本能寺の変とはなんだったのか76/95 本能寺の変の全体像22/41 2024/11/13
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~21」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像15 で先述
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
※ 本能寺の変の全体像16 で先述
河尻秀隆 かわじり ひでたか ( と 木曽義昌 きそ よしまさ )
※ 本能寺の変の全体像17 で先述
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 1/2 おがさわら さだよし
※ 本能寺の変の全体像18 で先述
小笠原貞慶 2/2 おがさわら さだよし 他 小笠原秀政と、木曽義昌や諏訪一族ら信濃衆たちのその後
※ 本能寺の変の全体像19 で先述
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
※ 本能寺の変の全体像20 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )01
※ 本能寺の変の全体像21 で先述
千秋氏( せんしゅう。熱田神宮の氏子総代・宮司とその社人郎党たち )02/19
※前回 1483/04/30 までの続き
1483/07/18( 尾張守護代 )織田敏定( 大和守 )、足利義政( 9代将軍の足利義尚の後見人 )の東山御山庄の移徒( わたまし。居住の移転のこと。方針を変更するという意味でもこの言葉が使われたようである )を祝い、御太刀と千疋( ひき。ぴき。疋は、取引や贈与の品数を数える時に使われるが、品を指さずに何疋と書く場合は銭のことを指す。1疋は10文。100疋で1貫文。かんもん。1000文で1貫文。室町後期の1貫は現代消費感覚で10万円ほどだったと思われる )を贈る。蜷川親元日記 日々記。
1483/09/08 尾張守護の斯波義良( しば よしなが。治部大輔 )と守護代の織田敏定、足利義政への御礼の使者を上らせ、幕府政所執事の伊勢貞宗・伊勢貞陸( いせ さだみち。兵庫 )親子に御太刀と礼銭を贈る。蜷川親元日記 日々記。伊勢貞宗殿へ三千疋( 30貫文 )と御太刀景安・御太刀次守、伊勢貞陸殿へ千疋( 10貫文 )と御太刀貞真 ※ 太刀の贈与は当時の武家社会の特徴をよく表している。品質の高い太刀は財宝を贈与する意味合いも強く、神社への奉納でも太刀の贈与が頻繁に見られる
1483/10/10 伊達成宗( だて しげむね。奥州探題。兵部少輔。伊達氏は管領大崎氏の最有力家臣 )、上洛( じょうらく )し、伊勢貞宗殿へ太刀一振・砂金廿両( この頃の両は重さ単位。1両15グラムほどと思われ、それだと20両のため300グラム )・馬三疋、伊勢貞陸殿へ太刀正定・砂金十両、細川政元殿へ砂金廿両を贈与する。伊達成宗上洛日記写 伊達家文書。 ※ 岩手県北部を拠点とする大崎氏( 斯波一族 )は立場上は奥州管領( 東北の総長 )であったが戦国前期に衰退し始め、仙台( 岩手県南部 )と米沢( 出羽南部 )を拠点に実力を身に付けるようになった伊達氏が、事実上の主導と見なされ始めるようになる。上洛要請に応じた伊達氏は、他ではなかなかできなかった多額の支援金を、室町再建のためにと幕府権力者たちに持参したことは驚かれ、どの地方も財政の立て直しに苦労していた中でこのような余裕を見せた伊達家は、奥州の有力者として全国に思い知らせることになった
1483/10/13 三条実量( さんじょう さねかず。三条家は廷臣の上層のひとつ。朝廷・聖属議会・中央教義管理者 )、尾張の家領( 海部郡 )福永保について、足利義尚( あしかが よしひさ。9代将軍 )の同朋衆( どうほうしゅう。特権を得た側近たち )木阿( もくあ )と争う。十一月二十七日朝廷の訴えを幕府が受理、審理する。実隆公記。政所賦銘引付。
1484/07/07 尾張国の円福寺の僧、其阿の勧進により、熱田社に一万句発句が奉納される。熱田神宮文書。 ※ 円福寺は熱田神宮と縁の強い寺院。熱田大宮司の千秋季吉( せんしゅう すえよし )の句を始めとし、蓮衆105人の僧たちの名が記載。113枚の短冊は略。尾張で熱田神宮と寺院との関係が良好であることが窺える
1484/08/24 足利義尚、千秋政範( せんしゅう まさのり )の代官の星野( 宮内少輔 )政茂を熱田大宮司職に補任( 任命 )する。将軍足利義尚御判御教書案 諸状案分。十輪院内府記。 ※ 千秋氏や星野氏ら氏子たちは武士団としての性質ももっていたことで、熱田宮司に対する人事は武家側の家長人事権( 任命権 )が強かったことが窺える
1484/09/20 近衛房嗣( このえ ふさつぐ。近衛家は廷臣の上層のひとつ )の尾張の家領( 遠隔荘園地 )の冨田荘( 海部郡 )の年貢五百疋( 5貫文 )が納入される。十一月十四日にも続いて千疋( 10貫文 )が納入される。雑事要録。 ※ 公家・廷臣たちの有徳領( 荘園領 )が多かった山城の序列統制などは、応仁の乱の前からの著しい京の都市経済の崩壊以来、閉鎖有徳闘争・惣国一揆による地元有力者らの労役・徴税義務の拒否や生活権の奪い合いの横領等が著しい地域だらけだったことが、それに関する頻繁な訴訟の文献から窺える。一方で尾張でも時折揉めながらでも、有徳と結びつきの強い廷臣たちの、尾張の遠隔領からこのように送金できている所があっただけでも、尾張( の主に織田一族 )は他よりもだいぶマシだったことが窺える
1484/11/01 三河の( 碧海郡の佐々木之郷の )上宮寺( じょうぐうじ。浄土真宗 )の如光が弟子帳を作成する。如光弟子帳(冊子)上宮寺文書。 ※ 内容は、三河の浄土真宗の上層の蓮願、蓮智、順如、如光、如全、如順らの連署から始まる、どの地域が浄土真宗の寺領で誰がその責任者なのかの100箇所弱の一覧。これは世俗・聖属両旧態権力ではもはや再統制は困難と見なし始めた浄土真宗による、それらとは決別の自治権的な地政学的謄本登録・身分再統制の序章だったと見てよい。のち三河での今川序列権威の衰退を機に松平元康( 徳川家康 )が三河再統一に乗り出した際、同じく三河一向一揆勢( 浄土真宗 )も三河再統一を狙う形で三河松平氏と対立することになるが、上宮寺はその時の一向勢の主導のひとつとなる
1484/11/06 尾張守護代の織田敏定、妙興寺に闕所( 欠所 )の迎接寺( こうしょうじ? )を返付する。※ 迎接寺は妙興寺の分寺という言い分が織田家から認められたということのようである
1484/12/29 足利義政、大徳寺( 臨済宗大徳寺派の本拠 )の遠隔領各所の安堵状を発給する。将軍足利義政御判御教書案 大徳寺文書。播磨の小宅内三職方・紀伊の高家西庄・美濃の長森と寺田村と田中・尾張( 葉栗郡 )の破田村、同諸塔頭領( 大徳寺領 )所々、散在田畠と山林と洛中屋地と寺辺敷地においての公認状。准三宮( 足利義政 )花押 ※ 宛先が書かれていないようであることから、この書状だけで効力が期待されたのではなく、まず朝廷との確認を通してこの公文書が作成され、これを元に各所領に対して従うよう勧告される使い方がされたと見られる。中央( 世俗・聖属両議会。室町政権と朝廷 )は遠隔荘園領の謄本登録的な整備( 身分制議会。序列統制 )が今後本当に進められるのか怪しい、区画整備もされずにそれぞれ地元の寄進の都合で自然に乱立していく寺院・寺領が、深刻な経済法問題の中で閉鎖利害と絡み合う布教合戦や横領等で乱れがちだった現地に対し、こうした後手後手( 旧態慣習任せのままに弊害が起きてからどうのこうのの初動になっている )な安堵状のやり方だった文献が、以後も頻繁に出てくる
1485/02 尾張の妙興寺、評定衆( ひょうじょうしゅう )歴名が作成される。妙興寺評定衆歴名 妙興寺文書。 ※ 各持ち場の責任者たちによる議会によって、自寺領が乱れないよう運営しようとしていることが窺える。この文書での持ち場を一応記しておくと、徳眈西堂、真勗西堂、芳健首座、守昱首座、祖柔首座、祥固首座、性暾首座、性悟都寺、芳瑾都寺、昌淳都寺、正鶴都寺、仲敬都寺、宗筠都寺。文明十七年 徳眈(花押)。尾張の妙興寺は 1590 年から臨済宗妙心寺派になるが、それまでは地縁重視の臨済宗だったと見られ、内部や地域間でいがみ合う閉鎖有徳化に向かうことのないよう、だいぶ努力されていたことが窺える
1485/03/20 近衛房嗣( 廷臣 )の尾張の家領( 遠隔荘園地 )である冨田荘の年貢が、去年の未進分を合わせて 03/27 までに合計四千疋( 40貫文 )が納入される。 ※ 時折揉めながらでも、尾張の( 主に織田一族による )統治はうまくいっている方であることが窺える
1485/03/22 三河の松平大炊助正則( まつだいら おおいのすけ まさのり。松平信光の子 )、三河( 額田郡。ぬかたぐん )大樹寺( だいじゅじ。浄土宗 )に田地を寄進する。松平正則寄進状 大樹寺文書。※ この大樹寺は、三河松平氏と友好関係の強い菩提寺になる。1560 年の桶狭間の戦いの際に三河松平氏( 徳川家康 )は、力関係で今川方として大高城を巡る支援戦を請け負ったが、今川義元の戦死を知らされ松平勢も三河に撤退、その際に松平氏と由縁の大樹寺に立ち寄ることになった。まだ17歳だった松平元康は、この桶狭間の戦いを機に三河でのいくらかの領地復帰を今川氏に認めてもらおうとし、しかし敗戦でそのあてが外れてしまったため、松平家中も武運の無さにがっかりしたといわれる。しかし一同は大樹寺の住職に励まされながら、慌てずに大樹寺で少し様子見することになる。ここから松平家の家運が好転に向かったため、この時の住職との話し合いは徳川家康にとっての生涯の思い出のひとつとなった。桶狭間の敗戦後に松平勢の一団はしばらく大樹寺に駐屯して様子を窺っていた所、三河各地の拠点をこれまで占拠し続けていた今川序列権威たちは、桶狭間の敗戦で( 駿河・遠江本軍の体制の立て直しをしなければ、後ろ詰め・支配支援 ができなくなり始めて )威勢が削がれたのを機にそれぞれ自治力( 序列権威力 )を急速に失い、多くが慌てて駿河・遠江への撤収を始めた。元々は松平氏の居城であった三河の重要拠点である岡崎城を無血で取り戻すことができた松平元康( 徳川家康 )は、ここから松平氏による三河再統一に乗り出す好機にもなった。桶狭間の戦いが起きる少し前の 1550 年には、産業文化面から強国化( 次世代化 )する一方となった尾張織田氏( 織田信秀と織田信長 )の様子に今川義元も対抗するように、三河に対する今川序列権威固めを積極的に行うようになるものの、桶狭間の敗戦でそれが一気に崩壊したことがはっきりした。今川氏は、織田氏に対抗するだけの次世代人事統制・地政学的領域敷居競争など大して進められていなかった( 上・手本家長が本来進めなければならなかった等族指導が十分ではなかった )実態が明らかになってしまったのである。桶狭間の戦いは、かろうじて旧態序列権威で軍役の威勢を維持できていた今川義元が、そういう時代では無くなってきている尾張の次世代序列敷居の波及にあせって、旧態体質の軍事力がまだできている内に織田氏に挑んでしまった戦いなのである。今川氏は外( 尾張や三河 )のことに注意を向けている場合ではない、その軍事力が維持できている間に本領の駿河と遠江に対する再統一を先にしなければならなかったのである。次世代人事( 官民再分離・街道整備・前期型兵農分離 )など進められていなかった今川勢は、織田信長が乗り出したさらになる尾張再統一( 人事敷居向上 )への妨害はできても、尾張制圧などできる訳がなく、余裕がなかったのは今川義元の方だったことくらいは当時の各地方の上層たち( 戦国大名たち )も織田氏の次世代敷居に気まずいから言及なかっただけで、上同士では解り切っていたのである
1485/04/16 尾張守護の斯波義良( しば よしなが )、斯波義寛( しば よしひろ )と改名し足利義政・義尚に礼物を進上する。蜷川親元日記 日々記。治部大輔殿( 斯波義寛 )より御字御礼 大御所様( 足利義政 )へ御太刀宗吉・千疋、御所様( 足利義尚 )へ御太刀糸・千疋、白河千疋、御礼太刀吉次、上様( 日野富子 )へ千疋。※ 守護代の織田家だけでなく武衛斯波家( 尾張守護 )も、室町将軍を積極的に支援している
1485/07/08 越前守護の斯波義敏( しば よしとし。斯波義寛の父 )、出家し道海と名乗る。07/30 足利義政へ礼物を進上する。蜷川親元日記 日々記。左兵衛督( さひょうえのかみ。斯波義敏 )から東山殿( 足利義政 )へ御太刀糸・千疋がお贈られる。翌月 08/15 にも、左衛門督の任官を得たことの返礼を足利義政と伊勢貞宗にしている。※ 斯波義敏は表向きは越前の守護大名の立場だが、1481 年頃からはその最有力家臣( 越前守護代 )である朝倉孝景( あさくら たかかげ )に越前の主導をすっかり握られていた。
1485/07/21 伊勢内宮一祢宜( 禰宜。ねぎ。神主。司祭 )の荒木田氏経( あらきだ うじつね )、三河( 渥美郡 )杉山御厨( みくり。三河の伊勢神宮領 )からの上分納入が、戸田宗光( とだ むねみつ。三河渥美郡の代表格。武士団 )と普門寺によって果たされたことへの、礼物を贈る。内宮一祢宜荒木田氏経書状写 氏経卿引付。書状の宛先は田原弾正忠殿( 戸田宗光のこと。田原は渥美郡の中心地。愛知県田原市 )になっている。
1485/09/07 万里集九( まんり しゅうく。禅僧であり歌道の先生として、文化人として著名。禅僧は大抵は臨済宗の僧のこと。近江浅井郡速水郷の土豪の速水家出身。のち羽柴秀吉が浅井郡と坂田郡の代表としての長浜城主となり、現地で人材が整備されるが、豊臣吏僚の速水家と同族と思われる。万里集九は当時の地方有力の斎藤妙椿や太田道灌らから望まれて招かれ、交流網は広かった )、美濃国鵜沼( うぬま。愛知県犬山市の犬山城の近所 )への旅から東国への旅に向かう。梅花無尽蔵。道程は、尾張昌福寺、尾張清須の織田敏信邸( 備後守。びんごのかみ。織田信定の兄? のちの織田信秀も備後守を名乗っていることから、織田信長の家系との縁は強かったと見られる )、熱田社の楊貴妃廟を訪れ、次いで三河( 碧海郡 )刈谷城、矢作宿( 刈谷・矢作は水野領 )、( 三河額田郡 )二村山、四十八渡、御津を経て( 遠江 )浜名湖に至る。 ※ 省略するが万里集九の旅路( たびじ )の文献はいくつか出てくる。他にも廷臣が尾張や三河に下向( げこう )する際のかかった日数の旅路が書かれている文献もよく出てくる。著名人の旅路においては、各地元有力者への事前の連絡とその道案内の庇護もあったと思われるが、現地の闘争が今にも始まりそうな不穏な状況でない平時なら、文化人や行商人たちの交流のための、城下や小都市の宿場( への、有徳との結びつきの強かった地元資本家たちによる治安維持 )は機能していたようである。河川を船で渡ろうと、海から船で向かおうとしたが大雨や暴風雨でしばらく待つことになったり、陸地から向かうことになったという旅路の記述も多い
1485/12/25 ( 熱田社 )開闔太夫長岡式部直保( ながおか なおやす。熱田社内の役職者。闔は扉という意味。読みは かいこうだゆう と思われる )、翌年の熱田社の年中行事( 日程 )を記す。熱田社年中行事写 張州雑志。
正月 元旦 四方拝 内院供御 七寺詣 朔日饗 夕方供御
二日 供御 賀野
三日 供御 政所出仕
五日 供御 同七種味噌水( みそうつら )備
十一日 供御 踏歌ノ御神事
十五日 同御粥ヲ備 御歩射
二月 供御 午ノ日御祭 未ノ日諸社御祭 申ノ日氷上狩之御神事
三月 供御 一切経会 寺家講談
四月 八日 仏生会 神宮寺出仕
五月 四日 夜酔人御神事
五日 内院供御
六月 五日 供御 新宮御祭 祇園会
十五日 供御 御田ノ神事
七月 三日 大宮大掃除
四日 八剣宮大掃除
七日 供御并( 併 )御サラシモノ
八月 七日 八剣宮、尾張八郡ヨリ傍官衆出仕、神楽
八日 供御 神宮寺行幸
九月 八日 流鏑馬
九日 御子渡
霜月 御鎮祭 亥ノ日御井祓 寅ノ日供御 卯ノ日御祭 辰ノ日諸社御祭、巳ノ日氷上ノ御神事
十七日 大宮御八講、寺家講談、舞楽
十九日 八剣宮御八講、寺家講談、舞楽
十二月十四日 剣遊御神事
廿五日 供御并御ススヨセ ( 廿 は 二十 。 卅 は 三十 )
1485年 この年、美濃、尾張で大勢が餓死してしまったことが 東寺光明講過去帳 で端的に記されている。また 1485 年になって阿波( あわ。徳島県 )では度々の合戦によって多くの戦死者が出たとも端的に記されている。※ この年に斯波家は足利家に上納支援しているが織田家はそれが見られないのは、飢饉のためかも知れない。内乱終焉の徳川時代の江戸中期までに、苦労しながらの大規模な河川の整備と農地開発が進められ、商業面も発達して豊かになっても、それでも天候不良続きの飢饉はよく起きて対応は難しかった。戦国後期の地方再統一へ意識が向けられるのはまだ先となる閉鎖割拠期のこの頃の飢饉への対応は、より困難だったことが窺える。1485 年の尾張は助からなかった村落を出してしまったからこそ、寺社を通した地域間交流のあり方に危機感や緊張感がもたれた年だったと見てよい
1486/03/23 尾張守護の斯波義寛、足利家に年始の礼物を贈る。親郷日記。
1486/03/26 甘露寺親長、尾張の所領について幕府に訴える。※ 廷臣の日野政資が尾張代官の飯尾加賀守清房を通して、甘露寺領のはずである尾張の遠隔知行地を、現地代官に調査してもらう申請の書状だが、原文ではどの場所なのかは書かれていない
1486/06/04 尾張守護代の織田敏定、尾張性海寺の寺領などを安堵する。尾張守護代織田敏定書下写( 折紙 )性海寺文書。(織田)敏定(花押影) (中嶋郡)性海寺
1486/07/28 近衛家領の尾張富田庄の年貢が納入される。翌年一月九日までの納入予定の記載がされる。雑事要録。七月廿八日の納入は千疋( 10貫文 )。翌年三月九日までの納入予定の合計は二千五百疋( 25貫文 )分。
1486/12/13 尾張の津島社弥五郎社殿の遷宮( 本殿の新たな建て替えとその式典 )が行われる。尾張国津島社弥五郎殿遷宮記 津島神社文書。願主は紀氏朝臣 広浜祐堂広栄( ひろはま ゆうどう ひろひで )、代官は織田大蔵。
1486 年までで文明18年。1487 年から長享元年。
1487/02/02 熱田社内の、紀州日前宮、雲州大社、尾州熱田宮が焼失してしまったことについて、奇異な風聞になっていたと記される。大乗院寺社雑事記。後法興院記。
1487/07/02 足利義政、僧の恵東を三河( 加茂郡 )長興寺の住持( 住職 )とする。蔭凉軒日録。
1487/07/08 足利義政、僧の瑞頔( ずいてき )を尾張( 中嶋郡 )妙興寺の住持とする。蔭凉軒日録。
1487/08/05 近衛家領( 禅閣様御料所 )の尾張( 海東郡 )富田庄の年貢が納入される。閏十一月二十三日、尾張( 中嶋郡 )大須庄から礼物が納入される。雑事要録
1487/08/26 尾張名護屋城主の今川国氏( いまがわ くにうじ )、武者50人を率いて上洛する。蔭凉軒日録。※ のち駿河今川氏が、尾張の斯波権威衰退に、尾張における今川序列権威をこの名護屋城から強めようとするも、のち織田信秀による今川権威追い出しによって、名護屋城は織田信秀の手に渡ることになる。この名護屋城は、有名な徳川御三家の名古屋城ではなく、今の名鉄・JR名古屋駅のあたりにかつてあった旧名古屋城になる
1487/09/26 幕府、尾張守護代の織田敏定に、山城の等持寺の遠隔寺領である尾張中庄を寺家代官に引き渡すよう命じる。伊勢貞宗書状案 蜷川家古文書。※ これは厳密な沙汰とし、異事あれば厳重に成敗するよう強い書き方がされている。
1487/09/30 尾張守護の斯波義寛、守護代の織田敏定らと尾張の軍勢を率い、近江坂本に出陣中の足利義尚のもとに参陣する。蔭凉軒日録。長興宿弥記。大乗院雑事記。※ 原文の方では、南近江の佐々木六角大膳大夫( 六角高頼。ろっかく たかより )が、南近江における諸国寺社の知行地を横領していることを巡って将軍親子( 足利義政と義尚 )の裁定に従わなかったため戦うことになり、この時に尾張勢数千騎が将軍側に参陣。南近江の六角氏が旧西軍派であった利害禍根も働いていたと見られる
1487/10/22 幕府、臨川寺( りんせんじ。臨川寺は臨済宗天龍寺派の代表の京の寺院 )の遠隔荘園領である近江の押立保内横溝郷の代替地として、尾張( 葉栗郡 )上門真庄を寄進する。幕府奉行人連署奉書 天龍寺文書。蔭凉軒日録補遣。( 諏訪貞通 )信濃守 花押 ( 飯尾為脩 )肥前守 花押 ※ 原文の方では、近江の横溝郷は臨済寺天龍派の縁の二階堂山城守政行( にかいどう やましろのかみ まさゆき )の所領だったが、それが返還されない代わりの代替地として、六角高頼の由緒の領地であった尾張の上門真庄の300貫の地が二階堂氏の代替地として手配された、ということのようである。前月項で、将軍親子が尾張・美濃勢の加勢を得て南近江六角勢と戦われて間もなくのことであるため、領地特権を巡っての停戦交渉があったと見られる。なお名義の飯尾為脩( いいお ためなが )は尾張の幕府代官だが、諏訪貞道( すわ さだみち )の方は近江の幕府代官かまたはその代理人のようである
1487/10/23 織田敏定とその有力者たち一同が、交流のために相国寺蔭凉軒( しょうこくじ いんりょうけん。相国寺は、臨済宗相国寺派の代表の京の寺院。足利将軍家とも皇室とも縁が強く、格式が高かった )の訪問をする。蔭凉軒日録。原文では 織田大和守敏定、織田新三郎、織田又六郎、織田兵庫助寛広( おだ ひょうごのすけ とおひろ。かつての千代夜叉丸 )織田次郎右衛門尉、織田四郎右衛門尉、堤三郎右衛門尉、坂井平七、坂井彦左衛門尉、野尻宗左衛門尉、中尾左衛門尉の面々の他、尾張の僧も何名か同行。 ※ ままならない山城・京の再建について、織田敏定が頼られ、臨済宗と縁の強い廷臣たちからの相談を受けるために有力家臣たちを率いて上洛したと見られる。残酷な話だが、戦国後期の広域的な地政学的敷居競争の地方再統一に向かう前であるこの段階( 同宗派や神宮を通した交流もされたが、地域間利害優先の弊害多数の閉鎖割拠が著しい時代 )では、できることもどうしても限られてしまう時代になる
1487/11/08 尾張( 中嶋郡 )禅源寺( 臨済宗妙心寺派 )から、相国寺蔭凉軒へ書状と銭百疋が届けられる。蔭凉軒日録。 ※ 額は百疋( 1貫文。室町崩壊期は現代消費感覚で10万円ほどと思われる )だけだが、尾張も2年前の飢饉で余裕はそうないはずだった中でも、寺領内で助け合いの義援金を募( つの )って工面したと見られる。織田敏定が相談された影響も働いたと見てよい。帝都経済( 山城・京の農・工・商 )の再建は結局、1568 年冬に織田信長が京に乗り込み旧態権威どもをとうとう上から順番に恫喝( 等族指導 )するまでその再建計画もろくに進まずに貧窮し続けたため、こうした下同士の助け合いからの1貫文の意識は貴重だったと見てよい
1487閏11/06 臨済宗の僧の沢甫祥恩が、尾張産の貲布( さゆみ・さより。麻糸で作られた布のことだが、その上質な布を指すことが多い )を携え、京の相国寺蔭凉軒へ駆けつける。 ※ 物流もままならない被災地のような状態続きだった京はとにかく物不足で困っていたため、臨済宗の僧の沢甫祥恩( たくほ しょうおん と思われる。僧名は大抵は音読み )が共を連れて尾張産の布生地を調達し、相国寺に届けたという記録。織田敏定が相談された影響も働いていたと見てよい。この年の2回目の閏11月という意味の文献時系列になる
1487/12/09 織田広近( おだ ひろちか。遠江守 )が任されていた近江守山の陣所で火事が起きる。蔭凉軒日録。※ 原文では、上記で布を届けた沢甫祥恩がこの件の報告者になっているのがまず興味深い。死者が出てしまうほどの陣所の火災となり、鷹二元、馬三疋、具足七十余の他、多くの武具、家具、贈り物を焼失してしまったと、沢甫祥恩が関心をもって報告している。文献上ではその報告のみで事情までは書かれていないが状況は容易に窺える。ただの失火では無さそうな損害からしてまず、上述 1487/09/30 に足利将軍親子( 旧東軍筋 )と南近江六角氏( 旧西軍筋 )とで戦われた際に織田敏定が将軍方として加勢に向かった意味には、再建がままならなかった山城・京に対し、尾張織田氏が物資支援するための一時的な上洛路確保の目的も含まれていたと見てよい。六角氏といったん停戦となり、山城・京を支援するための上洛路として近江守山( 滋賀県守山市 )に一時的に陣取ることになった尾張織田勢( その役目を家長の織田敏定に任されていた織田広近 )の存在を煙たく見た地元の反感分子たちが、それを妨害しようと隙を見て焼き討ちに動いた可能性大である。のち 1568 年に織田信長が足利義昭と連盟で畿内( 山城・京 )への乗り込みを開始した際に、六角義賢( ろっかく よしかた。南近江の代表格 )が織田氏に上洛路を譲ろうとせずに反抗に動いたのは、畿内を再建できそうな片鱗を尾張・美濃併合戦で既に見せていた織田信長に畿内に乗り込まれては( 織田氏の敷居を畿内に持ち込まれては )六角義賢の立場は気まずいばかりだった構図と似ている。1487 年での出来事のため、この時の尾張織田氏( 旧東軍派筋 )と南近江六角氏( 旧西軍派筋 )の因縁が尾を引いていたかは解らないが、1568 年に妨害に動いた六角義賢に対して織田信長が「お前ら南近江勢は中央高官を気取るばかりで、その立場たる次の段階の帝都再建・山城支援への等族指導( 畿内敷居改革といえる評議名義性・選任議決性のための争和 )の手本に取り組むことなど、ろくにして来れなかっではないか!」とそこを攻め立てられても仕方がない、織田氏の方がまだ可能性はあった状況だけは何も変っていない。この織田広近は、かつて、織田敏定( 大和家の家長。旧東軍派 )と争った織田敏広( 伊勢守家の家長。旧西軍派 )の弟で、千代夜叉丸の実父になる。織田敏広の子が元服する前に亡くなってしまったことで、弟の子である千代夜叉丸を伊勢守家の次期後継者の養子としたようである。大和家と伊勢家の和解後は織田広近は、織田敏定から重役扱いに信任を得ていた様子が窺える
1487/12/11 伊勢貞遠( いせ さだとお。執政の伊勢貞宗の一族で、重役のひとり )が、等持院( 臨済宗天龍派の本拠 )の遠隔領である尾張の( 春日部郡 )柏井上下条の代官職と、( 愛智郡 )井戸田郷の代官職を望むが、等持院が連署状で拒否する返答をする。蔭凉軒日録。
1487/12/14 これより先、慈恩寺( 山形県寒河江市が本拠。さがえ。慈恩宗と称する。真言宗と天台宗を元にしている )の遠隔領の三河( 八名郡 )宇利庄の本主である仁木氏( にき。足利家と近縁の一族 )が、安堵( 公認 )を求める訴訟を起こす。蔭凉軒日録。 ※ 慈恩寺の遠隔領で横領が目立っていたことに、その管理者の仁木氏が困り再確認をしているの様子を臨済宗側が伝え聞いたという、臨済宗側からの関心事の記述のため、署名や宛先などの様子は解らず
1487/12/20 将軍足利義尚、尾張( 葉栗郡 )足近郷、( 丹羽郡 )井上・櫟江( いちいえ )庄の他、近江の各所の遠隔荘園領を、延暦寺護正院に安堵( 公認 )する。将軍足利義尚御判御教書案 護正院文書。
1487/12/23 将軍足利義尚、尾張( 中嶋郡 )妙国寺に寺領ならびに末寺領を安堵し、諸課役( 臨時課役段銭以下 )を免除( 有徳特権を公認 )する。将軍足利義尚御判御教書案 妙興寺文書。幕府奉行人連署奉書( 折紙 )妙興寺文書。署名は 右近衛大将源朝臣( うこんえたいしょう | うこんえのだいしょう みなもとのあそん )足利義尚花押。足利義尚はこの頃は常徳院とも称している。奉行人連署奉書の発行人は( 松田 )長秀 花押 ( 清 )元定 花押 宛先は 織田大和守( 敏定 )殿。※ 松田氏は幕府奉行人( 幕臣・中央吏僚 )の重役のひとりで、文献上でよく出てくる。次にどのような安堵状だったのかの 妙国寺領坪付注文 妙興寺文書 の文献紹介に続き、荒尾宗顕( あらお むねあき。民部少輔。みんぶしょうゆう )と泰隆( あらお やすたか。美作守。みまさかのかみ )の親子の寄進分所領の地域一覧から始まり、中島正介長利( なかしま しょうすけ ながとし )寄進分、野田太郎成氏( のだ たろう しげうじ )寄進分、奥田比丘尼宗可( おくだ びくに むねよし )寄進分、僧宗竺( そうじく )寄進分、中島新蔵人祐俊( なかしま しんくろうど すけとし )寄進分、荒尾美作守寄進分、中島蔵人公俊( なかしま くろうど きみとし )寄進分、毛受将監遠能( めんじょう しょうげん とおよし。愛知県一宮市大和町毛受。地名の読みは めんじょ だが名字の読みは めんじょう が多いようである。一宮市大和町妙興寺の近く )寄進分、荒尾兵庫入道寄進分、上条将監寄進分、大塚弥九郎寄進分、伏見院御寄附分、荒尾少輔大郎寄進分、服部四郎左衛門入道宗直寄進分、国領左衛門入道覚円寄進分、虫鹿孫十郎教家寄進分、小沢助次郎・同三郎寄進分、長民部丞信隆( ちょう みんぶのじょう のぶたか。能登長氏の遠縁と思われる。長谷部一族 )寄進分、山井三郎安永寄進分、陸田次郎左衛門尉正清寄進分、比丘尼慈澄寄進分、中島蔵人寄進分、平尾右京寄進分、成田民部大輔善政( なりた みんぶだゆう よしまさ )寄進分、山本三郎広明寄進分、中島蔵人久俊寄進分、織田河内入道道慶( おだ かわちにゅうどう みちよし )寄進分の、多数の各町と各田畠の地域別所領一覧が記載される。継目裏花押は松田長秀。 ※ 戦国後期の突入期の地方再統一が認識され始める前の、中級武士ですら半農半士たちとの境界など曖昧な、地域ごとの旧慣習序列任せのままのこの頃は、このように細かい単位の閉鎖割拠地域ごとのそれぞれの地元名士の名義によって、寄進という名目で寺領と結びつくことで自分たちの持ち場の商業地や田畠( の生活権 )を守ろうとしていた様子が窺える。尾張の妙興寺は武家側( 尾張織田氏や室町権威代官 )と連携しながら、自治権的な身元確認( 小身分制議会 )はだいぶできていた方であることが窺える文献が多くみられる。妙興寺は面倒見がいい方だったからこそ、少なくともその枠組み内では揉めなくて済む( 室町の旧態異質のままでは地方全体・国家全体のその再整備もいつまで進みそうにもない中、他宗の閉鎖地域間の支障に悩みながら努力するしかなかった。この強化軍閥版・戦国仏教版が浄土真宗だった )という心理がまずは働いていたと見てよい。職権や生活権の( 利害次第の )勝手な売買に向かわせないための自寺領の身元確認( 各名士たちの持ち場の義務確認 )はなんとか努力できていたことが窺える妙興寺文書が、これまでも以後も頻繁に出てくる。臨済宗の分寺である妙興寺は、中央の臨済宗が崩れてしまったからこそ、せめて地元尾張だけでもその求心力を支えなければならないという危機感や使命感はもてていたと見てよい。のちに織田信長( とそれを受け継いだ豊臣秀吉 )がなぜ、街道整備( 次世代産業法の特に庶民政治側の発達のための賦役・課税の前近代化 )の一環として、旧有徳特権及び慣習序列へのいったんの総巻き上げとその再手配の、官民再分離( 次世代国家構想の家訓改め・人事敷居改め = 前期型兵農分離と後期型兵農分離 )を強行しなければならなかったのかの、その前時代( 地域ごとの利害次第の閉鎖慣習割拠時代 )の事情( 一時的に戦乱を止めることができても、下・庶民政治側に対する閉鎖有徳改めの街道整備、上・公務士分側に対する国際吏僚体制を始めとする次世代身分再統制をしなければ、上がそこを放任し続けていては閉鎖有徳闘争・半農半士闘争・惣国一揆の繰り返しになる、室町体制では結局解決し得ずに浮彫となったこの問題を、二度と繰り返させないための等族指導をしなければならないのが本来の上・手本家長の務め = そのための絶対家長・前近代的総裁が地政学的領域敷居戦という形で評議名義的・選任議決的に競われるようになった事情 )が少しでも伝わればと思い、この項を紹介することにした。この9代将軍の足利義尚の安堵状の発給は、妙興寺が武家側に反発せずの自治権( 等族指導 )を以って、大事な身元確認の一覧を普段から作成できていたからこそ、その威厳的な公認効果もいくらか成立したに過ぎない。現代でもありがちな、等族指導役( 家訓や社訓の敷居管理役・議会的人事敷居序列の手本の示し合い )の整備( 受理と議事録処理の敷居体制の明確化 = 組織構想の基本 )に対する危機感が特に上同士でもたれなければ、いずれは衰退・崩壊に向かうのはどの時代でもどの組織でも同じである。そこへの普段からの自分たちの危機感の度合( 異環境間・地政学的人事敷居に対する認識力 = 低次元化させ合う対象とどれだけ決別してきたのか/旧廃策を敷いてこれたのかの自分たちの危機管理力 = 器量 )と同じで、そこ( 前近代的な評議名義性と選任議決性を等族指導できる代表総裁・絶対家長を中心とする次世代序列敷居の明確化 = 国家構想的な名目・誓願の姿 )がいい加減に重視されるようになったから、のちの戦国後期の地政学的領域敷居戦( 広域の異環境間をいかに評議的・選任的に序列敷居管理できる代表家長・総裁なのかが中心の総力戦体制・次世代国家構想戦 )という形で競われ、戦国終焉( 評議名義性と選任議決性の前近代化・高次元化・等族社会化への思い知らせ合い )に向かったのである
1487 年 この年、幕府による諸国御料所方支証目録( 幕府料所の地名 )が記される。諸国御料所方支証目録。
山城 野尻 伊勢田
近江 蜂屋郷
出雲 日登郷
尾張( 丹羽郡 )入鹿・羽黒・今枝 御教書一通、( 山田郡 )山田庄 御判物一通 御奉書一通 御教書一通 遵行二通
尾張 智多郡 御内書一通 御判物一通
越中 青柳、森尻保 御判物一通
遠江 玉井庄野方分 御判物一通
参河 本田左近将監跡 御判物一通 施行一通
参河( 額田郡 )山中郷 御判物一通 御教書一通
参河( 幡豆郡 )吉良庄内家武 御判物一通
参河( 八名郡 )下条 御判物一通 御教書一通 施行一通
参河( 設楽郡 )黒瀬、( 宝飯郡 )豊川 御判物一通 御教書一通 施行一通
※ 御教書は総家長による家訓的( 等族指導的 )指令で、室町将軍の文書でたまに出てくる。施行や遵行は予定指令書と思われる。諸国御料所は幕府直轄領というよりも、地方の幕府御所の代官領といった方が正確と思われる。判物( はんもつ )は幕府権威上層( 室町将軍、政所執事、管領、守護ら )が重役吏僚や地方代官らに発行・手配する裁定結果の書状のことだが、戦国後期の地政学的領域戦が認識され始めると、戦国大名たち中心の判物に移行し始める。のち大手化した戦国大名の中で、今川義元は三河と尾張の介入を理由に守護大名( 旧態室町序列権威 )の上層側である威勢を維持し続けたが、尾張を改革的にまとめた織田信秀・織田信長親子は対照的で、守護代( 旧態室町序列権威 )だった立場とは決別的な次世代統制を始めるようになるも、ただし足利義晴・足利義輝親子に対しては表向き中央家長と地方家長の間柄だという臣下の姿勢( 次世代化が前提の室町再建に協力する姿勢 )は示していた。今川家から見て、室町権威に逆らっているとする織田家の方が、実際には中央( 皇室や室町将軍や廷臣たち )に対しての協力と気遣いがよっぽどできていたから、足利一門を気取っていた今川家は気まずくなる一方だったと見てよい。尾張は低地地方( 険しい山や谷が少ない盆地・平面地が多いため、農地や商業地や交通網の開発がしやすい有利な土地という意味 )だった地の利が織田家の施政改革で活かされる形で、まずは産業面で強国化する一方になったため、のち東海道における、旧態今川と改革織田との地政学的領域の力関係( 求心力 )が逆転し始める。下々は上の間で何が起きているのかをすぐに理解することは難しいが、旧態統制に頼ってごまかし続けてきたことが重荷になり始めた今川序列権威側はのちにあせる一方となるのである。1550 年あたりから織田家に対抗的( 領域権威的 )に、今川義元による三河での判物が頻繁に発行されるも、1560 年の桶狭間の戦いで駿河今川勢が敗退し、体制の立て直しに難儀し始め三河を後ろ詰めしている余裕も今川氏は無くなると、三河で今まで頻繁に発給してきた判物( 権威 )の効力も一気に失い、三河松平氏( 徳川家康 )による三河再統一の契機となる。三河であなどれない力をもつようになっていた浄土真宗も三河再統一に動いた。今川家は三河再統一といえるほどの判物( 次世代序列公認といえる等族指導 )の発給などできていなかった( 三河の国衆の多くは、今までは軍役的な威勢関係で今川家に渋々従っていただけで、今川家が自分たちの代表家長だと支えようしなかった。選任序列的な家訓改めなどできていなかった = 今川氏は尾張や三河に威勢を向けている場合ではなかった、いったん軍縮して本領の駿河と遠江の再統一・家訓改め・人事敷居改革を優先しなければならなかった )ことは明らかだったのである。「よそのやること( 合格・高次元/失格・低次元 )にケンカ腰に威勢を向ける( 格下だとと見なす )前に、お前らの( 格上側を気取る以上は、の )その手本の示し合いはどうなんだ!」の戦国後期( ようやくの地政学的敷居領域戦・組織構想戦の、どちらが高次元、低次元なのかの力量の競い合い )に向かうに連れ、地方の旧室町序列権威( 管領・守護・守護代らの名義 )による序列統制などいよいよ体( てい )を成さなくなっていくに伴( ともな )い、地方の旧幕府御所( 旧室町幕府代官所 )とその代官領も当然のこととしてその実権は戦国大名による分国法・領国体制に代わられる
1488/01/29 これより先、山城の等持寺が、遠隔自寺領の尾張の中庄を守護被官人が押領していることを幕府に訴える。それに対する将軍足利義尚の自筆状がこの日に等持院に届けられる。鹿苑日録。蔭凉軒日録。 ※ 蔭凉軒日録の方の原文では、代官の飯尾大和守とは別の代官が中庄を押領していたのを飯尾大和が成敗したが、不穏なためその寺領をしばらく預かることになった。だから飯尾大和守は押領している訳ではない。中庄については等持院の中庄の住持( 住職 )が正式に公認され次第、安堵する という返答。室町時代は被官( ひかん )という言葉がよく出てくるが、部下のことだが副官や補佐官のような意味合いの方が強い。被官は家臣といえなくもないが家臣と簡単に片づけてしてしまうと誤認の元になる。規模こそ違うが、戦国後期の、地政学的領域戦( 総力戦 )で大勢を率いなければならない対応として、特に織田信長がやってのけた寄親・部将( よりおや。師団長。第二次世界大戦でいう所の、作戦規模の大きい大軍団を統括する上での最低位の、少佐以降の将官 )と寄子・寄騎( よりこ。よりき・与力。師団に配属される旅団長。第二次世界大戦でいう、師団に所属して一定の作戦を任せられる大尉以下の中堅将校たち )の人事構図に近い。織田信長だからこそ実現できた寄騎制( 次世代人事序列統制 )の、その前身である旧室町序列権威の被官制では公務吏僚側の人事統制を克服し得なかった( 特に畿内近隣では管領や守護同士で揉めてばかりいたため被官同士でも揉めてばかりいた )ため、被官という言葉は室町終焉期から旧廃策的に使われなくなる。なお寄騎制も豊臣時代の文禄・慶長の役( 中国大陸政府・明との戦いの朝鮮半島への出兵 )まではその概念は生きていたが、以後は、地方の反乱を潰すために毎度の大軍団を編成しなければならないことが前提であるかのような室町までの非法治国家的な旧態体質が、織田時代と豊臣時代を経てようやく克服されることになった徳川政権の時代に、天下の御政道( 徳川家の家訓 )の武士道精神による主従指導によって寄騎制も旧廃策的に使われなくなる
※ 字数制限都合のここまでのまとめ ※
室町政権は、南北朝闘争( 聖属政権再興がきっかけの騒乱 )は終戦に向かわせ、武家社会( 世俗中心政権 )で再出発ということで、聖属に関する機関・機能( 聖域地の各役割 )に対しては聖属側上層( 皇室、廷臣の上層、宗派の総本山など )が裁量していたが、遠隔寺社領の方で決められた人事権については、それが武家側( 室町権威側 )によって改めて公認・安堵状が発給されることによって明確化・強調化される場合が多かった様子が窺える。武家側( 世俗側。室町幕府側。足利家を武家の棟梁・総家長とする中央政権 )が聖属側の物的権限の保護・保証もする等族義務を謄本登録的に請け負うために話が通される武家( 世俗 )社会中心が目指されていた体裁が窺える。しかしそもそもそこ( 次世代身分制議会 )がまずは上同士でうまくいっていなかったからこそ起こった応仁の乱のその後、足利義政・足利義尚親子を始めとする幕府権威者たちは揉めながらも少しは危機感をもって発給状で中央権威( 将軍権威 )と守護権威( 地方権威 )を立て直そうとする努力こそ見られるものの、これだけでは全くの不十分だったといえる。下・庶民政治側への次世代統制( 賦役・徴税法や街道整備を始めとする前近代産業法改革 )という特に進めなければならなかった課題( 前近代産業法に対応するための次世代身分制議会化 )は一向に進まず、そこを結局克服できなかったからこそのちに、飢饉でたびたび苦しむ各地を浄土真宗・本願寺が救済するべくの戦国仏教化に向かってしまったのを許してしまい、続いて室町体質に対する総改め( 上・下・世俗・聖属全ての身分再統制 )を織田信長が肩代わりする形で解決されることになった、大事な部分になる。寺社領はまず、個人的な世襲権ではなく地元分寺の領域としての世襲観念はあった( 公式な発給状でも、下同士の勝手な売券でも永代という言葉で譲渡されている書状も多い )ため下々がそれに寄進する形で所属し、生活権を確保するという閉鎖統制に頼らざるを得なかったからこそ、地域ごとで基準などバラバラな交流弊害の中世的な旧態慣習が足枷になり続けた。上同士の身分再統制( 次の段階に進めるため評議名義的・選任議決的・総選挙的な対決 )による次世代化が一向に進まない、いつまでも旧態なままの室町序列権威のその枠組みにいつまでもしがみつき合う上同士のいがみ合いに常に手一杯の、特に畿内での上同士のその矛盾が延々と繰り返される間、下・庶民政治側に対する公事記録( くじ。為替・両替相場管理を含める前近代的な債務記録 )も含める生活権( 庶民が所属する農地や商業地 )の謄本登録体制( 賦役と課税の義務に応じたその地の住民票的家産と相続の保証 )の整備はいつまでも前進しなかった。その間の性善説放任型の各寺社領の旧態慣習任せ( 各地域ごとの旧態慣習任せ = 上が何ら身分制的な謄本登録保証をしてくれないからこそ、下は寺領に所属する形で生活権を維持せざるを得ず、前に進まない下同士の旧態慣習に縛り続けられなければならなくなる = 室町で世俗中心を目指すはずが下は旧態聖属慣習社会のまま )は、上としての等族指導( 統制・公認 )が及ばない( そこがいつまでも明確化されない・施政されていかないからこその )下同士の勝手な下の作り合いの原因( 下同士で地域間で壁を作り合いながら下を作り合う閉鎖序列権威を押し付け合う閉鎖有徳闘争・半農半士闘争に向かわせる原因 = 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように上・地政学的議会・組織構想・本分的終点といえる等族指導の手本の示し合いを徹底的に面倒がり合いうやむやにさせ合うための正しさとやらの偽善憎悪を乱立させ合い押し付け合う原因 = 奴隷同士で奴隷を作り合うためにねじ伏せ合うことしか能がなっていく低次元な非文明動物園国家に向かわせ合う原因 = 荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論で、競う前や交渉する前の地政学的文化交流敷居力の情報戦の段階から、高次元な列強側と低次元な弱小側の力関係がはっきりしてしまうと指摘 )となる閉鎖慣習任せ( 低次元な偽善憎悪の作り合いとねじ伏せ合いの加熱 )が延々と続くことを意味するのである。上同士で前近代的な議席序列権( 次世代政権議会の手本 )らしい形が生成された試しがない( それを巡るための代表戦などされず、目先の利害次第の低次元ないがみ合いしかしていない )、上同士で見通しのある明るい立場を作り合うことができないのに、どうやって下・庶民政治側を次世代身分制( 国内地域間文化交流 )に向けての経済生活権( 物流の交通網整備も含める )の保証制度や、前近代的な文明国家らしい管区整備体制を敷けるのかという話である。そこを何も進めることができない、情勢( 異環境間・地政学観の敷居 )など何も見通せていない保身利害最優先の偽善憎悪でねじ伏せ合うことしか能がない気の小さい小者が、なぜ偉そうに代表家長( 合格・高次元/失格・低次元を裁量する側。地域裁判権・人事序列を敷居管理する側 )を気取っているのか、さっさと引退・交代してもらわないと皆が迷惑と下も危機感をもつようになり、郡や郷をまとめる国衆たちも軍役や徴税に相当する保証交渉権を突き付けるようになったのが、その見込みの支持次第の下剋上社会( 惣国一揆は、ここまでの過程の意味が強い )である。とうとう浄土真宗を怒らせて( 世俗側でやるということになった次世代化が、遅々として進まないではないか! 下々をただ失望させただ苦しめるばかりではないか! と )世俗権威側に地政学的領域戦( 既成権威と決別の聖属一揆 )をけしかけ、世俗側を慌てさせた大事な部分でもあり、戦国後期への認識に向かわせることになったのである。
次もこの調子で、室町政権がなぜ消滅することになったのか、それまで下々や寺社の様子はどうだったのか、その中での千秋氏はどんな立場だったのかの特徴を説明するための文献を列挙していく。