近世日本の身分制社会(145/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか73/??  本能寺の変の全体像19/? 2024/09/10

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~18」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 ※ 本能寺の変の全体像13 で先述


 九鬼嘉隆 くき よしたか

 ※ 本能寺の変の全体像14 で先述

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 ※ 本能寺の変の全体像15 で先述

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 ※ 本能寺の変の全体像16 で先述

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )

 ※ 本能寺の変の全体像17 で先述

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし

 ※ 本能寺の変の全体像18 で先述

 

 小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後

 今回は、小笠原貞慶が深志城奪還( 旧小笠原本領への復帰。ふかし。今の松本城 )を果たすことになったまでの続きに触れるため、前頁を近い内にざっと把握できていないと理解も難しくなることを念押しておく。今回の解説開始の時系列を整理する。織田氏が 1582 年2月に信濃・甲斐( しなの・かい。武田領だった長野県と山梨県 )に乗り出し、それを 1582 年4月までの短期間で済ませて間もなく、小笠原貞慶の悲願であった府中復帰( 小笠原本家のかつての権威領・筑摩郡と安曇郡の政局である深志城の復帰。ちくま。あずみ。ふかし )は織田信長から公認されず、深志城は木曽義昌に公認されてしまった。しかしそれに愕然とするのも束の間、1582 年6月本能寺の変が勃発する。織田体制が一時的に崩れ、信濃と甲斐では織田権威追い出しの大混乱となったことが、深志城争奪戦( 旧小笠原本領再興を巡る戦い )の口火となる。織田氏に潰されかけていた( 能登・越中争奪を巡って織田家と上杉家とで険悪化し、織田勢に押された上杉勢はこれから上杉本領の越後に乗り込まれてようとしていた状況だった )上杉景勝( うえすぎ かげかつ。上杉謙信の後継者 )は本能寺の変によって難を逃れ、織田氏が混乱している隙に、越中東部の上杉領の気風が消滅しない内に取り戻すことができた。上杉勢はさらには織田勢が去った信濃北部にも乗り込み、山浦景国( やまうら かげくに。旧名は村上国清。むらかみ くにきよ。かつての信濃北部の代表格の家系だったが武田信玄に追われ、上杉家に逃れて家臣扱いしてもらっていた )を擁立する形で不穏ながらも旧村上領( 信濃北部。川中島4郡 )の上杉領化を進めた。続いて信濃中部( 府中。旧小笠原領。長野県松本市 )の深志城奪還に、小笠原貞種( おがさわら さだたね。上杉家に逃れて家臣扱いしてもらっていた )とその一団( 小笠原長時が上杉家の下に逃れた際に、共に逃れて家臣団扱いされていた旧信濃衆たち )に向かわせる好機まで、上杉景勝は得ることになった。旧信濃組( 坂西小笠原一族が多かった。坂西氏は小笠原本家の最有力の家来筋で、信濃におけるかつての小笠原序列権威の中で重きを成していた。この家系の有力者たちも上杉家のもとに共に逃れ、信濃再興を窺うことになった。上杉家に家臣団扱いしてもらって以降は上杉序列権威の結びつきを強めていた。ばんざい。さかにし )を率いる小笠原貞種( おがさわら さだたね。文献上では小笠原洞雪。おがさわら どうせつ。亡命当主の小笠原長時の弟。おがさわら ながとき )が、現地の旧小笠原家臣の残党たちに上杉派を呼び掛け、深志城の木曽勢の追い出し( 織田信長の公認によって深志城を任せられて間もなかった木曽義昌の手勢の追い出し = 織田権威の追い出し )に成功する。上杉派の小笠原貞種が深志城を奪還( 織田権威と見なした木曽勢を深志城から追い出すことに成功 )したことで、現地( 府中2郡の旧小笠原家臣の残党たち )では小笠原権威再興の機運で大いに盛り上がるも束の間だった。それに出遅れた本項の小笠原貞慶は、既に甲斐・信濃争奪戦に乗り出していた徳川家に急いで頼ると、徳川家康の好意的な斡旋を得て、小笠原貞慶は南信濃衆たちからも優位な後押しが得られることになった。小笠原貞慶はまとまった後押しの軍勢を得て深志城に迫ると、小笠原貞種ら上杉派たちは不利な要因が重なって意気消沈、徳川派の小笠原貞慶たちにやむなく深志城を明け渡し撤退することになった。以後も深志城( 府中2郡の支配権の )を巡る不穏な対立・争奪は続き、織田家から公認を得たとたびたび府中侵攻を繰り返す木曽義昌勢と、同じく府中の上杉派を後押しする名目でたびたび侵入してくる小笠原貞種の一団と、それを追い返す小笠原貞慶の三者対立の攻防が 1585 年まで繰り返されることになる。以後の深志城( 松本城。府中2郡支配の象徴。政局 )は小笠原貞慶がなんとか守っていた中、中央( 畿内 )を掌握した羽柴秀吉による再びの 小牧長久手の戦いで徳川家の時間稼ぎがいったん成功するも時間切れの 天下総無事令 停戦令。世俗・聖属共に勝手な武力自治権運動・軍閥運動の禁止令。羽柴秀吉が織田信長の天下静謐令を肩代わりし始める。羽柴秀吉の新中央政権議会・絶対中央総家長権による正式な士分雇用序列の公認・謄本登録・身分再統制など受けていない、羽柴家への上洛によるその評議名義的・選任議決的な公認など受けていない地方家長気取りども・国衆気取りども・気の小さい地方裁判権止まりどもの勝手な武具帯刀自体が、前近代政権議会荒らしの閉鎖軍閥運動、正しさを乱立させ合う反国家構想の低次元化運動の反逆と見なしてその地方・地域を上から順番に手厳しく踏み潰していくことを恫喝 )が、天正壬午の乱 てんしょうじんごのらん。本能寺の変がきっかけの信濃・甲斐・上野の争奪戦。長野県と山梨県と群馬県を巡る、越後上杉氏と関東北条氏と東海道徳川氏の間での領域争い。信濃支配の表向きの中心地である松本城を巡る争奪戦も注目された に強く向けられての終結をどうにか迎えた( 小笠原貞慶が松本城を維持し続ける形で乗り切った )までの、当時の様子と要因を整理しておきたい。繰り返すが上杉景勝は、本能寺の変が起きて織田体制が一時的に混乱したおかげで危機が好機となり、信濃北部( 川中島4郡 )に乗り込んで上杉領化し、信濃中部( 府中 )乗り込む機会まで得ることになった。深志城の木曽勢が旧国衆一揆( 織田序列権威追い出しを始めた旧小笠原家臣の残党たち )を鎮圧できそうにもなく手を焼いている様子に、好機と見た上杉景勝( と参謀役の直江兼続 )は小笠原貞種の一団( 共に上杉家臣化されていた旧信濃衆。深志城の由縁と上杉権威の結び付きを強めていた坂西小笠原一族が多かった )に深志城奪還に向かわせることになった。小笠原貞種の一団が、上杉派を呼び掛けながら深志城に迫っていることを聞きつけた府中( 旧小笠原本領の筑摩郡と安曇郡の2郡。今の長野県松本市 )の旧国衆一揆たち( 没落した、士分待遇の特権を失った旧小笠原権威序列の残党たち )は、深志城に居座り続ける木曽勢( 織田権威序列 とりあえず追い出したい一心で、この時は皆が小笠原貞種に味方する団結を見せる。国衆一揆たちが気勢を挙げる様子に木曽勢も防衛を諦め深志城を脱出、いったん木曽郡に撤退することになった。上杉勢は信濃北部( 川中島4郡 )に続いて、信濃中部( 府中2郡 )の上杉領化もできたかのように思われたが、徳川勢も北条勢も信濃の領域を巡って動き出していたため、決して順調ではなかった。本能寺の変( 天正壬午の乱 )をきっかけに関東の北条氏政( ほうじょう うじまさ。当主の北条氏直の父。表向きは後見人の立場を強調したが氏直が病弱気味な所があったことで、事実上の北条家の主導を務め続けていた。ほうじょう うじなお )も積極的に動き出し、北条氏がこだわってきた関東権威を脅かしていた滝川軍団( 上野の織田権威と反北条派 )の排撃にまずは成功する。北条氏は甲斐争奪にも積極的に乗り込むも徳川勢との領域戦は振るわず、その間にも上杉勢が北信濃から信濃攻略を優位に進め、徳川勢( 酒井軍団 )も南信濃から信濃攻略を優位に進めていたため、北条勢もそこに割って入るように、上野( 群馬県 )から信濃東部( 長野県の佐久・小諸方面 )に大軍で乗り込む。北条勢が信濃東部に乗り込んで以降、上杉、徳川、北条の三者間での領域戦は調略戦中心の拮抗状態となる。北条勢に信濃東部に乗り込まれてしまったことで、東部の有力国衆の真田昌幸 さなだ まさゆき。特に軍事学に精通し、武田家臣時代から知将として名高かった。武田信玄時代に期待され、武田勝頼時代には参謀役として重宝されるも、武田勝頼時代からは人事再統制がうまく進められなかったことで、せっかくのその優れた才覚も中途半端にしか発揮できなかった。武田氏消滅時に織田信長から旧武田権威の巻き上げを条件に国衆の地位の仮公認を得た数少ないひとつだった。真田昌幸は、織田家の師団長格の滝川一益が上野に乗り込んだ際のその寄騎・指揮下に組み込まれ、本能寺の変によって滝川一益が劣勢になっても、反北条派として滝川一益に協力的な姿勢を続けた )は、場凌ぎ的に北条派を表明( 真田家は北条権威序列の家臣扱い をやむなく受ける )する。しかし真田昌幸は隙を窺いながら、しばらくして徳川派に、そして上杉派に鞍替えし、最終的に豊臣秀吉に直臣扱いに優遇されることになる。当時の特徴が多く窺えるそのややこしい事情も順番に説明していきたい。信濃東部に乗り込んできた北条氏政と対峙しなければならなくなった上杉景勝は、この時は8000ほどしか動員できなくなっていた。これは、能登・越中におけるかつての上杉派の力が弱まっていたことと、上杉謙信から上杉景勝への代替わりを機に地元議会( 上杉本領の越後 )の質を上げるための軍縮的な越後再統一( 人事敷居改革・身分再統制 )に乗り出したこと、上杉景勝の新たな中核上層へのいったんの領地特権の返上要請( 1578 年に上杉謙信が亡くなった時から継承者争いで苦労した上杉景勝は、織田勢に押されていた中でもこの世代切り替えの身分再統制による建て直しを最優先した。苦難続きとなったがそこに踏み込んでおいたからこそ、結果的に総崩れを防ぎ、豊臣政権の敷居に対応できるようになった )に反抗するようになった新発田重家 しばた しげいえ。新発田氏は、新潟県新発田市でちょっとした力をもっていた佐々木源氏の分家筋の国衆 )の鎮圧に手を焼くようになったことの、苦難が重なっての象徴的な動員力だったといえる。一方で徳川勢は、徳川家康が主に甲斐再統一を、筆頭家老の酒井忠次の軍団が信濃攻略を担当し伊那郡北部( 長野県伊那市 )まで押し寄せたが、北条勢が表向き3万で信濃東部に乗り込んでからは、酒井軍団もそれ以上北進することもできずに拮抗することになる。代理で信濃攻略を担当することになった酒井軍団( 主に三河勢の一部と遠江勢の一部 )はせいぜい4000、ただしそこから徳川派の南信濃衆たちを動員すれば、酒井軍団は6500ほどは維持できたと見られ、時間稼ぎの南信濃の防衛はなんとかできそうな兵力になる。3万を強調している北条勢の実働は2万2000。上杉勢の8000は、上杉領化したばかりで足並みなど怪しい信濃北部勢の動員を合わせての苦し紛れの兵力と見られるが、時間稼ぎの川中島4郡( 上杉領化したばかりの信濃北部 )の防衛はできるほどと見てよい。兵力的には北条勢が優勢ではあるものの、北条派にできた目立った有力は真田家くらいだった中で、上杉領扱いされた信濃北部( 川中島4郡 )や、徳川領扱いされた信濃中南部( 府中2郡、諏訪郡、伊那郡北部 )に北条勢が深入りしようものなら、上杉勢と徳川勢とで一時結託されたり、また真田家に離反されたりの、北条勢の上野方面への退路が断たれる挟撃を受ける危険性もあった。だからそれ以上は互いに身動きは採れずの、隙の窺い合いの調略戦中心の拮抗が続くことになる。信濃東部の諏訪郡でも、諏訪一族中心の織田権威追い出しの旧国衆一揆が起き、諏訪頼忠 すわ よりただ。諏訪家の分家筋。かつての諏訪郡の代表格すなわち諏訪大社の氏子総代の本家筋だった諏訪頼重が、武田氏による諏訪攻略に敗れて半消滅。武田信玄が信濃攻略に乗り出す前に、武田信玄と諏訪頼重の娘との間にできた4男の勝頼に、武田氏の信濃攻略後の諏訪支配にその血縁を理由に力関係的に諏訪頼重の後釜にすえ、当初は諏訪勝頼を名乗らせていた。武田家との抗争に敗れて武田権威序列による再統一を受けることになった諏訪郡の国衆たちはこの諏訪勝頼が、諏訪大社の権威序列の伝統による典礼で大祝・氏子総代になった訳ではなくても、一応は諏訪頼重の孫ということもあって武田権威序列支配に渋々従う他なかった。おおほうり。諏訪郡は神領武士団の気風が根強かったことで、信濃全体の代表格は小笠原家だととりあえずは認識した上で、諏訪郡においては諏訪大社の大祝・氏子総代が諏訪郡の代表格、あるいはそれによって諏訪郡における代表代理や序列権威が決められる伝統がそれまでは続いていた。諏訪郡は信濃の中で特殊な格式であったことで、小笠原家やその有力家来筋の坂西家も、諏訪大社での名目・誓願式の神事序列に参加することがそれまで重要視されていた。武田信玄の後継者予定であった長男の武田義信は、駿河今川氏由来の娘との間にできた子で、武田義信の側近たちも今川家が衰退する前は駿河権威との親睦派が多かった。しかしそれが原因で今川家衰退における駿河接収を巡って収拾がつきそうにない権力闘争の内紛に発展し始めたため、武田信玄は武田義信に対して上意討ちに近い廃嫡を断行、駿河権威を重視していたその側近たちも一斉に改められる形で駿河接収に乗り込む事態となった。武田信玄の次男の信龍は目が不自由であったことで僧籍入りしていて、半分は武家として親類衆扱いに領地も任せられ尊重はされたが後継者としては望まれなかった。のぶたつ。3男信之は元服前に亡くなってしまい、それで当初は後継者予定ではなかった4男の諏訪勝頼が武田勝頼としてやむなく擁立されることになる。しかしすっかり信濃衆扱いされてしまっていた武田勝頼に対し、甲斐衆たちは武田家の本領である甲斐の領地特権を返上しようとせずに、また武田勝頼にとっての本領である諏訪郡の格上げにも甲斐衆は動こうとせずにモタモタやっていたことが、武田家全体にとっての次世代人事統制が一向に進まない原因となっていた。武田勝が、安芸武田家・若狭武田家・甲斐武田家に共通する通字であるの字ではなく、諏訪家の通字のの字を名乗っていることからも明らかに甲斐衆扱いでない、諏訪衆扱いのチグハグ感が窺える。ただ駿河権威や信濃権威が、甲斐権威を少しでも上回るようなことがあってはならないなどというそこばかりの、前近代国際議会改めなど自分たちでできたこともない、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもが陥りがちな典型的なただの老害権威をケンカ腰にたらい回し合い低次元な悪意狩りのねじ伏せ合いに顔色を窺わせ合うことしか能がない、それで国際地政学観の合格・高次元/失格・低次元の人事敷居の危機管理といえる評議名義性・選任議決性の手本の示し合いをうやむやに徹底的に面倒がり合い低次元化させ合っているだけの時代遅れの非地政学観ばかり押し付けられ続けていった武田内部の事情が、織田家に遅れを取るばかりで交渉権も確立できない致命的な弱体化の原因となった。まさに荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論で衰退・傾国の原因だと指摘されている部分。織田家によって武田家が消滅した矢先の本能寺の変・天正壬午の乱での、信濃における織田序列権威追い出しをきっかけに、かつての本家筋の諏訪重の分家筋にあたる諏訪忠が、紆余曲折を経て諏訪家再興のきっかけを作ることになった )が中心となって諏訪家再興に動いた。徳川勢( 徳川家康と酒井忠次 )がその諏訪頼忠を徳川派にするべく調略に動くも、諏訪頼忠が当初は徳川権威序列に組み込まれる( 徳川家臣扱いを求められる )ことに反抗、より大手だった北条氏政と条件交渉しようとする動きに出たため徳川勢に妨害を受け、諏訪頼忠による最初の再興運動は失敗に終わる。しかし関東総代の自負を強める、織田氏が台頭するまでは日本全体で1位2位の権勢を競っていた東日本最大手の北条氏から見て、諏訪家は確かに神領武士団として高名でも、諏訪家再興がかかっているようなイチ郡単位の失領の立場の諏訪頼忠が、5ヵ国近くの実力の北条序列権威の古参たちを差し置いて対等に扱われる訳がない。だから同じ家臣扱いされるのなら、少しくらいは同胞感も出してくれていた徳川家康の方がまだ良かったと考え直したと思われる諏訪頼忠は、徳川家康と和解に動くことになった。諏訪頼忠は徳川勢の後押しを得る形で、徳川派を呼び掛けながらの諏訪再興を手伝ってもらうことになる。北条勢も信濃東部に乗り込んだ際に、北条氏にとって厄介だった真田昌幸を北条派にとりあえず組み込むことができたのは一定の成果だったといえるが、しばらくして離反され、思うように成果を挙げられないでいた。信濃東部の小県郡( ちいさがた ぐん。長野県上田市 )や佐久郡北部( さく ぐん。長野県佐久市の北部 )に点在する自領はまとめることはできていた真田昌幸は上野( こうづけ。群馬県 )の事情に詳しく、真田家は武田時代から上野北部における支配権を( 北関東・群馬県全域の総代の自負を強めていた北条氏から見て )侵害し続けていたことに、北条氏から見て小うるさい存在だった。その真田氏をとりあえず北条氏の傘下に組み込んだものの、しばらくして真田家は上野北部( 嬬恋、沼田方面。つまごい。ぬまた。群馬県沼田市方面 )の領有権のことで北条家と揉めて離反されることになる。かつて武田方として信濃東部から上野方面の武田領化を代行していた真田家は、上野に乗り込んだ滝川一益の寄騎扱いとなり、しかし北条勢が滝川軍団( 織田勢 )を排撃した後も、上野の事情に詳しい真田家は上野北部の旧武田領の真田領化に動く一方だった。そのため北条家は真田家を傘下に収め、それで上野北部を北条領に帰属させようとするも、その領域を真田領として公認してもらう前提でいた真田家は譲ろうとせずに反抗し、真田家は北条家と手切れして徳川派に鞍替えする事態となる。軍勢的には有利であった北条勢は、関東総代の座を奪われる所だった滝川一益を上野から追い出すことはできたものの甲斐攻略も信濃攻略も振るわず、上野北部のことでも真田家に結局阻害され続けられる形となった。上杉氏、徳川氏、北条氏の三者は信濃の領域を巡って軍を対峙させ続けながら、各地国衆たちへの調略戦とその後押しの小競り合いを展開するも、ここから大きな進展は見られそうにもないままの対峙がダラダラと続けられた。天正壬午の乱を最も活かせていなかった北条氏政は、徳川家康に「そっちに走った( 徳川派に離反した )真田家に上野北部の領有権を放棄させ、北条氏に帰属させるのなら我が北条軍は、徳川家とは協定を結びたいと思っている。それを以( も )ってまずは北条家と徳川家との間で、これ以上の侵害は互いにし合わない領域協定をし、共に上杉勢を攻めようではないか」ともちかける。そこで徳川家康は徳川派を表明した真田昌幸に、上野北部の領有権を北条氏に明け渡すよう、その分の代替領地を保証するともちかけるも、真田氏はこの時もやはり上野北部領を手放そうとせずに、今度は徳川家と手切れして上杉派に鞍替えする事態になる。この時の上杉景勝( と直江兼続 )の真田昌幸の引き入れの実態は、上杉景勝と連携していた羽柴秀吉の意向( 徳川と北条が手を結んで上杉排撃に動こうとするのを妨害 )が強かったと見てまず間違いない。上杉景勝と連携し始めた真田昌幸のこの動きが、家格公認も含める羽柴秀吉の意向( 北条勢と徳川勢が結託しようとしていたのを妨害 )も働いていた気まずさくらいは、徳川家康も北条氏政も内々では当然意識していたと見てよい。1584 年の賤ヶ岳の戦い( しずがたけ。織田家臣たちによる、織田体制派・柴田派と、旧廃策派・羽柴派との戦い )で上杉景勝が羽柴方を助勢して以来、羽柴秀吉と上杉景勝との良好な連携関係が始まっていたのは間違いなく、だから信濃の同行も上杉景勝によって羽柴秀吉に全て筒抜けだったこと、上杉景勝( と直江兼続 )はこの時点で、少し後になるがのちの 1595 年での大きな加増移封・国替えに対応するべくの体制改善の準備もかなり努力していたと見てよい。信濃騒乱に対する羽柴秀吉の身分再統制的( 天下総無事的 )な見方というのは、郡単位の立場がどうのこうのの木曽義昌、小笠原貞慶、真田昌幸、諏訪頼忠、屋代秀正ら信濃衆たちに対してはまずは大目に見、一方で羽柴秀吉と連携するようになっていた公認的な上杉景勝に対し、徳川家康と北条氏政は譲歩しようとせずにそれら信濃衆たちをいつまでもかき回し合う争奪戦を止めようとしなかった( 上杉景勝を通して和解に動くという天下総無事令に従おうとしない = それが上杉景勝の立場だということをとぼけ続け認めようとしない )ことの方をよほど問題視していたと見てよい。羽柴秀吉が織田信長を代行する形で中央政権議会の新設( 戦国終焉 )を目指していたことに、連携しようとしない( 天下総無事令に従おうとしない )徳川家康と北条氏政に対し、この真田家を良い意味で利用する形で「お前ら( 徳川家康と北条氏政 )はいい加減にこの辺りにしておけ!」の意向を間接的に向け始め、ここは上の間で何が起きているのか下々はよく解らなくても、両名( 徳川家康と北条氏政 )は内々ではかなり気まずかったのも間違いない所になる。羽柴秀吉に対する臣従準備が進められていない( 天下総無事令の新政権に向けての羽柴秀吉と連携する準備ができていない )徳川家康と北条氏政が気まずい中、羽柴秀吉の介入は明らかだった真田昌幸の上杉派への鞍替え劇を機に、徳川家康と北条氏政は大事なことを急に思い出したのように手を結び始め、徳川家康は真田家の本拠の信濃上田城の攻略を、北条氏政は真田領化が強まっていた上野北部の攻略に互いに動いたのである。しかしこれは知将と名高い真田昌幸の作戦によって、いずれも見事に防がれてしまう結果となる。勢力的には小大名風情に過ぎない真田家が、徳川勢と北条勢を同時に相手取り、いずれもくじいて見せた真田昌幸の軍才は全国的に驚かれ、羽柴秀吉からも当然のこととして高く評価されることになった。真田家を巡るこの時の戦いは、羽柴秀吉 - 上杉景勝 - 真田昌幸( とさらに、少し強引にここに小笠原貞慶も加える 天下総無事組と、徳川家康 - 北条氏政格下げ譲歩運動組の構図での対立の強まりを意味していたのである。こうした日本の16世紀後半の大事な地政学的特徴( これ以上必要のない、領域家格争いによる敷居競争をする必要などない戦国終焉に向かっていた中での、上同士の社会心理。全体像 )が掴めていないと、上同士では何が起きていたのかのひとつひとつの動きも何を意味しているのかが一向に解らないままになる。格下げ譲歩運動組として西隣の徳川家康と結託し続けることを狙っていた北条氏政であったが、徳川家康に豊臣政権に臣従されてしまったことで、西日本を早々に臣従させてしまった豊臣政権の敷居に北条氏政もいよいよ向かわなければならなくなる局面を迎える。北条家は豊臣政権への臣従準備( 格下げ覚悟と移封・国替え覚悟 )を2年近く寛大に待ってもらうことになるも、北条家中はいつ内紛が起きてもおかしくない錯乱気味な中でその対応に難航する。そんな中で起きた名胡桃城事件 なくるみ じょう。豊臣家との和平交渉について北条家中で巡るさなか、北条家臣の内の反豊臣派たちすなわち格下げ覚悟の旧関東序列権威改めを受け入れられない派たちが、豊臣秀吉の直臣扱いにされた真田昌幸が公認されていた上野北部の真田領の名胡桃城を、北条家臣が攻め盗る軍事行動を起こすことで破談に向かわせた事件 )を契機に豊臣秀吉に見込み無しの時間切れと見なされ、ここは省略するが、関東大手の権威を振るい続けた北条氏( どれだけ大手であろうが地方家臣の分際 )は、豊臣秀吉( 武家の棟梁・中央絶対家長 )による全国総動員の小田原城包囲戦で踏み潰されることになる。豊臣秀吉は、上野北部領のことで北条氏と確執ができたままの真田昌幸の事情に目を付けて豊臣政権の直臣扱いとし、上野北部領も加えた信濃真田領への大名資格を公認、さらには北関東( 上野。群馬県 )の監視役の吏僚義務を公認してしまった。この人事手配は旧態( 国内地政学的領域戦体制の戦国後期のまま )が改められないまま大手強者を気取り続けてきた北条権威序列( 地方裁判権止まり にとってこの上ない屈辱でしかない、つまり関東総代の権威・面目を丸潰しにする( 公認などされていないかつての地方序列権威に固執する時代はもう終わっている/許されないことを思い知らせる = 絶対家長が総議長の中央政権議会による、管区整備に基づく地方家長の移封・国替えの次世代人事敷居に対応できるのかどうかが問われる )ことが狙いの鬼謀家的なやり方( 敷居競争におけるそうした社会組織心理の急所を突ける側に立つよう/突かれない側に立てるよう努力せよ。だからこそ組織を低次元化させないためのその深刻さを上同士でもてと指摘しているのが、荀子・韓非子の組織論と共通している孫子の兵法の根底 )なのである。織田信長の旗本吏僚体制によってやっと仕切り直される( 非国際地政学観と見なされた低次元序列権威に対する大幅な旧廃策が向けられたことが本能寺の変にも大きく影響 )ことになった中央と地方の関係の、公務吏僚と地方代理の使い分けの優れた次世代人事敷居( 上同士の家格再統制 )が手本のこうしたやり方によって、旧関東総代の自負( 所詮は地方裁判権止まりに過ぎない権威 を強め続けてきた北条氏が対処につまづき始めた、その様子を見せ付けられる側だった徳川家康は「あの時に上洛要請に応じず( 豊臣政権に臣従せず )に、徳川家もこれ( 東海道の徳川権威の面目丸潰し人事 = 国際地政学観が問われる移封・国替えの等族指導に対応できない時点で地方の代表格失格 )と同じことを急にやられたら、対応できなかったかも知れない」と内心は冷や汗で見ていたのも間違いない。このように豊臣秀吉は、北条家を許容するか消滅させるかを試す分水器代わりに真田昌幸 徳川家康と北条氏政が揉め続けるための対象にし続けようとした )を豊臣家の直臣扱いにした( 揉める原因を巻き上げた )ように、豊臣秀吉が徳川家を許容するか消滅させるかを試す分水器代わりに小笠原貞慶 徳川家康と北条氏政が揉め続けるための対象にし続けようとした )を豊臣家の直臣扱いにした( 揉める原因を巻き上げた )のである。徳川家の場合は、介入して間もない信濃権威が対象だった分だけ、より強者を気取っていたからこそその分だけ厳しさが向けられた北条家と比べれば遥かにマシだったといえる。このような当時の地政学史観を踏まえた上で、ここで、上杉派の小笠原貞種が最初に府中に乗り込み、織田序列権威( 織田信長から公認を得て深志城に着任した木曽勢 )の追い出しの国衆一揆( 旧小笠原序列時代の残党たち )を団結させる形で深志城奪還に成功も束の間だった時系列に戻したい。間もなく「小笠原貞慶が徳川派として、南信濃衆たちからの協力支持的な軍勢を率いて、深志城奪還に向かっている」ということが府中に知れ渡った途端、それまで上杉派の呼びかけで小笠原貞種を表向き支持していた旧小笠原家臣たちの多くが、徳川派を呼びかけながら進軍していた小笠原貞慶側に一斉に鞍替えしてしまう事態となる。徳川派の小笠原貞慶が深志城に到着して包囲した時には、上杉派の小笠原貞種の後援者たちは激減していて勝負にならなかったため、一時停戦の退去という形で徳川派の小笠原貞慶が改めて深志城を奪還することになった。これには多くの要因があり、まずは徳川派としてそれぞれ再興運動を団結しようとしていた南信濃衆たち( 小笠原権威の強い伊那郡の旧国衆たち )からの同胞的な協力を、一時的といえども小笠原貞慶が得られたことで、とりあえず信濃中部から南部にかけての代表格らしい振る舞いを見せられたことが大きい。他にも上杉派の方では、小笠原長隆・小笠原貞種が上杉家を頼って逃れた際に付随していた坂西小笠原一族が、旧小笠原序列権威の中の最有力家臣として深志城でもかつて重きを成していたことを根拠に、それによる府中再興計画と上杉権威との結びつきが強調された( 小笠原家当主の家長継承権が、まるで上杉権威が強調された坂西小笠原一族にあるかのような強調がされた )のはいいが、小笠原長隆が前年 1581 年に戦死してしまって以来、信濃組の上杉家臣団を代行することになった小笠原貞種にしても、芦名氏の所にいた小笠原長時にしても、小笠原長隆の子なり小笠原貞種の子なりによる小笠原本家の当主の今一度の明確化すら( この時点でも特に小笠原長時が )積極的にされなかったこと、信濃に乗り込んできた大軍の北条勢に対峙しなければならなかった上杉勢も徳川勢も、府中再統一を後押しする加勢に向かわせる余裕などない中で、旧小笠原序列権威で重きを成していた坂西一族が上杉権威との結びつきを強めていていも意味がなかったこと、一時的でも南信濃衆たちから協力的な軍勢を得られたという既成事実も作っている小笠原貞慶の方がよっぽど小笠原本家の当主らしかったことに加え、実際に小笠原貞慶が小笠原長時の子であり明確な次期当主だと強調していた( ことに、芦名氏の所で世話になっていた小笠原長時が、上杉家の義理に遠慮するあまり、深志城争奪戦が始まっていたこの段階でもそこを今一度強調しようとしなかった )こと、などが挙げられる。小笠原貞慶が深志城に入城することになった時点でもはや、府中では坂西小笠原一族の旧序列権威に肩をもとうとする、すなわちそれ繋がりで上杉序列権威に肩を持とうとする旧小笠原家臣に対する排撃・序列改めが前提の府中再統一が始まることを意味し、上杉派の小笠原貞種から離脱して徳川派の小笠原貞慶に鞍替えした多くというのは、そこ( 坂西小笠原一族の序列権威の否定 = 上杉権威派の否定 を前提とする小笠原本家としての身分再統制が始まる )を解っていた上での鞍替えだったのである。小笠原貞慶は深志城奪還後、織田氏の敷居と比べるとあまりにも遅れていた府中2郡に対する再統一( 小笠原本家の家訓改め。その人事序列改革・前期型兵農分離・身分再統制 )を急ぎ断行、織田家臣時代が大いに参考にされたのは間違いない。深志城奪還を後押しをした酒井軍団の一部と南信濃衆たちはそれぞれの持ち場に戻らなければならず、徳川勢も北条勢と対峙しなければならなかった。そのためしばらく間は、府中が徳川派の領域権威であることが強調できなかった間、短期間でも小笠原権威中心であるかのような府中再統一を小笠原貞慶が進めることができたのは大きかったといえる。小笠原貞慶は地元府中でさっそく1500~2000ほどの府中勢( 旗本手勢 )を組織( 半農半士くずれたちへの身分再統制・官民再分離 )できていた( 初動の織田権威追い出し・木曽勢追い出しで上杉派で盛り上がっていた当初は、半農半士くずれの小笠原旧臣たちが6000近くも集まったといわれる )と見てよく、それを中心に府中再統一を急いで進めている。そんな中でも、府中2郡の支配権を諦めずに取り戻そうとしていた木曽義昌が、小笠原貞慶の府中再統一を妨害するためにたびたび府中に侵入するが、府中勢( 小笠原貞慶勢 )はいずれもその撃退に成功している。木曽勢があまりにしつこいため、逆に府中勢が木曽郡に攻め入ることもあったが、こちらも反撃されて振るわなかった。信濃北部で北条勢と対峙し続けていた上杉勢も、何もしない訳にもいかず小笠原貞種軍団を単独( いて400に、600の上杉本軍の加勢を合わせた1000ほどだったと見られる )で府中に何度も向かわせている。織田氏が信濃を制圧して間もなかったこともあり、破却される運命だった各地に点在していた城塞も多く残ったままだったことで、府中のいくらかの上杉派の残党たちは、府中北部の城や砦に集結していた。小笠原貞慶がその排撃( 上杉権威追い出しの再統一 )に動くと、それを小笠原貞種が後押しするという小競り合いが続いた。府中は中央( 織田信長の肩代わりを始めた羽柴秀吉 )との敷居があまりにも遅れていたからこそ、それに少しでも追いつこうと急がれた身分再統制の敷居に、旧府中から見てその急激な人事敷居改革に次第に不満をもち始めて内部分裂で乱れる( 利害次第で上杉氏や木曽氏や北条氏に内通しようと結託し始める旧臣たち )もたびたびで、その身分再統制についていけない旧臣たち( 騒動を拡散し合うことしか能がない低次元化分子と見なされた連中 には、時に一斉の粛清も用いる苦慮の、外圧にも内部分裂にも気の抜けない日々が続く。小笠原貞慶が深志城奪還を果たした際、深志城はさっそく松本城に改名されるが、これは旧深志城時代の旧態序列は大幅に改められることの強調であり、「織田氏から深志城を公認されたといっている木曽氏の、その深志城は既に無い」「坂西小笠原一族の旧序列権威だという深志城は既に無い」の意向も強いものと見てよい。松本という呼称は、深志城の周辺( 今の長野県松本市 )は農地や都市の拡張がしやすい盆地で、この地帯のことは松本平( まつもとだいら )と呼ばれていたのが元にされたと思われる。府中権威を固め始めた小笠原貞慶は、芦名氏の所にいた父の小笠原長時を府中に呼び寄せようと連絡するも、その時に、小笠原長時に同行していた側近の坂西一族の者と揉めたといわれ、小笠原長時は府中に帰還することはないままその側近に刺殺されてしまうことになった。対上杉、対北条でしばらく忙しかった徳川家康は府中の小笠原貞慶のことはしばらく様子見していたが、小笠原貞慶が遅々として人質をよこそうとしなかったため催促するようになる。地政学的領域権威として府中は徳川派( 徳川家臣 )に属していることを明確化させなければならなかった徳川家康は、少し痺れを切らす形で小笠原貞慶に、いい加減に人質をよこすよう催促する必要があったのである。小笠原貞慶は、徳川家康の後押しをきっかけに府中に返り咲くことができたのは間違いなかったはずだが、そこをまるで全て自身の実力のみ( 小笠原本家の威光のみ )でそれを達成したかのような高飛車な態度を採っていたため、徳川家の上層たちも少しムッとしていたと思うがそこはいくらか許容されていた所もあった。小笠原貞慶も渋々に、子の小笠原秀政をやむなく徳川家に預けることになる。その人質は筆頭家老の酒井忠次の次席の、家中第二位の石川数正に任されることになるが、ここで、詳細も説明したい所だが省略し、あの有名な石川数正出奔事件が起きる。これによって人質の小笠原秀政の身柄が羽柴秀吉に引き渡されることになってしまったのを機に、羽柴秀吉による小笠原貞慶への調略が及ぶ。小笠原貞慶はやむなく羽柴秀吉の直臣扱いを受け入れざるを得ない事態となったことで、上の間で何が起きているのかすぐに理解することも難しかった下士官以下の大勢の徳川家中は、この時の小笠原貞慶の不義にも怒ったが、それよりもその原因を作った石川数正に対しては怒り心頭に憤慨することになった。小笠原貞慶は自身の都合のみを見れば、天下政権も目前の羽柴秀吉に人質の小笠原秀政( 主従のあかし )が渡ってくれた方が、小笠原貞慶が羽柴秀吉の直臣扱いされるという時点で地方領主( 大名資格 )としての公認がより強まる格上げ同然を意味したため何の不都合もない所になる。ただし表向き高飛車な小笠原貞慶であっても内々では徳川家康に助けてもらったという大きな恩義はやはり意識していて、だから大きな背信行為となってしまうことに相当気まずかった様子が、のちの豊臣秀吉と徳川家康と小笠原貞慶とのやりとりからも窺える。このように、上杉派に鞍替えした真田昌幸を羽柴秀吉( 絶対家長・次期武家の棟梁 )の直臣扱いに、そしてもうひとつは少し強引だったが、人質の引き渡しによって小笠原貞慶も羽柴秀吉の直臣扱い、による「お前ら( 徳川家康と北条氏政 )はいい加減にしておけ」の釘刺しの、天正壬午の乱の終結のための具体的な介入が 1585 年頃にとうとう始まってしまった。いよいよ立場が気まずくなった北条氏政と徳川家康は、羽柴秀吉の直臣格を得始めた真田家を共に攻めることで同胞( 格下げ譲歩運動 )の足並みを揃えようとするも、徳川家の方は間もなく羽柴家と和平交渉に動き始めるようになる。徳川家康は真田攻めで成果が挙げられず、それ以前に旧信濃の代表格である小笠原貞慶を徳川家が後押ししているという名目・誓願でこれまで信濃戦を継続してきた根拠( 信濃権威の中心地である府中が徳川派の領域であるという理由 )を羽柴秀吉に巻き上げられてしまった。だからいい加減にここらで終結に動かなければ、今までとぼけ続けてきた天下総無事令の敷居から見て徳川家は不利になる一方となることも解り切っていた。羽柴秀吉の方もただ追い込むばかりではなく遠回しに寛大に、徳川家へは大幅な格下げはとりあえずはしない用意までしてくれたことで、徳川家の上層たちとしても、悔しがる家中を説得する( 移封・国替えに備えなればならない無念も含める )苦慮を経て翌 1586 年、豊臣秀吉に対しての徳川家康の上洛臣従式を以って、なんとか和解が成立することになった。一方で小笠原貞慶は、新政権の形ができ始めていた豊臣秀吉の明確な直臣扱いになったことで、中央の敷居に合わせなければならなかった府中再統一は捗( はかど )ることになったと見てよい。豊臣政権による関東北条攻め・小田原包囲戦・北条氏改易の戦後処理が大方片付いた 1590 年、その軍役で、豊臣方の主力のひとつである前田利家勢のその指揮下に配属された小笠原貞慶勢( 府中勢 )は評価される形で、府中松本7万石家格から讃岐10万石家格の格上げの移封・国替えが命じられるが、高飛車な小笠原貞慶はこの時も、小笠原本家の伝来の地である府中松本城を離れなければならないことに不快感を出したため、小笠原家中はさぞ青ざめたと思われるがそこは豊臣秀吉に許容されていた。渋々に引っ越し準備を始めた小笠原貞慶は、内紛や錯乱等は特に起こすことはなく家臣たちを引き連れて無事、新地の讃岐( 香川県 )に着任することはできた。これについては、小笠原貞慶が豊臣秀吉の直臣扱いにされてから数えて5年近く、移封・国替えに対応できるようになるまで府中再統一( 遅れていた小笠原旧臣たちの身分再統制 )を待ってもらっていた、そこを見込んでもらっていた寛大な処置だったといえる。ところがこの讃岐移封の間もなく、以前に豊臣秀吉を怒らせて奉公構い( ほうこうかまい。士分復帰の禁止 )が出されることになった、羽柴軍団時代の軍部筆頭であった尾藤知宣 びとう とものぶ。織田時代における佐久間信盛に似た立場だった )のことを巡って、小笠原貞慶は豊臣秀吉から注意喚起を受ける事態となる。小笠原貞慶がその身柄をこっそり引き取って士分扱いに匿っていたことが知れ渡ってしまい、尾藤知宣の身柄を引き渡すよう豊臣秀吉から通達されても、小笠原貞慶はまたしても高飛車な態度を出してそれに従おうとしなかった。結局、讃岐10万石家格の小笠原家は改易( 大名資格・地方領主資格・等族諸侯資格 の剥奪 )されてしまったが、これは結果的には英断だったとすらいえる。まず小笠原貞慶は、なぜそうまでしてこの尾藤知宣をかばい続けたのかは、この尾藤家はもともとは信濃小笠原家との由来の家臣出身だった縁に加え、かつて織田政権時代に羽柴軍団内で一目置かれるような家格を得ることになったことで、小笠原本家との由来の元旧臣からのそうした著名な人材が輩出されたという所は見捨てる訳にもいかないという、そうした強調が主な理由だったと見てよい。豊臣秀吉は表向き( 権威上 )では改易という形での小笠原貞慶への厳しさを強調したものの、一方で小笠原貞慶のそうした、本人なりに苦労してせっかく返り咲いた大名資格にしがみつくよりも、改易覚悟でそうした縁をかばおうとした人的信用面については豊臣秀吉は内々ではむしろ高く評価したと見てよく、この一件は徳川家康とその家臣団たちからもそこは同じように好感を得たと見てよい。だから豊臣秀吉は以後も、人質として預かって以来の子の小笠原秀政のことは人材候補扱いし続け、いずれは小大名資格や公務吏僚上層の格上げの優先権付きの、豊臣家の直臣・旗本扱いの優遇扱いのままだった。讃岐の小笠原家の改易があった同 1590 年、徳川家康も豊臣秀吉から、大幅な加増が条件の関東移封・国替えが命じられ、最古参の三河出身者たちは憤慨する者も多かったが渋々それに従い、騒動は起きることなく移封・国替えに対処することができた。ここで、徳川家康はこの移封・国替えを命じられた際の交渉として「天正壬午の乱の時には、徳川家が信濃南部と、府中2郡と諏訪郡の中部までは徳川領だったという当時の領域家格を、是非公認して頂きたく」と願い出て、それを理由に「小笠原秀政は当時は徳川家臣だったはずで、だからそれも改めて公認して頂きたく」と願い、認めてもらえることになった。これが決定される前に豊臣秀吉は、小笠原貞慶を呼んで「徳川家がそなたの次代の小笠原秀政を徳川家臣として是非引き取りたいと、一緒に関東移封に向かいたいと願っているが、許可してもよいか?」と確認している。豊臣家臣化されて以後の小笠原貞慶は徳川家康と疎遠なままで気まずいままだったため、「報復人事を受けるかも知れないので気が進みません」という返答を最初はした。そこで豊臣秀吉は徳川家康に「府中時代に、徳川派から羽柴派に鞍替えしてしまった小笠原家のことを徳川家は今でも怒っているのではないかと気がかりのようだ。それにワシは小笠原本家としての家格復帰の約束もしているのだ」と伝えると「あの時のことの追求は一切致しません。孫娘( 岡崎信康の娘 )との婚姻も考えていて、親類扱いに優遇するつもりでいました。小笠原本家としての家格復帰ももちろん考えています」とまで答えた。それが確かであるという和解を豊臣秀吉も仲介・公認するという形で、それで小笠原貞慶も承認に至る。結局、父の小笠原貞慶も徳川家臣扱いとして小笠原秀政と共に関東移封に同行することになったが、このやりとり( 小笠原本家の文献でこのくだりが書かれている )から、豊臣秀吉と小笠原貞慶の内々も、徳川家康と小笠原貞慶との内々も、全く険悪ではなかったこと、また表向きの高飛車な態度は許容され尊重されていたことも窺えるのである。徳川家臣たちから見ても、保身度外視で豊臣権威に逆らう形で元旧臣筋の尾藤知宣のことをかばった小笠原貞慶に対して好意を得ることになったのも間違いなく、だから小笠原親子は徳川家臣たちと和解的に関東移封に同行できたと見てよい。他にも豊臣秀吉は結局、諏訪郡の諏訪頼忠、木曽郡の木曽義昌についても徳川家臣であることを公認したため、諏訪家も木曽家も伝来の地を離れなければならないことに惜しみつつ、徳川家康の関東移封にやむなく従うことになった。諏訪頼忠は徳川家とは良好な関係が維持され続けたが、木曽義昌の場合は天正壬午の乱の際に府中の支配権にこだわるあまり、南信濃衆の一員として徳川家康に従おうとせずに反抗し続け、泥を塗ることばかりしたため徳川家中の印象はすこぶる悪かったと見てよい。のち、木曽義昌の次代の木曽義利の代には、落ち度を理由に大した擁護も得られないまま改易されてしまったことに響いたのは間違いない。一方で諏訪頼忠の次代の諏訪頼水( すわ よりみず )は信任を得ているため対照的といえる。ただし木曽家旧臣たちへの寛大な救済措置は用意され、木曽家としての名跡の存続は許さない代わりに、木曽家親類の家老の山村家と千村家が徳川御三家の尾張公からの優遇家格を受ける形で、木曽家臣たちも士分待遇はとりあえず失わずに事なきを得ている。小笠原貞慶があえて高飛車な態度を採ることが多かったのは、全国に広く点在していた、地位は低くても小笠原源氏出身に誇りをもって各地の戦国大名の家臣団に所属していた者たちも多く、それらに対しての小笠原本家としての振る舞いを強く意識してのものだったと見てよい。戦国後期には、小笠原源氏のような伝統ある本家筋の威厳は、どこも軒並み衰退する一方だった中、本家筋中心に武家らしい再興運動という形でそれを覆すことになった小笠原貞慶の存在は、例えば京極家が豊臣家と徳川家の家格裁定によって家格復帰したのとはまた一味違った希少な例だったのである。小笠原源氏出身者であることを誇りに、それぞれ土着の武士団に所属していた大半は本家筋とは疎遠で、本家が得しても損しても、自分たちが直接得したり損したりするということは確かになかった。しかし全国の小笠原源氏一族たちに前向きな希望を与えるようとしているのか、それとも失望させてしまうのかという、本家筋・伝統家長としての本来の等族義務であるそこについて、父の小笠原長時と主君の織田信長とでのあまりの旧新や等族義務の認識の違いを小笠原貞慶は見てきたからこそ、そこを強く意識するようになったと見てよいのである。一方で小笠原本家の威厳的な都合さえ良ければいいという訳ではない、当時の府中再統一への対処や、徳川家康や豊臣秀吉から問われる当時の難しい人的信用にも対処していかなければならない中での、小笠原貞慶のそうした前向きな立場を豊臣秀吉も徳川家康も理解していたからこそ、時折出していた高飛車な態度も貴公子扱いに寛大に許容してもらっていた( 全国の小笠原一族の誇りのために、豊臣秀吉も徳川家康も気遣いした )のである。まず小笠原貞慶が小笠原本家としての存在感を信望的に立て直すことになり、次代の小笠原秀政も父が作ってくれたその流れを壊すことなく、徳川家に改めて評価されたことで、小笠原家は結果的に徳川家の準親類扱いの10万石以上の大きめの、優遇扱いの近世大名として江戸時代を迎えることができた。本項の小笠原貞慶は、事情がややこしいせいか一向に注目されないのはもったいない。このように当事者軸で見渡してみれば、これまで見落とされてきた当時の特徴や大変さの多くが窺える貴重なひとりなのである。戦国終焉期の真っただ中でひたすら苦難続きだった、そこに安泰や優雅さに守られた日々など一切なかった苦労人の小笠原貞慶の取り巻く経緯は、考えさせられるものばかりである。できるだけ1頁内でまとめていきたい中で字数制限の都合で、多くの要点の指摘はできず残念になる。ここで触れられた小笠原長時、上杉景勝、徳川家康、豊臣秀吉、石川数正、木曽義昌、諏訪頼忠、北条氏政といった面々のことでも、ただ成功者だったか失敗者だったかのみの、良い所取りできている気になっているだけの軽々しい見方でなく、それぞれの当事者軸観・地政学観・異環境間・時系列観で見渡すことができているかどうかの手本の示し合いがまずは大事なのである。そうでなければ人事敷居( 低次元化防止 )において何も見えて来ず何にも活かせないのは、現代でも同じことがいえるのである。


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり

 

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )