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本能寺の変とはなんだったのか72/??  本能寺の変の全体像18/? 2024/08/28

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~17」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 ※ 本能寺の変の全体像13 で先述


 九鬼嘉隆 くき よしたか

 ※ 本能寺の変の全体像14 で先述

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 ※ 本能寺の変の全体像15 で先述

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 ※ 本能寺の変の全体像16 で先述

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )

 ※ 本能寺の変の全体像17 で先述

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし

 本項の小笠原貞慶は、信濃惣領の小笠原本家、小笠原長時( おがさわら ながとき )の子として 1546 年に産まれるが、この頃といえば戦国後期( 領域総力戦時代 )の突入期で、小笠原家は家運を失う衰退期の真っ只中になる。小笠原貞慶が3歳になろうかの 1548 年頃、信濃小笠原氏攻略に乗り出した甲斐武田氏によって、間もなく府中( ふちゅう。筑摩郡と安曇郡。ちくま。あずみ。今の長野県松本市。信濃小笠原家の本拠地 )を追われてしまう。以後、父の小笠原長時と共に各地を頼りながら小笠原本家再興を目指すことになるが、地方史観が強いせいか、幼少から既に始まっていた小笠原貞慶の苦難の生涯が注目されてこなかった。しかしそうした部分こそを当事者軸的に見渡していくことこそが、見落とされてきた当時の特徴( 上同士でようやく少しは向き合われるようになった、16世紀の前近代的地政学観 )を見逃さない助けとなる。ただでさえ今後の日本を巡って地方も動揺気味だった中で、本能寺の変の影響によって、今後の政権議会( 今後の日本における前近代文化経済社会観の敷居 )のゆくえも二転三転した、織田時代、豊臣時代、徳川時代の真っ只中で本家再興を目指した小笠原貞慶の、現代でも明日は我が身の教訓に置き換えられる「この先どうなるかなど、簡単に解るものでもない( 個人事業主的な力だけではどうにもならない要素も多い )中でもなんとかしようと、できる限りの努力を続けてきた」その様子について伝えていきたい。本能寺の変がきっかけのまさかの旧領再興の事情と、小笠原貞慶は豊臣秀吉から内々では寛大な優遇扱いを受け、やむなしの背信をせざるを得なくなってしまった徳川家康からものちに寛大な扱いを受けることになった所もなぜ、どういった経緯で最終的に小笠原家は一目置かれる準譜代並み( 近世大名。等族諸侯 )の家格を得る( 家運を好転させる )ことができたのかの紹介もしていきたい。小笠原貞慶についてはそれまでに何度か触れてきたが、旧領再興までに至った経緯がまずざっと把握できていなければ、旧領再興後に何が起きていたのかの様子も訳が分からなくなるため、今一度ざっと整理していきたい。まず、ひと足早く地元の甲斐をまとめた武田信玄に、小笠原長時( 信濃の代表格 )がそれに遅れを取る形で武田氏に信濃攻略に乗り出されてしまい、苦戦中の 1546 年に本項の小笠原貞慶は産まれた。信濃における小笠原序列権威は 1548 年には武田勢の調略と攻勢によって崩れ始め、小笠原権威による巻き返しは振るわないまま、武田権威序列による信濃再統一・支配は強まる一方となる。武田氏に屈服しようとしなかった小笠原派( 反武田派 )たちの抵抗は 1550 年代に入ってもしばらく続いたが、1548 年には小笠原長時とその子の小笠原長隆( おがさわら ながたか。長男 )、小笠原貞慶( 三男 )の親子が府中( 小笠原家の本拠地 )を追われたことで情勢は決定となっていた。当主の小笠原長時は、府中を追われた後もしばらくは信濃各地の反武田勢力( 小笠原序列権威派 )たちに擁立され続けながら、5年近くの抵抗運動は続けられる( 小笠原長時自身も5年近く信濃に居続けた説や、1~2年で本人は信濃を離れて越後上杉氏に頼った説など、詳細は判然としない )も、武田家の厳しい残党狩り( 旧小笠原序列権威排撃。武田権威による信濃再統一 )の前にそれも長続きせず、戦国大名( 伝統的な信濃の代表格 )としての小笠原本家はここでいったん消滅することになる。武田信玄に信濃から追い出されることになった小笠原長時は、越後上杉氏と交渉を経て長男の小笠原長隆を託し( 小笠原長時の弟の小笠原貞種が後見として長隆に同行した他、共に逃れてきた小笠原権威の旧信濃衆の多くが長隆に同行。これらは上杉家の事実上の家臣扱い )、畿内近隣で力をつけ始めていた三好氏( 三好家は、旧畿内の最有力の管領細川家の有力家臣だが元は小笠原分家の阿波小笠原家出身。阿波・徳島県は他にも赤沢家のように小笠原出身の自負を強める武士団もいた。のち長宗我部元親の四国統一を阻止しようと手こずらせた反長宗我部派の赤沢宗伝が著名。ちょうそかべ もとちか。あかさわ そうでん )の下( もと )にも赴( おもむ )き、交渉を経て三男の小笠原貞慶 とその補佐役の旧臣の従者たち )を託す( 三好長慶が、本家筋の小笠原貞慶を準親類家臣扱いに受け入れたことは、三好家の家臣団には小笠原家出身者も少なくなかったこと、また旧中央関係者と関係が深かった山城小笠原家をまとめようとする人事統制の狙いもあったと見られる )に至った。小笠原長時本人は当時、会津( あいづ。南陸奥。むつ。福島県西部のまとめ役 )で力をもっていた戦国大名の芦名氏 あしな。蘆名。1570 年代までは関東方面、東北方面に睨みを効かせるほどの勢力を維持。しかし 1580 年代後半から蘆名体制は崩れ始め 1590 年代には伊達氏と佐竹氏による介入・争奪の的となる )が優遇的に亡命を迎え入れてくれたことで、小笠原長時は芦名氏の下( もと )から、主に上杉謙信、小笠原長隆( と小笠原貞種 )と、没落した信濃の小笠原旧臣たち( 失脚した反武田派たち )と連絡を取り合いながら、小笠原家による信濃復興の機会( 反武田工作 )を狙うことになる。小笠原長時の信濃再興は、当初は長男の小笠原長隆( を上杉家に後押ししてもらう )主体で考えられ、小笠原貞慶においてはもし小笠原長隆が信濃再興を果たし得ない結果に終わってしまったとしても、旧畿内で力をつけ始めた三好軍団内での別口の家格再興になってくれれば、といった分散生存戦略の家名存続の狙いだったことが窺える。小笠原長時は信濃を追われてしまったことで領地特権的な権威は失墜しても、小笠原本家としての命脈は依然として重宝され続けていたことが窺える。小笠原源氏の兄筋である武田源氏の出身者も全国的に広く点在し、その出身に誇りがもたれる傾向が強かったが、同じく各地方に点在する小笠原源氏出身者たちは、その出身の誇りをより強める傾向があったため、だから小笠原本家のことは没落してしまっても軽くあしらう訳にもいかないという、地政学的作用も働いていたと見てよい。小笠原貞慶( と旧縁の従者たち )が、15歳頃の1561 年には三好長慶( みよし ながよし。三好家当主 )の明確な準親類家臣として出仕していたと見られ、この頃は織田信長が尾張再統一を果たして( その妨害に動いた駿河今川勢を桶狭間で撃退して )美濃斎藤氏攻略に乗り出した頃になる。それから7年後の 1568 年には織田信長は、美濃攻略の大局を済ませるとさっそく、足利義昭との連盟で 1568 年冬に帝都( 山城 )への乗り込み( 足利織田連盟の妨害に動いた南近江の六角領の街道筋を攻略。続いて、見通しなど一向に見せないまま中央権威のためだけに山城をダラダラ占拠し続けていた三好派たちを排撃 )が行われる。翌 1569 年には畿内権威を巡る三好派らの巻き返し戦( 対織田戦 )で小笠原貞慶( 当時23歳。織田信長は35歳 )も三好方として参戦するも、この頃には内部崩壊を見せ始め衰退が目立つようになっていた三好氏が、国家構想的次世代総力戦体制( 国内地政学戦。前期型兵農分離。産業法改めの次世代街道整備 )の敷居が明らかに高かった織田氏と、畿内権威を巡って戦い続ける( 敷居競争し続ける )ことなどできるのかなど極めて怪しくなっていた。そのため小笠原貞慶( と旧縁の従者たち )は、早い段階で三好氏に見切りをつける形で織田氏に降参・鞍替えし、織田信長にとりあえず家臣扱いに認知してもらう運びとなる。旧畿内出身者でもなくその結びつきも強かった訳でもない新参の小笠原貞慶( と旧縁の信濃衆の従者たち )が、これから忙しくなる織田氏の畿内再統一においてはただちに手柄を立てる優先権とそのための小家臣団がすぐに貸し与えられるのかといえば難しい、だから小笠原貞慶は畿内再統一の方では活躍する機会は得られなかった。ただし 1572 年 小笠原貞慶26歳の時 )に足利義昭と織田信長の対立が表立って決定的になった、すなわち旧中央関係者・旧室町権威者たちもそれぞれ進退( 評議名義性・選任議決性 = のちの羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦い以後の天下総無事戦、のちの徳川家康の関ヶ原の戦いの天下泰平戦への大きな手本となる )をいよいよはっきりさせなければならないことを織田氏( の畿内再統一 = 世俗・聖属両中央政権議会改め = 次世代政権議会化 )に迫られた中で、反織田派( = またしてもそこをうやむやにし続けようとする派 = 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと同じで、ただ旧態権威序列にしがみついているだけで上同士の本来の国際地政学観の評議名義序列・選任議決序列といえる危機管理・等族指導の手本の示し合いなどできたことがない、低次元化させ合う悪意狩りで挑発し続けるための低次元な顔色の窺わせ合いの偽善憎悪を押し付け合うことしか能がない老害序列統制をいつまでも続けようとする法賊・偽善者ども )に加担した( 目先の利害次第で織田氏の畿内再統一・次世代政権化の足を引っ張ろうとした )連中も少なくなかった中、織田氏に鞍替えして間もなかった新参の小笠原貞慶も反織田派たちに呼びかけられたのも間違いなく、しかしその誘いに迷う様子は全く見せていない。翌 1573 年、織田氏は畿内再統一のことで忙殺され気味だった中、恵那支配の因縁を巡って隣国信濃の武田方の木曽義昌が、恵那郡の武田派たちの後押しを執拗に続けたため、その対策も任されていたが多忙だった織田信忠、河尻秀隆の補佐を、信濃の事情に詳しかった小笠原貞慶に表立って参与させることになる。織田氏の畿内再統一にあせってその妨害に慌てて動くようになった武田氏の動きを不利にするべく、武田氏に反感的だった東国諸氏たちへの呼びかけの外交戦略の使者に、小笠原貞慶が任せられるようになった。織田家中における小笠原貞慶のそうした活躍が 1573 年頃から目立つようになるが、上杉家を頼った兄の小笠原長隆( と叔父の小笠原貞種と、共に逃れてきた旧信濃衆たち )、芦名家に客将扱いされていた父の小笠原長時、そして信濃の旧小笠原家臣たちとの連絡を取り合っていて、信濃( 武田領・旧小笠原領 )の事情にも、武田氏に反感的だった東国諸氏たちの様子にも詳しかった小笠原貞慶の経緯と立場は、織田信長もよくよく確認していたからこそ対武田の外交・諜報面の活躍機会が小笠原貞慶に与えられたと見てよい。そこが表立って目立つようになるのは 1573 年からだが、信濃対策( 武田領対策 )における織田信忠と河尻秀隆への小笠原貞慶の補佐役の人事計画は 1570 年には既に始まっていたと見てよい。畿内( 中央・天下 )の趨勢が決し始めた 1575 年に入る前までは、織田氏と上杉氏の外交関係は悪くは無かったことから、織田信長は小笠原貞慶を通して、上杉謙信は小笠原長隆を通して、蘆名盛氏( あしな もりうじ )は小笠原長時を通しての、それぞれ小笠原本家再興を後押しする立場として( 対武田的な立場として )の、相互関係は悪くはない外交関係が維持されていた。しかし戦国大名同士のそれまでの権力均衡関係も 1575 年以降は、畿内再統一を進めた織田氏こそが中央の絶対家長・武家の棟梁として、地方は公認を得るためにそれに従わなければならない( 上洛要請に応じ、織田氏の序列敷居で再裁定を受けなければならない 戦国終焉の方向にとうとう進み始める。1575 年に、長篠の戦いでの武田氏との総力戦に織田氏( と徳川氏 )が大勝したことは、織田領に隣接する畿内近隣では、総力戦的に織田氏を阻害できるような有力な勢力が浄土真宗以外にはもはや居なくなったことを意味し、今まで織田氏を手こずらせてきたその浄土真宗の一向勢を、他が加勢・後押しするもの難しくなってきたことを意味していたのである。織田氏は武田氏を大破後、一時的に武田氏に占拠された恵那郡を奪還すると、加賀・能登・越中攻略( かが。のと。えっちゅう。石川県と富山県 )に柴田軍団を、播磨攻略( はりま。兵庫県 )に羽柴軍団を向かわせた他、柴田軍団の越中攻略の予定を南側から支援させるべく、美濃勢・尾張勢に飛騨に向かわせた。越中・能登攻略を中途半端にしか進められていなかった越後( えちご。新潟県 )上杉氏は、その動きに反上杉派ら反抗分子たちが表立って織田家との結びつきを強める動きも顕著になったために、上杉氏も織田軍団の北上( 加賀方面から越中・能登に向けて北上を始めた柴田軍団と、飛騨方面から越中に向けて北上を始めた美濃・尾張織田勢 )の動きにいよいよあせった。1576 年には既に織田氏と上杉氏の間で、能登・越中における国衆たちの支持戦を巡って対立関係化する一方となる。織田氏が本格的に能登・越中に乗り込むことになる前年の 1577 年には、もうすぐ織田勢が能登・越中に迫ってくる情勢にあせる一方だった越後上杉勢が、旧管領畠山領( 能登・越中支配 )における権威の中心地であり、反上杉派( 織田派 )運動の中心地でもあった七尾城( 難攻不落と名高かった政局から、織田派として抵抗していた長氏体制 )に対し、大事なことを急に思い出したかのように猛攻を強める。織田氏は七尾城救援を目指していたが惜しくも間に合わずに、七尾城は陥落してしまい、能登の織田派( 反上杉派・長氏体制 )たちへの厳しい排撃・解体処置が断行されてしまった。越後上杉勢にそれを許してしまうも翌 1578 年には、加賀制圧を大方済ませた柴田軍団が能登・越中に乗り込み、飛騨からも美濃・尾張勢が柴田軍団と連携する形で越中に乗り込むと、能登・越中での上杉権威序列の排撃が顕著になる。容態を悪くしていた上杉謙信がその年に亡くなり、後継者争いから手こずることになった上杉景勝( うえすぎ かげかつ。上杉謙信は実子がいなかったため、姉と長尾政景との子である景勝が立てられることになった。ながお まさかげ。上杉謙信の家系は元は上杉家の有力家臣の長尾家の出身 )は、旧上杉謙信体制のままに能登・越中を巡る織田氏との対決は望まず、新上杉景勝体制を整えるための越後再統一を優先・方向転換したため、能登・越中の上杉派たちは今までのような越後上杉勢の後押しが得られなくなり、織田派優勢に傾く一方となる。1581 年には、能登・越中での上杉派か反上杉派( 織田派 )かで対立が続いた騒乱も織田氏による再統一で収束し始め、残るは上杉権威で長らく固まっていた越中東部の上杉派たちを残すのみとなる。越中東部の魚津城を巡る織田勢と上杉勢のこの時の戦いは激戦となり、小笠原家から見て皮肉なことに、この越中東部の上杉領を守るために参戦していた小笠原長隆がこの戦いで戦死してしまうこととなった。信濃領を失って上杉家を頼った小笠原長隆( とそれに同行した旧信濃衆たち )というのは、上杉家から武士団扱いの上杉家臣として認めてもらうことになったからこそ、信濃再興のみに一生懸命になっていればいい訳ではなかった立場になる。上杉謙信時代では信濃北部( 川中島4郡。上杉氏を頼った旧村上家臣たちの後押し )を巡って武田氏と戦われ、信濃中部( 府中。上杉氏を頼った旧小笠原家臣たちの後押し )を巡る進出までには至らなかったものの、上杉家の序列権威の中で小笠原家は20年以上にわたって家臣団扱いしてもらっていた義理は大きかった。そして上杉景勝時代になると能登・越中に乗り込んできた織田氏( 柴田軍団 )に押される一方に劣勢となったからこその義理も果たさなければ、小笠原本家の武門の信用問題にも関わってくる、だからこそのやむなくの参戦と戦死だったといえる。能登・越中を巡って織田氏と上杉氏が険悪に対立し、小笠原長隆の戦死を招いたことは、共に小笠原家再興を目指して連絡を取り合ってきた父の小笠原長時としても、弟の小笠原貞慶としても内心は気を落としたと見てよい。ここは、小笠原長時が武田信玄に信濃を追われることになってしまった 1550 年頃の時点で、1570 年代にはどんな情勢になっているのかの想定など簡単ではなく、しかしだからといって何もしない訳にもいかない当時の難しさがよく現れているといえる。現代でも、人脈交流網も含める自身を取り巻く環境が20年後にはどのようになっているのか、それをピッタリ予測することなど難しいのと同じで、国際地政学観の刷新を巡って畿内再統一に動かれた当時、地方の有力者たちにとって20年後の想定などさらに難しいことだったのである。なお、織田勢が上杉勢の小笠原長隆を討ち取る側だったからこそ織田信長としても、小笠原本家再興も後は小笠原貞慶にかかってくるとことくらいは、次世代謄本登録的に認識していたと見てよい。小笠原長隆は戦死してしまったが、それに従っていた旧信濃衆たちも損害は受けたが壊滅した訳ではなく、その後見役であった小笠原貞種が旧信濃組の上杉家臣の代表を肩代わりすることになる。翌 1582 年には、能登全域は主に前田利家と連携する長連龍 ちょう つらたつ )ら織田派の能登衆たちに、越中全域も主に佐々成政と連携する神保氏張 じんぼう うじはる )ら織田派の越中衆たちにすっかり平定される。そしてその年には織田本軍も信濃・甲斐・上野( 長野県・山梨県・群馬県 )の武田領に乗り込み( もうひとつの武田領であった駿河には、織田家と連携した徳川家が乗り込み、織田家との話し合いで駿河は徳川領となる。盟友関係を続けてきた徳川家康が三河、遠江、駿河3ヵ国の明確な実力者になったことも注目された。みかわ。とおとうみ。するが )、武田方の抵抗は半年ももたずに平定されてしまった( 戦国大名としての甲斐武田氏が消滅させられてしまった )事態は、全国を驚愕させるには十分だった。織田信長は旧武田領にさっそく、信濃北部( 川中島 )に森長可 もり ながよし )を、信濃南部( 伊那郡飯田城 )に毛利秀頼ら中堅たちに、信濃中部( 府中。筑摩郡と安曇郡の政局の深志城 )には木曽義昌に、甲斐1ヶ国( 旧武田本拠地 )には河尻秀隆を、関東惣領として上野( こうづけ。群馬県 )に滝川一益 たきがわ かずます )を支配代理として手配。地方人事はもはや畿内再統一を制した( 次世代政権議会化によって、もはや中央政権議会を巡る敷居競争は終わっている、それがはっきりしている中で、これ以上の地方同士の地政学的領域戦などもはや無用な戦国終焉に向かわせた )織田氏( 中央総家長・絶対家長・武家の棟梁 )の次世代政権体制の意のままであること、明らかに次の時代に向かっていることを全国に知らしめた。長期化した能登・越中( 旧管領畠山領 )の騒乱( 越後上杉派、加賀一向勢派、長続連体制派のち織田派 の3すくみの闘争。ちょう つぐつら )もとうとう織田氏が平定( 戦国終焉に向かわせた )したことも驚かれた( 明智光秀や羽柴秀吉どころか、柴田軍団の有力寄騎である前田利家と佐々成政が、かつての戦国大名並みの家格公認を受けたことに驚かれた )が、特に4ヵ国近くの武田攻略を半年もかからずに済ませてしまったことは、今まで織田派として明確化・連携できていなかった、そこを曖昧にし続けてきた各地方に対し、さっさと上洛しなければ( 5ヵ国の代表格であろうが10ヵ国の代表格であろうが地方家長に過ぎない分際どもは、お前たちには到底できない畿内再統一の次世代体制を済ませた中央総家長である織田氏の人事敷居の格下げ覚悟の家格再裁定・上同士の身分再統制をさっさと受けなければ )、武田氏のような4ヵ国近くの実力者であろうが遠慮無用に踏み潰す( 次世代政権議会荒らし・低次元化分子の偽善法賊と見なして容赦しない。佐和山送りが相応の家長気取り・家臣団気取りどもは士分待遇・公務吏僚資格の総巻き上げだ! )という、下々は上の間で何が起きているのかすぐには理解することは難しくても、上同士では十分なほどそこを( 前近代的な評議名義性・選任議決性による合格・高次元/失格・低次元の敷居管理、国際地政学領域管理がこれからは上同士でできなければならない時代に入っていることを )思い知らされる恫喝となったといってよい。能登・越中( 旧管領畠山領 )攻略と信濃・甲斐・上野( 武田領 )攻略後の間もなく、織田氏による国際文化交流社会化の敷居が前提の次世代政権議会の、その正式公布がされようとしていた、その真っ只中に起きたのが本能寺の変である。本能寺の変の主目的というのは、次世代政権議会の基準を巡る敷居競争はもはや決着していた中での事変、ただの権勢争いの妨害や横取りはもはや終わった中で、その敷居に余地 下方修正 を挟むためにいったん保留にすることが主目的であることくらい( 今の日本の低次元な教育機関と同じで、聖属議会改め = 国際地政学的情報技術交流社会化に対応できるだけの公的教義体制の人事敷居改革 など自分たちでしてこれた訳がない、いつの時代でも教義権力低次元化させ合う愚民序列統制に悪用され続けるのみ = 低次元な悪意狩りで低次元させ合うための低次元な顔色の窺い合いを強要し合うのみ = 前近代的な国際地政学観といえる評議名義性・選任議決性の敷居管理の手本の示し合いを徹底的にケンカ腰に面倒がり合いうやむやにさせ合う悪用しかされてこなかったことは人類史的・教義史的に明らか。40過ぎにもなってその最低限の国際地政学観ももてない偽善老害の分際が、ケンカ腰に公的教義側を気取って合格・高次元/失格・低次元の議会史・国体護持史・組織構想史を教えようとするその身の程知らずの法賊行為自体が上から順番に裁かれて当然だからこそ国内自力教義の事実上の主導を浄土真宗にもっていかれたまま永らく解決されなかった惣国一揆的聖属問題・物的権威に対する有徳再統制問題までも織田氏に全て解決されてしまい、世俗側の総家長である織田氏にとうとうそこを恫喝されることになった、今や身分再統制される側、人の合格・高次元/失格・低次元を敷居管理される側であることも明らかな言い逃れ無用の分際の聖属側の廷臣たちが関与していたことくらい )、下々はすぐに理解することも難しくても、中堅以降の上同士は緘口令的にそこへの明言は避けていた( かんこうれい。今後の日本の方向性が議決されようとしている重要事項において、事情をすぐに理解するのも難しい下々に誤認の混乱を与えないために明言は避け合い、次の明確な絶対家長・総議長による正式布令をまずは確認し合っていた )だけで、中堅以降の上同士ではそのくらいのことは皆が解り切っていた話になる。本能寺の変についてはのちほどまとめるとし、ここで織田氏が 1582 年に武田攻略を済ませて間もない頃の時系列に戻す。織田信長がさっそく中堅たちや上層候補たちに、旧武田領への支配代理を手配する家格裁定がされた中、それまで織田信忠、河尻秀隆と共に対武田の諜報戦と東国諸氏への外交戦略に関与・貢献し、何らかの恩賞の格上げがあると思われた小笠原貞慶だけは、この時に何ら沙汰がなかった事情がどのようなものであったのかに触れたい。まず、木曽義昌の手引きを初動とする織田氏の信濃側からの武田領攻略に乗り出された際に、小笠原貞慶に旧領府中( 深志城。筑摩郡と安曇郡 )への返り咲きを強調させるような、凱旋戦的な府中攻略が手配されていないことが、見落とされがちな大事な部分になる。それは、能登攻略における長連龍 と連携していた織田派 )の後押しの再統一、越中攻略における神保長住、神保氏張 と連携していた織田派 )の後押しによる再統一という形が採られたのと比べると対照的になる。これは織田信長が、小笠原貞慶や旧小笠原家臣たちのことがただ気に入らないから差別したうんぬんの安直な理由などではない。小笠原貞慶は織田家中の一員となって以来、その組織内を見渡してきた中で、長連龍と神保長住が表立って織田家を頼ってきて、柴田軍団に後押ししてもらう形で地元の能登・越中に、凱旋戦的に乗り込むことになった 1578 年頃の様子を見ていたからこそ、織田氏が信濃に乗り込むことになった際にも、府中( 信濃中部。かつての小笠原本家の本領 )への乗り込みには、小笠原貞慶も同じように凱旋戦的な後押しをしてもらうことを相当期待していたのは間違いない。ところがいざ 1582 年に織田氏の信濃( 武田領・旧小笠原領 )攻略が始まると、神保長住や長連龍たちのように凱旋戦的な後押し( 典礼 )を小笠原貞慶が受けられることはないまま、織田長益 おだ ながます。織田信長の弟。織田有楽斎の方で著名。おだ うらくさい。史学研究の黎明期・誤認錯綜期の 1990 年代より前まではただ世渡り上手なだけで背信を繰り返しただけの無能であるかのように、やたら悪臣扱いされる風潮が強かったが、近年では安直に不義や無能と決め付けるべきではない、当時の特徴が窺えるひとりとして見直されている )や木曽義昌らに、府中の乗り込みを主に任せられることになってしまった。つまり小笠原貞慶は、織田氏が信濃攻略を開始される前に既に織田信長と行き違いが生じていて、その時点で小笠原貞慶は内心穏やかではなかったと見てよい。間もなく深志城( 府中 )が攻略されて少しの間、織田長益が深志城の城代を務めることになり、その間に小笠原貞慶は織田長益に府中復帰を願い出たものの、しかし人事統制権( 家長権 )の総議長( 物的世俗権限の元締め・絶対家長・武家の棟梁 )である織田信長から全く取り合ってもらえないまま、間もなく深志城( 府中2郡の筑摩郡と安曇郡 )の支配代理は、あてつけのように木曽義昌に公認される結果となってしまった。なぜこんなことになってしまったかの事情は、小笠原長時( 蘆名家を頼る )と小笠原長隆( と小笠原貞種。上杉家を頼る )と小笠原貞慶( 織田家を頼る )の今までの連携の経緯を見渡せば、そんなに難しい話でもない。まず、1574 年頃までの織田家と上杉家は、外交上で行き違いもあったが表向きは利害関係でぶつかることはなかったため、表立って険悪化することはなかった。しかし 1574 年には畿内近隣で、織田氏による畿内再統一を皆で妨害ことがいよいよできなくなり始め、浄土真宗に次いで織田氏と直接対決できるだけの力量があるのかを改めて問われる立場となった武田勢が、1575 年の長篠の戦いで織田徳川連合に挑んで大敗する( 皆で織田氏を妨害できなくなったから、最大の対抗馬であった浄土真宗もいよいよ織田氏に押されるようになる )と、まだ織田氏の介入が具体的には及んでいなかった各地方の内、まとまりがない所ほど( 地方再統一が進んでいない地域ほど )、曖昧な所もありつつも織田派に傾き始める。特に能登・越中の反上杉派( として越後上杉派たちと対立し続けてきた国衆 )たちにおいては、とうとう織田氏が柴田軍団の指揮を中心に、加賀方面と飛騨方面から能登・越中方面へと北上してくる動きに、織田氏の後押しを期待し始める形で表立って織田派を強めるようになった( 能登の事実上の主導であった長続連は早い段階で織田氏と連絡を取り合っていて、また内々では上杉氏に反感的だった神保氏張ら越中衆たちも、反上杉であった長続連と織田氏と連絡を早い段階でそもそも取り合っていた ため、能登・越中争奪を巡って織田家と上杉家は表立って険悪化する一方となった。長篠の戦いで武田勢も敗れ、いよいよ皆で織田氏を妨害できなくなっていた中で、能登・越中を目指して織田勢( 柴田軍団 )が北上してくる動きに、今まで中途半端な能登・越中の支配の仕方しかできていなかった越後上杉勢もいよいよ慌て、能登・越中における反上杉派( 織田派 )たちの排撃を強めるようになる。織田信長は、上杉謙信と険悪化に向かう一方だった 1576 年の時点で小笠原貞慶を通して小笠原長時に、越後上杉勢の後押しの小笠原長隆による府中奪還の名目は諦めさせ( 手を引かせ )、小笠原本家再興運動は小笠原貞慶による織田派で足並みを揃えさせる形を表立って採るよう( 旧小笠原家臣たちにその方針で呼びかけるよう )催促したと見て間違いない。しかし小笠原長時は、それまで20年以上世話に上杉家に世話になってきた長男の小笠原長隆のことを見捨てる訳も、そう簡単に長男に上杉家を去らせて織田家の下に参じさせる訳にも結局いかなかったこの関係がまず、織田家を頼ることになった小笠原貞慶にとって大いに支障になっていたと見てよい。越後上杉勢の後押しによる小笠原家の府中再興は結局できそうにもない一方で、畿内再統一を果たした織田氏の後押しによる小笠原家の府中再興ならできそうな流れになってきていたにも拘わらず、小笠原家は( その肝心の、亡命当主の小笠原長時は )、ここは少し残酷な話ではあるが、上杉家の後押しの小笠原長隆で府中再興をするのか、それとも織田家の後押しの小笠原貞慶で府中再興をするのか、やむなくどちらかを切ってどちらかを改めて明確化しなければならない( 戦国終焉期に求められる上同士のその評議名義性・選任議決性をはっきりさせなければならない )段階に迫られていてもそれをモタモタやっていた訳である。この事情は、小笠原長時が単に優柔不断だったというだけの話ではなく、府中の政局である深志城( 今の松本城 )は小笠原一族の有力分家筋であった坂西氏( ばんざい。さかにし。小笠原家の最有力家臣。坂西小笠原一族はかつて、信濃各地にあなどれない勢力を作っていた他、小笠原本家を固める旗本も坂西一族が主に請け負うほど、旧小笠原序列権威の中で坂西一族は重きを成していた )の影響力が強かったことで、その旧序列権威の呼びかけによる再興を狙っていたこと、そして小笠原長隆と一緒に上杉家の下に逃れ、共に家臣団扱いしてもらっていた旧信濃衆たちの中に当然のこととして坂西一族が多かったことも関係していたと思われる。この、旧態を引きずってしまうことになる地政学的影響( 中途半端な信濃再統一しかできていなかったまま亡命した小笠原家の弱み )はのちの、小笠原貞種( 長時の弟 )によるせっかくの深志城奪還の際にチグハグな支障となって現れ、さらには小笠原長時が坂西一族の側近に刺殺されてしまう事件に発展したことにも大いに関係している。織田信忠、河尻秀隆、小笠原貞慶に、木曽義昌への調略を進めつつの信濃の諜報を担当させたことから、織田信長と丹羽長秀も府中のそうした事情は( その隣の木曽郡の代表格として、府中の事情に詳しくない訳がない木曽義昌も )把握していたと見て間違いない。だから後々で問題になりそうな深志城における旧坂西一族の家格序列改めもどうするのか、その連中を織田派として連携させることができない( それと結びついていた、上杉家に家臣団扱いしてもらっていた坂西一族たちを否定するしかない状況になってきている )中、そこをまず小笠原長時がはっきりさせられないでいて、小笠原貞慶も兄や父を否定し切れないでいたその煮え切らない姿勢が、信濃に関することでは小笠原貞慶が、織田信長から優遇を受ける機会を失ってしまった原因と見てよい。ここまでの小笠原貞慶の本家再興を当事者軸と時系列で整理すると

 

1.1576 年には織田家と上杉家とで険悪化する一方となり、この時点で小笠原貞慶は織田信長から「こうなった以上は、もう父や兄を否定し、お前が小笠原本家の当主である態度をここではっきり表明せよ( それで府中の旧小笠原家臣の残党たちに、織田派・貞慶派として呼びかける準備を始めよ )」と迫られていた

 

2.そこを小笠原長時、小笠原長隆、小笠原貞慶の間ではっきりさせれないでモタモタやっている間、1581 年に越中東部の上杉領を巡って柴田軍団( 織田勢 )と越後上杉勢とで激戦となり、上杉方としてその防衛に参戦した兄の小笠原長隆が戦死してしまう事態となる

 

3.1581 年の兄の小笠原長隆の戦死を以( も )って、前々から織田信長に言われていたことを小笠原貞慶もここでようやく決意したと思われるが時遅し。その時点で翌 1582 年に織田氏による信濃攻略の予定が決定してしまった。もっと早く決意していたなら府中における織田派・貞慶派作りの根回し工作の猶予時間もあったが、完全に時間切れとなってしまった

 

4.前々から地元では織田派の機運を作ってきた長連龍や神保氏張たちのように、その名義的な下地を作ってこなかった小笠原貞慶が府中でそれと同じような織田氏の後押しの凱旋戦が展開できる訳がない。それを無理押しすればかえって小笠原貞慶の信望を低下させかねず、ひいては織田氏による信濃支配の支障になりかねない。だから小笠原貞慶には府中における凱旋戦が手配されることはなかった

 

5.のちの移封・国替えが前提であること自体は木曽義昌も小笠原貞慶も解っていたが、それでも信濃攻略後に府中の支配代理が木曽義昌に公認されることになってしまった事態に改めて直面してしまった小笠原貞慶の葛藤は、相当のものであったと見てよい。早い段階で織田信長に催促されていたことを、兄が戦死してしまった後で決意してしまっているようでは、もう小笠原本家再興の機会などないかも知れない戦国終焉期だからこそそこは非情でも、早く決断しなければならない場合もあることも後で思い知ることになってしまった。しかしこうした難しい経緯が結果的に、小笠原貞慶による小笠原本家再興に活かされることになる

 

が真相であろうと筆者は見立てている。織田氏の信濃( 武田領 )攻略が始まるまでに、小笠原貞慶が府中で織田派を呼び掛ける凱旋戦( 府中再統一の初動 )をするための準備などできていなかった中で、府中2郡を小笠原貞慶に仮公認した所で、ただでさえ敷居が遅れ気味だった信濃には再統一をこれからもどんどん進めなければならない中で支障が出る一方だと織田信長から見なされた、という見方で間違いない。織田氏としての吏僚的な貢献によって、どこでもいいからとにかくまずは郡の代表格に返り咲く、という前向きのものよりも、府中の旧縁に返り咲くことに頼っていた感がこの時はまだ強かった小笠原貞慶が、2、3年後には実施されるかも知れない移封・国替えに小笠原貞慶本人は耐えられたとしても、家中を混乱させずにそれをうまくまとめることができるのか( 織田派でまとまる実例を作れていない旧小笠原家臣たちが、小笠原貞慶の府中復帰が織田氏の人事統制による小笠原本家の家格上げの典礼過程に過ぎない、というその次世代人事についていけるのか = その織田氏の敷居の府中再統一がそもそも間に合うのか )も怪しいと見なされてしまったのも、間違いない所になる。今まで上杉、武田、北条間で争われてきて一円支配のまとまりなど怪しかった上野( こうづけ。群馬県 )に乗り込んだ滝川一益についてはともかく、信濃・甲斐( 旧武田領の中心地 )は、能登・越中( 旧管領畠山領。のち長氏体制が肩代わり )のように織田派の機運が作られていきながら攻略が進められたという訳ではなかった。著しく遅れていた織田氏の敷居による再統一を、武田氏制圧後( 信濃と甲斐の武田序列権威排撃後 )に能登・越中以上にこれから進めなければならなかった中で、間もなく本能寺の変か起きてしまった。だから信濃と甲斐は織田派の敷居の連携でまとまり直そうとする地域も極めて少ないまま、その敷居に追い付いていなかったからこそ強烈な踏み潰しにしか写らなかった織田権威の、その追い出しの国衆一揆が顕著になってしまったのである。川中島4郡には森長可が手配されて間もなく、これから越中側の織田勢と信濃側の織田勢の両面から、弱体化していた越後上杉氏の制圧戦が始まろうとしていた矢先に本能寺の変が起きてしまった。本能寺の変によって越中も混乱を起こし、特に信濃では凄まじい大混乱が起きると、信濃支配に赴任したばかりの織田家臣たちは、どうにも抑えきれそうにない濃国衆一揆に追い出されることになった。織田体制が一時的に崩れたことにいったん難を逃れた上杉景勝はまず、柴田軍団が越中の混乱の対応に追われている隙に乗じて、越中東部の奪還に成功する( 越中東部は上杉領だという機運が完全に消されてしまう前に取り戻す )と、信濃北部の旧村上領にも慌てて乗り出し、山浦景国( やまうら かげくに。旧名は村上国清。むらかみ くにきよ )を擁立する呼びかけで、不穏な情勢ながらもとりあえず上杉領化することにも成功する。この頃、府中( 信濃中部 )でも旧小笠原家臣の残党たちによる大規模な旧国衆一揆が起きていて、木曽義昌は深志城( 府中2郡の政局。支配の象徴地 )を死守しようと頑張るも、木曽勢を追い出そうと深志城を包囲した旧国衆一揆の勢いは一向に収まる気配などなく、もちこたえられるのか怪しい情勢になっていた。それも好機と見た上杉景勝( と参謀役の直江兼続 )は、上杉家臣団のひとつ小笠原貞種の一団( かつて小笠原長隆が率いていた旧信濃衆を、その後見人であった小笠原貞種が代理で率いるようになっていた )に深志城奪還に向かわせる。上杉謙信時代にはかつて武田信玄と信濃北部を巡って激戦( 川中島の戦い )が繰り返されたが、信濃中部の進出( 小笠原長隆の後押し )までには結局至らず、そして上杉景勝の代には上杉氏は織田氏に潰されかける事態に追い込まれるも、しかし本能寺の変のおかげで上杉家の情勢は一変。まず越中東部を奪還、続いて織田勢が去った信濃北部に進出して支配下に収める機会を得た上、ここで信濃中部( 府中 )に進出する好機まで上杉家は得ることになったのである。小笠原貞種の一団が、府中の旧国衆一揆たち( 旧小笠原家臣の残党たち )に上杉派を呼び掛けながら深志城奪還に向かうと、府中では織田権威と見なしていた木曽勢の追い出しの団結でこの上なく盛り上がったため、木曽勢は深志城をやむなく脱出、木曽郡にいったん撤退する事態となった。1582 年6月2日に本能寺の変が起きて25日後になる6月27日頃、深志城( 府中 )は小笠原貞種の一団と旧国衆一揆たちの団結による、木曽勢追い出しの占領を以って、小笠原家再興の機運で盛り上がる。しかしそれも束の間、深志城争奪戦に出遅れてあせった小笠原貞慶が慌てて動き始めたことで、上杉派たちの雲行きも急に怪しくなり始める。まず小笠原貞慶は当初、叔父の小笠原貞種が上杉派として深志城奪還に成功したことを聞きつけて急いで深志城に駆け付け、自身こそが小笠原家の当主であると呼びかけるも、小笠原貞慶は織田権威側と見なされた上にその後押しの軍勢を引き連れてきた訳でもなかったために、上杉派たちにあっけなく追い返されてしまった。本能寺の変によって織田信長、織田信忠を急に失い、近江政権( 旗本吏僚体制の司令線 )も機能しなくなっていたことで織田家からの後押しを受けられる状態ではなかった小笠原貞慶は、一方で甲斐・信濃争奪に積極的に動き出していた徳川家に、急いで頼ることになった。徳川家康は、甲斐争奪の方で多忙だった中でも小笠原貞慶が頼ってきてくれたことをかなり歓迎した。そして、信濃の領域支持戦を任されていた徳川家の筆頭家老の酒井忠次の軍団と、徳川派として旧領復帰を目指していた南信濃衆たちに、小笠原貞慶の深志城奪還戦に協力するよう急いで手配した。小笠原貞慶のこの、まず織田信長の敷居に合わせることができなかったことで府中については公認が得られず( 当主としての決意が遅れてしまったことで凱旋戦の典礼を受けられず )に愕然とし、叔父の小笠原貞種に先を越されて出遅れる形で徳川家康を頼ったという、こうした一連の時系列と縁は、小笠原貞慶の手によって深志城が奪還されることがまるで運命的に決まっていたかのような絶妙な流れになっていたとすらいえる。徳川家康の要請で小笠原貞慶に加勢することになった徳川派の南信濃衆たちは、皆が仕方なくその軍役に従ったという訳ではなく、上杉派の小笠原貞種に府中に居座られるよりも、徳川派の小笠原貞慶に府中に居座ってもらった方が何かと都合が良かったこと、また旧領復帰組の同胞のよしみとして、かつての信濃の皆の代表格であった小笠原本家の再興に協力的だった者( 健全な助け合いの意味で、名家である小笠原本家に恩を売っておこうとする者 )も少なからずいたこと、南信濃衆は徳川派の同胞として団結・連携できているという所も皆で今一度確認しておきたかったことなどが、小笠原貞慶による深志城奪還( 上杉派追い出し )の手助けの軍役に対するちょっとした意欲に繋がっていたと見てよい。小笠原貞慶は徳川家康に歓迎され、伊那郡北部( 今の長野県伊那市 )まで押し寄せていた酒井忠次の一団と、それと連携していた徳川派の南信濃衆たちからのそのような同胞的な後押しが得られた形で、まとまった軍勢を率いて再び深志城に意気揚々と向かうことになった。一方でその報を受けた深志城の小笠原貞種、というよりも上杉権威序列派たちは、いくつもの不利な要素が重なって( 後述 )動揺する一方となり、つい数日前まで城内で盛り上がっていた小笠原家再興も急に意気消沈し始め、それまで上杉派になびいていた者たちも急に離散、徳川派( 小笠原貞慶 )に鞍替えし始める者が続出するようになる。小笠原貞慶が深志城に到着、さっそく包囲した時には、現地では上杉派支持者たちは激減、多くが徳川派( 小笠原貞慶 )に回っていてもはや勝負するまでもない状況になっていた。小笠原貞慶は、深志城内でどうしたものかという状況だった叔父の小笠原貞種に対して家臣となるよう降参を呼び掛けるが、長年に渡って上杉家の家臣団として世話になってきた義理と決別することも簡単ではなく、同じく共に上杉家に逃れて上杉権威との結びつきを強めていた坂西一族ら旧信濃衆たちも、今頃になって上杉派から離反して降参などする訳にもいかなかった。結局、小笠原貞種ら上杉派が深志城を退去、小笠原貞慶ら徳川派はその間だけは攻撃は仕掛けないという一時停戦の交渉によって、小笠原貞慶が深志城奪還の悲願を果たすに至った。3歳児足らずの頃に府中を追われてから30年以上経った小笠原貞慶35歳頃( 33歳説もあり )、奇跡的に府中( 旧小笠原本領 )に返り咲くことになった訳である。一度没落した有力諸氏が、事情はどうであれ30年近くを経て奪還戦という典礼を以って返り咲くことなど困難だった中で、それが果たされたからこそ驚かれた一幕だったのである。ここで字数制限の都合となる。次に小笠原貞慶の子の小笠原秀政の位置づけも含めて、今回書ききれなかった、伝えたいことがまだまだ多すぎる事項を引き続き紹介したい。ここまでの多すぎる大事な要点を、字数制限の中で今回ひとつ挙げておくと、織田信長は当時、小笠原貞慶に怒っていたというよりも、芦名氏の所で世話を受けていた父の小笠原長時がこの期( ご )に及んで、上杉家に託した長男の小笠原長隆とその旧臣たちの肩ばかりもって( 上杉家への不義と有力家臣の旧縁の坂西一族たちを気にするあまり )、三男の小笠原貞慶を正式な次期当主だとさっさと公表しようとしなかった、小笠原貞慶の立場を考えようとしなかった、織田家に小笠原家のことを改めて託す旨の外交に動こうとしなかった、だからこそ織田信長が小笠原貞慶にそこを等族指導しなければならなかったことに内心は間違いなく怒っていたと見てよい。小笠原貞慶はその経緯も含めて織田政権下で10年近く優れた敷居も見てきたからこそ、深志城奪還後も不安定ながらもどうにか徳川派として府中再統一を進めることができたこと、結果的に豊臣秀吉に寛大に8年も待ってもらった上でどうにか移封・国替えには対応できたこと、いったん失脚することになるも尊重はされ続けたことなどを引き続き紹介していきたい。

 


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり

 

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )