本能寺の変とはなんだったのか74/95 本能寺の変の全体像20/41 2024/09/27
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~19」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
今回紹介する尼子氏( 佐々木源氏一族 )も、戦国後期までの盛衰が顕著だったひとつになる。出雲尼子氏( いずも。今の鳥取県米子市から島根県出雲市。出雲大社の有徳権威すなわちその社領の序列自治権はもちろん重視されていた )は、出雲・伯耆( ほうき。鳥取県西部 )の本領2ヶ国を中心に権勢を築き、中国地方大手として睨みを効かる際立った存在に台頭した。戦国後期( 総力戦領域体制時代。地方議会人事敷居改革時代 )への転換期・突入期( 1540 年頃 )は隆盛が著しかったが、次第にその権威も急落し始めるようになる。今回の出雲尼子氏を知る上で、安芸武田氏( あき。広島県 )、周防大内氏( すおう。山口県 )、そして安芸の、有力国衆のひとつに過ぎなかった立場からそれらをのちに倒して中国地方で大勢力を築くことになる知将・毛利元就( もうり もとなり )にも触れ、当時の経緯をざっと紹介していきたい。まず、出雲尼子氏が強豪化に向かう基盤を作った尼子経久( あまご つねひさ )は下剋上社会( 背信どうのよりも家来筋から台頭したことの意味の方が重要 )の幕開けのひとりとして、伊勢盛時( いせ もりとき。文献上では伊勢宗瑞 いせ そうずい、伝記上では北条早雲 ほうじょう そううん で著名。のちの関東北条氏の祖。伊勢平氏は室町体制時代における有力な中央武士団のひとつ。伊勢盛時は伊勢家の家来筋出身の、地位など微妙な伊豆のイチ代官に過ぎなかったが、戦国前期にまとまりのない伊豆の国衆たちをまとめ始める頭角を現す。伊豆を足掛かりに相模 さがみ 神奈川県 攻略を進め、のち関東進出へ乗り出し一大勢力を築く基盤を作った。のち織田信長が畿内に乗り込んだ際、旧室町体制における中央護軍のひとつであり軍事家としても知られていた伊勢家はかつての力はなかったものの顕在で、本家筋と思われる伊勢貞興 いせ さだおき は織田氏に買われる形で、師団長格として急抜擢された明智光秀の寄騎として優遇的に配属された。1582 年の本能寺の変の際、明智光秀に渋々に足並みを揃えてた者が多く士気は挙がらなかった中、伊勢貞興の一団は律儀に協力したひとつとして目立ち、羽柴秀吉による明智勢制圧戦では羽柴勢を手こずらせ戦死、この時まだ20歳前後の若武者で惜しまれた。1572 年に織田信長と足利義昭の決別時、父の伊勢貞良は足利義昭派として失脚するが、1562 年産まれである伊勢貞興は10~14歳頃、父とは別枠家格扱いに明智光秀に引き取られて養育されたと見られ、伊勢貞興に付随して明智家に出仕することになった伊勢家臣たちも、優遇扱いしてもらった明智家に恩義を感じていたと見られる。明智勢制圧後は羽柴秀吉は、伊勢家は有職故実 ゆうそくこじつ のひとつとして高名であったこと、また若くして律儀に奮戦し戦死した伊勢貞興に免じ、他の伊勢一族や生き残りの家臣たちに対しては連座や余罪の追及はせずの寛大な処置をしている。のち徳川家康も、伊勢一族は高名だったこと、旧畿内の事情に詳しかったこと、さらに生き残りの伊勢家臣の上層たちも本能寺の変に至った経緯を知らないはずがないこともあって救済処置がされ、伊勢本家は徳川家からやはり優遇な旗本扱いを受けている。有職故実は無形文化遺産的な中央のしきたりの段取りのことで、日本の今後の国際交流の伝統文化にも関係するため、これに詳しい家系は重宝された。山城小笠原家も有職故実に詳しいひとつとして尊重されていた )と並んでよく紹介される。尼子経久はその生年の経歴も特徴的で、応仁の乱が起きる 1467 年( 既に戦国前期に入っていた )の9年前の 1458 年に生誕し、亡くなったのが戦国後期の突入期頃の 1541 年になる。この83歳という長寿の生涯の内、55歳の 1514 年頃から京極家の遠隔支配地の出雲・伯耆の執権( 事実上の主導 )として、以後はその後見人の期間も含めて出雲尼子氏の主導の立場を計27年間ほど務めるという経歴になる。織田信秀は 1511 年に生誕、活躍が目立ち始めるのが 1535 年の24歳頃で、1514 年頃からの尼子経久の先駆けの出雲・伯耆( 守護・京極領 )再統一の活躍は尾張でも話題になっていたのは間違いなく、1538 年まで生存していた後見人( 父 )の織田信定( おだ のぶさだ。織田信長の祖父 )と共にかなり参考にされていたと見てよい。同じく戦国後期の手本として注目された織田信秀は42歳の生涯と短命であったが尾張織田氏の主導の立場を18年間ほど務め、その台頭の仕方に尼子経久との共通点は多い。ここは織田氏に限った話ではなく、応仁の乱が起きる前から室町権威による、特に中層以下の序列( 旧身分制議会・地方家長権統制 )など崩壊して各地で荒れ放題( 惣国一揆状態。半農半士闘争状態。閉鎖有徳闘争状態 )だった戦国前期に、戦国後期( 家長権改め = 国内地政学的領域戦体制・地方議会改革的総力戦体制 )への前身手本を見せ始めていた伊勢盛時や尼子経久らの先駆けの事績は、どの地方もまとまりなど怪しいからこそその刺激を受け、方針を巡って議論の的( まとまりのない地元地方の国衆たちを、どうやって次世代人事敷居改革的にまとめていくのかの敷居競争の指標 )になっていたのは間違いない所になる。織田家の中では序列は高い訳ではなかった新興新参の織田信秀の家系( 家来筋の弾正家 )が、次第に織田本家を抑えて尾張織田家の代表格にのし上がった経緯と、尼子経久の経緯つまり、尼子家の派生元である京極家( 佐々木源氏一族 )の中では序列が高い訳ではなかった、京極家の遠隔支配地である出雲・伯耆支配( 室町体制時代の守護職。しゅごしき )の補佐役・代官に過ぎなかった家来筋の尼子経久が、応仁の乱以後、室町権威( 管領・守護序列権威 )はどこも衰退し始めたため但馬山名氏( やまな。山名氏は但馬・因幡 たじま・いなば。兵庫県北部と鳥取県 の2ヶ国を本拠にかつて畿内以西で一時的に大権勢を築くも、その権勢は長続きしなかった。3代将軍の足利義満 あしかが よしみつ の時代にもたらされた、日本が今まで体験したことがなかった大経済景気期を体験したその反動以後、前近代的な経済社会観念も不可欠になってきた中で、その次世代身分制議会の方向性が見失われる一方の、室町体制の行き詰まりから始まったのが応仁の乱。畿内主導の東軍大将の細川勝元 ほそかわ かつもと にしても、その対抗馬となった西軍大将の山名宗全 やまな そうぜん にしても、やっていることといえば目先の利害次第に敵味方を煽るだけ煽って全国を荒らすだけ荒らすのみで、これによってただでさえ半壊していた中層以下の身分制は表立って破壊、すなわち各地方の惣国一揆・半農半士闘争・閉鎖有徳闘争を室町権威による家長序列権で抑えきれなくなる決定打となる。そしてその強化版として、餓死者の続出にも拘わらず何の見通しも見せない中央権力・地方世俗権力側に対し、とうとう浄土真宗を怒らせたことによる全ての既成世俗序列権威とも既成聖属序列権威とも決別の、それらに地政学的領域戦をけしかける新たな聖属裁判権独立運動すなわち一向一揆による軍閥自治運動の引き金にもなった。応仁の乱は、上同士が本来やらなければならなかった次世代身分制議会・中央総家長権のため、その国際地政学観のための名目・誓願の手本の示し合いを何一つ立てられなかった = 次世代政権議会に向けた上同士の評議名義性・選任議決性の創設・仕切り直しのきっかけにできていなかった。両軍共に何らその終結始末もつけることもできないまま、目先の利害次第にただ煽り合い騒ぎ合い室町序列権威崩壊を助長しただけだったのが応仁の乱の特徴。のち旧畿内に乗り込んで畿内再統一に乗り出すことになった織田信長は、だから世俗・聖属の両中央議会ともに上同士での今後の中央のあり方を巡って、まだモタモタやっていた見込み無しの旧中央関係者どもにそういう所を上から順番にとうとう恫喝したのである。上同士の誰かがやらなければならなかった、しかし他に誰もできなかった応仁の乱以後の後始末の中央総選挙戦にとうとう踏み込んだのが、織田信長による畿内再統一なのであり、それがのちの羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦いと天下総無事戦、徳川家康の関ヶ原の戦いと天下泰平への前近代身分制議会的な良例手本となったのである。生野銀山で有名な兵庫県朝来市生野町 あさご いくの から北側が但馬。生野銀山は日本の著名な銀鉱のひとつで、豊臣秀吉による鉱山権掌握の前時代の、但馬山名時代でもこの鉱山開発は熱心に進められ、江戸時代ももちろん幕府特権扱いで重要視された。それまで畿内再統一が一向に進まなかったからこそ全く対策されてこなかった、貨幣不足の悪貨の押し付け合いの深刻な流通経済問題への改善計画に、本格的な街道整備を始めた織田信長が堺衆や大津衆たちと連携しながらその解決計画にもとうとう着手。その重要性もしっかり認識していた豊臣秀吉がそこも肩代わりする形で、堺衆と連携しながら今後の日本の流通経済に備える両替・為替体制のための貨幣鋳造権の整備が進められ、徳川時代にそれが大いに参考活用にされることになる。国内の前近代経済社会化に不可欠な銀貨鋳造は、織田時代を肩代わりした豊臣時代によって日本国内を太平の世に向わせるようになったからこそ、生野銀山は石見銀山と並ぶ銀鉱として本格活用されることになった )と同じように出雲の京極序列権威も衰退し始めたことで、京極家の分家筋の尼子経久がそれを肩代わりし始めた( 代わって地方再統一を始めた )姿は、尾張織田氏と似ているというよりも、尼子氏の前例手本を織田氏が参考にしていたといってよい。尼子経久が出雲大社との仕切り直し的( 利害次第に半農半士闘争で乱れる原因になりがちだった聖属社領・有徳権威に対する、世俗・武家側との和解的再統制 )な友好関係を重視したように、まとまりがなくなってきた織田本家を織田信秀が抑え込んだ( 本家よりも分家の家来筋の織田信秀の方が、尾張の代表格の手本家長らしい牽引をするようになったため皆が織田信秀のことを支持するようになった )際、津島大社、熱田神宮、また各地寺院との仕切り直し的な友好関係の修繕( 敷居向上の名目・誓願などない下同士の閉鎖有徳闘争をやめさせる )がされた所は共通している。織田信秀がまず手本的な尾張再統一( 国内地政学的な強豪化。前近代的な地方議会の人事敷居改革の大きな第一歩 )を進め、次代の織田信長がその流れを活かす形でさらなる国際地政学的な整備( 前近代的な身分再統制・官民再分離・街道整備・旗本吏僚体制・前期型兵農分離 )を進め、飛躍に向かう一方となった( それを妨害しようと旧態体制のまま決戦を挑んできた駿河今川氏に猛反撃を喰らわせ、美濃、伊勢、近江、山城へと進出し、強固な総力戦体制・前近代人事敷居に改めていった )ように、尼子経久がまず尼子家の強豪化を進め、次代の尼子晴久( あまご はるひさ。尼子経久の子の尼子政久が若くして戦死してしまったため、その子の、孫の晴久が次代となる )がその流れを活かす形で一大勢力を築くようになった所も似ている。ただし尼子晴久の方は、尼子氏が格下扱いしてきた安芸毛利氏に次第に逆転され、消滅されられた所が大きく違う。尼子晴久時代の急落については駿河今川氏の急落と似ている。今川氏もかつては本領の駿河( するが。静岡県 )と遠江( とおとうみ。静岡県西部 )を中心に東海道の広範囲で3、4ヵ国ほどの列強権威の睨みを効かせてきたが、それまで今川氏が格下扱いしてきた尾張織田氏に尾張の今川序列権威は潰され( 織田信秀が尾張の今川権威を排撃。尾張の元々の総家長である武衛斯波氏の後押しを理由に尾張介入を続けようとする今川勢を撃退 )、同じく今川氏に格下扱いされ続けたが再帰するようになった三河松平氏( 徳川家康 )にものち逆転され、今川氏はやがて本領を守ることも困難になり消滅に向かっている。織田信長の台頭によって戦国後期すら終わりに向かい始めた、つまり次の段階( 戦国終焉 )の敷居( 国際地政学観の領域戦・総力戦体制 )に向かい始めていた中で、中途半端な総力戦体制しか整備できていないまま風呂敷を広げ続け、老朽化している自分たちの旧態序列へのテコ入れ( 再統一・人事敷居改め )をせずにその威勢通りを維持し( 内外に押し付け )続けようとした( 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、時代遅れの老害慣習に劣化している旧態序列権威をたらい回し続けねじ伏せ合い、低次元化させ合うことしか能がなくなっている自分たちのそのだらしなさを自分たちで深刻さをもって認識・自己等族統制できなくなっている、そこに対しての国内/国際地政学観の近代議会的な評議名義性・選任議決性の危機管理の手本の示し合いが自分たちでできなくなっている、そこを徹底的に面倒がり合いうやむやに低次元させ合うことしかしてこなかったにも拘わらず、身の程知らずにも人の合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する側の立場を軽々しく気取りたがる = 低次元な悪意狩りの顔色の窺わせ合いでしかない老害権威のたらい回し合いで下を作り合うことしか能がない、上としての高次元な敷居計画・構想管理の品性規律の手本・更新例を自分たちで作り合うことなどできたことがない偽善者・法賊・低次元化分子どもへの深刻さが見過ごされている時点で傾国・衰退・崩壊の典型だと荀子・韓非子が組織論で指摘している部分。孫子の兵法でも普段からのそうした敷居競争の高低姿勢が作戦計画や組織展望の質に致命的に響くと指摘している部分 )ために衰退する一方となった尼子氏も今川氏も、現代でも同じことがいえる明日は我が身の信用崩壊( 思考停止の低次元化 )の典型といえる。尼子経久時代に尼子一族を中心に出雲・伯耆を結束させる組織改革が作られた流れが、次代の尼子晴久時代に活かされることになったまでは良かった。尼子晴久時代には本領の出雲・伯耆を中心に、その近隣に及んだ尼子序列権威( 各地の国衆たちに尼子派を表明させ、反尼子序列権威派を排撃していく )領域は、石見( いわみ。島根県西部 )、安芸( あき。広島県 )、備後( びんご。広島県東部 )、備中( びちゅう。岡山県西部 )、備前( びぜん。岡山県 )、美作( みまさか。岡山県北部 )、そして播磨( はりま。兵庫県 )にまで広く及び、実力としては4、5ヵ国分の尼子派の家長軍役権を抱えるようになる。播磨赤松氏の衰退( 赤松満祐時代の赤松氏の衰退による旧権力均衡の崩壊が、これだけが原因ではないが応仁の乱に向かう下地・序章となった。あかまつ みつすけ。まず足利尊氏が北朝・光厳天皇からの理解・協力を得て、南朝・後醍醐天皇の聖属政権再興派の廷臣たち、その連携の新田義貞派・楠木正成派たちを撤廃、世俗中心政権の再出発として室町政権を発足させるが、この時点では戦乱が収拾した訳ではなかった。表向きは聖属政権派か世俗政権派かを巡るはずだったのが、目先の利害次第の偽善憎悪戦に低次元化していくばかりにどうにも収拾がつかなくなり始めていた南北朝闘争を、世俗政権の再出発の強調で終結させる第一歩がやっと始まった段階が、室町幕府発足になる。足利尊氏はこれから中央政権を形作っていかなければならない立場であり、深刻化する一方だった綸旨・勅令 りんじ ちょくれい の乱発やニセ綸旨の横行の皇室擁立合戦を悪用した各地の敗者復活報復戦と報復人事戦の繰り返し、をやめさせるための皇室の継承問題の解決に乗り出す。聖属政権再興は皇室擁立合戦の再燃ばかり生み、皇室は再び枝分かれに乱脈分裂し始め収拾不能に向かい始めたのを機に、ここで南朝・大覚寺系と北朝・持明院系の二頭交代継承制を一統天皇制つまり、皇室の一本化・総本家化の仕切り直しに向けて、光厳天皇に尽力して頂いたのきっかけに皇室再統制・院政統制の和解を進め、3代将軍の足利義満時代にとうとう実現を見る。それにより、今までいつまでも南北朝闘争の悪用の報復戦を繰り返してきた各地の戦乱も失効していき、日本国内の騒乱もだいぶマシになる。3代将軍の足利義満時代には、室町政権への各地造反に対する鎮圧もしやすくなり、武家の棟梁らしい中央権威らしさもついてきて少しは落ち着きが取り戻されるようになったからこそ、本格的な経済社会の幕開けの、江戸時代の大経済社会の前身の、国際交易の再開も手伝った室町大経済社会・本格的な貨幣・為替の資本経済を、日本が初めて体験する転換期も迎えられた。しかし室町幕府は初めて体験した前近代的大経済社会化に、その法整備に早くも対処できなくなっていったことで戦国時代に向かう。日本はそもそも、聖属政権再興なのか、それとも今しばらくの世俗中心政権かのかを巡る南北朝闘争の前段階の鎌倉末期・解体を迎えた時から、中層以下の下々の身分制など崩壊同然となったまま、それが大して整備もされていかないままに一定の平穏と前近代的な大経済社会をいきなり体験してしまったのだから、目先の利害次第の乱脈的・非国内地政学差別的な不当経済法の横行が原因の、惣国一揆・半農半士闘争・閉鎖有徳闘争が表立って現れる戦国前期に向かい大荒れするのも自然の話になる。そこは西洋の中世末のキリスト教社会の社会心理も似ていて、大経済社会を迎えたからこそ下同士の身分制などますます崩壊する一方となったからこそ、世俗経済法をこれまで抑え込んできた司教聖属権威からどこも離脱し始める形の皇帝世俗権威・帝国議会への鞍替え譲渡劇の自由都市闘争、すなわち偽善公的教義権威中心の偽善司教座統制も限界に来ていたからこその、その強化版である旧態隷属裁判権離脱運動すなわち自由地域間多様神学・自由多様資本経済化運動の人文主義が目的のプロテスタント闘争に向かったのである。話は戻り3代将軍の足利義満時代には皇室問題の解決も見えてきたことにより、鎌倉後期から荒れ続けた戦乱も一時的に縮小させることができた、だから大経済社会を迎えることもできて、将軍家としての中央家長権威も一時的に強大化するも、足利義満が亡くなって以降はそれも長続きしなかった。室町創設の際に足利家に協力した特に親類たちは、その多くが足利尊氏からそれぞれ管領・守護制の高官として大領を得たまでは良かったが、上同士は今までの皇室継承の悪用から、今度は将軍継承の悪用にただ切り替えるばかりで、それを巡る蹴落とし合いの格式争いをやめさせるための上同士の政権議会の序列整備・等族指導も容易ではなかった。2代将軍の足利義詮時代には、中央や地方のまとめ役として細川家や斯波家を指名・権限委託しても、まだ皇室問題も終わってもいない内から早くも格式争いの利害次第に有力諸侯間でいがみ合い壊し合うことも常々だったため、3代将軍の足利義満の代には、そのように中央総家長的人事を利害次第に壊そうとする大領の諸侯たちを攻め、指名している訳でもないにも拘わらず勝手に領地特権を奪い合い力をつけ、正しさとやらの格式を乱立し始める諸侯たちに力をもたせないため、それをできなくするための制裁格下げの横並び権力均衡政策に積極的になった。この部分はのち、織田信長の畿内再統一と本能寺の変の犠牲をきっかけに、豊臣政権と徳川政権の流れでそこを克服することになった大事な部分になる。室町の大経済社会化の隆盛期をもたらした3代将軍の足利義満時代では、中央に従うことの恩恵もあったために不穏ながらもうまくいっていたが、しかし6代将軍の、世代的には4代目の足利義教 あしかが よしのり 時代には、3代将軍時代にいきなり体験することになった前近代的な大経済社会の反動で次々に浮彫になった弊害に対する、特に下・民間・庶民政治側の経済法的な次世代身分制対策は早くも行き詰まる。そんな中で有力諸氏たちに勝手に力をつけさせないための上に対する格下げの権威削減・弱体化は強められる一方だったことで、諸侯たちもその将軍権威に対抗する合議制を強めようとし、それを足利義教が抵抗という上同士での出し抜き合いと保身のせめぎ合いばかりが強まる一方となる。迷走し始めていた室町体質の中で、足利義教が播磨赤松氏を反将軍派だと見なしながら、足利義教を支持しようとしない播磨の国衆たちは非公認だと制裁する播磨のかき乱し・弱体化に動こうとしたことを機に、皆で注意そらし的に赤松満祐のことを悪役にしておけばいいかのような偽善陰湿人事に発展。それをきっかけにとうとう、将軍・室町総家長であるはずの足利義教を地方守護が誘殺・弑逆するという嘉吉の乱を赤松満祐が起こすことになる。この将軍・総家長殺しを機に上同士の播磨赤松イジメにせよその擁護にせよどちらにしてもそれを勢い任せに偽善悪意狩りする蹴落とし合いが過熱、さらに足利義教が地方守護に弑逆されたことによって、諸氏潰しの将軍権威は恐怖政治でしかないから結局そういうことになったのだといわんばかりに、上同士で被害者ヅラ迷惑ヅラ善人ヅラし合いながら表立って将軍権威を目先の利害次第のおもちゃのごとくあなどり合うようになる。それを好機とばかりに但馬山名氏が、試すように将軍家・中央の裁量を無視して播磨赤松領の接収に動き、勝手に力をつけ始めたため、表立って崩れ始めた中央権威を、執権の管領細川氏が代替、勝手に力をつけようとする但馬山名氏に対し中央壊乱・不忠反逆だと全国を煽る。但馬山名氏もそれに対抗するように、経済対策が行き詰まったまま重なる飢饉の苦しみに対する中央の対応不足を怠慢腐敗だという不満で煽り返す形で、畿内以西での山名派・反管領細川派の軍役領域を急激に伸長し始めたため 管領・中央派の細川勝元派 VS 守護・地方派の山名宗全派 という構図の瞬間湯沸かし器式の悪意狩りの偽善憎悪で急にできあがった軽々しい二大政党の対立が強まる一方となる。のち8代将軍の、世代的には5代目となる足利義政 あしかが よしまさ 時代に、次期将軍の継承者争いというよりも、互いに全国を煽って蹴落とし合う二大対決をするためにその指名争いを表向きの理由にしていただけの加熱戦だったのが、応仁の乱である。播磨赤松氏の将軍弑逆事件に便乗の但馬山名氏の、中央無視の赤松領の横領と畿内以西の一大政党化への乗り出し、表立った将軍権威の低下で管領細川氏が中央権威を肩代わりし始めたこの流れは、上同士の総家長・総裁のはずである足利将軍権威・代表首座のおもちゃ扱い・その等族指導役の雑用扱いの始まり、すなわち自分たちの情報戦的・敷居競争的な評議名義性・選任議決性の無さに対して自分たちで深刻さをもって危機管理できなくなっている自分たちの愚かさだらしなさをうやむやにたらい回し合う典型的な低次元化を意味する。上同士のあらゆる権力均衡観念・身分制議会観念が、破壊されていったというよりも室町体制における上同士のその身分制議会改めが全く追い付いていないままだったことの限界が露呈していく一方だったといった方が正確になる。織田信長がのちに畿内に乗り込んだ際に、世俗・聖属共にこれまでそこを自分たちで解決できずにいつまでもモタモタやっていた旧中央関係者どものていたらくぶりを上から順番にとうとう恫喝、すなわち次世代官民再分離 = 民間側の次世代産業法的身分再統制 にしても次世代公務吏僚体制 = 士分側の国際地政学的公務化再統制 にしても自分たちで見通しなど全く立てられてこなかったにも拘わらず、合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する教義管理側・中央官僚側を無神経・無関心・無計画に気取り続けようとする偽善者・法賊・低次元化分子どもへの上から順番の恫喝がとうとう始まったのである。のちの室町最後の希望となる13代将軍の足利義輝のせっかくの懸命な室町再興運動もうやむや騒動で暗殺されてしまい、弟の足利義昭が立て直すこともできそうにもなかったのを終点に、次世代身分制議会化し得なかったそれまでの世俗・聖属両中央議会の旧室町体質に対し、畿内に乗り込んだ織田信長が今の日本の低次元な公害教育機関と何も変わらない、前近代化のための有徳再統制・国際地政学的教義改めなどできたことがないにも拘わらず低次元な悪意狩りで怒り狂うことしか能がない迷惑千万な老害公的教義・延暦寺を踏み潰し、見込みある有志を選別・身分再統制しながら畿内再統一に乗り出すことになったのである。ここについては西洋のキリスト教社会でも、ポルトガルの航海開発のアフリカ大陸西岸貿易とアジア貿易がきっかけのネーデルラントでのアントウェルペン国際大経済社会化が著しい国際地政学観が強まる一方に、教義圏内の下々への中世的愚民統制の隷属身分制などとうに崩壊し、教皇領ですら日本でいう国衆一揆が頻発してイタリア中が大混乱、キリスト教社会全体の主導でなけれぱならないローマ教皇庁がそれに対しての何ら再統一・教会改革の手本も示せずの自分の所の問題も片づけられない、国際地政学的裁判権など皆無に今まで通りの老害教義権力を悪用することしか能がない低次元な格下の分際のローマ教皇庁は、前近代再統制を先駆けで進めたスペインやフランスに対し身の程知らずにも中世のままの時代錯誤の隷属統制と天井知らずの献納を今まで通り強要し続けようとし、一方で西方教会再確認改革でイベリア全体の騎士修道会領の前近代兵站体制化を大幅に進め、ネーデルラント・ドイツ・オーストリアの王族たちと国際連携化まで進め、深刻さをもってオスマン帝国の脅威に対抗するべくの神聖ローマ帝国全体・キリスト教義圏全体の立て直しの帝国議会を主導し始めたスペイン王室議会をとうとう怒らせ、次世代議会荒らしと見なされる形で教皇庁だけでない悪徳都市ローマ丸ごとの踏み潰しの制裁を断行。偽善教義権力による悪意狩りと顔色の窺わせ合いで人や法を支配・序列統制する低次元時代を終焉させる自分たちのその最低限の課題も自分たちで解決できないような、世界間交易協約や最恵国待遇の国際情勢交渉の場の大使館体制・遠隔対等国交流体制も議会的に用意できないような、そのための国際教義文化圏再統一も自分たちでできない、教義圏内で下・奴隷を作り合うことしか能がない低次元な非地政学的・非文明的動物園国家は、強国側の教義権力で労役動物扱いに奴隷支配されるのがお似合いと見なされるようになる前近代時代に突入、そこに内外でようやく少しは深刻さがもたれるようになったのが16世紀の世界間地政学的特徴になる。教義圏内でありながら下同士で下を作り合わせる非同胞的奴隷序列的裁判権の強要が改められない、その非国内地政学的な矛盾を教会改革で遅々として改められなかったことで公的教義離脱のプロテスタント運動が過熱、イエズス会の懸命な公会議制の立て直しの健全化とで深刻に向き合われた大事な部分になる。話は戻り、播磨赤松氏は但馬山名氏に介入され、山名氏の衰退後は出雲尼子氏と備前浦上氏に、尼子氏と浦上氏の衰退後には毛利・宇喜多氏にと外圧に振り回され続けた。別所家・小寺家・魚住家 べっしょ・こでら・うおずみ これら赤松源氏一族全体で分裂・閉鎖割拠し続けた播磨はどうにも再結束できそうにもない末の 1575 年、織田氏の師団長格となっていた羽柴秀吉が織田信長から播磨攻略を任せられると、本家の赤松義祐・赤松則房親子 あかまつ よしすけ・のりふさ は織田派として、便宜上は羽柴軍団に播磨再統一を手伝ってもらう形となり、延々と荒れ続けた播磨騒乱は羽柴秀吉の活躍によってようやく収拾に向かう。旧守護赤松領の播磨を巡って織田勢・羽柴軍団と毛利勢とで代理的に争われたその構図にしても、旧管領畠山領の能登・越中を巡って織田勢・柴田軍団と越後上杉勢とで代理的に争われた構図にしても、次世代中央体制を敷ける中央家長側とそれに押される一方の地方家長の格下の分際側が明確化し始める戦国終焉期の象徴だったといえる。なお赤松本家のかつての大手家格は消滅するが、ただし赤松一族の中には優れた人物の輩出も目立ち、羽柴秀吉に買われて参謀役を務めることになった黒田孝高が著名。黒田官兵衛の名で有名。くろだ よしたか。播磨衆の有力のひとつ小寺家の親類家臣の黒田家が新参でありながら買われ、のち豊臣政権時代には10万石以上の大名家格の優遇を受ける。のちの関ヶ原の戦いで加藤家、福島家、小西家、藤堂家といった豊臣恩顧の大身たちと並んで黒田家も、西軍豊臣方か東軍徳川方かで注目される影響力のひとつとなった。豊臣時代の石高家格はその数字の2倍から多ければ5倍近くの管轄領の権限を任せられる意味合いも含まれる場合も多く、黒田家の10万石家格裁定の場合は徳川初期時代における20万石近くの大手家格だったと見てよい。次代の黒田長政は東軍徳川派として、諜報面でも軍事面でも徳川方を大きく有利にさせる多大な貢献をしたことで、黒田家は外様扱いではあるが50万石以上の巨大な大名家格を得ることになる。赤松本家はかつての大名家格の存続はできなかったものの、このようにその分家筋となる黒田家が大成功し、豊臣時代の10万石でも大成功といえる中で旧赤松家臣たちの身受けをした他、赤松家の家系は名門として重宝されて藩家老に優遇的に招かれた一族などもいる )以降、播磨は但馬山名氏の介入が続いたが、応仁の乱以降に山名氏が衰退し始めると、それまで山名序列権威が強まっていた美作と備前に尼子氏が尼子序列統制に乗り出す。播磨赤松氏の最有力家臣である備前の浦上政宗( うらがみ まさむね )を尼子派に鞍替えさせ、備前浦上氏と共に播磨にも尼子権威の介入も始めたことで、播磨での旧山名派や尼子派らの割拠に対する赤松氏主導の立て直しも困難が続く。そのように勢力を今の島根県から広島県、岡山県、兵庫県へと手広く伸長するようになった尼子勢は中国地方の覇権・主導の立場になり始める。しかし戦国後期への転換期が認識され始める 1530 年代末には、中国地方西部で尼子氏と並ぶ二大勢力であった周防大内氏がその覇権・主導を巡って反尼子を強く煽ったこともあり、各地の反尼子派たちの巻き返しも強まるようになる。そんな中、それまで出雲尼子氏の力に頼りがちで、格下扱い的に振り回されがちだった安芸武田氏に対し、安芸の国衆たちもいい加減に不満を募( つの )らせるようになっていたため、反尼子の機運が強まったのをきっかけに、安芸武田氏の最有力家臣・国衆であった毛利氏が、安芸における反尼子派( 大内派・反武田派 )の旗頭として、安芸全体の格上げの安芸再統一のための、安芸武田氏との対決に動くことになる。1540 年に入って、安芸の毛利氏ら反尼子派の国衆たちに押される一方となった安芸武田氏( 安芸の尼子序列権威派たち )を出雲尼子氏が後押しし、安芸の代表格になり始めた毛利氏に力を付けられる前に潰そうと尼子氏も本腰を入れ、表向き3万もの大軍で安芸毛利潰しに乗り出す。しかし毛利勢の前線の防衛軍3000はこれを作戦でよく手こずらせ、安芸の反尼子派( 毛利氏ら安芸の大内派 )の支援に動いた周防大内勢による援軍も間に合い、大内・毛利連合が勝利。この戦いを機に毛利家こそが大内家と連盟の安芸の代表格だと強調される。安芸は毛利派( 大内派・反尼子派 )たちによる再統一が進められ、安芸の代表格であった武田氏( 安芸の尼子序列権威派 )は消滅。毛利元就が安芸の代表格を務めるようになってから、安芸毛利勢の強豪化( 戦国後期化 )が目立ち始める。対尼子の大内・毛利連合との一進一退の領域戦に出雲尼子氏も手を焼き始める 1550 年代に入ると、備前でも尼子派である浦上政宗派と、その弟の反尼子派の浦上宗景派( うらがみ むねかげ )との構図で備前の代表格の座を巡る対決が起きる。反尼子派の浦上宗景は、対尼子の列強の周防大内氏と同格になり始めていた安芸毛利氏の支援を受ける形で、尼子晴久加勢の浦上政宗勢 VS 毛利元就加勢の浦上宗景勢 の構図の備前争奪が競われ、次第に尼子派は旗色を悪くし、備前・播磨におけるそれまでの尼子序列権威は失効( 反尼子派・毛利派の浦上景宗による序列権威統制が進められる )に向かう。1553 年頃になると、出雲尼子氏は表向き2万ほどは動員できるだけの大手権威は維持できていたものの、そのまとまりも怪しくなってきていた。そのような情勢で、中国地方全体における反尼子派の旗頭であった周防大内氏は、出雲尼子氏潰しに総力を挙げる形で、出雲・伯耆への大規模な尼子領攻略に乗り出し、大内氏と同格になり始めていた安芸毛利氏もそれに加勢する。ところがこの大内・毛利連合の尼子本領攻めは、危機感を再確認するようになった尼子派たちも再結束を強め、大内・毛利連合による尼子攻略は手痛い反撃を受けて失敗。戦国後期の総力戦体制をだいぶ進められていた方だった毛利氏はすぐに体制を立て直すことはできたが、内部分裂を抑えるためにこの戦いで内部結束させようとしてた感が強かった周防大内氏の方は、この敗戦を機に内紛が目立ち始め、これまでの列強権威も崩れ始める。同じく尼子氏としてもいい加減に内部の再統一に乗り出さなければならなくなってきたことにあせり始め、これまで中国地方の覇権を巡って長らく対立してきた尼子氏と大内氏は翌 1554 年、慌てて停戦協約を結ぶようになる。大内氏はその最有力家臣団の陶家( すえ )と方針を巡って家中で対立、尼子氏もその最有力家来筋の新宮党( しんぐうとう。尼子軍団の主力をこれまでこの尼子一族が支えてきたが、中国地方におけるかつての尼子権威が縮小し始めている中で、尼子序列権威内でこの新宮党が今まで通りの権威をもち続けてきたことが支障になり始めていた )と対立、双方ともに内紛による弱体化が顕著になる。一方で毛利氏も、列強化の過程での内紛は何度か体験するも、再統一は進められていた方であったため目立った弱体化は見せることなどなかったからこそ、大内氏、尼子氏双方にとって安芸毛利氏の存在が脅威になり始める。毛利氏が両者に諜報・調略戦を仕掛けたのも手伝い、先に大内氏が、次第に尼子氏の序列権威も揺らぐ一方になる。毛利氏は、戦国後期の総力戦体制( 地方議会改革 )に切り替えることはできそうにもなかった周防大内氏に対し、それまでの連盟関係を解消( 失格・格下扱い )し決戦、大内領( 周防・長門の2ヶ国。山口県 )を接収、毛利領化( 毛利序列権威 )の再統一を進める。1557 年頃には毛利元就は安芸・長門・周防3ヵ国を中心に中国地方西側と瀬戸内の水軍衆たちへの影響力を強め、4ヵ国近くの、出雲尼子氏の表向きの実力と同格の大手として台頭する。ここから、中国地方の覇権・主導を巡る出雲尼子氏と安芸毛利氏の二大対決の地政学的領域戦が顕著になるが、石見争奪戦( いわみ。島根県西部。特に石見銀山の鉱山権を巡って、かつては大内氏と尼子氏の間でも争われていた )を毛利方が有利に進めていた中、当主の尼子晴久が 1561 年に急死。尼子義久( あまご よしひさ )が継承。毛利氏は 1562 年に石見攻略を果たして翌 1563 年に出雲攻略に乗り出すと、尼子方はもはや毛利方の優勢続きを止められそうにもなくなっていた。尼子義久は、難攻不落の堅城として知られていた月山富田城( がっさんとだ じょう。出雲・伯耆支配の象徴 )を頼みに毛利方を追い返そうと抗戦するも 1566 年にとうとう陥落。この時点では尼子氏の伯耆領の東部や、美作北部などで根強かった尼子派たちが顕在ではあったが、尼子氏の伝統の中心地であった出雲が毛利領になってしまった時点で、中国地方の覇者・主導はもはや毛利氏だという大局は決してしまった観が強かった。当主の尼子義久は毛利氏に降参、戦国大名としての出雲尼子氏の消滅が強調され、残存の尼子家臣・尼子派たちの排撃も時間の問題と見なされた。しかし尼子残党たちは出雲奪還・尼子再興の団結を強める者も多く、分家筋の尼子勝久( あまご かつひさ )を擁立しての反毛利派運動のしぶとい抵抗を続ける。時系列が少し前後するがかつて備前で、反尼子派・毛利派として備前の尼子序列権威派を排撃し、備前・播磨・美作南部で力をつけ始めるようになっていた浦上宗景は、毛利権威の強大化にともない備前浦上氏の格下観が強まった、つまり毛利家による浦上家の家臣化の序列権威の強まりに、それに次第に反抗的になる。1563 年頃になると、それまで毛利氏の後押しによる毛利序列権威に頼った浦上氏の備前の統治方針は一転、それまで対立して弱体化していた尼子派たちと和解し始め、備前・美作・播磨における毛利序列権威排撃、浦上序列権威改めの浦上独立運動に動き出したため、1566 年に出雲を失って大いに劣勢となった尼子派たちは、力をつけ始めて反毛利派を煽るようになったその備前浦上氏と結託、毛利氏もこれに手を焼くようになる。しかし尼子残党たちの尼子権威の巻き返しは劣勢の一途に向かい、出雲の月山富田城の奪還戦もたびたび挑まれるがいずれも追い返され、山名氏の加勢を得た 1574 年の奪還戦でも追い返されたのを最後に、かつて各地で幅を効かせてきた尼子序列権威はほぼ消滅。尼子残党たちの存在感は 1570 年代に入ってからは、各地の反毛利派の一員に過ぎなくなった。毛利元就が69歳になる 1566 年頃からは容態の悪化が増え、1570 年代に入って豊後大友氏( おおとも。ぶんご。九州の大分県 )との利害対立に忙しくなり、反毛利派を煽った備前浦上氏の阻害にも手を焼くようになるが、1572 年に大友氏との対立が解消されると、毛利氏は備前・播磨の毛利派たちの後押しを理由に、浦上序列権威が強まっていた備前・美作・播磨への介入・攻略に本腰で乗り出す。その前年の 1571 年に毛利元就は亡くなるが、若年当主の毛利輝元( もうり てるもと。毛利元就の長男・毛利隆元の子。隆元40歳で既に他界のため輝元17歳頃に継承 )をしっかり後見できていた名将の吉川元春と小早川隆景( きっかわ もとはる。こばやかわ たかかげ。毛利隆元の弟たち )が毛利主導・団結を支え、毛利家は大きな動揺や騒動が広がることはなかった。1572 年には旧畿内で、足利義昭と織田信長の決別が決定的となり、畿内近隣の反織田派たちの反抗に織田氏が手を焼くことになるが、浦上宗景はこの早い段階で織田派を表立って表明した上で毛利勢と毛利派たちに対抗する姿勢を見せた。反毛利派の旗頭となった備前浦上氏と手を組むようになった備前近隣の反毛利派たちは尼子残党たちも含め、この頃から 反毛利輝元派 = 浦上宗景派・織田信長派 という構図が強まる。畿内再統一に手を焼いていた当初の織田氏は、それがさも織田氏の危機であるかのような反織田派たちの勢い任せの吹聴( ふいちょう )が横行するも、上同士の内々では織田氏によって畿内再統一が進められることは時間の問題、本当は上同士の誰かがそれ( 戦国終焉に向けた畿内再統一。世俗・聖属両中央人議会への人事敷居改め。次世代公務吏僚体制が前提の中央総家長・武家の棟梁・絶対家長としての手本の示し合い )をしなけばならなかった、しかし織田氏くらいしかできそうになかった気まずさくらいは認識していたのが実態である。浦上宗景が織田派を表明したからといっても、多忙な織田氏からただちに軍事的な後押しが得られる訳ではなかったものの、それでも威厳面で一定の効果を見せることに成功する。織田信長と連絡を取り合うようになった浦上宗景は、織田派を強調しながら備前・美作・播磨の反浦上派・毛利派たちに和解・停戦( 天下静謐令 )を促進すると、浦上宗景に反抗的だった国衆たちの動きも、とうとう畿内再統一に乗り出した織田氏のことが新局面的に意識されながら一時的ににぶり始める。特に播磨では永らく、山名派だの尼子派だの毛利派だの浦上派( 守護代派 )だの赤松本家派( 守護派 )だのの国衆たちの激しい鞍替え劇で荒れ続けたのも、久しい平穏が一時的だが見られるようになった。織田派として、備前・美作・播磨で和解・停戦( 天下静謐令 )を促進し始めた備前浦上氏を攻める( それを妨害する )ことが反織田的( 天下静謐違反・畿内再統一荒らし )な立場だと写り始めた雰囲気に気まずくなった毛利氏( と各地の毛利派・反浦上派たちも )は、浦上氏といったん停戦するが、これは2年ももたず長続きしなかった。備前近隣の騒乱を表向きだいぶマシにできた浦上宗景は、その成果を翌 1573 年に織田信長から評価され、備前・美作・播磨3ヵ国は織田家の勢力圏とする、その明確な3ヵ国支配代理の格式の公認を浦上宗景が得られた、までは良かった。これまで国衆たちの鞍替え劇が顕著だった特に播磨では、旧室町体質が抜け切れていない見方( 旧室町体質への旧廃策が著しい次世代政権議会を敷き始めた織田氏の敷居に、揺れていた見方 )での、旧守護代( 有力家臣 )の浦上氏が旧守護( 主 )の赤松氏を従わせる構図による、それによる主導の優劣序列どうのについて、1年も経たない内から不満を挙げ始める国衆たちが早くも目立ち始める。備前でも経緯を見直してみると、尼子序列権威の顕在期に尼子派か毛利派かで争われた当初、浦上宗景が毛利派を表明して備前近隣の毛利派たちと毛利氏の加勢を得て尼子派を排撃したことで、その流れで毛利家との友好関係を強めるようになった国衆たちも多かった。そんな中で浦上宗景は今度は、備前で強まる一方だった毛利序列権威の追い出しを急に始めたため、尼子残党たちとの復縁はいいが、そのように縁を壊される鞍替え劇を急に強要させられることに不満をもちつつも渋々に浦上宗景に従っていた国衆たちも多かった。そうした身の振り方の浦上氏の序列統制下で優遇される訳がないまま浦上宗景と和解・停戦を続けることに不満をもち始めた、浦上宗景に納得していなかった備前の反感分子たちが次第に毛利派( 反浦上派・反織田派 )として再結束を強める形で二分し始め、浦上宗景の主力軍団・最有力家臣であった宇喜多直家( うきた なおいえ )が毛利派の旗頭として、備前の代表格の座を巡って浦上宗景と対決する事態に向かう。1573 年には畿内近隣の反織田派の勢いは早くも鈍化し始めるが、織田氏が播磨以西に軍事介入するにはもう少し時間がかかりそうだったからこそ対決が急がれた。1574 年から浦上宗景と宇喜多直家の対決は本格化し、1575 年に宇喜多勢( 毛利派 )が浦上勢( 織田派 )を備前から駆逐し始めると、毛利氏に著しい格下扱い( 序列権威介入 )されないためにも、これまで全く進んでいなかった備前再統一が、宇喜多直家によってようやく急がれることになった。前後するがのち、羽柴軍団( 織田勢 )による播磨再統一、また織田水軍( 九鬼嘉隆の志摩水軍衆。くき よしたか )による毛利水軍( 村上武吉の瀬戸内広域の水軍衆。むらかみ たけよし )の撃退による活躍で、播磨の反織田・毛利派権威の排撃が 1578 年頃に決し始めると、それまで毛利派として備前から羽柴軍団を阻害してきた宇喜多直家( ただしやる気など怪しいのらりくらりが多かった )は、但馬攻略も進めるようになった羽柴秀吉からの前々の調略によって 1579 年に織田派に鞍替えすることになるが、その時に織田信長が表向き宇喜多直家に厳しかったのは、以前に織田氏が公認した浦上宗景を宇喜多直家が排撃した経緯に対してのものになる。ただし織田信長は、全く進んでいなかった備前再統一が宇喜多直家によってようやく大幅に進められた所は内々では評価していたと見てよく「だったら( 格下げ覚悟で織田派として公認して欲しければ )羽柴軍団の毛利攻めの寄騎として、必死になって加勢・奉公の手助けをして見せよ!」と、備前宇喜多勢のことを表向き厳しめに試したのである。1575 年の長篠の戦いで武田軍を派手に撃破、畿内近隣では織田氏の畿内再統一を阻害できる勢力はもはやいなくなったことが明確化された。ここから織田氏はいよいよ、師団長格の柴田勝家に加賀・能登・越中攻略を、羽柴秀吉には播磨攻略を、の地方への本格的な天下静謐戦が始まる。羽柴秀吉が播磨再統一に乗り出した際にはっきりしていたように、旧守護赤松領( 播磨と備前。兵庫県と岡山県 )は、備前では浦上宗景から宇喜多直家への代表格の交代劇を機にようやく再統一らしい体制整備が進められたが、播磨は旧管領畠山領( 能登・越中。石川県北部と富山県 )のように反外圧派としての自治権的な、再統一以前の危機結束すらろくに進められていなかった。能登・越中では織田派( 能登の長氏体制派と越中の神保派 )の下地があっても柴田軍団はその再統一に少し時間と手もかかっている中で、その( 地方再統一・地方議会人事敷居改革の )下地など全く育っていなかった、戦国前期と戦国後期の狭間で時代停止したままの播磨を、上杉氏よりも強豪化していた毛利氏の阻害を押しのけて再統一することはこの上なく大変だったのである。羽柴秀吉がかなり苦労して、どうにか播磨を織田氏の敷居にもっていくことができたのは、それだけ羽柴秀吉が優れていたことが窺える、相当の将器が求められる大仕事だったのである。羽柴秀吉が任されることになった畿内以西領( 播磨、但馬、因幡、美作 )はある程度の再統一( 敷居改め )も進めることができていたからこそ、本能寺の変が起きた際には動揺はあったが大した混乱はないまま、広域家長・師団長らしい威厳を保ちながら畿内以西勢を率い、明智勢と決戦することもできたのである。前後したが本題に戻り 1577 年頃、備前では宇喜多氏による備前再統一で浦上派・織田派の排撃が進められ、浦上・織田派として反毛利を続けてきたがいよいよ行き場所を失うことになった尼子残党たちは、ここで解散・帰農( 庶民化 )しようとせずに、毛利水軍の横槍に手を焼きながら播磨再統一を進めていた羽柴軍団の加勢に向かうことになった。翌 1578 年に織田水軍( 九鬼嘉隆の志摩水軍衆 )の加勢で播磨灘の毛利水軍を撃退するまでは苦労が多かった羽柴秀吉としては、行き場を失った尼子残党たちがなお意気消沈することはなく、織田派として進んで播磨に加勢に来てくれたことは何にしても貴重だったといえる。1577 年は、播磨の毛利派の再燃の旗頭となった別所氏の三木城に集結した反織田派たちを制圧すれば、播磨再統一は決する分岐点となったことで、毛利本軍も別所氏を支援するために大軍で播磨西部に乗り込む動きを見せ、騒然となった。そのような情勢になっていた中で羽柴軍団と合流することになった尼子残党たちの立場というのは、出雲の本領を追われて以来、反毛利を続けて毛利派を手こずらせることはしてきたものの、大局では巻き返し的な目立った活躍ができておらず存在感など危うくなる一方になっていた、この経緯がここでまず重要になる。だからこその、播磨を巡る織田軍と毛利軍との対決を機に、播磨西部の防衛拠点である上月城( こうづき )で尼子残党たちが大軍の毛利軍を足止めし、その間に羽柴軍団が別所氏制圧を進める、という役を願い出、任されることになった。しかし別所長治( べっしょ ながはる )を旗頭とする三木城の抵抗は頑強で、播磨灘に制海権を張った毛利水軍の支援もあって、統制が崩れる様子を見せずに時間がかかりそうだった。そのため羽柴軍団は、3万近くの毛利勢に2500で応戦したが2ヵ月ももちそうになかった上月城( 尼子残党たち )の救援に向かうことになった。この時の羽柴軍団( この時点での羽柴秀吉の動員力は、播磨の織田派たちを含めて1万ほどと思われる )は、三木城の動きを抑えるために軍を二分して救援に向かったため、上月城を包囲しながら播磨西部で領域線を敷いた毛利勢をとても追い返せそうになかった。そこで羽柴秀吉はいくらかの損害も覚悟で、毛利勢に攻撃を仕掛けて注意を引き付けている間に、尼子残党たちが上月城から脱出、血路を開く作戦を提案( 連絡のやりとり )するが、それによって羽柴軍団に多大な損害を与えてしまうかも知れないことで尼子残党たちが断り、尼子残党たちは最後の意地の、玉砕の覚悟を固める。上月城の戦いは、こうした当事者軸を見渡した事情・経緯が全く考慮されずに「織田信長は勝つためには、部下( 尼子残党 )のことを、このように平気で捨て石にするような非情作戦を採った」かのような誤認強調がされ続けてきた。これは、やむなく羽柴秀吉がその状況を織田信長に連絡し「それならそれでやむを得ないから、それ( 尼子残党たちの玉砕 )前提での対毛利作戦に切り替えよ」となったのが実際だったと見てよい。尼子残党たちは今まで対毛利の存在として、大局として( 他ではなかなかできないような、何か名を残すような )目立った巻き返しの活躍ができていなかったことに悔しい想いばかりしてきた。ここに来て羽柴軍団の他の新参たちと同列扱いの順当な奉公をしている場合ではない、ここで織田氏への助勢の手本も示せずに終わる訳にはいかないという、亡国の将としての最後の名声・存在感を懸けたやむを得ない覚悟なのである。尼子残党たちは2ヵ月ももたないと思われた劣勢の中でも、羽柴軍団を少しでも有利にしようと上月城を堅守し続けて毛利勢を手こずらせる。そして限界を迎えた2ヵ月半後、下士官以下の城兵の助命を引き換えに、尼子勝久を始めとする上層全員が切腹するという条件で毛利勢に降参。ここで尼子一族とその旧有力家臣ら中心人物たちは、戦死同様の一斉の切腹を以って、尼子再興の希望は潰( つい )えたかのように思われたがそうではなかった。1566 年に尼子氏の本拠の月山富田城が毛利氏に攻略されて以来、尼子一族の上層のひとり亀井茲矩( かめい これのり )が尼子残党本体とは別行動で連絡を取り合いながら尼子再興を模索するようになり、羽柴秀吉が播磨再統一に乗り出した 1575 年の段階で羽柴秀吉の下( もと )に駆け付け、ひと足早く羽柴軍団の家臣扱いをしてもらえることになった。亀井茲矩が尼子残党たち( 反毛利派たち )との連絡を取り合っていたことで、尼子残党のそれまでの事情と、備前、美作、伯耆においての情報戦の手助けになったのは間違いない。羽柴軍団に協力的だった亀井茲矩はさっそく重宝され、織田信長からも亀井茲矩のことは優遇的に認知されることになった。羽柴家中での亀井茲矩は尼子残党たちとは別枠扱いに作戦課の一員扱いされていたため、上月城の戦いで尼子勝久と多くの有力旧臣たちを失ってしまったことはさぞ無念に思っただろうが、以後も羽柴家中への貢献が続けられた。1578 年には羽柴勢優勢の播磨再統一が見え始め、1579 年には備前宇喜多勢が織田派を表明して羽柴軍団に加勢、中国地方攻略( 毛利攻め )が本格化し始めると、かつて尼子権威の繋がりが強かった地域に詳しかった亀井茲矩がその時も領域戦的な情報戦に貢献したことは間違いない。さらに文化交流的な品性規律、鉱山開発、農地開発の手腕などにも優れていた所も見込まれ、優遇される一方となる。織田信長の顕在期の 1581 年の段階で、新参もいい所の亀井茲矩は古参たちを差し置いて、織田信長と羽柴秀吉の認知の下で因幡で1万石以上と、上級公務吏僚の第一歩の家格裁定をさっそく受けている。古参・新参に関係なく、亀井茲矩のこの特急昇進に内々ではひがんだ者も当然いたと思うが「だったら尼子残党たちのように、上月城の戦いのような礎( いしずえ )となる戦いぶりをして見せよ!」と言われてしまっては文句のいいようのない所になる。尼子再興という形が認められた訳ではなかったものの、尼子当主とその多くの有力層を失った生き残りの尼子家臣たちのことは、尼子一族の有力筋でかろうじて羽柴秀吉に優遇されることになったこの亀井茲矩が、その旧臣たちを身受けする形で救済、旧臣たちは亀井家の下で新たに優遇家禄が得られ、上月城での過酷な戦いは大いに報われることになった。のち関ヶ原の戦いをなんとか乗り切った亀井茲矩は徳川家康からも高く評価され、石高こそ4万石の家格裁定と大きくはないものの、幕府の国際外交を管理・参与する資格付きの、諸大名たちから一目置かれる準譜代的な特別扱いを受ける形で亀井家( 尼子一族 )は江戸時代を迎えるに至る。もっと多くの説明と、指摘も多くしたい所だが1頁内に収めたい字数制限の都合でここまでとする。
千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )