近世日本の身分制社会(141/書きかけ148) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか69/??  本能寺の変の全体像15/? 2024/07/16

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~14」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 ※ 本能寺の変の全体像13 で先述


 九鬼嘉隆 くき よしたか

 ※ 本能寺の変の全体像14 で先述

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 粟屋氏は、かつての室町体制時代での大手権威のひとつ武田氏の有力家臣として著名だったひとつになる。細川氏には三好氏、上杉氏には長尾氏、畠山氏には遊佐氏や神保氏ら、武衛家( ぶえい。尾張斯波氏。しば )には織田氏、小笠原氏には大井氏と坂西氏( ばんざい。分家筋は さかにし。大井氏と共に小笠原氏の分家筋 )、山名氏には田結庄氏や垣屋氏( たいのしょう。かきや )ら、奥州斯波氏には大崎氏や最上氏( おおさき。もがみ。斯波氏の分家筋だが支配代理役として名門扱い )、といったように室町権威の各上層には、それぞれ有力な家臣団を抱えていた。しかし応仁の乱以後に室町権威の崩壊( 中央と地方の家長権・序列統制力の崩壊 )もいよいよ顕著になっていくと、その有力家臣たちが実権を握り始めたり( 代表格の立場を有力家臣たちが肩代わりし始めたり )、または旧態序列が全く改められないまま( 国内地政学序列的・領域敷居序列的な地方再統一が進まないまま = 評議名義的・選任議決的なまとまりがないまま )その主家と共倒れし始めることも顕著になっていった。本項は、畿内近隣の若狭武田氏の主従についてになるが、この粟屋勝久を当事者軸の視点で見渡していくことでも、戦国後期から戦国終焉期に向かっていった当時の特徴の多くが窺えるため紹介していきたい。まず、旧畿内( 旧室町権威 )の近場として相互の影響も強かった若狭武田氏( 若狭の旧代表格 )は、だからこそ旧態と共倒れのありがちな衰退の姿も著しいまま戦国後期( 総力戦時代・地政学的領域戦時代 = どちらの方がより広域をまとめられるかの器量・議会改革戦 を迎えてしまうことになった。旧室町権威との折り合いが付けられていなかった若狭武田家は、若狭再統一( 明確な代表の選任による再帰 )を目指すことも不能となっていたからこそ、当初は連盟関係だった足利義昭と織田信長とで、荒れ気味だった若狭( だけでない各地 )の今後の扱い( 身分再統制。次世代政権議会改め。中央と地方間との人事敷居 )を巡って早くも食い違いが起きていた様子や、その後に織田信長が足利義昭と対立する形で乗り出し始めた畿内再統一( 室町解体の次世代政権議会の流れ )への進退を、若狭衆たちもそれぞれ表明しなければならなくなる戦国終焉期の特徴も窺える。なお、当説明としては無影響の話になるが、粟屋勝久の出自がイマイチ判然としていないということで、粟屋勝久はここでは 1558 年頃に史料上で明確になっている若狭国吉( くによし )城の粟屋勝長( あわや かつなが。この人物がどうも粟屋勝久のことではないか説 )の、その次代の国吉城主であったという前提で紹介していく。まず 1550 年代~ 1560 年代足利義晴と足利義輝の親子 あしかが よしはる。あしかが よしてる )が、できることも限られていた中でも懸命な中央再建運動を見せ始め、地方では親子の再建運動を応援する機運を見せ始めていた( しかしその懸命な努力は結局活かされずに終わり、自力といえる室町再興はこれが最後となった )中、足利義輝の影響で若狭でも危機感はいくらかもたれるようになる。しかし若狭再統一の見通しに至らずにモタモタやっている間( 自力再興の最後の希望であった足利義輝が、惜しくも 1565 年に暗殺されてしまう。再建できそうだったその室町総家長を支援するべく駆け付けるための地方再統一は、若狭も結局できなかった。織田信長から見た畿内近隣に対する言い逃れ無用の部分 )、尾張・美濃を併合して目覚ましい強国化を見せていた織田信長が、足利義昭との連名で 1569 年に畿内( 京。帝都。山城 )に乗り込む事態を迎える。すなわち若狭衆たち( 特に若狭武田家 )は、自分たちで地方再統一( 次世代地方議会改革・人事敷居改め )ができているとは言い難( がた )い気まずい状況下で、その事態( 次世代政権議会の姿を目指していた、できそうだった織田氏の旗本吏僚体制の姿、すなわち地方を従わせる中央家長らしい次世代等族統制・序列改めの手本 )に向き合わなければならない局面を迎えたことを意味していた。今まで廃墟続きだった京に乗り込んだ織田氏は早々に 京 - 南近江 - 美濃 - 尾張 織田氏が抑えた領域 )を結ぶ街道筋に対する大規模な街道整備に乗り出し、翌 1570 年にはとうとう都市経済の大復興活動の賑わいの明るさが100年以上ぶりに取り戻される事態( もう誰でもいいからさっさとそれに向けていい加減に動いて欲しかった大津衆と堺衆が、そこにとうとう動いてくれることになった織田氏に協力的だったのは当然の話だった になる。今までそれを全くしてこれなかった、下を作り合うのみの低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いの押し付け合いの法賊行為( = 偽善行為 = 合格・高次元/失格・低次元の評議会的危機管理の敷居に対する低次元化行為 )を延々と繰り返すことしか能がない、それで

 

 和解・低次元化防止のための上同士の等族義務への向き合い = 近代議会的な議事録処理( 公判裁量的・謄本登録的 )な敷居確認( 合格・高次元/失格・低次元の危機管理、上同士次世代地政学的序列の手本の示し合いといえる評議名義性・選任議決性 )の品性規律

 

 への向き合いを徹底的に面倒がり合う外圧( 偽善憎悪・劣悪性癖 )のたらし回し合いをケンカ腰に押し付け合いうやむやに低次元化させ合うことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関( ただの顔芸大会に励んでいるだけの猿芝居劇場の愚民統制権力 )とそのただのいいなりどもと何も変わらないだらしない旧畿内権威( 低次元化分子ども = 老害偽善者ども = 上から順番に裁かれて当然の騒乱罪予備軍ども に対し、織田氏から

 

 廷臣たち( 聖属議会 )も含める畿内近隣の上級官僚気取り( 畿内近隣の中央家長気取りの管領代や守護代 )の老害法賊( 偽善者 )どもは今まで一体何をしておったのだ!」

 

と言われたも同然の次世代政権議会らしい姿をとうとう具体的に見せ付けられることになる。すなわち、大部分は上から順番に格下げされて当然のだらしないことこの上ない旧畿内の旧有力者どもは、気まずいことこの上ない新局面( さっさと始めなければならない畿内再統一の流れ = さっさと終わらせなければならない戦国終焉への流れ を迎えることになる。同じく、若狭湾の海運流通で京( 帝都・中央政局・すなわち中央寺社も含める中央政局施設と皇室 )を支えなければならないはずの、そのためにも内紛をさっさと解決できなければならなかったはずの若狭衆たちも、その見通しなど立てられていないままいがみ合い続けていた( 若狭衆たちもそれに向けて貢献したという、上同士の本来の等族義務といえる既成事実など何も作れなかった。中央最大の権威であった管領細川氏が政敵を排撃しても、その有力家臣だった三好氏が細川権威を畿内から排撃しても、次の段階・局面に進むことなどなかった )からこそ結局、織田氏が( 当初は足利義昭との連盟で )畿内( 中央 )に乗り込んだことでそこもやっと次段階に進み始めた状況に、畿内近隣だけでない、織田領とは近場の地方の上層たちもただただ気まずい一方だったのである。ここで時系列をいったん戻り、若狭衆がこの事態をとうとう迎えてしまったまでの情勢について、ざっと説明していきたい。若狭は 1556 年頃に、若狭武田家の当主、武田信豊 たけだ のぶとよ )とその長男の武田義統 たけだ よしずみ )とで、若狭再統一の方針の行き違いから険悪な対立に向かう。武田義統が、とりあえず越前はまとめることはできていた朝倉氏( 当主は朝倉義景。あさくら よしかげ。朝倉氏は先代の朝倉孝景時代に目を見張る越前再統一を進め、戦国後期らしい、越前の一円支配らしい姿を見せるようになったため、畿内からは近場だったこともあり注目された。あさくら たかかげ。しかし朝倉義景の代になると、越前国内においての文化力や経済力の都市開発には力が入れられたが、地政学的領域戦の敷居はそれ以降進まなかった。特に名将で名高く家臣団の支柱となっていた朝倉教景も亡くなると、越前さえ良ければいいかのような、表向きの権威や優雅さの上級意識を強調するばかりの、ただ越前が格上で隣国を格下としているだけのありがちな地方裁判権止まりから進まなくなった。足利義輝が惜しくも暗殺されてしまい、追われた弟の足利義昭が越前を頼って中央奪還を要請した際も、朝倉氏は混乱続きの旧畿内改めに乗り出せるほどの前近代的な敷居改革・中央家長的な主体性の手本までは及んでいなかったことははっきりしていた。畿内介入どころか、若狭武田家の内紛の足元を見た力関係の若狭介入でも、若狭再統一における朝倉権威の見通しがつけられているとは言いがたいまま、畿内に乗り込んできた織田氏にその若狭介入にさっそく乗り出されてしまうことになる。気まずい朝倉氏が織田氏に従おうとする訳もなく、以後織田氏と朝倉氏は表立って対立し、朝倉氏は織田氏の畿内再統一の足を引っ張り続けたが、のち織田氏に消滅させられることになる )の後押しに頼る形で若狭再統一に乗り出そうとしたことで、父の武田信豊はそれに猛反対し、次男の武田信方( たけだ のぶかた。武田義統の弟 )に家督を譲ろうと動いたため、武田義統は越前朝倉勢の加勢を得て武田信豊派( 反朝倉派 )の追い落としに動いた。武田信豊本人の若狭追放には成功した武田義統派は一時的に優勢になるも、武田信豊派( 反朝倉派 )たちによる巻き返しもたびたびで、武田義統派( 朝倉権威派 )がそれを簡単に鎮圧することもできない情勢が続く。武田義統は旧当主( 武田信豊 )の追い出しを理由に若狭再統一を果たしたかのように表向きは権威を強調するも、朝倉氏の加勢を得ただけでは若狭を団結させることなど結局できていなかった上に、若狭武田家が越前朝倉家( 畿内改めができる訳でもない強国気取り・広域総家長気取り )の家臣であるかのような力関係( 武田義統の子の武田元明を人質に差し出す関係 )が強まる一方に、かえって若狭衆たちに危機感 なぜ我々若狭衆たちが、畿内再統一ができる訳でもない朝倉氏の顔色を窺わなければならないのだ、その朝倉氏から陪臣扱い・格下扱いされなければならないのだ観 = 評議名義性・選任議決性 )をもたせることになった。しぶとく反朝倉を続けた、若狭西部の有力の逸見昌経、若狭東部の有力の粟屋勝久これらが反抗し続け、武田義統が朝倉勢の加勢を得て潰そうとするも、しぶとく反抗され続けて手を焼く情勢が続いた。武田義統と朝倉義景から見て、地元の高浜郡はとりあえずまとめることはできていた逸見昌経などは特に厄介な存在だった。そんな折、畿内では管領細川家の有力家臣であった三好氏が管領細川派の排撃を始め、松永長頼軍団( まつなが ながより。松永久秀の弟。三好長慶の参謀役として信任が厚く、丹波攻略を任されることになった )が丹波( たんば。京都府西部。綾部・福知山方面 )に乗り込むと、逸見昌経はそれを機に、当時は勢いがあった三好氏の力を借りようと( もちろん逸見昌経からすれば戦略などではない、朝倉勢の若狭介入を阻害するための場凌ぎ対策で )一時的に三好派を表明し、松永長頼軍団の丹波攻略に加勢した。丹波半国ほどの支配力を一時的に身に付けるようになった松永長頼( 三好勢 )からの加勢が得られるようになった逸見昌経は、若狭西部の武田義統派( 朝倉権威 )たちに反撃、若狭西部の支配権を巡って、

 

 ▼ 丹波勢を一時的に従え、若狭も狙っていた( そのために若狭の朝倉権威の追い出しを目論んだ )松永軍団( 三好勢 )の加勢を得た( 策謀的に煽った )逸見昌経勢( 反朝倉派 

 

 ▲ 越前朝倉氏の加勢で若狭支配を狙う武田義統派たち( 朝倉権威派 

 

とのグダグダな戦いが 1565 年頃に繰り広げられ、しぶとい逸見昌経は朝倉権威による若狭攻略を大いに阻害した。若狭再統一の見通し( 一体誰が若狭の明確な代表で、どのような敷居序列していくのかの評議名義性・選任議決性 )は見えない続きのまま 1568 年には、朝倉氏がほとんど家臣扱いに、越前の武家屋敷に収容されていた武田元明  たけだ もとあき。武田義統の子。失墜した大名・支配者としての実権が取り戻されることはなかったが、形式上は若狭武田家最後の当主と見なされた )を介して、若狭東部における反朝倉の粟屋勝久に対し降参を呼び掛けるが、粟屋勝久は依然として応じようとしなかった。この時の粟屋勝久は、武田元明への反抗ではなく朝倉権威に対しての反抗なのが明らかであったことが、のちの様子から窺える。前後するがのち 1573 年の織田信長の越前朝倉攻めに際には粟屋勝久も織田派として積極的に加勢し、武田元明の身柄を粟屋勝久が奪還すると、粟屋勝久は武田元明のための旧領復興( 若狭武田氏としての当主権威の復興 )を織田信長に願い出ている。これは織田信長から公認を得ることはできなかったものの、粟屋家は武田家の有力家臣だったという旧主従としての義理を粟屋勝久が律儀に果たそうとしていた様子が窺え、そうした粟屋勝久の姿勢が織田信長からの信用に繋がったと見てよい。時系列を戻し、1568 年冬に京に乗り込んだ織田信長は、都市経済( 官民再分離。庶民政治の産業法改め。閉鎖有徳による勝手な武力自治序列権の禁止。旧態法機関的な公認無き関所や城の撤廃 )の再建に努めつつ、1570 年にはまとまりのない若狭への介入( 再統一。身分再統制 )に( 畿内近隣の重要地のひとつだからこそ )乗り出すと、粟屋勝久と逸見昌経を始めとする、それまで反朝倉を強めていた若狭衆たちは中途半端な所もありつつもの格下げ覚悟で早めに織田派を表明した他、近江北西の高島郡はとりあえずまとめることはできていた朽木元綱も、畿内に乗り込んできた足利・織田連盟に早めに歩調を合わせたことで、山城( 京 )と若狭の通り道となる朽木領( 高島郡 )から、織田氏の若狭介入( 織田氏による若狭再統一 )の往来も問題なく行えるようになった。織田氏が若狭介入を始めると、それまで若狭介入を繰り返してきた越前朝倉氏がその反抗に動き、するといったん織田氏とは不戦関係となったはずの近江北東の浅井氏が、朝倉氏に肩をもつ形で一緒に織田氏の妨害に動く事態となる。若狭支配を巡って織田勢と朝倉勢と対峙することになった間に、織田氏と手切れして朝倉氏との結託した浅井氏が、織田勢の背後を襲おうとする動きに出られたことで、不利な状況となった織田勢はいったん若狭から撤退することになった。この時に朽木元綱がもし反織田派( 朝倉・浅井連合 )の呼びかけに応じていれば、織田勢は致命打を受けていたかも知れない危険な状況ではあったが、しかし朽木元綱は織田勢の退路確保に協力し、さらには織田方の応援軍として駆け付けていた三河徳川勢の助成もあって難を逃れた。1570 年の時点での織田氏の若狭介入は、浅井氏の離反によっていったんのお預けとなるも、若狭の反朝倉派たちも大してまとまりがあった訳でもないからこそ、それを機に若狭の織田派たちはいくらかまとまりを見せる、つまり若狭もようやく次の段階( 次世代的な再統一に向けての進退をはっきりさせなければならない )に進み始める。1571 年には、それまで連盟関係であった足利義昭と織田信長との間であまりにも差があり過ぎた敷居の相違による険悪関係も目立ち始める。この険悪化には、今後の若狭衆たちを巡る人事敷居と、そこから始まった朝倉氏( とそれに加勢的だった浅井氏 )との対立( 家長権のあり方 = 上同士の身分再統制のあり方 )についての足利義昭と織田信長との行き違いも相当大きなものだったと見て間違いない。翌 1572 年に足利義昭が表立って反織田運動を煽る形で織田氏と決別すると、織田氏の敷居の前に、上から順番の大幅な格下げを受けて当然、議決権( 合格・高次元/失格・低次元の敷居を危機管理する上同士の評議・選任の議席権 )の資格が剥奪されて当然、士分待遇が剥奪されて当然なのも目に見えていた気まずい旧畿内権威( 偽善老害ども )の多くが足利義昭の反織田運動に同調する形で、勢い任せに織田氏の畿内再統一( 次世代議会政権化のための上同士の人事敷居改革と官民再分離 = 前近代的な旗本吏僚体制を中心とする前期型兵農分離 )の足を引っ張り始める。朝倉氏は織田氏に横槍を入れつつ、織田氏が反織田運動に手を焼いている間に若狭攻略を進めようとするが、織田氏の後押しが得られなくても織田派( 反朝倉 )を強める粟屋勝久、逸見昌経らに今まで通り抵抗され、それらを結局制圧できなかった。朝倉氏が若狭攻略をモタモタやっている間( そのための地政学的領域戦に対応する総力戦体制の敷居改革など進められない間 )、旧畿内での反織田運動の勢い任せが早くも下火になり始める翌 1573 年を迎えると、織田氏に再び若狭に乗り込まれ若狭の朝倉権威は一掃( 畿内の敷居に若狭再統一。次世代人事序列改め )、ただちに越前にも乗り込まれる事態となる。越前朝倉氏は総崩れを起こす形で 1573 年内に織田氏にあっけなく制圧され( 戦国大名として有力と見なされてきた越前朝倉氏は消滅、続いて年内に近江北東の浅井氏も消滅させられる )、畿内は明らかに次の段階の局面を迎えていた。粟屋勝久は越前朝倉攻めで手柄を立てる優先権を得て活躍し、粟屋勝久にとっての主筋である武田元明の身柄の奪還にも成功する。朝倉氏の家臣扱いがされていた武田元明のことで粟屋勝久は、織田信長に助命を願い出、とりあえず助命は公認されることになったが、待遇についてはすぐに手配されることはなかった。旧若狭は織田信長の重臣の丹羽長秀( にわ ながひで。織田信長の参謀役 )の統制下に置かれ、つまり若狭衆( 格下げ覚悟の織田派と見なされた者たち )は以後は織田氏から仮公認の丹羽長秀の寄騎扱いとなり、それを以( も )って、支配者としての若狭武田家は武田元明の代を最後に消滅・幕引きとなった。畿内再統一を進めなければならなかった中で、武田元明に対してのそもそも旧態権威的な若狭総代としての復権などまずあり得ず、粟屋勝久としてもそこはよく解っていた上での建前上の出願だったと見てよい。武田元明はいったんの謹慎期間を経たのち、逸見昌経や粟屋勝久らと同列の若狭衆の一員( 若狭の実質の支配者である丹羽長秀の寄騎 )だったら仮公認するという形で、若狭の領地を丹羽氏( 織田氏 )から改めて手配される救済処置を得ることになった。衰退が著しかった武田元明の若狭総代の立場から、織田体制下では丹羽長秀の寄騎、陪臣扱いに格下げとはいっても、これはのち、信濃総代の家系として旧領復興を願っていた小笠原貞慶や、越中総代の家系として旧領復興を願っていた神保長住ら同じような完全失地から織田氏を頼った立場として、後者2名は領地もあてがわれることもなかった結果と比べると、武田元明は仮公認が手配されただけでもだいぶ良い方だったといえる。この処置は、簡単に聞き届けられることはないことも( 織田氏の人事敷居を )よく解っていた上での粟屋勝久による、律儀な旧主復帰の便宜も少なからず影響していたと見てよい。粟屋勝久は先述した神保氏張と同じような、織田信長からは内々で心証を得ていた買われていた立場だったと見てよい。そしてここから、当時の特徴を知る上で大事なこととして、若狭衆たちへの表向きの格下げばかりに気を取られて見落とされてきた、つまり旧畿内( ただ威勢任せに下同士で下を作り合うのみの、そこから何の進歩もしなくなっただらしない旧室町体質へのしがみつき )の低次元な序列敷居と、新畿内( 次世代政権議会の人事改革が始まった織田政権時代 )の高次元な序列敷居の違い( 戦国前期 と 戦国後期から戦国終焉期に向かった上同士の評議名義性・選任議決性の向き合い方の社会観変動 )もろくに説明されてこなかった、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりの構図そのものの裁かれて当然の知能障害者( = 老害偽善者 = 低次元化分子 )どもがそこを認識できるだけの( = 異環境間・地政学観の初動的動機・痛感性・現段階敷居教訓性・本分的終点・導入計画敷居の、自分たちの損益分岐的敷居の危機管理ができるだけの )知能などある訳もないこととして、丹羽長秀の支配下に置かれることになったという時点で、若狭はむしろ優遇扱いだったとすらいえる。有用な若狭湾を構える若狭の地を、今後の山城( やましろ。帝都 )経済と近江( 特に大津の商業地。今の滋賀県大津市 )経済を強化させるための重要地と織田氏から見なされていたのもまず間違いない所になる。なお前後するが、織田時代の近江経済重視がのちに、徳川時代の江戸経済重視に移管されることになったことで、幕藩体制時代には近江西側( 大津方面 )に力をもたせないようにするために、彦根藩( 徳川譜代権威のひとつ井伊家 )と膳所( ぜぜ )藩から監視的、旧廃策的に細かく分割統治するようになった、あからさまなそのやり方からも明らかになる。それまで収束の見通しが付かないまま常に荒れ気味だった若狭も、丹羽長秀( 織田政権 )による統制でようやく落ち着きが取り戻され始め、若狭衆は以後は目立った乱れはないまま、織田信長、丹羽長秀、柴田勝家らの支援役に務めることになる。のち織田氏の 1580 年の一斉の戦力外通告では、若狭衆たちは目立った仮公認の取り下げはないまま、翌 1581 年の京都御馬揃え( きょうと おうま そろえ。天覧馬揃え )の式典で、逸見昌経、粟屋勝久、武田元明が優遇的な参列の典礼が得られていることからも、これらはのちの優先権を得始めていたことが窺える。ただしこの式典の間もなくに逸見昌経は亡くなってしまい( 恐らくは逸見領の遺臣たちが織田政権からの人事裁定を待たないままに、家督相続を機に勝手な家格争いを起こすなどのいがみ合いの不手際を起こしたことが原因で )惜しくも逸見家は改易されてしまう( 織田信長が地方のこういう所を中央総家長権で厳しく裁定するようになった重要な手本がのちに、特に徳川政権で大いに見習われることになる。江戸時代に手厳しい規制を強めてもこの問題はよく起きがちだった。人類の教義史・裁判権史・議会史における代表的な課題ともいうべき外戚問題。言葉・用語が今よりも大いに不自由だった古代中国時代、伝えるのも難しいこの問題を孔子が指摘し、それからだいぶ時間はかかったが孟子悪用主義者たちがその曲解をたらい回し続けてきたことを荀子が、続いて韓非子が問題視・訂正する形でそれを議会的な文明強国策・低次元化防止策として、この人類の課題には評議名義性・選任議決性の手本の示し合いが必要であると、上同士の姿勢を具体的にまとめるようになった大事な部分 )ことになる。若狭だけでない話として、そもそも丹羽長秀の家臣扱いにされること自体が、織田政権下における有望扱いの、官僚筋( 候補生 )的なひとつの登竜門( とうりゅうもん。その出自・門出が一目置かれることの優先権の傾向も強まる門閥的な指標。次世代人事育成機関 )と化し始めていたことが、1582 年に本能寺の変の前後の様子からも窺える。だから逸見家が改易されると、織田信長から候補生として買われて丹羽長秀に配属していた溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ )が、その跡地の城代的・代官的な立場として1000石単位の暫定家格の格上げが強調されることになった。織田政権時代での1000石単位の暫定家格は、本能寺の変が起きなかった際の新政権の正式布令後の、万石単位の地方管理候補と見てよい。丹羽長秀( 吏僚候補団・人事課 )の寄騎扱いの多くは昇格人事が計画されていたのは間違いなく、しかしそれが手配される前に本能寺の変が起きてしまい、その人事計画もいったん立ち消えになる。明智勢を制圧した羽柴秀吉が、旧織田政権の肩代わりを始める( 旧廃策を敷く )と、丹羽長秀もやむなく歩調を合わせるが、持病を悪化させていた丹羽長秀が 1585 年に亡くなった途端に、吏僚候補団・人事課の一翼を織田時代に担うようになっていた丹羽家に対する解体( 旧廃策 )に動く。羽柴秀吉は、50万石はあったと見られる丹羽家( 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家の旧領を、丹羽家が預かっていた分も含めると合計で100万石はあったと見られる )にあれこれ理由をつけ、次代の丹羽長重( にわ ながしげ。丹羽長秀の子 )の相続・継承の際に、羽柴秀吉による中央家長権( 賤ヶ岳の戦いで獲得した次期人事序列統制権 )によってその多くが巻き上げられる形で、丹羽家は若狭1ヵ国15万石に家格裁定。のち丹羽長重にさらにあれこれ理由をつけて、若狭も結局巻き上げる形で加賀松任4万石に減移封してしまう。この表向きの丹羽家の大転落劇は下々の間では当然驚かれ、上の間で何が起きているのか( 上同士の身分再統制の感覚 )をすぐに理解するのも難しかった所になる。これは豊臣政権の移行期( 旧廃策 )においての上同士の特徴( 社会心理・全体像 を掴めていないと、まるで次代の丹羽長重が器量無しであるかのような、羽柴秀吉が丹羽家のことを毛嫌いしていたかのような、羽柴秀吉がやりたい放題にただ丹羽家を追い込んだ転落劇であるかのような短絡的な印象ばかりで誤認されがちだがそうではない。これはむしろその逆の、丹羽長重のことを尊重して再出発させる( 織田政権時代に大きくなりすぎた丹羽家の家格と役割が、次の豊臣政権の方針と噛み合わなくなってくる問題から、グレートリセットせざるを得なかった。少し残酷ではあるがここで早めに踏み切っておかないと誰のためにもならない弊害の原因となる 寛大な配慮だったとすらいえる。丹羽長重に対する羽柴秀吉の表向きのこうした扱いについて当時、三河・遠江( みかわ。とおとうみ。愛知県南東と静岡県西部。岡崎と浜松 )の地から横目で見ていた徳川家康とその重臣たちも、内々ではその意味には気づいていたと見てよく、緘口令的に黙視していただけである。当時の大事な特徴が見えてくることとして上同士で何が起きていたのか、どうなかったのかを順番に説明していく。羽柴秀吉は丹羽家( 旧織田政権の人事体制 )を解体( 旧廃策 )するべく、いったん小大名扱いに仕切り直させた際、丹羽家臣下で有望な人材( 旧織田政権時代における候補生たち )と見なされていた溝口秀勝 尾張衆出身。古く尾張の地と縁をもって土着するようになった一族だったが、織田信長に見込まれて丹羽長秀に配属されることになる。溝口氏は小笠原流の方で知られていたが、溝口秀勝の家伝によると武田流という。武田源氏と小笠原源氏は有力な源氏一族の兄弟が分家し、それぞれ名門を維持しながら全国的に枝分かれしていったのが特徴で、両系流は敵対したり交流を縁を強めたりと様々で、武田流の姓を名乗っていても家紋は小笠原流だったり、小笠原流の姓を名乗っていても家紋は武田流を用いていた家系もあった。武田一族で重臣の秋山氏も小笠原本家の家紋を用いている。逸見昌経が亡くなった時に織田信長が、その跡地に溝口秀勝を据えた意図に、武田一族の自負を強めていた逸見昌経の外戚たち・家来筋たちに対するあてつけも含まれていたかも知れない )、長束正家 なつか まさいえ。近江衆出身。経済政策の手腕に優れていたことで豊臣政権時代に大抜擢される。大津衆が顕著だった栗太郡の出身ということもありその関係が深かったと見てよく、縁のあった大津商人に引き取られることになった没落武士から再興した筋だったかも知れない 粟屋勝久 若狭衆 )、村上頼勝 むらかみ よりかつ。かつての信濃北部の代表格であった村上義清の娘が母という。信濃支配に乗り出した武田信玄に敗れた村上一族は信濃北部を追われ、村上本家とその重臣の多くは越後上杉氏を頼って落ち延びるが、家来筋である村上頼勝は離散的に尾張に逃れ、織田家での家臣化が認められた筋だったようである。上杉家に亡命して有力家臣扱いしてもらっていた村上義清の子の山浦景国とは、叔父と甥の関係ということになるが判然としていないようである。やまうら かげくに。前名は村上国清。ここで余談を入れるが、本能寺の変が起きた際、織田氏が混乱している隙に上杉景勝は信濃北部の支配権を確保しようと、山浦景国の旧領復興の後押しを名目に信濃北部の再統一に乗り出した。その時に呼びかけられた信濃北部の旧村上家臣たちはいったんは、上杉氏の後押しを受けた旧主筋の山浦景国のもとに集結することになったが、上杉権威の強調下による村上家復興、つまり上杉家の序列からすると新参の陪臣扱い感を強められてしまったことで、旧村上家臣たちの山浦景国に対する不人気ぶりが露呈した。本能寺の変がきっかけとなった、上杉氏・北条氏・徳川氏の間での信濃・甲斐・上野を巡る天正壬午の乱で特に上杉氏と徳川氏とで信濃の領域争いがされ、徳川氏は折り合いがつかなかった真田氏に途中で上杉派に鞍替えされてしまうが、その一方で、上杉景勝にではなく山浦景国に従わされる新参の陪臣扱いがされたこと不満をもっていた、旧村上家臣の有力のひとつであった屋代秀正が徳川派に離反する鞍替え劇も起き、徳川家康はそれを歓迎し屋代家を直臣扱いにした。信濃支配の中心地・政局であった深志城争奪戦でもここは顕著で、上杉氏の後押しを受けて最初に深志城奪還に成功した小笠原貞種も、上杉家の目付役として同行していた梶田大膳と八代民部が上杉権威を強調したことで、旧小笠原家臣たちからの小笠原貞種の不人気ぶりが露呈し、結束を低下させることになった。一方で織田信長から冷遇されて出遅れた小笠原貞慶は、慌てて徳川氏を頼って後押しを得て深志城奪還に向かうと、現地の筑摩郡・安曇郡の旧小笠原家臣たちの多くがこの徳川派の小笠原貞慶に鞍替えし始め、今度は小笠原貞慶が上杉派を追い出す形で深志城を占拠する結果となる。旧小笠原家臣たちから見れば上杉氏に頼っても徳川氏に頼っても陪臣扱いであることには変わりはないものの、徳川家康の場合は新参の陪臣でももう少し温情的な同胞扱いを強調していた。ここは北条氏との甲斐争奪戦でも、徳川家康のこうした配慮が旧武田家臣からの支持を得られた所でも顕著で、だから徳川優位に繋がったと見てよい。かつて武田信玄との死闘に苦しんだ徳川家康はそこには根に持つことはせずに「徳川家は武田軍の軍法も見習っている」「徳川家は小笠原家のかつての格式は尊重している」といった配慮もしていた。ただしこれは旧廃策の観点から見れば良い面も悪い面もあり、天下総無事令を目指すために鬼謀的なやり方に乗り出していた羽柴秀吉から見れば、仁者的なやり方で立場を優位にしようとしていた徳川家康のことをこざかしく見えたのも間違いない。良いことなのか悪いことなのかはともかくとし、そもそも天正壬午の乱においては上杉景勝だけは、その統制の仕方も含めて羽柴秀吉との内々の連携の上で動いていたことからも、そこを解り切っていてとぼけながらそれを妨害し続けていた立場だった徳川家康と北条氏政に対し、羽柴秀吉が厳しい目を向けるのも当然の話だったのである。話を戻し、地縁的な旧権威序列やそれを巡る短絡的な報復戦・敗者復活戦の固執ばかり強める形で織田家を頼ろうとするような、のちの管区整備の移封人事・異動にとても耐えられそうにもないと見なされただらしない連中にはだいぶ厳しかった、のちの豊臣政権と徳川政権の大きな手本となった荀子主義的な織田信長から見て、旧領権威とは決別する姿勢で織田氏に仕官することになった村上頼勝の姿勢は、見込まれる評価題材のひとつになっていたと見てよい。その意味の説明のための余談であると共に下述にも関係 )ら有望候補生らを羽柴秀吉の優先権付きの直臣扱いに巻き上げた他、多くの丹羽旧臣たちにも面倒見よく直臣扱いに収容したり小大名資格を与えるなど動いた。なお粟屋勝久にだいぶ擁護してもらう形でどうにか若狭衆の一員扱いしてもらっていた武田元明は、前後するが本能寺の変が起きた際、織田政権時代に失脚したかつての旧室町権威派たち( 織田氏の敷居の官民再分離によって士分待遇を剥奪されたり、大幅な格下げを受けたはずの者たち )から武田元明は担がれる形で、兵員が一時的に集まってしまったその流れの勢いで明智勢に加勢してしまった。しかし明智勢が羽柴勢の攻勢に崩れるとその寄せ集めどもも離散、武田元明も若狭に逃げ帰ることになる。羽柴勢に加勢した丹羽長秀に従わなかったどころか明智勢に加勢してしまったことにこの上なく気まずかった武田元明は、謝罪と再恭順の意を示すために丹羽長秀の下に出頭するも、許されず切腹( または羽柴秀吉の裁定で上意討ちされたとも )となった。話を戻し、羽柴秀吉が丹羽家の人材を巻き上げる形で、その中でのち長束正家、村上頼勝、溝口秀勝らが目を見張る栄進をすることになるが、しかし見込まれていたひとつだった粟屋勝久だけは、尊重はされていたが目を見張るような表立った大きな栄進が無かった不自然さが目立つ。これは、連座として問われることはなかったものの武田元明の一件と関係していたと思われる。まず長束正家はのち、豊臣秀吉が増田長盛( 豊臣政権の政務吏僚側の筆頭・長老格 )の後釜として抜擢した石田三成の、その次席の政務吏僚の重役扱いで12万石と大身家格に栄進。村上頼勝、溝口秀勝は遍歴を経て、上杉景勝が会津120万石に移封となった際の跡地となった越後に、村上頼勝が9万石、溝口秀勝が6万石で共同統治的な入封をさせることになる。大した権力基盤などない出発から、地方管区の管理・支配代理を次世代人事典礼的に万石単位の広域を任される時点で、羽柴軍団から見れば新参もいい所のこれらの手配は、皆から驚かれる大栄転もいい所だったのである。さらにこの見所としては、畿内の敷居から少し遅れ気味であった越後に、豊臣政権の敷居を浸透させなければならなかったからこそ、有望株の村上頼勝と溝口秀勝の両名を見込んで赴任させたこの流れは、豊臣秀吉( と、地方との施政面での連携を任されるようになっていた石田三成 )と上杉景勝( とその参謀役の直江兼続 )との間で、上杉家の加増転封( 会津移封 )の計画が内々ではかなり早い段階で連携されていたと見てよい所になる。長かった上杉支配時代の中央と噛み合わない慣習を調整するのも大変だった、簡単ではなかった越後統治について、特に溝口秀勝は大きな混乱や騒動は起こすことなく見事にやってのけ、関ヶ原の戦いも東軍徳川方でなんとか乗り切ることができた。関ヶ原の戦いで上杉景勝が西軍豊臣方を表明した際に、旧領である越後の半農半士たちを煽る工作をした( 大規模な上杉遺民一揆を煽った )ため、東軍徳川方を表明した溝口秀勝、村上頼勝ら越後の統治者たちを大いに困らせた。そのためこれらは関ヶ原での本戦には派兵できなかったが、協力して一揆を鎮圧し、戦後は加増はなかったがそれぞれ徳川家康から好意的な所領安堵の公認を得ている。のち村上家はお家騒動を起こして改易されてしまうが、溝口家は苦労しつつも優れた統治を続け、幕末を迎えることができた。大領が得られればいいというものではなく、むしろヘタに大領を得たり急な家格を得てしまった所ほど、のちに不祥事を起こして改易や大減封を受ける確率も高くなる所が徳川時代で顕著になる。だからこそ栄進を欲張ったりせずに、大きすぎない6万石( のち江戸中期の開発拡張で実高は8~9万石ほどになったと見られる )を維持し得ることになった溝口家は、あまり注目されないがだいぶ健全だったといえる。これらの旧主にあたる丹羽長重も、加賀松任4万石から再出発させ、天下総無事を目指す豊臣秀吉から優遇気味に功績を立てる優先権を得ながら、加賀小松12万石に栄進している。ここは、豊臣政権がやらなければならなかった事情( 旧廃策 が何も考慮されないまま、先代の丹羽長秀時代の預かり地50万石以上の表向きの大きさばかり短絡的に比較しようとするから大いに誤認されがちな所になる。豊臣秀吉が旧織田体制の丹羽家の役割の解体に動き、丹羽長秀( 織田信長の評価 )と丹羽長重( 豊臣秀吉の評価 )は別枠扱いに完全分離( 旧廃策 した上で( 旧新をはっきりさせた上で )、羽柴秀吉が丹羽長重を人材として改めて再評価することになったのである。大きなヘマなどは特になく功績を立てさせ、皆に認めさせる形で譜代扱いに近い12万石の家格公認がされた丹羽家は「あの丹羽家なら、太閤殿下( 豊臣秀吉 )からあのように改めて特別扱いされるのも仕方ない」と、そこは十分に尊重されたといえる人事だったのである。羽柴秀吉の譜代たちだけでない、丹羽長秀の旧臣の候補枠たちも次々に羽柴秀吉から優先権の典礼を得始めていた中、粟屋勝久もその扱いを受けてもよかったひとりだったはずが不自然にそれが見られないのは、せっかくの栄進を羽柴秀吉から打診されても、粟屋勝久はそれを辞退していたのではないかと筆者は見ている。かつての主筋である若狭武田家に対してやけに律儀な所があった粟屋勝久は、武田元明の代で若狭武田家が( 明智勢に加勢してしまい )改易になってしまったことをかなり気にしていた、つまり「旧主が改易されてしまったのに、その手助け役であった粟屋家が、それを差し置いて栄進する訳にはいかない」という念が強かったのではないかと筆者は見ている。粟屋勝久のこうした姿勢がのちに、粟屋家が困ることのない信用に結びつくことになる。粟屋勝久は 1585 年に亡くなり、以降の粟屋家はそのまま豊臣家の吏僚のひとつとして忠勤を続け、目立った栄進はやはりなかった。そして豊臣家が結局改易されることになる 1615 年の大坂夏の陣によって、豊臣家からの家禄をいったん失ったこの粟屋家( 若狭流の粟屋一族 )は、諸大名たちからさっそく上級士分扱い・重臣扱いでの打診を受けることになった。粟屋一族のひとりはその時に、結果的に32万石もの大藩にのし上がることになった藤堂高虎 とうどう たかとら。近江衆出身。近江衆の中では下級武士もいい所の出発から、大藩を築くに至ったたため驚かれた。戦国時代における大出世頭のひとりとしてよく取り沙汰される。仕官先を転々とした末に羽柴秀長に仕えることになった良縁をきっかけに頭角を現わすようになった )の津藩( つ。三重県津市。伊賀名張までの広域な藩だった )の家老格( 三番家老あたりと思われるがかなりの上級武士扱い。1000~2000石ほどの優遇だったと思われる )として招かれ、一族は他にも諸大名たちから優遇的に招かれることになった。豊臣改易の際に、旧領復興・家格復権ばかりを目的に徳川憎しを煽っていた者も多かった豊臣家の家臣たちや、特に牢人たち 関ヶ原の戦いで西軍方として没落し、奉公構いは出されていなくても復帰は難しかった大勢の浪人たちも含める。ほうこうかまい は具体的な士分復帰の禁止処置のことで、江戸時代には上同士の身分制の特徴として戦国期よりも色濃くなる )には救済処置など得られる訳もない者が多かった。一方で、豊臣政権下で次々と栄進を遂げていく元同僚たち( 旧丹羽家臣たち )が少なくなかった中で待遇のことでごねたりひがむことなど一切なく、元は若狭武田家に、次に豊臣家に吏僚的に忠勤していた、全くガツガツしていなかった粟屋家は、だから有力諸氏たちから信用される形の優遇的な斡旋を受けることになった。衰退したとはいえ、管領畠山家の有力家臣であった神保家が名門であったこと自体は認識され続けたように、粟屋家も、かつて権威をもっていた若狭武田家の有力家臣の家柄であったこと自体は、江戸時代になっても上の間では広く知られていた。だから本能寺の変の時に武田元明が明智勢に加勢してしまったことや、羽柴秀吉が丹羽家からいったん若狭衆たちを巻き上げて以降の粟屋家の動向なども、下々の間では上の間で何が起きているのか理解するのも難しくても、有力者同士の間では当時の身分制の転換期( 足利政権 -> 織田政権 -> 豊臣政権 -> 徳川政権 )における強い関心事だったのである。前後するが、明智勢制圧後の羽柴秀吉は政策の一環として、近江衆の有望たちを優遇的に昇格させていったが、その対象のひとりとして大名資格を与えられることになった京極高次( きょうごく たかつぐ。織田政権時代に協力的だった京極高佳の子 )が、武田義勝( たけだ よしかつ。武田元明の弟 )を家臣に引き取ることになった。武田元明は本能寺の変で畿内が一時的に混乱を起こした際に、旧室町権威の脱落者たちから担がれる形で明智勢に加勢した様子からも、旧若狭武田家の家格というよりもその序列権威の自負が内々では弱まっていなかったことが窺える。そして明智勢制圧後に武田元明が死罪・改易( 丹羽長秀ではなく羽柴秀吉による意向ともいわれる )となり、のちその弟である武田義勝が、羽柴秀吉から大津6万石もの家格公認を得て近世大名( 等族諸侯 )に返り咲いた京極高次の、その重臣として招かれることになった。これは、豊臣秀吉が若狭武田家自体には特に奉公構いは出していないことが窺え、つまりそれを豊臣秀吉( 絶対家長・武家の棟梁 )が身分制議会的に認知しているため、寛大な処置だったといえる。そして京極高次が 1600 年の関ヶ原の戦いで徳川家康から活躍を評価されて若狭8万5000石に加増移封となると、京極高次の重臣扱いの武田義勝は5000石もの家老格の優遇待遇を受けることになった。武田義勝が京極高次に仕官することになってからはさすがに、京極家に支障を及ぼさないためにも若狭武田家の旧権威序列観にはもはやこだわりなどないという姿勢を強調している。大名資格を得た京極高次に武田義勝が仕官することになった際には、豊臣政権の吏僚として忠勤していた粟屋家の働きかけもあったのかも知れない。若狭武田家と若狭粟屋家は共に、地方領主・近世大名としての存続はできなかったため大して注目されず、それどころかそうでなければ負け組の下っ端であるかのような軽々しい誤認の見方ばかりされてきた風潮すらある。室町終焉( 織田氏による畿内再統一 )から徳川政権時代を迎えるまでの二転三転の激しい家格裁定( 中央家長的な身分制議会改め )が断行された中で、かつては著名だった有力な家系の多くが士分待遇自体を維持できずに、その大勢が失脚・没落していったことを考えると、武田家と粟屋家は互いに藩家老の家格に落ち着いて江戸時代を迎えられたことは、かなり良い方だったといえるのである。皆がなんでもかんでも出世の糸口に猛進していた訳ではない。特に織田政権時代による手本的な敷居改革の影響によって、それを望んだ分だけ危険も隣り合わせ( 中央絶対家長・武家の棟梁から、次世代身分制議会荒らしの偽善運動 = 低次元化分子 と見なされ格下げ制裁されるかも知れない気まずさ )となることも、有力者たちもそういう所も少しは考えるようになったのである。豊臣政権時代には、譜代たちは確かに夢のような栄転も目立った一方で、中にはそれを機に調子に乗り、そこから勢い任せに出世の階段を一気にかけ昇ろうとし、そこに夢中になりすぎて階段を盛大に踏み外して大コケという、そういう所を豊臣秀吉に睨まれて連座的に手厳しく改易されてしまった有力者たちも少なくなかった。また関ヶ原の戦いにしても、大幅な加増が得られた者も多かったことで、その時は皆にうらやましがられたり、ひがまれたりということも確かにあった。しかし少し先述したこととして、準譜代扱いの優先権や特別格式の典礼までは得られた訳ではない以上は、どれだけ領地の加増を得ようが所詮は外様大名の分際止まりの扱いになる。徳川家康が亡くなってしばらくの徳川初期時代、外様たちには些細な落ち度でも見つけようものなら改易の威嚇を激しく容赦なく追及され、実際に多くが減封されたため外様たちも常に安心などしていられなかった。豊臣家が改易されることになった 1615 年頃には早くもそういう所も気遣われるようになったからこそ、主筋が不利にならないよう、家臣同士でいがみ合わずに支え合う品性規律の支柱になってくれそうな、権威欲や出世欲を丸出しに揉め合うようなことなどしない粟屋家のような信用ある家系が重宝される傾向もあったのである。史学関係に限った話ではなく、現代の出来事でも派手さや数字の大きさの注目度ばかり取り沙汰されがちだが、目まぐるしい時代変容の中での、畿内近隣の若狭武田家と粟屋家の様子をこのように当事者軸的・主体軸的・社会心理的に全体を見渡していくことでも、見落とされてきた当時の身分制変容の多くが窺えるのである。

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 ※ 廃項とする

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -

 ※ ここも全て廃項予定


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ