 )との間でいったん和議が進められるも、上同士の身分制議会改めが進むことはないまま( 本分的終点・国際地政学的政権議会観の人事敷居といえる評議名義性・選任議決性を巡る前提という、上同士が本来できなければならないその総選挙的・畿内再統一的な基本中の基本 を前提に争うことがそもそもされなかったまま )激しい対立( ただの目先の利害次第の偽善憎悪の押し付け合い )を煽り合う争い方ばかりしてしまったことで、各地方間だけでない各地方内・各郡内ごとに下へ下へと波及していった利害禍根( 目先の利害次第のただの偽善憎悪のたらい回し合い・押し付け合い = 旧身分制議会の崩壊 )がそう簡単に収拾に向かう訳もなかった。ズルズルダラダラとその尾を引い続けたという意味で 1475 年以後の便宜上は、旧東軍派( 表向きは本流権威派のような意味合いが強い )、旧西軍派( 表向きは反権威派・不当反抗派な意味が強い )という記述の仕方をしていく
1476/02、尾張・遠江の守護の旧西軍派の斯波義簾( しば よしかど )が、旧東軍大将の細川氏の要請で遠江攻略に動いた駿河総州・今川義忠( いまがわ よしただ。旧東軍細川派 )と戦い、今川義忠を敗死させる。
1476/09/12、( まず経緯として )足利義教時代に三河一色氏が誅殺( ちゅうさつ。誘殺的な上意討ちが多かった )され三河領の巻き上げに動かれたのち、将軍権威( 中央権威 )を代理するようになった旧東軍旗頭の管領細川氏が有力家臣の東条国氏( とうじょう くにうじ )を三河守護代として送り込むが、東条国氏は三河の一色派( 旧西軍派 )たちによる旧領復帰闘争に苦戦していた。三河の一色派たちの勢いを抑え込むことができない流れに責任を感じた東条国氏は( 1476/09/12 に )自害。東条派たち( 三河の旧東軍派たち )はしばらく抵抗を続けるも、1477/09/23 東条氏は没落。
1476/11/13、尾張守護代の織田大和守敏定( おだ としさだ。やまとのかみ。旧東軍派 )が、織田伊勢守敏広( おだ としひろ。いせのかみ。旧西軍派。この伊勢守家が尾張織田氏の本家筋だったが、弟筋である大和守家の方が力をつけ始めていた。伊勢守家は、旧西軍派として台頭した美濃守護代の斎藤妙椿 さいとう みょうちん の後押しを得るようになる。斎藤妙椿は応仁の乱を機に西軍派として頭角を現わし、美濃守護の土岐氏を上回る美濃近隣の主導となる )と戦う。
1477/10/02、斎藤妙椿( さいとう みょうちん。表向きは美濃土岐氏の補佐役・守護代の立場だが、事実上の美濃の中心人物として台頭 )が、尾張と近江の旧西軍派たちを呼び掛け、美濃勢と連合で近江に出陣。旧西軍派の南近江六角氏に加勢する形で、旧東軍派の北近江京極氏と戦う。
1478/02/28、旧東軍派の大将格の管領細川家を支える有力のひとつ細川成之( ほそかわ しげゆき。讃岐・阿波守護。香川県と徳島県の支配者。京兆家の家来筋だが大手で、こちらの家系がのちに京兆家を継承 )が、旧西軍派として再帰した三河一色氏を潰すべく三河に乗り込み、一色派( 三河の旧西軍派 )潰しに成功する。しかし三河支配を巡って旧東軍派同士で揉めたことで細川成之が一時、旧東軍派としての軍務を保留にする。
1478/08/20、中央の旧東軍権力者たちが、尾張の幕府方代官( 旧東軍派 )の飯尾為修( いいお ためはる )と織田敏定( 尾張の旧東軍派 )と連携して、織田敏広( 尾張の旧西軍派 )を討つための段取りを進める。
1478/09/29、足利義政が、美濃守護・土岐成頼( とき しげより )と美濃守護代・斎藤妙椿に、尾張守護代の織田敏定( 旧東軍派 )による尾張支配戦を支援する( 尾張の旧西軍派の織田敏広らを抑える )よう命じる。 ※ 美濃( みの。岐阜県 )はそれまで斎藤妙椿を中心に旧西軍派の立場を強めていたが、恐らくは交渉を経てここで旧東軍派に加担する姿勢を見せた。斉藤妙椿がそれまで幕府序列権力に従わない( 旧西軍派らしい )形で、美濃近隣の幕府代官所や有徳特権の統制権を握るようになったが、それを足利義政が正式に優遇的にその統制権を公認することを条件に、この時は従う姿勢を見せる
1478/10/12、美濃勢の加勢を得た織田敏定( 旧東軍派。尾張守護代 )による尾張支配戦( 旧西軍派らの排撃戦 )が優位に進められたという。尾張のその情勢が 10/18 に足利義政に報告される。※尾張と遠江( とおとうみ。静岡県西部 )の表向きの守護大名であった斯波義簾( しば よしかど )は養子筋で、武衛斯波家の明確な当主が決まるまでの繋ぎの代理人に過ぎないと見なされていた上に旧西軍派であったことで、旧東軍派であった尾張守護代の織田敏定が尾張の実質の代表格と見なされていた様子が窺える
1478/11/04、足利義政、千秋政範( せんしゅう まさのり )を熱田神宮の次期宮司に補任( 就任 )させる斡旋をする。後土御門天皇( ごつちみかど てんのう )にその奏上( そうじょう )をする。※ 宮司のちょっとした継承式典を、将軍( 足利義尚。あしかが よしひさ )の後見人( 足利義政 )自らが用意・斡旋することで、熱田神宮に旧東軍派寄りに動いてもらおうとする意図と見られる
1478/12/04、結局、旧東軍派に服する気がなかった斎藤妙椿は( 尾張の旧西軍派の織田敏広たちに結局味方して )織田敏定( 旧東軍派 )を攻めるようになる。斎藤妙椿に手を焼いた織田敏定は、信濃守護の小笠原家長( おがさわら いえなが。旧東軍派。しなの 長野県 )に援軍を求める。
1478/12/29、後土御門天皇、熱田社造営のための( 戦火で荒れ果てた熱田社領の再建のための )勧進特権の拡張を公認する。( 綸旨。りんじ。陛下直々の名義の入った勅令 ) ※ 熱田神宮との縁の強い諸寺院としても、熱田神宮は地方議会の象徴( その評議名義性・選任議決性のための名目・誓願式の大事な場 )でなければならないからこそ、尾張内での和平の呼びかけと、熱田社再建の協力を呼び掛ける姿も顕著になる
1479/01/19、斎藤妙椿、織田敏定と停戦し美濃に引き上げる。織田敏定は尾張二郡の領有を強調する。※ 熱田社再建のための和平の呼びかけ、ひいては陛下の心労への気遣いもいくらか働いたと見られる
1479 年 閏(うるう)09/05、斯波義良( しば よしなが )が正式な尾張守護( 旧東軍派 )として尾張に下向する。※暦の計算が現代ほど進んでいなかった当時は、閏月があったり 2 月 30 日があったりした
1480/06/18、本願寺蓮如( れんにょ。浄土真宗の中興の祖。乱世で荒れ果て続け、どの宗派もそうだったが何を信じていいのか解らず人心も離散しがちだった当時、その優れた教義力・経典整理力で非権威的に門徒たちを再結集させた。蓮如による本来の有徳の姿の手本をきっかけに、地域間のいがみ合いをやめさせ始めたことで注目され、蓮如は一躍大人気となり、上から下まで浄土真宗に帰依する者が急増した。飢饉を始めとする経済産業問題の解決の見通しを見せないまま揉め続けるのみの守護大名や室町権威の代官たちの権威、また大手寺社の権威ではなく、蓮如上人・浄土真宗の等族指導による地政学的交流によって地域間での和解がようやく少しは進むようになっていったことを理由に、浄土真宗の門徒たちは次第に室町序列権威からの徴税や労役の要請に従わなくなっていき、自治権的な庶民産業政治改革を独自で進める一方になっていった。蓮如としては世俗権威・武家側との協調路線の和平を努力するが、浄土真宗の門徒たちは、何の信用もない世俗・聖属両既成権威に従わない一方となっていった )、三河国の浄光・真慶・良全( じょうこう・しんけい・りょうぜん )に、秘事法門批判の御文を与える。本願寺蓮如御文写( 実如判 ) ※ 浄土真宗の三河への布教の強まりが窺えるが、吉崎御坊以外での一向一揆( 浄土真宗・本願寺による世俗・聖属両既成序列権力に対する反抗軍閥運動・地政学的領域運動・戦国仏教運動 )の勢いは、蓮如、実如( じつにょ )の次の証如( しょうにょ。證如 )の時代から目立つようになる
1480/10/12、伊勢内宮一祢宜( 禰宜。ねぎ。祭事の代表を務める神主。司祭 )荒木田氏経( あらきだ うじつね )、尾張国内海舟を押収した(智多郡)猿屋九郎の処断を伊勢守護代らに求める。内宮一祢宜荒木田氏経書状写 内宮引付。(荒木田)氏経判 石河修理進殿 宛て 内宮一神主。※ 2つ目の書状は 長野殿御宿所 宛て ※ 3つ目の書状は 伊藤帯刀(国景)殿 宛て。3つの書状の文面はほとんど同じ ※ 1476 年の時点で、伊勢神宮の内宮神官の荒木田家の書状が頻繁に出てくる。当記事では大幅に省略するが以後も頻繁に出てくる。戦国後期の総力戦・領域戦体制の認識が強まっていなかった当時の日本の深刻な閉鎖国内地政学観から生じる訴訟の様子が、伊勢内宮の神官の立場であるこの荒木田家の書状からもよく窺える。地元有力者が利害次第に荷止めに動いたり、遠隔荘園領( しょうえん。神戸領。御園領。御厨領。かんべ。みその。みくり )の奉納費用の滞納のたらい回しやその職権のたらい回しが横行した他、1482 年あたりから各地の売券・買得( ばいけん・かいどく )の書状が急増し始め、それが中央権力または地方権力の代官所・公事が形だけでも通っていれば( 名義が入っていれば )だいぶマシだが、半分以上がそれが通されていない、室町権力の認知の及んでいない地元有力者間や寺院に対する勝手な売券発行の横行が目立つようになる。伊勢神宮や大手寺院の各地の遠隔荘園領だけでない、伊勢道者・白山道者( この道者の意味は、元々は寺社を往来するための道路の管理責任者とその有徳通行権のこと。海運権にも関係していたと思われる )といった職権の勝手な売券発行の横行も同じで、ただでさえ下に対する身分制議会観など半壊していた中で、崩壊を加速させるのはいうまでもない。すなわち下同士で下を作り合う有徳( 地域ごとの寺社教義 )の悪用( 低次元化 )を世俗・聖属両既成権力側( 室町幕府権力側 )がやめさせることができず、地域間で壁を作り合う閉鎖有徳闘争が助長されるがままだった所を、日本の自力教義の最後の希望であった浄土真宗をとうとう怒らせることになり、既成権力側に決別的に地政学的領域戦を仕掛けるようになったこととこの事情は当然関係する。そもそも室町権威は、三河の旧西軍派の一色氏を潰すことには成功しているものの、しかし美濃近隣で旧西軍派たちの人望を集める形で台頭した斎藤妙椿に対しては、旧東軍派( 正当権力者方 )によるまとまった連合軍を結成してそれを潰す、ということ( 上同士の身分制議会改めによる家長統制権固め )などできなくなりつつあったことが、斎藤妙椿の存在だけでない、のちの織田信秀の存在にしてもそれをよく象徴していたといえる。1481 年頃からは、旧東軍派による再確認の足並みの動きには表向きはいったん向かうものの、特に下に対する身分再統制の、庶民政治側の農工商特権と曖昧に結び続けてきたままだった旧有徳統制に対する前近代的再整備( 官民再分離・街道整備・前期型兵農分離 )が遅々として進まなかった所を聖属側の浄土真宗に煽られる形で、世俗側も慌てて対応し始める戦国大名の台頭という形の、戦国後期の総力戦体制に向かうことになる
1481/02/20、織田敏定、年始の祝儀を幕府政所執事( ばくふ まんどころ しつじ )の伊勢貞宗に贈る。蜷川親元日記 日々記。※ 織田敏定が旧東軍派として幕府権力者たちとの友好関係を維持していた様子が窺える。織田敏定は 1478/03/20 にも足利義政、伊勢貞宗を始めとする幕府権力者たちに祝儀を贈っている
1481/03/03、織田敏定、尾張国小田井( おたい。小田井の地名は名古屋市西区に残存 )の長興寺において戦勝を祝う。※ 織田敏定が尾張の旧西軍派の織田敏広たちと戦って優勢になったことが祝われた
1481/04/16、土御門天皇、三河国妙心院を三河での勅願所と定める。( 綸旨 )
1481/07/22、松平信光、三河国妙心院に願文を奉納する。※ この松平信光は、徳川家康の出身である三河松平郷の当主になる。細川成之が旧西軍派の三河一色氏の制圧に動いた際には、有力国衆のひとつであった松平信光は旧東軍派として細川成之に加勢している
1481/07/23、劣勢となっていた織田敏広( 尾張の旧西軍派 )は、旧東軍派の斯波義良( しば よしなが )に臣従する姿勢を見せる。織田敏広らはそれまで旧西軍派の斯波義簾の支援を理由に旧東軍派に対して反抗運動を続けてきたが劣勢となり、子の織田千代夜叉丸( ちよやしゃまる )が斯波義良に従う( 恐らくは人質入りの )形を採って和解し、織田敏広も伊勢貞宗を始めとする幕府権力者たちに進物( しんもつ )を贈る。 ※ 斎藤妙椿が 1480 年に亡くなったのを契機に、尾張・美濃での旧西軍派というくくりでの機運も下火になったことも影響していたと思われる
1481/08/16、この時点( 1467 年の応仁の乱の大荒れが始まってから14年後 )でも、応仁の乱に向かった大悪因のひとつであった分一銭徳政令の慣例( 各当事者間での借銭の返済が困難になった際に、その借金の額面の10%を室町幕府に納入することで、幕府権力によってその借金を破棄できるようになるとする、いわば現代消費感覚で1000万円の借金がどうにも返せなくなった際に、その当事者でもない将軍権力者の顔色を窺いながら帳消し手続きの供託金10%の100万円を積めば借金無効の特権が得られるとする、その他に公事 くじ・経済法判事らしい条件制裁や是正指導のための管財人の設置といったような準備要領などはない、経済政策の阻害でしかない、むしろ庶民政治側の経済観念を破壊しているだけの、徳政とはほど遠い悪政だった。徳政一揆・土一揆による大規模な減税・免税運動が頻発して行き詰った末に、どうにもならなくなって放任的に形成されて慣例化され続けるばかりの中央の、これまでの悪い意味の集大成のそうした体質ぶりをのちに、畿内に乗り込んで上から順番にとうとう恫喝したのが、織田信長だったのである )がこの期( ご )に及んでまだ続けられていたことが 1481/06/16 に三河で、順述 1481/10/20 に尾張で確認できる。ただしこの頃は相談受付の形式的なものが強かったと見られる。この実務者たちつまり8代将軍の足利義政( 表向きは子の足利義尚 あしかが よしひさ が9代将軍として既に就任していたが、足利義政はその後見人として文献上では准三宮と称して、実務名義者の立場は続けられていた )、幕府政所執事の伊勢貞宗( いせ さだむね。幕府執権というよりも中央政務吏僚の筆頭・長老格の意味の方が強い )、日野富子( ひの とみこ。足利義政の妻。悪女扱いに早とちりされちだが誤認の元。検討の余地有り )、公事係り( くじ。主に経済的な裁定の窓口役 )の松平親長( まつだいら ちかなが。諸説あるが、徳川家康の出身の三河松平氏とは遠縁の同族 )これらは債権者( 貸主・金主 )たちから相当恨まれていたと見て間違いなく、だからこそさすがにこの頃は乱発や強引な処置はしていなかったと見られる。誰しもがどう経済対策していいのか解らなくなっている残酷な様子が、これら存在がよく象徴していたともいえる。 ※ なぜ応仁の乱に向かったのか、応仁記の冒頭で当時の様子を批判的に解りやすく書かれているため、その現代訳を転載紹介する
※ 1467年(応仁元)は天下に動乱がおこり、それからは全国がみだれてしまった。なぜ、そうなってしまったのかについて、これからしるそう。7代将軍の足利義政公が、幕府の政治を、本来その職にある管領にまかせず、宴会の場などで、政治のことなどわかりもせず、善悪を考えようともしない、妻の日野富子をはじめ香樹院・春日局ら女たちのいうことをきき、また、伊勢貞親や鹿苑院の蔭凉軒の軒主などのしたしい側近にばかり相談しておこなうからである。そのため、便宜をはかって原告にあたえた領地が、賄賂によって、いつのまにか被告にあたえられ、奉行所より所有権をみとめられた領地が、同時に日野富子から別の人に恩賞としてあたえられるなど、めちゃくちゃになっている。そういう状態だから、畠山氏で家督をあらそっている義就(よしなり)と政長の2人とも、1444年(文安元)から今年までの24年間に、3回追放され、3回ゆるされた。追放されたときにはなんの罪もなかったし、ゆるされたときにはなんの功績もないのにゆるされた。これを京都の市民は「勘当に罪なく、赦免に忠なし」とわらっている。また、斯波(しば)氏の家督をあらそっている義敏と義廉(よしかど)の2人も、この20年間に2回も守護を交代させられている。これは伊勢貞親が女の意見で便宜をはかったからだ。政治が政治なら世相もくるっている。公家・武家ともにおごり、都はもとより田舎の民衆までが華美をこのみ、武家も大変なら、民衆も生活にこまっている。中国の夏の国で、桀王〔中国では暴君の代名詞〕の悪政に民衆がいかり、王を道づれにしてほろんでやる、といいあったのと同じだ。もし、こういうときに、忠義の臣がいれば、王や将軍にきびしく意見をいうだろう。しかし、今の風潮は「天下はほろびるならほろびればいい、世の中がみだれるならみだれればいい。他人はどうあろうとも、自分さえ豊かであればいい、他人よりきらびやかな生活がしたい」というような状態になってしまった。そんなわけで、ふつうなら5~6年に1度の公式行事でも大変なのに、この間、9回もの盛大なイベントがおこなわれた。それらのイベントはぜいたくなもので、供の武士たちも、領地を質にいれても金銀などで持ち物や服装をかざろうとし、それは重税となって農民にはねかえってくる。その重税にたえられない農民は、田畑をすてて乞食となり、村里の多くが荒れ野となってしまった。そればかりか、京都の金融業者にかかる倉役という税は、3代将軍足利義満のときには、年に4度だったのが、6代の足利義教(よしのり)のときは年に12度かかり、義政にいたっては、大嘗会のあった11月に9度、翌12月に8度という、とんでもないものだった。さらに、借金をふみたおそうとして義政は、今まできいたこともない徳政ということをすでに13度もおこなっている。そんな調子だから、幕府御用の金融業者も民間の金融業者も、みなつぶれてしまった。そこで、大乱を天が予告したものか、1465年(寛正6)9月13日の夜、西南から東北方面へひかる物体が空をとび、天地がゆれうごいて、まさに世界の終わりかと思われるようなことがあった。いかにもなさけないことだ。(略) Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.
※ 応仁記は作者不明の、半文献・半伝記の文書であり、上同士の事情を知る場合はこの見方だけをあてにしていたら誤認の元になる。ただし上同士の事情などすぐに理解できる訳もない下々が、上のやることが当時の下々にはどう見えていたのかの見方では、これをそのまま受け取っても問題ない
1481/10/08、尾張の織田敏定、織田千代夜叉丸( 実質はその父の織田敏広 )織田広近( おだ ひろちか )ら一同は、足利義政・義尚将軍親子、日野富子、伊勢貞興ら幕府権力から、尾張の領主特権をそれぞれ強調公認してもらったことに対する、親睦の返礼の品々を贈る。
1481/10/20、織田敏定の代官( 飯尾為修? )、借銭を破棄してもらうために幕府に分一銭を納入する。
1481/11/09、伊勢内宮一祢宜の荒木田氏経、三河国の伊勢神領( 神戸領・御厨領・御園領 )回復を戸田宗光( とだ むねみつ )に求める。※ この戸田家は三河南部の渥美郡の有力武士団で、応仁の乱・戦国前期に乗じて三河の代表格を目指せるというほどではないにしてもだいぶ力を付けるようになる。戦国後期を迎えるまでに小大名の格式を身に付けるようになった、尾張南部の有力者の水野家と立場が似ている。のち松平清康( まつだいら きよやす。徳川家康の祖父 )による三河再統一をきっかけに、三河松平氏が三河の代表格の格式をいったんは身に付けるも、二代続けての当主の若年死によって松平家が衰退すると、戸田家は利害次第に駿河今川寄りになったり尾張織田寄りになったりを二強間で続けた所も水野氏と似ている。のち今川家の圧力で幼年の松平元康( 徳川家康 )を人質として預かることになり、しかし反今川を強めて松平元康を織田信秀に引き渡してしまったのもこの戸田家である。のち桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に派手に撃退され、駿河今川氏が体制を立て直すのに難儀し始めて三河介入どころではなくなってくると、松平元康( 徳川家康 )が三河再統一( 三河の今川序列権威排撃 )に改めて乗り出すが、独立を強めていた戸田家は松平氏による三河再統一への和解調停に動こうとせずに抵抗。この時に戸田家の分家筋たちが、戸田本家に納得していなかったり、または家名存続策などの思惑などで松平元康に組みする者たちも出て、その中で人材として見いだされた戸田一西( とだ かずあき )の家系が徳川家から、戸田本家扱いされることになった。あまり注目されないが戸田一西は徳川家康の信任ある優れた吏僚のひとりで、のち譜代重臣として重きを成す家系となる。徳川家臣の中ではこの戸田一西のように他にも、優秀だったが前に出ようとせずの譲り合いを大事にしていたから目立たなかった松平家忠( まつだいら いえただ )、大須賀康高( おおすが やすたか )、平岩親吉( ひらいわ ちかよし )といった理解ある控えめの中堅たちも居たからこそ、徳川家康も苦労しながらそうした人材も大事にしていたからこそ、難しい家臣団の統制をどうにか維持することができた
1482/07/11、尾張国清須( 清州。きよす )において、日蓮宗( 法華宗 )内の身延門徒( みのぶ。身延山久遠寺が日蓮宗の総本山。くおんじ )と六条門徒との論争が行われ、織田奉行衆が六条門徒の言い分の勝利と裁定する。 ※ 日蓮宗内での、本流派と山城・京の学僧派との論争だったと思われる。この時の裁定をした奉行衆の中で、弾正左衛門尉( だんじょう さえもんのじょう )の名義が見られ、織田信定( 織田信長の祖父 )のことかも知れないと指摘されている。織田氏は元々は越前の剣神社( つるぎじんじゃ。福井県の織田神社 )の神領武士団出身だったことが、織田敏定時代にその意識が強めてられていたかどうかは不明ではあるが、尾張でも多かった日蓮派のように大きめな宗派ほど、避けて通れない内部論争も発展しやすく、他ではそうした裁定が公正にできていたのか怪しいが、騒動は起きていないことから尾張織田家は少なくともそうした和解調停への面倒見が良かったことが窺える
1482/07/27、蜷川親元( にながわ ちかもと )、織田敏定に京の情勢を伝える。 ※ この蜷川家は足利家の有力の側近のひとつで、昔の時代劇アニメ「一休さん」に登場する蜷川新右衛門( しんえもんさん )の元になっている家系。足利将軍家に関して、この蜷川家文書による文献が多く貴重。戦火で焼け野原になってしまった京の再建もままならないため、今後も協力をお頼み申し上げますという親睦の書状
1482閏07/13、尾張の上守護・斯波義孝と下守護・斯波義良の両名で、伊勢国建国寺に祖塔建立の願いを伝える。※ 尾張代官の織田良康、伊勢代官の二宮信濃守種数( にのみや しなののかみ たねかず )、伊勢内宮禰宜の荒木田氏経とを通して、伊勢の建国寺に奉納式の費用を手配していることから、建国寺は伊勢神宮との縁の強い寺院だったことが窺える。応仁の乱で尾張も荒れたが、尾張守護の斯波家を支えていた守護代の織田一族が、困っていた伊勢神宮の要請に協力的な様子が見られる文献も多い。幕府権力者たちとしても尾張は他よりもだいぶマシだったと見て重視していた傾向がある。揉めながらでも熱田神宮の再建については地元で重視できている方であることから、尾張の再建事情は他よりもだいぶマシだったことが窺える。 -> ネット情報だと三重県建国寺は臨済宗で、伊勢神宮とも足利家とも縁の強かった寺院とある。足利一門である斯波家の菩提寺のひとつとして、また伊勢神宮の支援として建国寺は重視していたと見られる
1482閏07/29、幕府( 伊勢貞宗 )が織田敏定に、尾張国の幕府料所である山田荘の代官職を、斎藤利国( さいとう としくに。美濃守護代の斎藤妙椿の次代 )に渡すよう命じる。 ※ 斎藤妙椿は 1480 年に亡くなり、斎藤利国の代になってからも旧西軍派の旧縁は重視されたが、旧西軍派としての名目は表立っては強調されなくなっていったようである。斎藤利国の代になってからも斎藤氏は相変わらず尾張の旧西軍派たちの旧縁を理由に尾張介入に動くことがあったため、尾張介入をさせないための停戦条件だったと見られる。料の意味は幕府が各地に手配している代官所の税収地のことだったり、政権の税収直轄地といった意味で、荘・庄( しょう )も元々は荘園( しょうえん。聖属公領。寺社領 )のことを指していた。かつては武士団は荘園領主( 廷臣たちを始めとする寺社の縁の強い貴族的な有力者 )に仕え、それを守り支える( 侍という字が寺の人と書く由来 )という平安時代・聖属政権時代の力関係も、鎌倉政権発足の武家社会( 聖属権力中心社会から世俗権力中心社会 )以来には逆転し始め、荘園は共同統治へ、次第に武士団中心に各地の荘( 公領地 )を支配する流れが顕著になる。室町時代になると、神領の場合は横領が著しくても神戸・御園・御厨( かんべ・みその・みくり )といった書かれ方がされているためまだ判別もしやすいが、荘・庄は有力寺院の遠隔領なのか、地元武士団の支配地なのかの判別など中央から見て、どんな状況なのかを判断すること自体が難しかったと見てよい。大手寺院の遠隔領の住人たち( その地域慣習の序列次第の半農半士たち )が荘園としての義務を果たしていない、滞納している、荷止めをしていると目録を作成して幕府( 窓口の松平親長ら )に提出している文献が頻繁に見られる。揉めながらも時代が進むにつれ人口が少しずつ増えて農地と町が自然に広がっていき、地元民や地元自称武士団( 地侍の半農半士たち )を代弁するための寺社領への寄進で小議会的な力も形成されるまではいいが、何かあるごとに揉めて地域間で疑い合う閉鎖観を強める傾向も強かったからこそ、神社を通して和解しなければならない国内地政学的交流観も重視はされた。しかし室町時代になっても何かあれば上同士で揉めてばかりでその低次元な偽善憎悪を下に波及させるばかりだった上に、でき次第の分寺・分社の遠隔地も区画整理などされないまま放任的に乱立していき、利害次第の旧態閉鎖慣習のたらい回しの横領も著しかった。幕府代官領以外は謄本登録的な地方管理などとても統制などできていなかった、すなわち中央・上がやらなければならなかった地方・下・庶民政治側に対する前近代身分制議会改めなどできていなかったことを意味する。そもそも上同士( 下の合格・高次元/失格・低次元を裁量する手本家長側 )で低次元ないがみ合いで揉めてばかりで、下・外のことをとやかくの前に国際地政学観がもてていないことを上同士( 自分たち )で深刻さをもって前近代化に改めることができていない、その手本を評議名義性・選任議決性として謄本登録的議事録処理に示すこともできていないのに、どうやって下・庶民産業政治側を前近代化に改めることができるのかという話である。のち織田信長が旧畿内に乗り込んで旧中央関係者らをとうとう恫喝したのも、そういう所なのである。室町政権が体( てい )を成さなくなる戦国前期に、次世代政権らしい前近代身分制議会など敷けるような状態ではなかったことばかりが浮彫になっていた、だからこそ、国家構想的な管区整備( 裁判権・総家長権 )を強制執行( 次世代身分再統制 )できる強力な絶対家長( 国際地政学観の国体護持といえる政権議会の等族指導者・総裁 = 低次元化させ合ういがみ合いを2度と繰り返させないための国家全体の人事敷居改めができる代表家長 = 全国への家訓改めができる手本家長 )が必要だからこそ、戦国後期の地政学的領域戦という敷居競争に向かうようになったのである。そして、誰かがやらなければならなかった、日本を次の段階に進める等族指導役( 旧世俗・旧聖属・両序列権威の一斉の巻き上げの街道整備・官民再分離・前期型兵農分離 )をとうとう織田信長が、のち豊臣秀吉が肩代わりすることになったのである。なお戦国前期は訴訟に関する文献が多いが、尾張国妙興寺( みょうこうじ。臨済宗 )のように、荒れがちだったからこそ寺領の各地元の責任者の目録を作成して、売券のたらい回しに向かわせないようよくよく確認し合うことができていた所もある。妙興寺は熱田神宮と同じく織田氏との友好関係を大事にし、のちの豊臣時代でも、その後の御三家の尾張徳川家の時代も優遇的な公認を受けるに至る
1482/10、海部吉長( かいふ よしなが )、尾張国氷上社の祭神と本地仏の目録を記す。氷上社本社神体本地写(巻子)久米家文書。※ この氷上神社は尾張南部での熱田神宮の分社で、現在も氷上姉子神社( ひかみ あねご じんじゃ )として残存する。この海部吉長なる人物や久米家は、熱田神宮の社人たちと縁の強い地侍だったか、またはその縁の強い寺領の関係者だったと見られる。何を祭る( 約束する )ことによる名目・誓願式であったのかの、日本の神仏習合・多神教の様子が窺えるため記す。
本宮 宮簀媛命( みやずひめのみこと ) 本地聖観音
八剣宮 御宝剣 不動
源大夫御前 尾張諸介公稲種命 文珠
広田社 天照大神( あまてらす おおみかみ )荒魂 大日或勢至
稲荷御前 命婦■大神 ■如意輪 宇賀神( の3神 ) 客神中不動
八百万神社 古本ニ本地不見
子安宮 伊弉諾尊( いざなぎ のみこと ) 古本ニ不知
本地堂神宮寺 聖観音
魂根嶋社 弁財天 曰( いわ )く 常世嶋ノ神社 蓬莱嶋ノ神社
元宮 本社同前
帝釈天( たいしゃくてん )
大氏社 火明尊( ほあかり の みこと ) 香語山命( かごやま の みこと ) 阿弥陀釈迦
物部社 宇摩志麻知命( うましまじ の みこと ) 金剛薩埵菩薩( こんごう さった ぼさつ )
※ うましまじのみこと は有力公家の物部氏、穂積氏、采女氏の祖先・氏神という。もののべ、ほづみ、うねめ
左星宮 雄(ヲ)タナハタ( たなばた )
右星宮 雌(メ)タナハタ( たなばた )
白鳥社 日本武尊( やまとたける ) 薬師
薬師堂 如来
愛宕 軻遇突智命( かぐつち の みこと ) 虚空蔵
田神 保食神 地蔵
浜宮 塩土老翁 千手観音
山神 大山祇命( おおやまつみ の みこと )古本ニ不見
天王 素戔鳴尊( すさのお の みこと ) 薬師
八幡大菩薩 応神天皇 玉依姫 神功皇后( の3眷属 ) 三尊弥陀
神明 天照太神 大日如来
白山権現 菊理媛命( きくりひめ の みこと ) 十一面観音
春日大明神 武雷神( たけみかづち ) 不空羂索
春日大明神 斎王神 薬師或弥勒
春日大明神 天児屋霊根命 地蔵
春日大明神 伊勢太神 十一面
紀大夫御前 源太夫妃 或( あるいは ) 小止子命 十一面観音
清水社 罔象女命 不動
天満大自在天神 菅丞相 十一面
石神 不知
請雨社 貴布祢同躰 不動 或 薬師
山王 大己貴命 大日トモ薬師トモ聖観音トモ
長社 来目長神祠 社務元祖
一社鹿嶋神社 不知 武饔追尊
一社香取神社 不知 経津圭命 阿弥陀
阿弥陀堂 別山 御前之東
閻魔堂 本像 御長一尺八寸
講堂本尊 釈迦 古仏 近年被盗
大日堂 本尊 ( 千秋 )持季作也
※ この大日堂の本尊は絵画か木像かは不明だが、千秋一族の千秋持季( せんしゅう もちすえ )が奉納
大黒天神社 権家門外ニ有、近代断絶
海神(海部)社 今大榎之前也
※ 海部吉長の祖父の海部吉稲( かいふ よしとう? )の代ではこの他にも23宇を祭っていたが、紛失多数と締めくっている
※ この氷上神社( 熱田神宮の分社 )の位置を確認した所、桶狭間の戦いで激戦地となった大高城、丸根砦、田楽狭間のすぐ近くで、当時の氷上社領の敷地はかなり大きかったようである。桶狭間の戦いで惜しくも戦死してしまった千秋家当主の千秋季忠( せんしゅう すえただ )の事情が、この社領と大いに関係していたことが考察できるため、後述する
1482/12/15、烏丸資任( からすまる すけとう )、三河国で没し、三河国( 渥美郡 )伊良胡荘の常光寺に葬られる。烏丸家譜。
1483/02/20、織田敏定、年始の祝儀を幕府政所執事の伊勢貞宗に贈る。貞宗被官の尾張の坪内元秀も同じく祝儀を贈る。蜷川親元日記 日々記。※ この坪内氏は、のち羽柴秀吉の参謀・補佐役のひとりとして活躍する前野長康( まえの ながやす )の一族かも知れない。前野長康は、羽柴秀吉の功臣としてのち大名扱いの昇進を受けて一目置かれたひとりとなったが束の間、豊臣秀次事件に連座して手厳しい処分を受け、家格は大いに下降してしまった。その後、一族の一部は各藩の藩士として招かれたが大身の家格に復帰することはなく、多くは仕官は叶わず町人として暮らすようになった一族が多かった。前野家とその親類の坪内家の末裔たちの家伝である武功夜話( ぶこうやわ )が昭和期に注目されるも、この文献内で、木下藤吉郎( 豊臣秀吉 )と蜂須賀正勝( はちすか まさかつ。同じく羽柴秀吉の功臣。蜂須賀家はのち18万石もの大手の大名家格を得て、関ヶ原の戦いもなんとか乗り切る )の若き日の出会いの縁の、墨俣一夜城のくだりなどが書かれている五宗記( ごそうき )の部分が改ざんが著しいということで、史学界で論争になった。ちなみに江戸時代になっても、「隊」という字・言葉はまだ浸透していないと指摘があり、筆者もこの論争を知ったのをきっかけに、隊という言葉はできるだけ使わないことにしている。確かに愛知県史10をざっと見渡す限りだと、隊という字はどうも使われていない感がある。五宗記が江戸中期に編纂された文献だったと見ても、隊の他にも明治以降になって浸透した言葉が所々見られる指摘や、墨俣一夜城があった年が閏月であったことへの無自覚な記述のされ方など怪事項が満載ということで、要検討ということで五宗記の人気は下火となった
1483/04/30、興福寺大乗院の尋尊( じんそん )、今年度も尾張守護代が織田敏定だと正式に決まった旨を伝え聞く。大乗院寺社雑事記。※ この尋尊は、摂関家出身の一条家の一族で京の著名な高僧のひとり。中央の事情に詳しく、当時の崩壊ぶりを記録した大乗院寺社雑事記は貴重な文献資料になっている。再建に難儀し続けた中央は、尾張からの協力を重視していたことが窺え、しばらく先になるが尾張が変わり始める織田信秀の時代にはその期待も顕著になる
字数制限の都合で今回はここまでになる。次回もこの調子で続きを記述していく。熱田神宮の様子と千秋氏を紹介する上で、1頁だけでまとめようとするには難しいと判断した。出来事をただ並べるだけでは何も伝わらず何ら理解できず意味がないため、やむなくこのような記述方法で説明していくことにした。